152.蚊帳の外
慌ただしい氷川くんの様子に、はぁ、と思わずため息をつく。嵐のような人だ。
屋敷へ戻ろうかとすれば、声がかかった。
「姫奈……子、お嬢様……」
綱だ。無表情の綱。門の外なのに、姫奈じゃなくてお嬢様と呼ぶ綱になんだかイラっとする。
「あら、お早いお帰りね? 綱」
「……どうして勝手に帰ったんです?」
綱の声が不安定に揺れる。
空気が共鳴して歪む。不穏で息苦しい、夏の風。わかる。綱が怒っている。だけど、私だって怒っている。
「淡島先輩が伝えてくれなかった?」
「聞きました。そうではなく、なぜ約束を破ったんです?」
「約束? ねぇ、そもそも、なんで私、綱と帰らなきゃいけないの?」
口に出した言葉は、気持ちとは正反対。一緒に帰りたかったのに、そうできなかった悔しさが、胸の中でクルリと言葉を変える。
中等部入学の頃は邪険にされていた。早く帰れと言われていた。いつしか待つように言われるようになって、私はそれが嬉しかった。だけど。
芙蓉館の閉館時間は、三十分後だったはずだ。家について一時間。だから、本当は三十分前に綱は帰ってきているはずなのだ。それなのに、今、ここにいる。それが意味することを考える。私じゃない誰かと、芙蓉館の外で、なにか、していた。
「……それは旦那様も心配されますし……」
珍しく綱が口ごもる。
そう。理由なんてそんなものだ。
一緒にいたいと思うのは私だけで、綱はそうじゃない。白山家のお嬢様に何かあったら困るから。私を心配するお父様が、無理を言って綱を芙蓉に入れた。その期待に応えるために、綱はしかたがなく私の側にいる。
ただ、それだけだ。わかっている。知っている。だけどそのことがたまらなく悲しく苦しい。
「それって私が綱を待つ理由になるかしら?」
暗に、綱が私を待つのならともかく、綱が私を待たせる意味を問う。
不遜。尊大。素直じゃない。我儘で高慢ちきな成り上がりのお嬢様。
自分の嫌なところが灼熱のマグマになって、越えてはいけない何かをドロリと越える。
だから姫奈子はダメなんだ、彰仁の言葉が頭をかすめる。だけど。
意味を正確に理解して、綱が息を飲んだ。綱ならわかると知った上で、私は的確な言葉で彼を弄る。最低で、最悪だから、愛されないとわかっていても。
「私なんかいなければ、今日みたいに綱は桝さんとゆーっくり帰れるわ!」
ギュッと拳を作る。二人っきりで籠るPCルーム。そのドアが開くのを待っている時間の切なさを綱は知らない。
帰ってしまえば、知らなくてすむ。見なくてすむのに、待っていろと綱が言うから。綱と一緒に帰りたいから。だから私は惨めにも、あそこで扉が開くのを待つ。
勇気を振り絞って聞いたって、何をしているのか教えてくれない。姫奈には関係ないと、知らなくていいことだと、そういって教えてくれない。しつこく聞いたら、無視された。綱と桝さんだけの、二人だけの、秘密。
それなのに私に待てという。綱は残酷だ。
そんなことするくらいなら、もう突き放してほしい。とどめを刺してほしいのだ。
「違います。そうじゃない!!」
綱が弾かれたように答えた。
「違わないわ。そうしたらいいのよ。いいえ、そうすればいいわ、そうしてよ!」
いっそ、そうしてくれたら諦めがつく。もう待たなくてすむ。迷惑だと、お荷物だと、綱の口からそう言って、私を諦めさせてほしい。諦めなきゃならないほどグチャグチャに傷つけてくれたら、いくらバカな私だって理解する。
桝さんなんて嫌だ。嫌だけど。できたら、もっと違う人を選んでほしいと思う。でも、綱は私の人形じゃないから、そんなの言える権利はない。
「私が嫌なんです。桝さんと帰る気はない。ひ、お嬢様と帰りたい。だから待っていてくださいと、お願いするのは……いけませんか……」
綱の声は小さくなって、身体まで小さくなって俯いた。
「約束なんて、お願いだなんて、確かに私からしていいものではありませんでした。私があなたを待たせるなんて、筋違いでおこがましいものでした。だけど……」
綱が唇をかむ。綱が言い訳じみた言い方をするのは珍しい。俯いた瞳に、暗い前髪。湿度の高い空気が、ぺったりと影を塗りつける。生々しくてそれでいて、深い闇が綱の表情を隠す。
「私はあなたと一緒にいたいんです……」
消え入りそうな声。前で組んだ綱の指先が震えている。こんなのは、ズルい。
こんな風に言われたら、その理由が何であれ、私は許すしかなくなるのだ。苦々しく思いながら声を絞り出す。
私の負け。好きになった方の負け。
「うそよ。ちょっと意地悪言っただけ」
ユルユルと綱が顔をあげる。
「だって、綱、帰ってくるのが遅いんだもん」
「……それは……」
綱が気まずそうに目をそらした。汗に濡れたYシャツ。よりかかっていたのか、煉瓦の壁に薄暗い綱の染み。その意味にハッと気が付く。
「まさか、ずっとここにいたの!?」
綱が言葉もなく自嘲した。芙蓉館が閉められたあとまで、桝さんと一緒にいたわけではなかったのだ。
「なんで?」
「なんででしょう」
俯いてしまう綱。あの言葉の暴力で、私は綱の言葉を奪ったのか。
そんなことしたかったわけじゃない。
勘違いで責め立てて、綱を傷つけた。思い込みでいたぶった。本当に私は自分のことしか見えていない。愚かで視野と心が狭い。
私は下から綱の顔を覗き込み、ポケットからジャータイプのリップを出して、噛みしめ切れた綱の唇に塗った。綱の唇が熱い。
綱が意味が分からないという顔で私を見る。
「唇、切れてるわ。それあげる。綱はリップ持ってないんでしょう?」
ごめんなさいの代わりに、バナナの香りのリップクリームを押し付ける。
一瞬だけ触れ合った指先に唇の熱がこもる。
綱は大事そうに受取って、鼻声で笑った。
「……よくご存じですね」
「知ってるわよ、それくらい。私と綱の仲じゃない」
言えば綱が戸惑うような顔で私を見る。
「綱は私と約束していいの。今まで通り、私は綱を待つわ。その代わり綱も私を待つのよ? お願いもしていいわ。叱ったっていいわ。言えばいいのよ、何でも。それでこそ綱でしょ」
自分に呆れて笑うしかない。もう、本当に馬鹿みたいだ。勘違いで嫉妬して八つ当たりして、手放したいと願っても、最後の最後で手放せない。自分では諦められないことを棚に上げて、他力本願で綱に責任を押し付ける。ゴメンナサイすら素直に言えない、可愛くない私が嫌い。綱を好きでいて良い資格すらないくせに、諦めることもできない。
どうして綱が泣きそうな顔をするの。泣きたいのはこっちなのに。でも、綱が泣くのは嫌。苦しむのも見たくない。綱は幸せであって欲しいのに、どうして上手くできないの?
「さぁ、早く中に入りましょ。熱中症になっちゃうじゃない! ジンジャーエール入れるわ」
夕闇に引きずりこまれる前に、私たちは安全地帯に逃げ込んだ。







