202.高等部二年 遠泳大会 1
期末テストとサマースクールのテストを終えた。
無事、サマースクールのメンバーにみんな選ばれ安心したところだ。そして、気がつけば、遠泳大会である。
二年生の今年は恐怖の遠泳大会だ。水泳が得意な子は青帽子、普通の子は黄色の帽子、苦手な子は赤帽子をかぶって、無人島からビーチに向かって遠泳する。
二年生は遠泳だけで、他のクラス競技はないので一年の時のようなクラスの盛り上がりはない。
一年のころから夏の授業は遠泳に向けてハードな水泳ばかりやってきた。これが終わればそれからも解放されるのだ。
もちろんドクターストップもかかっていない。それだけで、少し安心する。
私と詩歌ちゃんは黄色帽子スタートである。明香ちゃんは青帽子。紫ちゃんは赤帽子でちょっと気の毒だが、二階堂くんが励ましていたから大丈夫だろう。チラリとみえた桝さんも赤帽子だった。
綱と氷川くんは当然のごとく青帽子。八坂くんはボートで救護スタッフとして参加だそうだ。遠泳できなくてもそういう形で出席する方法もあったんだと初めて知った。知っていたところで前世の私が救護スタッフをしたとは思えないけれど。
泳ぎの苦手な赤帽子からスタートを切る。時間を置いて、黄色帽子、青帽子がスタートする。自分が泳げるところまで泳ぐのが目的で、早さや距離は競わない。目的は自然の中での自分の力を体感することと、自分で自分の体力を知り、自分が設置した目標をクリアすることなのだ。
ボートで無人島にわたり、早めの昼食として軽食を配られる。
食事が終わったら、みんなで準備体操だ。二年生は、競泳用の水着に身を包んでいる。私はセパレートタイプの長袖に長いレギンスタイプだ。葵先輩が着ていたタイプと同じだ。長袖長ズボンは少数派で、半袖セパレートが多い。
海で一人にならないように周りに気をつけながら、声を掛け合って泳ぐように注意されている。また、危険そうだと判断したら周りが救援を頼むように指導されていた。
赤帽子から入水する。少し時間を空けて私たち黄色帽子も入水だ。熱い砂浜を詩歌ちゃんと一緒に跳ねるようにして歩き、波打ち際の冷たさにホッとする。キャイキャイと燥ぎながら胸まで浸かって、その冷たさに緊張した。ゴーグルをして色のついた世界を眺める。海の先には先に泳ぎ始めた赤い帽子がユラユラと波に揉まれている。
笛が吹かれてスタートする。詩歌ちゃんとアイコンタクトして、ユルユルと周りを見ながら泳ぎ出す。もうふざける空気はなかった。
焦らず、ゆっくり、自分の速さで。周りを見ながら海を渡る。何度も練習してきたプールとは違う波の力。段々と下がる水温に気が付いてゾッとする。足が付かない海は怖い。自然の前で人間はあまりにも無力だ。
段々、帽子の色が混ざってくる。速い子たちが遅い子たちを追い抜いてくのだ。
詩歌ちゃんと何とか二キロ地点まで進めば、八坂くんが救護ボートで手を振っていた。
「がんばってー」
声をかけられ、手を振る。周りの女の子が色めき立つのがわかる。
スゴイ。晏司くんスマイルはすごい。満面の笑顔が元気をくれる。なんだか頑張れそうな気がした。
一緒に泳がなくても仲間なんだとわかる。私も前世でこんなふうに出来ていれば少しは違ったのかもしれない。
ふと横を見れば青帽子の男の子が並んだ。綱だ。そのまま無言で私にスピードを合わせてくれる。
それが何だかくすぐったくて、うれしい。
綱は最近前よりも距離をとるようになった。電車で座る時も、お弁当を食べる時も、前より少し離れて座る。それがちょっと寂しかったから、並んで泳いでくれることが嘘みたいに思える。
何か私がしでかして、距離をとられているのだと思っていたのだ。そういうわけではないらしい。
詩歌ちゃんと綱と三人で無事にゴールした。詩歌ちゃんとハイタッチして、同じように手のひらを綱に向ければ、綱は一瞬戸惑ったような顔をして、それでも遠慮しがちにチョンとハイタッチする。
やっぱり少し避けられている? 私何かしちゃったかしら?
チクリと胸が痛む。こういうのは綱には迷惑なのかもしれない。距離感が近すぎるのかもしれない。もしかしたら、気持ち悪いと思われているのかも。自重しないといけないな、そう思って気分が落ち込む。
「姫奈?」
綱の声で顔をあげる。
「どうしました? 疲れましたか?」
「……うん。疲れたわ」
「お昼はどうしますか? 軽く食べますか? 先に着替えますか?」
綱はいつも通り気を配ってくれる。だからこそ戸惑う。距離をとっているのなら、こんな風に気を使って欲しくない。
やっぱり、私が白山の娘だから綱からは距離が取れないのかもしれない。
はぁ、疲れたな。考えすぎなのか、頭も痛い。
「綱は? 誰かと約束してないの?」
綱は驚いたように瞬きした。
「いいえ。浅間さんと二人の方が気楽なら私はクラスに戻ります」
詩歌ちゃんを見れば詩歌ちゃんはニコリと笑う。
「三人で少し何か食べない? でも先に着替えたいわ」
詩歌ちゃんの言葉に、私と綱は頷いた。
テントに戻ってタオルを羽織り、一度合宿施設に戻る。シャワーを浴びて水着から軽やかなサマードレスに着替えた。髪は無造作にシュシュで一つに束ねた。疲れてしまって面倒なのだ。
そもそも可愛くしたところで、綱には避けられているみたいだし意味がない。眉の間に皺が寄る。
詩歌ちゃんと二人で玄関まで出て来れば、綱はすでに着替えて待っていた。申し訳ないと思いつつ、海の家へ移動する。
海の家はとっても簡素だ。隙間のある板張りの床に、ビニールで編まれたゴザと折り畳みのテーブルが置かれている。大人数のグループはテーブルをつなげて大はしゃぎだ。私たちは三人で一つのテーブルについた。
私と詩歌ちゃんが向かい合い、綱は私の隣に座る。だけど、やっぱりちょっとだけ距離が遠い気がした。
焼きそばを頼んで、ボウっとしながら海を見る。まだ泳いでいる人たちもいる。ビーチでは一・三年生達の水鉄砲合戦が盛り上がっている。
二年生たちは思い思いに応援なり、休憩なりを楽しんでいる。
氷川くんはかえって早々、一年生に取り囲まれていた。疲れているはずなのに、おくびにも出さなくてすごいと思う。八坂くんは最後まで救護ボートの上だ。
甲高い声と波と潮風。ギラギラとした太陽が濃い影を作る。足についた乾いた砂がハラハラと落ちた。
綱は焼きそばを食べている。
Tシャツからチョットだけのぞく鎖骨の影はココアクッキー。肩にかかっているタオルは、白山家御用達のお揃いのタオルだ。潮に浸かったせいなのか、いつもより曇った黒い髪が一筋汗で額に張り付いて、きな粉に流れる黒蜜のようだ。白い耳たぶはさながらお餅か。長くて黒い睫毛は繊細な糸飴。油のついた唇はジュレのかかった苺だ。
美味しそう。
「姫奈?」
綱に声をかけられてハッとする。
何考えてたの。なんてこと、考えてるの。
お腹が空いていたにしても、本当に破廉恥だ。
「な、なぁに? 綱」
綱の顔を見れなくて慌てて俯き、そのまま返事をしながら自分の焼きそばを慌てて取る。
テラテラとした混沌。ちょっと今は食べたくない。お腹が空いてるんじゃなかったっけ。頭の中が混乱して、無理やり頬張る。でも、気持ち悪い。
「ボーっとしてますよ?」
問われて、耳まで朱に染まる。上手く割れなかった割りばしが、カタカタと震える。頭がガンガンと煩く音を立てる。
あんな目で見てると気が付かれたら、気持ち悪いって思われる。あのサラリーマンと私、何が違うっていうの。綱に避けられるのは当然だ。
自分自身の気持ち悪さで吐きそうだ。
「顔が赤い」
覗き込んでくる黒い瞳。久々の距離に戸惑って潤む視界。唐突に伸びてきた手に思わずのけ反れば、綱は傷ついた顔をして唇を噛んだ。
そして、その手は私に触れずにそっと綱の元に戻る。
グラグラと眩暈がする。
「熱を、確認したかったんです。嫌でしょうけれど我慢できますか?」
問いの意味がわからずに問い返す。
「嫌?」
「触れられたくないのでしょう?」
「どうして?」
「……嫌な思いをしたと聞きました」
綱の方が悲痛な顔をした。
私が男の人を怖がっているのを知って、気を使って距離をとっていてくれたのだ。
「変なの。なんで私が綱を嫌がるの」
オデコを綱につきだせば、綱は壊れ物にでも触れるようにそっと私のおでこに触れた。
綱の手が冷たい。気持ちが良い。そのことに満足して口角が上がる。
「姫奈、頭はいたくありませんか?」
「……痛い」
「やっぱり! お水を飲んでください!」
綱が慌てたように言ってプラスチックのコップを押し付けた。私はそれを震える手で受け取った。
「あれ? 手が震えて上手く飲めないわ」
恥ずかしくて笑ってしまう。そんなに綱に触れられて嬉しかったのか。
「バカですか!」
綱は慌てて私の背中に手を回し、コップを奪って私の唇に押し当てる。いつもの距離だ。でも、まるで介護されているみたいだ。
「ゆっくり、飲んでください。半分くらい飲めますか?」
「やぁねぇ、大袈裟」
「大袈裟じゃない! 熱中症ですよ!!」
「は?」
「頭が痛くて、熱だってあってボーっとしてて、手まで震えてるのにどうして自分で気が付かないんです?」
「耳元で怒鳴らないで、頭痛い」
「……すいません」
綱に押し当てられたコップから少しずつ水を飲む。半分くらい飲み切ったところで、綱がポケットから熱中症対策のタブレットを出した。袋を開けて、タブレットを見せる。
「口を開けてください」
恥ずかしくてたまらないが、小さく唇を開く。そこへ綱がタブレットをそっと押し入れた。
爪先が唇に触れ、ビクリと肩が震える。
恐れるような顔で綱が私を見るから、おかしくて笑った。
「甘じょっぱいわ」
そういえば綱はホッとしたように笑う。
「もう半分、お水を飲めますか?」
「うん」
綱に介抱されながらコップの水を飲み切る。
「横になってください」
綱は自分のTシャツを脱いで海の家の床に敷いた。安っぽいビニールのゴザには砂が落ちている。
「綱の服が汚れちゃう」
「こんなの汚れるための服です。早く横になって」
言われるがままに横になる。綱の熱と香りが蜃気楼のように立ち上がる。クラクラとしている脳が、もっとグラグラになる。思考がグズグズになる。
「ちょっと待っていてください。かき氷買ってきます。浅間さん、姫奈をお願いします」
「まって!」
行かないで。
そう思って足首を掴めば、綱はヒヨコを見るような顔で笑った。
「すぐに戻ってきますから。浅間さんもいますから、いいですね?」
なだめるように言い含められ、渋々と足首を離した。堅く骨ばった踝。白くて硬くて骨を感じるのに熱いソレ。横になった視線で、離れていくかかとを見つめる。
「……生駒くん、優しいわね」
クスクスとした声がしてみれば、机の下から覗き込む詩歌ちゃんがいた。
「っ、あ、う、うん。……優しいの。誰にでも優しくできるのすごいと思うわ」
詩歌ちゃんも綱のこと、好きになっちゃうかなぁ。
「やだ、姫奈ちゃん。生駒くんて誰にでも優しくなんてないじゃない」
「……そう?」
「礼儀正しいとは思うけど、優しいのは姫奈ちゃんにだけ」
「うそよ、私には怒ってばっかりよ?」
「うーん、それも間違ってはいないけど」
声を潜めて机の下で笑う詩歌ちゃん。その含み笑いが可愛くて、キュンとする。
「あ、戻って来たわ」
詩歌ちゃんが顔をあげる。
「スポーツドリンクとかき氷を買ってきました。起き上がれそうですか?」
「……もう少し、待って?」
綱のTシャツから離れがたいだなんて絶対に知られてはいけないけれど。
「首を冷やしましょう。少し冷たいけれど我慢してください」
綱はそういって、スチロール製のカップに入ったかき氷を首筋に押し当てた。ヒヤっとしたのは一瞬で、ジンワリと首元から涼しさが広がってホッとする。
「私、水鉄砲合戦見てくるわね。姫奈ちゃんたちはゆっくり休んで」
「ゴメンね、うーちゃん、一緒に行けなくて」
「気にしないで」
詩歌ちゃんはもう一度机の下から覗き込んで、ヒラヒラと手を振ってから立ち上がっていってしまった。
綱と二人きりになってしまう。
チラリと綱を見れば、むき出しになった上半身に首からタオルを下げたあられもない姿で、ギョッとした。海の家の屋根の間から零れる日差しに、滲んだ汗が二の腕で光っている。
均整の取れた筋肉。制服の半袖と同じだけ日に焼けた左腕が、私の首の後ろにかき氷を押し当てる。右手は団扇をあおいで私に風を送っていた。
少し影になって表情は上手く読み取れない。でも、見てる。私を見てる。
こんなことなら、もっとちゃんと可愛くして来ればよかった……。
後悔して顔を覆えば、心配そうな声が降ってくる。
「まだ頭が痛いですか?」
そうじゃない。見ていられないのだ。見られるのも恥ずかしい。
「あまりひどいようなら、先生を」
「まって! やだ! そばにいて?」
とっさに起き上れば、綱は驚いた顔で私を見た。そして満足げにほほ笑むのはなぜ?
「いつだってそばにいますよ。さあ、起きられるならかき氷食べますか?」
差し出されたかき氷は外側がほんのりと溶けている。綱の肌もほんのりと溶けたように汗ばんで、光り輝いて目も当てられない。水泳の授業で水着姿なんて見慣れているのに、なんだか今日は目の毒だ。
こんな綱、みんなに見られたら、もっと欲しがる人が増える。
「綱、Tシャツ、返すから早く着て」
つっけんどんにTシャツを突き出せば、綱は目をぱちくりとさせた。
「……見せたくないのよっ!」
小さく吐き出せば、綱の耳はイチゴシロップに染められたみたいに赤くなった。驚いて目を見開く。綱は乱暴にTシャツを被ってから私をねめつけた。
「黙って氷を食べなさい」
先生みたいにそう言って、綱はそっぽを向いてしまった。
私は黙って氷を食む。赤いイチゴが染めるのは、舌だけじゃないのだとチラチラと綱の耳を見て不思議に思った。







