166.島津修吾
暗くて狭いお堂の中で、体育座りをするオレのスマホが光った。望みなんか一筋もない癖に、こんな時でもスマホは光る。
ノロノロと腕を伸ばしてスマホを開く。連絡をくれそうな人間はすべてブロックした。どうせ大した用事はない、わかっているのに染みついた習性は抜けないのかと情けなく笑う。
そこに光っていたのは黄色いバナナのスタンプで、緊張感なく『バナーナ』なんてセリフを吐いて腰を揺らす。
思わず噴き出す。そして、突然キュッと胸が締め付けられた。
「姫奈子……せんぱい、らしい……」
多分、彰仁あたりから事情を聴いて、送ってきたのだと思うけれど、心配する言葉でも詰問する内容でもない。「バナナ姫」と呼ばれる彼女のために、前にオレがプレゼントしたふざけたバナナのキャラクターは、深刻な状況にそぐわない。なのに、それを選んでしまう抜けたところが可愛いと思う。
こんな時にも可愛いだなんて感情が沸く自分が可笑しくて、少し笑えた。膝に顔をつけて頭を抱えれば、手に持ったスマホが耳に当たる。温かい。機械の癖に、温かい。
そういえば姫奈子先輩をブロックし忘れた。する必要はないと思った。どうせ、家出を知ったとしても彼女から連絡なんて来るとは思わなかったから。
それとも心の片隅で、来て欲しいと期待していたのだろうか。オレは彼女の弟の、たくさんいる友人の一人にすぎないのに。
このままここにいれば、姫奈子先輩は探しに来てくれるだろうか。
テニスを奪われたオレはもう空っぽなのだけど。生きてる意味などないのだけれど。それでも、あの人が来てくれたら。そう思って頭を振る。
―― 来てくれたら? 来てくれたらどうするっていうんだ。空っぽなオレを彼女が見るわけなんかないのに?
そう思いながら無意識にも、最後の逃げ場所にここを選んだのはなぜだったんだろう。もう行き場はない。
心を殺して家に戻るか、身体を殺してしまおうか。閉じられた未来に他の選択肢は用意されていない。それなのに自分では来た道に終止符を打てなくて、逃げ込んだのはあの夏の記憶だった。
小汚いお堂。綺麗に整えられた世界しか馴染みのなかったオレは、初めて入った時は気味が悪くて仕方なかった。闇の中に静かにたたずむキツネの石像が今にも動き出しそうで、時折差し込む稲妻の光を受けて不気味な目が光ったように思えたものだ。それなのに、姫奈子先輩は安心すると言った。震える指で、強張った笑顔で、広げられたスカートはオレを汚れから守るものだった。優しい優しいお姉さん。今思い出しても胸が痛くなる。守りたいと思っていたのに、守られてしまった苦い思い出。
情けなくなってキツネを見れば、今日のキツネはただの石にしか見えない。
―― 姫奈子先輩なら、終わりにしてくれるだろうか。
テニスなんて止めて、安全で整えられた道を私と一緒に歩んでと、そう彼女が言ったなら終止符を打てるのに。
オレと姫奈子先輩しか知らない秘密の場所。見つけてくれるなら彼女しかいない。でも、弟の友達というだけのオレを、こんなところまで探しに来るわけなんてない。秘密だって覚えているかもわからないのに。
彼女の周りには魅力的な先輩たちがいるのだ。そもそもオレは男の数に入っていない。
―― ばかみたい。
鼻から諦めの笑いが漏れて、肩が揺れた。
・・・
主に夏休みに会う彰仁のキラキラしたお姉さん。
それが姫奈子先輩の最初の印象だった。
オレが姫奈子先輩に初めて会ったのは、小学五年生の夏休みだ。別荘地の朝のパン屋で偶然出会い、彰仁の姉として紹介された。
その前年、同時に芙蓉会の一員となった白山彰仁は、なぜだか馬が合った。芙蓉会は小学三年生まではない。四年生になると、それまでの成績や学園への貢献度などを加味されて選ばれるのだ。
小五になってクラスが一緒になり、グッと仲良くなったところだったのだ。彰仁はことあるたびに「姫奈子が、姫奈子が」と言うから、許嫁かと思っていれば姉の話で驚いた。会ってみたいと思っていたが、彰仁の家に行く機会はなかったのだ。
兄の光毅に向けたハート型の目はランランと輝いているのに、本人はそれを隠せていると思っているのか、アプローチをすることなく猫を被って見せている。兄なんてそれを気が付いたうえで面白がっているのだ。オレから見ても、あまりの駆け引きの下手さかげんにちょっと気の毒にさえ思った。彰仁と幼馴染の前でだけ剥がれる猫の皮をみて、オレもそっち側に行きたいな、だなんて思ったのだ。
彼女が現れてオレの世界は変わった。兄と二人きりで肩身の狭かった運動会の昼食も、頑張ったところで撮られることのなかった写真も、彼女のたった一言で一変した。友達と一緒に食べるお弁当は美味しくて、みんなで撮った写真は宝物になった。
変な人。もどかしい人。でも、とっても優しい人。
ちょっと世間ずれしてないところが少し危なっかしいから、守ってあげなきゃと思わせるお姉さん。兄のことが好きだとは知っているけど、同時にその恋は終わるものだと知っている。だから、その後オレの手で幸せにしてあげたい。そんなふうに思っていたのだ。
それが同じ中学になり驚いた。三年生の中でツートップとされる、氷川先輩や八坂先輩と対等に話をし、幼馴染と紹介された生駒先輩は特待生で外部生初の副会長。女子副会長の葛城先輩は、姫奈子先輩の応援で当選したらしい。あこがれの先輩たちと笑いあう姿は注目の的だった。
だというのに自ら外部生と自認し隠さない。芙蓉学院の中では、途中入学の外部生は少し肩身が狭いのだ。幼稚園から芙蓉であることはエリートの証だからだ。
しかし、姫奈子先輩と生駒先輩が三年になってから、外部生は息がしやすくなったのだと、二年生が言っていた。そんなわけで、外部生の中には信者すらいるありさまだった。
オレが守ってあげたいと思っていたお姉さんは、オレなんかが守る必要のない学院の人気者だったのだ。
学院内で目があえば、必ず微笑みを返してくれる。周りにまとわりつく同級生を無視して、姫奈子先輩に駆けよれば、さすがに女の子たちも追ってはこない。姫奈子先輩が相手ではかなわないと知っているのだ。
「修吾くん」
大勢の中から、名前を呼ばれるだけでうれしい。
「みんなは大丈夫?」
遠巻きに見ている女子たちに気を配って、小声になるのもかわいらしい。
「平気です」
答えればホッとしたように笑う。
「テストはどうだった?」
「あんまり自信はないんです」
「私もよ! 仲間ね。でもね、テスト明けの芙蓉会はショートケーキが出るの! それ目指してもう少し頑張りましょ!」
そんな些細な幸せで頑張ろうだなんて無邪気すぎる。オレはそれだけじゃ頑張れない。
「姫奈子先輩も行くんですか?」
「私は誘われたら行くわ」
姫奈子先輩はあっけらかんと笑った。
芙蓉の花を持たない彼女は、当然ながら芙蓉館にはあまり来ない。来るときには忌々しくも、生徒会のお邪魔虫がいつも同伴だ。
「オレが招待してもいいですか?」
「本当? うれしい!」
ショートケーキはオレのご褒美にはならないから、自分のために姫奈子先輩を誘った。
望めばいくらでも誘ってくれる人などいるだろうに、こんなことでさえそうやって喜んでくれるのだ。
姫奈子先輩はニヤっと笑って、耳元にささやいた。
「彰仁には行くこと内緒にしてね? バレると怒られるから」
ふわりと香るのはシャンプーだろうか。バナナみたいな甘い香り。彰仁も同じかな。気が付かなかった。アイツの髪は短いから。今度さり気なく聞いてみようか。
ドキドキと跳ねる胸を悟られないように押し殺す。子供だと思われたくない。
「もちろんです。迎えに行きます」
「え? 三年の教室は怖くない? 私がこっちに来るわよ?」
「怖くなんてないですよ。それに彰仁にばれたら怒られるんでしょ?」
けん制しなければならない相手は、いつだって年上だ。でも兄より強い相手ではない。これくらいでおじけづくなら、最初から彼女の隣など望めない。
「テスト最終日の放課後は芙蓉館でデートですね」
「修吾くんとデートだなんて、ファンの子に怒られちゃうわ」
姫奈子先輩はおかしそうに笑った。
あえて『デート』と言っているのに、冗談だと受け流される。二年の差はこんなにも大きい。
遠く去っていく背を見て思う。オレはたった一年しかない。この一年が終わったら、また学舎が変わってしまう。もっと早く生まれていたら、あと少し早く生まれていたら、オレだってその隣に、一緒に過ごせたはずなのに。一緒に過ごせるその間に、できるだけ距離を詰めたい。
「お姉さん」だなんて呼ばなきゃよかった。はじめは仲良くなりたくて、あえて「お姉さん」と呼んだ。もちろんそれは功を奏して、ほかの彰仁の友人たちよりかわいがってもらっている自負はある。だけど、それを引き換えに彰仁の友達で光毅の弟であるオレは、いつまでたっても『弟分』で男として意識されない。
好きな人がいるのだと告げたところで、自分とは思いもしないのだ。
・・・
姫奈子先輩のくれたスタンプ以降、スマホは鳴らない。当たり前だ。一番親身になってくれるだろう彰仁すらもブロックしたのだ。それなのに、何に縋ろうというのだろう。
絶望に打ちひしがれ、自分の無力さを呪う。大切にしてきた夢は、無関心な保護者の一言で簡単につぶされてしまうのだ。
どうせ奪うつもりなら、初めから与えなければいい癖に!
もう一度、スマホが鳴ったら。帰ってきてと姫奈子先輩が言ったなら。テニスがなくても、あの人が必要と言ってくれれば。
あるはずもない「たられば」が頭に詰まって重くなる。
音を立てて開けはなたれたお堂の扉。逆光の中のあの人は顔が見えない。悲痛な声をあげ頭を抱きしめてくる姫奈子先輩。
―― 来てくれた……。
探し出してくれた人が、姫奈子先輩で嬉しくて、それなのに胸は苦しい。この距離は男女の距離じゃないからだ。オレが子供だから、ためらわず抱き締められる。そんな風にされたから、オレは子供に還ってしまう。
駄々をこねる子供のように泣き言を喚き散らせば、姫奈子先輩は呆れるでもなく一緒に憤ってくれる。そのうえテニスを続ける希望を見せて、オレのために好きだったはずの兄を脅すと笑うのだ。
強く差し出された手を取って、暗くて薄汚れたお堂からオレを光の中に引きずり出してくれる。「共犯」だと姫奈子先輩が言ったから、その背中で諦める前に戦おうと示してくれたから。
―― この人といきたい。一緒に未来を見たい。
だから顔をあげよう。
好きなものは手放さない。そう心に決めた。







