2.土下座しろって
私は慌てて家に戻った。
迎えの車の空気は動揺していた。
隣に座った綱は鉄仮面だ。
制服のスカートを握りしめて、怒りを抑え込む。どう考えても、このタイミングで、この不祥事。誰かに嵌められたとしか思えない。
庭を走って、いつもの習慣で屋敷内の稲荷さんへ詣でる。
離れの庭にあるのに、朝夕のお参りは欠かさないで来た。
それなのに、この仕打ち。
「おいなりさまのばかぁぁぁ!!」
騒げば。
「うるさい、黙れ馬鹿デブス!!」
二つ年下の弟、彰仁の怒鳴り声が響いた。自分は幼等部からの芙蓉組で、優秀だからと頭にのって何かと私を邪険にする弟だ。私が姉であることを学院内で隠しているほど、嫌っている。
綱が、的確ですね、と笑う。
きぃぃぃ! くっそ!!
私は走って自分の部屋に戻った。
綱もいつものようについてくる。
「みんな酷い!」
ボスン、枕を投げる。
少し太っているからって。少しイジワルしたくらいで。
「本当にそう思ってます?」
綱が聞いた。
「だって、だって、お父様もお母様も少しぽっちゃりしていたほうが可愛いって」
「氷川くんは運動を薦められていました」
「だって、日に焼けたらもっとブスになるし」
「日に焼けない方法もございます」
「だってだって、すてきな奥さんになるには美味しいものを沢山知ってた方がいいもの」
「他に知るべきこともあるでしょう? 私は一緒に勉強しましょうと何度も言いましたが」
「だって、結婚するんだもん。専業主婦になるんだもん。勉強なんて無駄なのよ!」
「でも、結婚できなくなりました。結婚もできないのにどうするのです? 進学も難しい」
「だって、それは和くんの……氷川くんのせいだわ」
「本当に?」
ギクリ。心臓が痛む。
本当に?
綱の黒目がちな瞳が、見透かすように私を見た。
「だって、だって、ばっかりで、貴女はいつまで人のせいにして生きていくつもりですか?」
綱は地獄の閻魔様のような禍々しい顔で私を断罪した。
本当はわかってる。わかっていても認められない。認めるわけにはいかなかっただけだ。
だって、相手を認めてしまったら、自分を否定するしかなくなるじゃないか。羨ましいと認めたら、自分が足りないことを認めることになる。
ズルいならいいのだ。私が悪いんじゃない、相手がズルいんだから。私は悪くない。悪いのは周りなんだから、そう言うことにしておけば自分は変わらなくていいのだ。
そうやって目をそらして、逃げて。
和くんは、指環が薬指にはまらなくなった時、少し悲しそうにしていたっけ。運動も病院も薦めてくれたんだった。太ってるって、気を付けろって教えてくれてたんだ。きっとその頃までは、まだ婚約者としてみていてくれたと思う。それを私が全部無下にした。
綱だってずっと言っていた。勉強しなさい。遅刻はいけない。食べ過ぎだ。ありがとう、ごめんなさいが足りない。心が狭い。みっともない。
全部それを悪口だと、聞きたくないと耳を塞いだのは私。
「そうよ、私が悪いのよ。婚約に甘えて浮かれて、それが永遠だって信じて。勉強もしないで、綺麗になる努力もしないで。そのくせ誰かにとられそうになったら、恐くなってイジワルして。全部私が悪いのよ。知ってるわよ、知ってるけど」
でも、少女が婚約の約束に永遠を夢見たらいけないのだろうか。
婚約指輪が薬指に入らなくなった時、だったら小指にしたらいい、そう言ったのは和くんだった。
暑い日差しが嫌だから、そう言えばどんなに短い距離でも車を出してくれたのは両親で。
友人たちは言ったのだ、もう未来が決まっているから、必死にならなくていいですね、うらやましいわ、と。
だけど、その言葉に胡坐をかいたのは私だ。
その度に、綱が今日みたいにチクリチクリさしてきたのを無視していた。
自分にとって都合のいい言葉だけを信じて、都合のいい人だけを良い人だと思った。思いあがって、自分以外の人間を下に見て。
綱は使用人の癖に、面倒で邪魔なヤツ、そう思っていた。
だけど。
こうやって真剣に怒ってくれるのは、綱しかいないと今頃気が付いた。
それも今日までかもしれない。
これからどうなるのだろう。お父様は逮捕されるのだろうか。お母様は? 株が暴落するってどういう状況? 収入はどうなるの? 借金があるの?
そうしたらこの屋敷は? 学校はどうなるのだろうか。
私は? 弟は?
……綱は? 使用人はどうなるの?
私は何も知らない。どうしていいかわからない。なにも興味を持ってこなかった。勉強してこなかった。
ゾッとする。
「……ごめんなさい……、すこし一人になりたい……」
そう言えば綱は大きくため息をついて部屋から出て行った。
胸がキリキリと痛む。これは失恋の痛みなんだろうか。それともストレスなんだろうか。
失恋の痛みって、こんなに物理的な痛みだったんだろうか。
氷川くんはなんでこんなタイミングで私をフったんだろう。
それとも、婚約を解消するために、氷川くんが手を回したのだろうか。
酷すぎやしないだろうか。そんな人を好きになった自分が悪いのか?
気が付かなかった私が悪い?
そもそも、そんなに和……氷川くんを好きだったんだろうか。
だったら、なんで必死にならなかったんだろうか。
いや、きっと、そうだ、私は氷川くんを見ていなかった。
ブランドとうわべに惹かれて。
はぁぁぁぁぁ……。
めっちゃ心臓が痛い。死にそう。いやマジで、死にそう。なんか、精神的な意味じゃなく肉体的に痛い。
キュウっと心臓が絞られるように痛んで、クラクラと目が回る。
世界が暗転した。
フワフワとした闇の中で、白い尻尾が見えた。
目の奥に白い狐が走る。私が見つけたときは、雨の中でもう固くなっていた白い狐。その狐をうちのお稲荷様の奥に埋めたのは、ずっと昔のことだった。
きっとあの子だ。お稲荷様になって駆けまわれるようになったんだ。
良かった、そう思った。元気になってよかったね。
「姫奈子よ、私を弔い、毎日ここへ詣でたお前に尋ねる」
頭に直接鳴り響く声。ずいぶん前に亡くなったおじい様の声に似ている気がした。
「お前はこのまま世を去りたいか? それとも心を入れ替えてやり直したいか?」
世を去る? 死んでしまうのだろうか。そんなのは嫌だ。でも、心を入れ替えてやり直すってどういうことだろう。
「今までの悪行を悔い改め、それを行動で示すということだ」
私の心を読んだかのように答える声。
悔い改める? 何を? ああ、綱が言ってたみたいなことだろうか。
「そうだ。怠惰な生活を改め、傲慢な考え方、浅はかな行いを見直すのだ」
怠惰な生活、傲慢で浅はか……。神様から見ても私はそう見えるのだ。
直せるなら直したい。それでやり直しができるのなら。
「お前が望むなら、一度だけチャンスをやろう。過去に戻してしんぜる。きちんとやり直せば、この先の未来は変わるかもしれないぞ。どうする? 逆行を望むか?」
やり直せるなら、やり直したい。
ちゃんと正しい言葉を聞けるように。
思いあがらないで、地に足をつけて、楽をしないで、甘えないで、勘違いしないで。
ブランドじゃなく人の中身をみられる人間になりたい。
「だったら私に土下座しろ」
……。え、これ本当に神様だろうか? 神様にしたら言うことエグくないか?
「信じるか信じないか、それはお前の自由だ。そして、私に頭を下げられないような傲慢さがあるならば、逆行しても改まらないだろう」
そうか、これが初めの試練というやつなのかもしれない。
だったら。
「お願いします。もしチャンスがいただけるなら、もう一度やり直させてください」
土下座をしてお願いする。
神様じゃなくてもいい。プライドなんかいらない。
このまま死んでしまったら、私のせいで家族みんなが、使用人たちが、路頭に迷ってしまうかもしれないのだ。そんな未来は絶対に嫌だ。
「わかった」
声が響いて、辺りが真っ白な光に包まれた。柔らかな尻尾が触れた気がした。
やっぱりあの子かな。
そう思って夢から覚めたら、左手にはもう指輪が付いていなかった。