192.デビュタント 2
マーレ・オープンバル。私たちがデビュタントをするバルの正式名称である。ヴェネツィアのとある島のオペラ座が会場となっており、世界各国の十六歳になった紳士淑女が集まってくるのだ。
古き良き劇場は、天井のフレスコ画も美しく、壁際にはぐるりと劇場を取り囲むようにボックス席が設けられている。豪華な壁の装飾には天使が描かれていた。ボックス席には、デビュタントとなる子女の家族が集まる。お母様もエレナ様もボックス席だ。
デビューに参加する男性は黒の燕尾服に白手袋、女性は白いボールガウンに肘上までの長さのある白い手袋と服装が決められていて、服装からジュエリーまで全て参加者のためにハイブランドが用意する。また女性には真珠のティアラが提供されるのだ。アドリア海の真珠ということなのだろう。
当日は指定のプロのメイクアップアーティストによるヘアメイクが行われ、ブランドとしてのファッションショーも兼ねているのだ。
最後のレッスンを終え、今日は本番当日である。朝早くから指定のサロンに赴き、しっかりヘアメイクを施される。
リハーサルを終え、迎える本番。正装に着替え終わった状態で、みんなで写真を撮りあう。八坂くんの知り合いの雑誌編集者が取材として入っていたから、集合写真を撮ってもらった。ファッション雑誌の編集さんらしく、ポーズも凝っていて面白い出来になりそうだった。世界的に有名なオープンバルのセレブ達を取材しに来たらしい。八坂くんのオフショットも目当てだと笑っていた。
一応、写真を綱に送れば、『プロはすごいですね』とかえってきた。どういう意味だ?
私のダンスの相手は、八坂くんである。詩歌ちゃんのキャバリエは氷川くんだ。この辺は、イタリア貴族の流れをくむ八坂家の力で采配されたのだろう。
私は右手で八坂くんの手を取り、左手でブーケを持つ。丁度左側にカメリアのコサージュがあるのだ。ブーケ側には詩歌ちゃんが立っていて、詩歌ちゃんの反対には氷川くんだ。詩歌ちゃんのカメリアは右側についているので、ちょうど二人の真ん中に花が集まる形になる。二人で対になっている効果が並び立つと良くわかるのだ。
同じデビュタントの中でもひときわ目立つようで、たくさんの視線を感じた。
詩歌ちゃんは左手で氷川くんの手を取っていた。堂々とした二人の姿に惚れ惚れとする。やっぱり見れば見るほどお似合いの二人で、なんで付き合っていないのかと不思議に思うほどだ。ふと氷川くんと目が合ったら、氷川くんは驚いたように目を見張った。
不思議に思って首をかしげたら、右手を軽く引かれた。
「ひーなーちゃん! こっち向いて!」
そう声をかけるのは八坂晏司である。白いイカ胸シャツに、白いタイ、黒い燕尾服の襟は照りのあるシルクの拝絹地付きだ。正統派の装いだからこそなのか、眩いばかりのオーラを放つ。さすがエレナさまの弟である。
燕尾服のジャケットの切り替え部分が、ウエストの細さと足の長さを強調し、お尻のテールがセクシーである。目の毒だ。
薄目で八坂くんに目を向ける。
「今日は僕が姫奈ちゃんのキャバリエなんだから、よそ見しないで?」
ニッコリと微笑む笑顔が眩しい。
「八坂くんが眩しくて、目がつぶれそうです……」
目を逸らしながらぼやく。
「姫奈ちゃんも、浅間さんもとっても綺麗だよ」
八坂くんの言葉に、詩歌ちゃんと笑いあう。
「ありがとうございます」
素直に礼を言えば、八坂くんは満足げに微笑んだ。
音楽がはじまる。前の方から、四列になってホールへと進み出る。不安になってキョロキョロとあたりを見回せば、周りは誇らしげなほほ笑みを湛えていた。それはそうだろう。周りは小さいころからこの日のために準備をしてきた人ばかりだ。私みたいに突然叩き込まれたわけではない。満を持してこの日を迎えたのだ。
重厚な音楽の中、ひとりぼっちで取り残されたみたいな気分になった。華やかな喧騒が、どこか遠くに聞こえる。それなのに自分の胸の音がバクバクと煩い。
コワイ。綱がいない。ふと気が付いた。どうしよう。綱がいない。怖い時はいつだって、側に綱がいてくれた。
ゾッとして体が強張った。
前の背中が動く。歩き出さなければ。そう思うのに、床に貼りついたように足が動かない。
八坂くんが怪訝な顔をして私を見た。
「どうしたの?」
ちゃんとできなくて怒られる、そう思ってキュッと唇を噛み俯く。今は言われなくなった、前世の八坂くんの言葉がふとよぎる。
『そんなこともできないの? それで恥ずかしげもなくよく和親と並べるね。氷川に相応しくないと思わない?』
あの頃は意地悪だと思ってたけれど、今聞けば正論でしかない。見た目だけじゃない。氷川くんの隣に立つには、何もかも不足していた。
ギュッと手を強く引かれて恐る恐る八坂くんの顔を見た。
ニッコリと柔らかく微笑む笑顔はカスタードみたいにトロリと甘い。
「大丈夫? 歩けないなら抱っこしてあげようか?」
軽い調子で茶化されて、思わず噴き出した。体がほぐれるのがわかる。
ああ、もう前世とは違うのだ。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
八坂くんの手を握り返せば、ニヤリと八坂くんが笑った。
「ステップなんて気にしなくていいよ。本番は皆楽しむだけだから」
「足を踏んだらごめんなさい」
「僕の靴は安全靴だから」
八坂くんがそんな冗談を言う。八坂くんの靴はエナメルがなまめかしく光るオペラパンプスだ。安全靴などではない。
そうして一歩足を踏み出す。最初の一歩を踏み出せば、その先はなんてことはない。八坂くんのリードに従って、前の人の背を追って歩いて行けばいいだけだ。
入場のダンスの後は、ちょっとしたバレエの鑑賞。その後デビュタントが並んで、ポルカとカドリールを踊る。早いステップはついていくだけで精いっぱいだ。でも、八坂くんが言った通り、みんな笑いながら踊っている。デビュタントを楽しんでいるのだ。
最後にワルツを踊れば、オープニングセレモニーは終わりだ。オープニングセレモニーの後は、誰でも踊れる舞踏会となる。
八坂くんが手の甲に鼻先を寄せる。デビュタントのワルツの始まりのポーズだ。氷川くんは詩歌ちゃんの手の甲に鼻先を寄せている。日本ではなじみがないからどうしても照れてしまう。沢山一緒に練習したから、この距離にも慣れているはずだったのに、今日の八坂くんは一段ときらきらしい。
指揮者がタクトを振り上げて、ウインナ・ワルツがはじまる。ピンと伸ばされた腕。肩甲骨に感じる八坂くんの掌。燕尾服のテールがターンするたびに華麗にたなびく。
これがオンとオフの違いなのだろうか。テレビ局も雑誌社も入っているため、きっと仕事モードなのだろう。色気が駄々洩れである。至近距離で受け続ける私はなかなか荷が重い。八坂くん酔いしそうな勢いである。
「姫奈ちゃんでも怖気づくことあるんだね」
八坂くんが先ほどの醜態を思い出したように笑った。
「私だって一応お嬢様なのよ」
「箱入りだもんね」
「でも、もうちゃんと電車にも乗れるわ!」
答えれば楽しそうに笑う。
「知ってる、これが終わったら水上バスで遊びに行こう?」
「いいわね。ベネチアングラスが欲しいの」
「お揃いのを買おうか」
「それは遠慮いたします」
「相変わらずつれなーい」
きっぱり答えれば、八坂くんは苦笑いする。そういう笑顔は見慣れたもので、少し安心する。オフの八坂くんだ。
ウィンナ・ワルツが終わって、私は膝をついた。これが終わりの合図である。ワッと拍手喝采が沸き起こり、驚いて顔をあげる。ボックス席から覗き込むお母様たちも拍手をしていた。
結構な運動量で、私は息も絶え絶えだ。
「次はエレナと踊るオシゴトなんだ」
八坂くんが肩をすくめ、私たちを取り囲む人たちの中にいるエレナさまを見た。八坂くんは渋々という表情だが、だったら私がエレナさまと踊りたい。人混みの中でも一目でどこにいるかわかるほど、エレナさまは光り輝いている。
参加自由の舞踏会がはじまる。八坂くんがエレナさまの手を取りに向かった。私は少し休憩すべく、端の方でエレナさまを拝見することにした。色とりどりのドレスが入り混じり、ワルツが流れる。
エレナさまと八坂くんのペアは舞踏会の中でもひと際人目を惹く。長身の男女が、優雅に微笑みを湛えながらクルクルとホールを横断していく様は、まるでここが中世のお城の中なのではないかと錯覚させるほどだ。
祈るような気持ちで、指を組み合わせて二人に見惚れる。音楽も、光も、他の人のドレスでさえ、二人を引き立てるために存在しているようだ。潤んだ瞳で二人を見つめながら溜息をつく。
ああエレナさま、ずっと見ていたい。







