195.生駒綱守 2
「晏司、姫奈子さん、そろそろ行くぞ」
「「はーい」」
氷川くんの声に、八坂くんが駆けだした。
一緒に駆け出す彼女の背中を見送る。
これから先、何度こんなことがあるのだろう。
ギュッと拳を握って、呼び止めたい気持ちを抑える。
ふと彼女が立ち止まり、振り返った。
予想もしてなかったので思い切り目が合って驚いた。
彼女も少し驚いたように一瞬目を瞬かせ、そして満面の笑みで手を振った。
今この瞬間。父がいなくて良かった。旦那様がいなくて良かった。奥様が背を向けていて良かった。
握りこまれた拳を解き、後ろから見られないよう胸の前で小さく手を振り返す。
彼女は、顔を赤くしてほほ笑みをずっと深くして、もう一度、今度は私に合わせるように小さく小さく手を振った。
真っ直ぐに向けられた好意に自惚れてしまいたくなる。幼馴染だからだとしても、他の人よりこの人に好かれているのだと勘違いしてしまう。
名残を惜しむような態度を見せないで欲しい。手を伸ばしてしまいたくなる。隠す必要のない好意は、男として意識されていない証拠だと知っている。
それでも、安心しきったその顔が自分だけに向けられていることに満足し、他の誰にも見せたくない。
男として意識してほしい。
でも、彼女の安全地帯でいたい。
矛盾している欲望を両方手に入れる方法は一つしかない。
しかし、それは望んではいけない夢だとも知っている。それでも欲しくて、今の距離を隠れ蓑にして手を伸ばす罪。
本来なら彼女はとても遠い人。
彼女が「綱」と呼びよせてくれなければ、私は隣にいる権利すらない。
彼女は今日、世界相手の社交界に羽ばたいてく。
一度飛び立ってしまったら、真っ直ぐな彼女はもう二度と振り返ったりしないだろう。
「無事に帰ってきてくださいね」
祈るような気持ちで告げた言葉は、ただの願いでしかない。
・・・・・・
姫奈が苦境に立たされるたび、自分の力のなさを痛感してきた。それを補おうと、生徒会執行部にもなったけれど、それでもまだ足りない。
島津様のようにマスコミを動かす力もない。
氷川くんのように学院に言葉を求めることもできない。
八坂くんのように自分の仕事を断ることで相手に圧力をかけることもできない。
姫奈にはたくさんの味方がいて、たくさんの力が守ってくれる。
私はそばにいるだけだ。
いてもいなくてもいい存在。
そう思って考えた。自分にしかできない事。彼らに出来なくて、自分にならできることは何なのか。
桝淑子を直接問い質す。
それができるのは自分だけなのだと気が付いた。
桝淑子の私への好意を利用しない手はないと思った。
汚くて、苦しくて、厭らしいやり方だが、唯一自分にしかできないことだ。自分以外、他の誰にもできない。汚い手を使えるのは私だけなのだ。
後ろ指をさされることになろうとも、姫奈から嫌われてしまっても、それくらい出来なければ、自分がここにいる意味はない。
私は芙蓉会と言えど、親はただの従業員だ。自分自身が芙蓉グループから利益を得ているわけではない。問題にならぬよう細心の注意を図るが、何かあったら父が私を田舎に転校させればすむ。
もう以前とは違うのだ。芙蓉の花を持つ姫奈に私は必要ない。
だから。
不自然な肌寒さを覚える夏のPCルームを出ると、待っているはずの姫奈がそこにはいなかった。
不審に思ってクルリと見やると、沼田さんが俯いて、沼田先輩は睨みつけるように淡島先輩を見た。
淡島先輩が何かしたのだ。そう察する。思わず淡島先輩を見る。
「姫奈がどこに行ったかご存知でしょうか?」
ギリギリ丁寧な言葉は死守する。淡島先輩が姫奈を害することはない、そう思ってはいるけれど。
「和親と一緒に帰ったよ」
「私と帰る約束をしていたはずですが」
「ああ、白山さんもそう言っていた。でも、生駒はこのところいつも遅いじゃないか。テスト前の白山さんの時間が無駄になるのも気の毒だと和が思ったんだろう?」
「しかし、私は白山家から姫奈の様子を見るようにと言われております。勝手をされたら困ります」
「白山家の意向はわかるよ。ボクだって紫に変な虫が付いたら心配だからね。でも、氷川家なら問題ないでしょ?」
淡島先輩はそう笑った。
何の含みなどない、そう言いたげな笑顔で続けた言葉は、私の不満を見事に封じた。
「逆に、和が駄目だったら誰が白山家のお眼鏡にかなうのか聞いてみたいね」
白山姫奈子の隣に立てるのは少なくともお前ではない、暗にそう言っているのだ。
「白山さんがいないから、桝さんを送ってあげたら? 最近仲が良さそうだ」
追い打ちをかけるようにニンマリと淡島先輩が笑い、私の背の後ろに視線を送る。
振り返れば桝淑子が、期待を滲ませた目でこちらを見ていた。PCルームの寒さが肌に急に蘇る。それは、罪悪感と嫌悪感がないまぜになった後ろ暗さだ。
「姫奈のため」という大義名分さえあれば、私はこんなにも簡単に残酷なことができる。
ほほ笑みを顔に張り付けて桝淑子に頭を下げた。
「すみません。今日は先約があるので先に帰ります」
それだけ言って駆け出した。
約束なんてもうないのだ。追いかけたってもう遅い。わかっていても走り出す足は止められない。
そうやって急いで帰り、白山家の門前で立ち止まる。息を整えていれば、最近顔を出すようになったばかりの外商とすれ違う。
「氷川様がいらしているようだよ。お嬢様と仲が良いんだね」
祝福するような笑顔で告げられ、冷水をかけられたような気分になる。
氷川くんは、誰からも喜ばれる、祝福される相手なのだ。彼自身も清廉潔白で堂々としている。明るい日差しの当たる広い道を約束された人。間違いなく姫奈に幸せを与えてくれる、それは疑いようもない。
「ご学友です」
絞り出すような思いで答え、そうであって欲しいと願う。
「それ以上答えられないよね。ご学友と言えども白山様には喜ばしいことでしょう」
外商は愉快そうに笑って坂道を下っていった。
馴染みの外商ならばこんなことは言わないと思いつつ頭を下げ、その背を見送ってから、見上げる白山家の門は大きい。
それ以上進めなくなった。
その門を潜れなくなった。
この門の向こうは、氷川くんと姫奈がいる明るく美しく幸せな世界だ。
その美しい世界では、姫奈を姫奈と呼べなくなる。彼女は父の仕える旦那様の、大事な大事なお嬢様なのだ。ゆくゆくは格式の高い家へ嫁ぎ、白山家の未来を支える。そういう役割を背負った人。
本来なら何も持たない私が、気安く名前を呼んでいい相手ではない。
息が苦しい。
オレンジの煉瓦に背をつけて、空を仰ぐ。大きくそびえる白い雲。蝉しぐれはお屋敷の桜の木から、不相応の想いを責め立てるように喚く。
流れる汗が止まらずに俯けば、鼻の先から落ちた汗がアスファルトに黒いシミを作る。まるで私の汚れた心が滲み出たような黒さだ。
誰に言われなくてもわかっている。
お嬢様に相応しい方がどこにいるのか。
彼女は相応しい相手から、一番幸せにしてくれる人をただ選ぶだけでいい。
少なくとも、なんの力もない私は相応しい相手ではない。
坂を駆けおりていく氷川くんは、塀にへばりついた影のような私に気が付かない。それくらい、私の存在は些末なものだ。
玩具を取られた子供のように、激しい怒りをぶつける姫奈の言葉は正論だ。そのまま許さないでいてくれたら、諦めるしかなくなるのだ。それなのに、私の無礼を飲み込んで結局すべてを許してしまう優しさが苦しい。
使いかけのリップクリームに、狂おしく乱される心を想像もできないだけなのか。
純粋なあなたを穢したくない。汚い私が触れて良い相手じゃない。ちゃんと、ちゃんとわかっているのだ。
あの怒りは嫉妬なのか、ただの子供じみた執着なのだろうか。
わからないから迷うのだ。
もう少し近づいても許されるのだろうかと。
手を伸ばそうとすることが、ただの我儘だとわかっている。
姫奈を幸せにしたいなら、夢見た未来を口にしてはいけないとわかっている。
それでも許される距離の一番近くを望む罪深さを呪う。
・・・・・
姫奈からデビュタントの写真が送られてくる。
エレナさまに出会った報告は、興奮しすぎて誤字だらけで、姫奈の動揺具合がわかった。嬉しさがあふれ出しそうな文章に一緒に心が弾んで、でも片隅は薄暗く。
浅間さんと氷川くんの写真や、八坂くんに教えてもらった食べ物の話。
浅間さんの写真が多いのは、姫奈が浅間さんを好きだからだ。
氷川くんの写真が多いのは撮りたくなるからなのかと思ったり、話題が少ないのは話せない内容ではと勘ぐってしまう。
八坂くんの写真が少ないのは、写真を取るより近い距離にいるのかもしれないと心穏やかではいられずに、ただ興味がないだけかもしれないと思いこもうとした。知らない食べ物を食べて喜ぶ姫奈の笑顔を生み出すのが八坂くんだと考えたくもない。
綺麗にドレスアップした四人の写真に息がつまりそうだ。
白いドレスの二人のサイドに、黒い燕尾服の男が寄り添う。姫奈の肩に手をさり気なく添える八坂くんに、正面を向いて微笑む姫奈。まるで新郎と新婦なのに、気にも留めないような姫奈と、幸せそうな八坂くん。
凍えそうな指先で、誰に見られても誤解を生まない返信を簡単に返す。
父は姫奈からの連絡を楽しみにしているのだ。
勝手に見たりはしないけれど、連絡が来たかは尋ねてくる。それを秘密にしようとすれば、変に勘繰られるのがおちだ。
だったら後ろ暗いことはないのだと、自分から写真を見せておく。
恋心などないのだと。
どれだけ、側にいようとも。
どれだけ、信頼されようと。
彼女の側に堂々と立つためには、そこには恋がないのだと証明し続けなくてはいけない。
間違っても、自分の好意は知られてはいけない。
父に感づかれたら、間違いなく引き剥がされてしまう。
そう、引き離す距離じゃない。引き剥がさなければならないほどの距離は、普通の男女では許されないのだ。それを知りつつこの距離を保とうとする私はずるい。
「お嬢様から写真が送られてきたよ」
出勤前の父に向かってスマホを見せる。ベネチアと日本では時差が八時間もある。夜遅く始まるデビュタントの前に送ってきてくれたのだ。
ウキウキとした顔で、覗き込んでくる父の体温が一瞬で下がるのがわかる。新郎新婦のような四人の姿を見て、なんとも言えない顔をして唇を一文字に結んだ。
「……八坂様とお嬢様は仲が良いのか?」
「悪くはないと思うけど」
「氷川様は」
「同じくらいに見えるよ」
「浅間様はどちらかの方とお付き合いをしているのか?」
「さぁ、聞いたことないけど」
そっけなく答える。
「……お前、お嬢様が好意を寄せられているのは誰か知っているのか?」
「そんな話はさすがにしない」
「それはそうかもしれないが……」
意地悪な気持ちが心をもたげる。
「でも、誰だったら満足するわけ?」
淡島先輩にぶつけられ、燻る思いを問えば、父は一瞬言葉を失った。私が淡島先輩から受けた衝撃を感じているに違いない。
「それは……お嬢様を一番大切にしてくださる方だ……」
確かにそれが最適解。
でもそれなら、私だって。
一番の幸せを与えることはできないが、大切にしたいと思う気持ちなら父にも勝る。
父はもう一度写真に目を落とし小さく息を吐いてから、返信を見て大きく溜息をつく。
「『プロはすごいですね』ってお前なぁ……。こんなにお綺麗じゃないか。天使に向かって、他に言いようがあるだろう?」
誰にも見せたくなかったと、そう書けるはずもない。
「そう? 父が『天使だと言っていました』って送っておこうか?」
「ん、や」
「今、送った」
「オマエ」
「さすがに天使はやめておいた。『綺麗だと言っていました』にしておいたよ」
すぐさま返事が返ってくる。生駒大好きとハートに踊った文字に、デレりとする父がいる。
その様子に呆れながらも、今は紛れもなく幸せなのだ。
自分の夢を口に出せば、この幸せを父からも姫奈からも奪うことになる。
自分の側にいて欲しいと願うことは、彼女を明るく美しく幸せな世界から引きずり下ろすことになるのだ。
・・・・・・
空港で姫奈の帰りを父と待つ。
カートを勢いよく押して駆け寄ってくる姫奈が眩しい。
そんなふうに帰ってきたら自惚れてしまう。駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られてしまう。
コホンと父が咳払いすれば、勢いのついたカートに引きずられるようにして、急ブレーキをかける姫奈。
素知らぬ顔をして、令嬢らしく気取ってみても今更取り繕えるわけではないのにとおかしく思う。
お土産にと渡されたのは、ムラーノガラスのカフスボタン。旦那様と彰仁さま、父にも買ってきたらしい。
私にくれたガラスの色はなぜか茶色で驚いた。姫奈の髪と同じ色のガラスは、ビスケットというらしい。
「美味しそうな名前でしょ?」
屈託なく笑うあなたが、まるでビスケットなくせに。
早く隠してしまわなければ、誰かに取られてしまうでしょう?
大切にしまわければ、簡単に割れてしまいそうなのに。
ヴィンテージウイスキーのように蠱惑的に輝いて、まるで触れてほしいと言わんばかりのガラスが誘う。
姫奈の髪を撫でるように、滑らかな硝子に指を滑らせる。
外気と同じ冷ややかさ。なめらかな指触りが、父に隠れて触れるあの髪と同じだ。
カフスボタンに「私を抱きしめて」と刻んだ女性の話を知っているのだろうか。贈られた男性は、すべてを捨てて彼女と歩んだと知ってのことか。
皆と一緒のお土産だとわかっているのに深読みし期待する。
スキー教室の帰り道、汚い私にくれた言葉が胸の奥で輝き続ける。
「綱が悪くても好き」だなんて簡単に。
「他の男には言わない」なんて言い訳が追い打ちをかけることすら気づかない。
自惚れて、いいんですか。
手を伸ばしても、いいんですか。
力がなくても。綺麗でなくても。何も持っていなくても。
間違いで触れた唇を、謝らなくていいと言ってくれるから。
自惚れでもいい。
勘違いでもいい。
私の世界に彼女が戻らないのなら、私が彼女の世界へ行けばいい。
そう気がついて、顔を上げた。
カフスをシャツに止めて口づける。
手首のキスは欲望なのだ。







