161.自転車でいこう!
毎年恒例のエレナさまのレセプションパーティーへ出席し、楽しい夏の幕開けである。
白山茶房の方は相変わらず順調で、今年の夏もかき氷目当てのお客さんが浴衣で来店してくれている。八坂くんの元ネタを知らない人たちも、SNS経由で来ているらしい。冷やし甘酒も順調だ。
今年の夏は修吾くんは別荘地に来ないそうだ。海外のテニス留学を長くするのだという。珍しく送られてきた修吾くんの写った写真は、美容室で撮った後姿だった。海外遠征に向けて、目立つために髪を染めたのだと金髪だ。「顔を映して」と送れば、「恥ずかしいから」なんて返ってきて、もうそこが可愛い。
本格的に夢に向かって進む姿は、応援したいと思う。
そして私の夏の目標は、自転車に乗れるようになる、である。
別荘にいる間に自転車に乗れるようになろうと決心し、自転車を買った。
正確には、没落前にスクーターの免許をとろうと思い、綱に相談したら、まずは自転車をマスターしてくださいと怒られたのだ。それを横目に、あたりまえだな、と彰仁が鼻で嗤った。
ちなみに彰仁は自転車に乗れる。……悔しい!!
籐の籠のついたレトロなタイプの自転車は、フランボワーズ色で、タイヤの色はミルクティ。サドルはふかふかのどら焼きみたいな濃い茶色で、何しろ可愛いのだ。その上ちゃんとドレスガードもついていて、BAA適合車なんである。もう一度言うが、かわいい。
午前中の涼しい時間に、綱と彰仁に協力してもらって自転車の練習をすることになった。
身体が大きくなってからの自転車練習は大変だ。
何しろ、補助輪が付いていない。
いきなりフラフラの自転車から始めるのだ。これは怖い。
去年の体操服にヘルメット。膝と肘にはサポーター完備。どう考えても格好悪い。
大きくなってから転ぶと、子供とは違って不用意な怪我をするのだと、綱に諭された。
なんで彰仁には子供のころに自転車を教えたのに、私には教えてくれなかったのだろう。そう言えば小学生のころ、自転車に乗る綱と彰仁が羨ましくて、私も乗りたいとねだったことがあったっけ。その時は、女の子には必要ないのよ、とお母様に言われ諦めたのだ。
お嬢様には必要ないかもしれないが、普通の女子だって必須じゃないの? お母様!
「絶対! 絶対! 絶対! 離さないでよっ!!」
「もちろんです、お嬢様」
シレっとした綱の声。そう言ってスケートの時は手を放したではないか。……おかげで滑れるようにはなったけど。
今にも離されてしまいそうな気配がして、振り返れば綱はしっかり支えていた。気のせいか。大きく深呼吸をする。そしてもう一度、振り返って確認した。うん、ちゃんと支えている。……でも、でも、もう一度。
「そんなんじゃいつまでたっても乗れないぞ」
彰仁が横でヤジる。
「だって、だって! 自転車かわいいんだもん! 傷ついたらやだもん!」
「はぁぁ? だったら俺の古い自転車持ってくればよかっただろ?」
「嫌よ! かわいくないもの!!」
「我儘か!」
「乙女心よ!!」
姉弟げんかを繰り広げていれば、綱が乱暴に自転車の後ろをゆすった。
「きゃぁ! 止めて!!」
「はい、いい加減はじめますよ? いいですか?」
「い、いや……」
「いいですね?」
「……でも、怖い」
「いいですね?」
圧強めの綱の声。さっきからずいぶん待たされて、静かに怒っている。仕方がなく私も覚悟を決めた。
大きく息を吐く。自転車のペダルを踏み込む。グラグラと自転車が揺れる。体中が強張る。足元を見れば、綱の叱責が飛ぶ。
「足を見ない! 前を向く! 背筋を伸ばして、もっと早く漕ぐ!!」
スパルタである。半泣きである。綱が自転車の後ろを押して、彰仁が並走する。それを何度か繰り返して、三人でヘトヘトになる。
「……姫奈子……、もうあきらめろよ。なんで今更自転車なんだよ」
彰仁が肩で息をしながら言った。
「だって……、自分一人でいろいろな所に行けるようになりたいんだもの」
「車でいいだろ?」
彰仁は納得できないのだ。このままの生活が続くなら、確かに自転車は必要ない。両親は喜んで車を出してくれるし、ハイヤーも使いたい放題だ。だけど、このままでいられるとは限らない。
もし、前世のように没落するのなら、自動車なんて使えないかもしれない。スクーターはともかくも、自転車くらい乗れなければ、素敵な奥さんになれない。あの自転車のカゴに葱の出た買い物袋を入れるのだ。
しかしそんなことを言えるはずもなく反論できずに俯けば、綱は小さく笑った。
「私は良いと思いますよ。できないことを克服しようとするのは」
「綱は姫奈子に甘い……」
彰仁が呆れたように答えた。
「我儘に付き合わされるのは俺たちなんだぜ? 自分からやりたいって言ったくせに、『でも』だとか『だって』だとか言い訳ばっかだし。そんな奴に付き合うことない。時間は有限なんだ。ちゃんと嫌なことは嫌だと言った方がいいぞ? 姫奈子のためにならない」
彰仁の言葉にシュンとする。私はいまだに、『でも、だって』と言い訳を繰り返してる。一人ではできなくて、結局周りに迷惑をかけている。
「……だって……悪いと……思うけど……」
「乗りたいんでしょう?」
また、『だって』といってしまった私に、綱が優しく問う。
「……うん。迷惑かけてごめんなさい」
「もう少し頑張れますか?」
「うん。もう少し頑張りたいの。だからお願い」
彰仁を見て頭を下げた。
「彰仁も綱もお願い。今度はちゃんとするから教えてください」
彰仁は大きく溜息をついた。
「お嬢様が自転車に乗れるようになれば、みんなでサイクリングへ行けますよ」
綱が言った。
「サイクリング!?」
ピョンと顔をあげた。
「ええ、少し先にため池があるんですよね、彰仁さま? お嬢様にも見せてやりたいと彰仁さまも」
「綱!!」
彰仁が綱の言葉を遮る。赤い顔をして、不貞腐れている。
「綱はずるいぞ!!」
「そうですか?」
綱が笑う。
「サイクリング? サイクリング一緒に行ってくれるの? まえからね、三人で行きたいと思ってたの! 自転車でお出かけしましょう? そうしたら私お弁当作るわ? サンドイッチがいい? おにぎり? 唐揚げも入れるわね! わぁ! どうしよう! 嬉しいわ」
「……カツサンド!! 牛肉のやつ! あと、バナナまいたの。あれ絶対!」
彰仁がぶっきらぼうに言った。
「わかったわ! 全部作っちゃう!」
嬉しくてエヘエヘ笑えば、彰仁は口を尖らせた。
「本当、姫奈子はずるいよな。わかってんのか? 自転車に乗れなきゃいけないんだからな!」
「うん!」
「今日中に十メートルは支え無しで進めよ!」
「うん!」
「じゃあ、さっさと始めるぞ!」
彰仁が言って、私も自転車に跨った。目にわかる目標があると俄然やる気が出る。
彰仁を巻き込んで自転車で転んだりしながら、私は自転車に乗れるようになった。サポーターはしたけれど、青タンはいっぱいだし、全身筋肉痛だ。それでも、一度乗れるようになった自転車はビュンビュンと風を切る。
乗れるようになってしまえば楽しいもので、私は自転車を乗り回すようになった。
そして、今日は約束のサイクリングである。
お弁当を私の自転車の籠に入れ、彰仁は遊び道具をもった。綱は敷物や飲み物などを持ち、三人で出かける。
目的地は少し山の中にあるため池なのだそうだ。どうやら二人の絶好の遊び場らしく、自由研究と称してはここへ遊びに来ていたらしい。彰仁の大好きな、カブトムシやらクワガタやらが取れる秘密のポイントなのだという。
私だけ知らなかった。
クヌギの茂る雑木林を抜け、古いため池に出た。昔作られた農業用のため池らしい。誰かが管理しているのだろう。こざっぱりとしていた。
ちょうどお昼になったので、シートを敷いてお昼にする。彰仁リクエストのビーフカツサンドにはマスタードをたっぷり効かせ、キャベツもたっぷりボリューミー。初等部の運動会で作ったバナナチョコロールサンドと、綱の大好きな白山家特製唐揚げに、生春巻きで野菜も食べよう。
みんなで手を合わせて、いただきます。
あんぐりと大きな口を開けて齧り付く。ここではマナーも何も気にする必要はない。
「姫奈子もさー、なんか、飯、上手くなったよなー」
モグモグとサンドイッチを食べながら彰仁が喋る。お母様が見たら怒るぞ、彰仁よ。
「そう? ありがとう」
「最初の頃の唐揚げなんてさ、歪だったし焦げてたけど、今は美味そうだし、実際唐揚げは特に美味い」
珍しく彰仁が褒めるものだから照れてしまう。
「料理好きだよな。親父厳しいのに、よくやってると思う」
「料理も好きだけど、食べてる人の顔が好きなの。美味しいもの食べてるときって、みんな幸せそうな顔してるわ」
「だからですかね。お嬢様の作ったものを食べると幸せな気持ちになります」
綱が笑って、それは言いすぎだろ、と彰仁が笑う。
「もう好きなもの何でも言って! 何でも作っちゃう!」
浮かれて答えれば、彰仁と綱は笑った。
三人で過ごす時間は穏やかで、幼馴染の気の置けなさが何とも心地よい。食事が終われば、彰仁は雑木林に私を誘った。
お目当ての木を見つけて、ドンとその木を蹴れば上からクワガタが落ちてくる。平べったいクワガタで、珍しいのだと見せてくれる笑顔は天真爛漫。本当に自然が好きなのだと思う。
こういうことも前世は知らなかった。
小さくても足が赤いのはアカアシといって珍しいんだとか、でも、カッコイイのはノコギリなんだとか、いっぱい話してくれるのだ。
自転車、諦めなくて良かった。
ため池の側の木に吊り下がったカエルの卵。紫の花を摘まんで紙風船のように割る。釣鐘草というらしい。
蒲公英の種を食べている緑の小鳥はカワラヒワ。毒々しい紫の実は潰したら色が落ちないのだそうだ。
知らないことがいっぱいで、得意げに教えてくれる彰仁が眩しい。綱も楽しそうに、木漏れ日を受けて笑っている。
ずっと、彰仁はこんな綱を独り占めにしてきたんだ。
いいな。羨ましい。彰仁が羨ましい。
私が彰仁だったら、ずっと綱と一緒にいられたかもしれない。主人と執事として、側にいられたかもしれない。綱が執事以外を望んだとしても、ビジネスパートナーとしてやっていけたかもしれないのに。
「私、彰仁になりたかったわ」
言えば、彰仁がキョトンとして、笑った。
「俺もガキの頃は姫奈子になりたかったぞ」
「どうして?」
「綱は姫奈子が独り占め、俺は味噌っかすだったからな」
「私は、お嬢様がお嬢様で、彰仁さまが彰仁さまで良かったと思います」
綱が笑う。
「そりゃそうだろ、姫奈子のお守りは大変だからな。同級じゃなかったら目が届かなくて大変だ」
彰仁が笑えば、綱も笑った。
「私のお守り大変?」
やっぱり、お守りだと思って側にいるの?
「正直大変です」
きっぱり答えられて、ガッカリする。
「でもそれ以上に楽しいです。お守りだとも思っていません。私が好きで勝手にやっています」
綱がサラッと答えるから、あがってしまう口角をごまかすために唇を噛んだ。
私も勝手に側にいてもいいのかな。彰仁にはなれなくてもビジネスパートナーになら、頑張ればなれるかもしれない。
「姫奈子、すげーブスな顔してる」
彰仁に突っ込まれる。
「うるさいわね、彰仁のバカ!」
いつもの喧嘩で、綱が笑った。







