151.あなたとジンジャーエール
遠泳大会を前にして、期末テスト期間に入った。期末テスト期間の一週間は、校友会、遠泳大会の準備共に禁止となり、下校時間が早まる。
しかし、芙蓉館は特権で使用可能だ。私と綱は芙蓉館に来ていた。
……綱が、最近桝さんと仲が良いのだ。二人で芙蓉館のPCルームで何かしている。綱は「桝さんに教わることがある」といっているが、個室にこもっているので何をしているのか本当のことはわからない。
私は芙蓉館のカフェスペースで、綱が終わるのを待っているのだ。
今日もカフェで給仕をしつつ、合間に淡島先輩に勉強を教わっている。葵先輩と紫ちゃんも一緒だ。
理系は淡島先輩、文系は葵先輩に教わることが多い。二人は、お互いに苦手な分野を教え合っている。もう、淡島先輩と葵先輩に関しては、淡島夫妻と呼んでもいいだろうか。それとも沼田夫妻なのだろうか?
中間テストでもお世話になっていたのだが、二人とも教え方が上手いのだ。おかげで、外部生が入ってきて成績が下がるだろうと思われていたのに、それほど順位は下がらなかった。
相対的に見れば上がったことになるのだろう。
みんなで勉強をしていれば、その輪に氷川くんが加わった。
「今日も熱心だな」
そういわれて曖昧に笑う。勉強が目的というよりは、綱を待つまでの暇つぶしに近いので、あまり褒められたものではない。
「まぁ、あらかた復習はすんでるんだけどね」
淡島先輩が氷川くんに答え、ちらりとPCルームのドアを見た。氷川くんも紫ちゃんもチラリとドアを見る。きっとみんな承知のうえで、私に付き合ってくれているのだ。
申し訳なくて俯いた。
「ひ、姫奈子さん。もう終わったなら、一緒に帰ろう!」
氷川くんが言った。唐突過ぎて、ポカンとする。確かに、電車の方角は一緒かもしれないが、降りる駅は違う。
「……でも、駅が違うもの。あと少しだし、綱を待ってるわ」
戸惑って答える。どうせ後三十分で芙蓉館からも高校生は退館しなければならない。
「責任もって家まで送る!」
なぜか断言されて驚いた。
「え、そこまでは……」
「白山さん、いいじゃない」
淡島先輩がニッコリ笑った。葵先輩が横目で淡島先輩を見てため息をつく。紫ちゃんはハラハラした顔で、風雅くん……と小さく言った。
「たまには違う景色を見た方がいいと思うよ。ルーチンばかりじゃなく。何か新しく見えることがあるかもしれない。絶対だと思っていたものが、ただの刷り込みかもしれないし」
「風雅!」
葵先輩が淡島先輩を窘める。
「葵と紫の言いたいことはわかるよ。でもね、ボクにも言い分はある。それに、和親なら安心だ。ただ一緒に帰るだけだよ。目くじら立てることじゃない」
氷川くんは淡島先輩の言葉に、コクリと頷いた。葵先輩と紫ちゃんは、何も言えない。
「でも、綱が……」
「生駒にはボクから伝えておく」
淡島先輩が言う。
「でも」
「他に何か問題がある? ボクを信用できない? それとも和?」
淡島先輩の笑顔の圧が凄い。氷川家の申し出を断るとは何ぞや、的なオーラが出ている。
プライベートでは平気で断っていたから私は気にもしなかったが、人目がある場では失礼な状況かもしれなかった。
「……いえ、滅相もゴザイマセン」
「なら帰るぞ!」
氷川くんはそういって、私の鞄を持った。
「氷川くん、鞄、間違ってます!!」
そういえば、淡島先輩が噴き出し、氷川くんがシュンとした顔をした。
「……そういうつもりではなかったのだが、すまない」
そういって鞄を返してくれた。
「後のことは任せて」
淡島先輩がそう笑った。葵先輩と紫ちゃんはすまなそうに頭を下げた。
私と氷川くんは連れ立って駅へ向かった。
綱以外の人と電車で帰るのは初めてだから、なんだかソワソワする。
氷川くんてちゃんと電車に乗れるんだろうか? 私の駅まではやっぱり私が案内するんだよね? 乗り換えはないけれど、ちょっと不安だ。そもそも、私の家から氷川くんは帰れるんだろうか?
「どうした?」
ウンウン考えていれば、氷川くんが不思議そうな顔をした。
「えっと、氷川くん、ちゃんとお家に帰れます?」
尋ねれば、小さく噴き出す。
「大丈夫だ。ちゃんと帰れる」
「氷川くん、一人で電車乗れるんですね!」
思わず尊敬のまなざしで見たら、戸惑った顔をされてまた笑われた。
「ああ、一人で電車にも乗れるし、バスにも乗れる」
「意外でした。案外普通なんですね」
前世で二人で公共機関を使って出かけたことなどなかったからだ。
それを聞いて、堪えられないというように氷川くんが笑いだす。なんだか笑われてばかりだ。
八坂くんといい、沸点低いんじゃないか? 箸が転がってもおかしい年ごろか?
「案外普通なんだ」
微笑みながら噛みしめるように言う氷川くんに、ドキリとした。
前世で私は、氷川くんのことを、絶対王者完璧隙なし理想の王子様だと思っていた。でも、今は違う。絶対的なリーダーシップや、その為の理性的な正論と公平性は変わらないと思うが、人間味があるように思う。前の氷川くんより、今の氷川くんの方が身近に感じる。
それから二人で、学院のことなどを話しながら帰る。期末テストでお互いにどこに山を張っているだとか、筏作りの進捗だとか、こんな話、前世でしただろうか。
前世ではお互いに一方的に話していたと思う。私は主に悪口ばかりで、さぞや氷川くんはつまらなかっただろう。氷川くんからは指摘と指導ばかりで、私は話を聞く耳すら持たなかった。
でも、今は会話になっている。そんな当たり前のことにジンとくる。
最寄り駅でおりて、私の家に向かう。本当に家まで送ってくれるのだ。駅から家までの道を綱以外の友達と歩くのは初めてで、そのことにも浮かれた。
夏の暑い日差し。木漏れ日の焼けつく坂道。ジリジリと茹だるアスファルトを二人で歩く。
夏の半袖シャツから伸びる腕は少し焼けている。夏服だと芙蓉の花はピンバッチとしてベストにつけられるのだ。夏服のベストは薄いサマーニットだが、冷暖房完備の学院内はともかく登下校は非常に暑い。
いつもとは違う目線の高さに少し戸惑う。氷川くんは綱より少し背が高い。いつもだったら先に行きがちな氷川くんも、坂道だからか今日はゆっくり歩いてくれる。
氷川くんの顎を汗が伝った。
家まで来れば、使用人たちがざわついた。
使用人にしてみれば、氷川財閥の御曹司、氷川和親さまのおなーりー、なんである。
なんだかそれが少しおかしい。クスクス笑っていれば、慌ててお母様がやって来た。そして、是非、お茶をと誘った。確かに家まで送って貰ったのだ。お茶ぐらいお出ししたい。
困惑顔の氷川くんに私からもお願いする。
「これからの予定がなければ是非お茶を飲んでいってください」
「ない! 予定はない! 期末期間中はあけてあるんだ!!」
力説された。
「え、それって勉強のためでした? だったら私ご迷惑を」
「大丈夫だ! もうあらかた終わってるんだ! 一応、親の手前!」
「はぁ、なら大丈夫ですか?」
「ああ! 是非」
そういって、氷川くんはハッとしたように私を見た。そしてオズオズと尋ねる。
「……いや、その、姫奈子さんの迷惑でなかったら」
いきなり自信なさそうな顔で笑ってしまう。
「迷惑だなんてそんな。私がお願いしてるんですから」
「そうか!」
「そうです。ジンジャーエールでもいいですか? 白山茶房でシロップを漬けたんです」
「白山茶房で出すのか?」
「まだお店に出してはいませんが、色々実験的にやっています。梅シロップもあります。カリンはいまいち不評ですけど」
「では、ジンジャーエールを」
レモンをスライスし、氷を詰めてジンジャーシロップを注ぐ。そこへ炭酸水をいれて出来上がりだ。二人分を用意して、応接間のテーブルに置いた。
するとお母様がやってきて、アイスクリームの乗ったコーヒーゼリーを置いた。
「姫奈子の作ったコーヒーゼリーよ! ぜひ召し上がって!」
「ちょっと、お母様!! 余計なことしないで」
お母様はニヨニヨしながら、お邪魔しました、なんていって出て行った。どうせろくなことを考えていないだろう。小さく溜息を吐く。
そもそも、氷川くんはあまり個人の手作りの食べ物を食べないと華子様が言っていた。困らせてしまう。
「ごめんなさい。こういう手作りのものはあまり食べないんでしょう? 残してもらってかまいません」
「いや、姫奈子さんが作ったのか? すごいな」
「でも、ゼリーなんて冷やして固めるだけだから、小学生でもできますよ」
「もしかして、シロップを漬けているのも、姫奈子さんか?」
「あ、でも、ちゃんと白山茶房の店長と一緒に仕込んだので、お店のものと変わらないです。ちゃんと手袋をして消毒もして。それでも抵抗あるなら違うものを」
「いや、いただく」
そういって、氷川くんは勢いよくジンジャーエールを飲んだ。そんなに喉が渇いていたのだろうか。
「……不思議な香りだな?」
「シナモンと八角かもしれません。苦手でしたか?」
「いいや。……おいしい」
ニッコリと微笑まれて、嬉しくなる。前世で欲しかった笑顔。自分に向けられる笑顔だ。
「良かったです」
結局、氷川くんはコーヒーゼリーもペロリと食べてしまった。華子様は、氷川くんの潔癖なところを心配していたが、結構何でも食べるように思う。きっと、高校生になって潔癖なところが薄れてきたのだろう。
しばらくそうやって二人で食べ物の話などをした。氷川くんが食べた珍しかったものだとか、私が食べたご飯の話だとか、あっという間に時間がたってしまう。
「そろそろ、帰らなくても大丈夫ですか?」
夏の日は長いから、うっかりしてしまったがもう一時間ほどここにいる。予定がないと言っても、家の人が心配するだろう。
氷川くんも時間がたったのを忘れていたようで、時計を見て驚いた。
「すまない。長居をしてしまった」
「いえ。私は家なので平気です。氷川くんはお家の方に心配されてしまうでしょう?」
「……そうだな」
「車を出すように言いますね」
「いや、自分で帰る。それくらいはできる」
氷川くんが笑った。そうか、この人は私と違って、もう自立しているのだ。
「では、駅まで送ります」
「それでは俺が送った意味がないだろう?」
呆れたように笑われた。
「でも」
「大丈夫だ。君はここにいて、俺を安心させてくれ」
!?
なんだ、それは。なんか、なんだ? とりようによっては意味深な言葉でドキドキする。勘違いだとわかっていても混乱はする。
婚約しているならともかく、こんな言葉を言われるような関係ではないのだ。たまに氷川くんは文脈がわからなくなる時がある。天才ゆえの飛躍なのだろうか。凡人には計り知れない。
「あ、あの、では門まで、そこまで行きます」
「そう、そうか。その、ありがとう」
「いえ、それくらいは……」
なんだか微妙な空気になって、そそくさと門まで送る。
さて、表へ出るといったところで、氷川くんが立ち止まった。
そして、姿勢を正して私を見つめる。目が合ったら、ツとそらされ、不思議に思えば、強い瞳が戻って来た。小さく氷川くんが息を吸った。
「今日はとても楽しかった。それに、ゼリーも美味しかった。だからまた、一緒に帰ってくれないか」
そういって視線を下げ、付け足す。
「……たまで、いいから」
ボケっとして見返した。そんなにゼリーが美味しかった?
「……嫌か」
「いえ、私も楽しかったです。また食べに来てください」
「そうか! では! また明日学校で!!」
氷川くんはそういうと、小走りで門から坂を下っていった。
「あの、氷川くん、明日は土曜日……」
私の言葉は夏の風に流された。







