133.雲に隠れる
今日は華子様の病室にやって来た。明日は前世で華子様が亡くなった日なのである。少し心配で顔を見にやってきたのだ。
前世の華子様は、今頃はすでに寝たきりで肺炎を患って面会謝絶になっていた。しかし、今の華子様はそんな様子はない。少し体力は衰えたようだけれど、自分でトイレに行くこともできる。あまり心配はないと思うけれど、それでも心配なのだ。
ノックをして病室に入る。華子様はボンヤリとカーテンを見ていた。病室の窓から差し込む冬の日差しを、レースのカーテンが裏ごして光る。おぼろげなその光に包まれて、華子様は消えてしまいそうだった。
「……華子様。お加減はいかがですか?」
「ひーちゃん。ええ、ずいぶんと気持ちがいい日ですこと。こんな日にいけたらどんなにか幸せでしょうね」
「後で外に行きましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ」
行きたいと言いながら断る華子様。見た目よりお加減が悪いのかもしれない。
華子様の微笑が儚げで寂しかった。私はベッドのわきに椅子をおいて腰かける。
「華子様……」
「ひーちゃん、お迎えって信じる?」
「お迎え……ですか?」
何を迎えるのだろう。誰かを迎えに行くのだろうか。
「さっきね、主人が来たのよ」
「!」
華子様のご主人、先代の氷川財閥総帥はもうだいぶ前に亡くなっていた。
「もう、そろそろ来ないかって言われたわ」
「いや!」
私は慌てて華子様の手を握った。カサカサとして皺くちゃで……とても軽い。落ち葉のような手のひらは、サラサラとして気持ちがいい。簡単に飛んでいきそうで。でも、まだ、ここに生きている人の手だ。
「ねぇ、ひーちゃん。私ね、『来ないか』なんて誘われて嬉しかったわ。主人と私は親の決めた許嫁でね、婚約の日に初めて話をしたの。ええ、存在は存じ上げてましたよ。有名な方でしたし。でも、九つも離れていましたからねぇ、お話なんてしたこともなくて」
華子様は病室の窓に目を向けた。
「好きだとか、好きじゃないとか、そんなことは言われなかったわ。聞きもしませんでした。大変な時代でしたし、それが普通だったから。でもね」
華子様が私を見た。
「さっきあの人が『そろそろ来ないか』なんて言うもんだから、私ね、嬉しくなっちゃったのよ。来い、だとか、来るなだとか、行けだとか、そんな命令みたいなことしか言われなかったから、『来ないか』なんて自信なさげに私に意見を聞くなんてね。あの人らしくないじゃない? それでも私はあの人の元に逝きたいと、今、望まれているうちに逝きたいと、そう思ったの」
「華子様……」
「好きだったのね」
私は俯いて涙を堪えた。華子様が連れていかれてしまう。もう、会えなくなってしまう。でも、華子様はそれを望んでいて、もう、きっと、覚悟をしているのだ。
「ひーちゃん。和親がごめんなさいね。あなたに無理を言ったのでしょう」
華子様が俯く私の頭を撫でた。私は緩く頭を振る。
「いいえ。そんなこと」
「あなた、和親以外に好きな人がいるわね?」
ハッとして顔をあげれば、華子様は穏やかに笑った。
「あ……、わたし……。ちが、嘘ついてたわけじゃ」
「いいのよ」
「だって……、言っちゃいけなくて。だって、そんなの困らせるし……すぐ諦めますからっ」
「いろいろと……難しいのよね? 淑女には言葉にしてはいけない想いがあるものだから。わかるわよ」
胸の奥から涙がせり上がってくる。誰にも言えなかった想いを、華子様が拾い上げてくれる。
「大丈夫、そんなにすぐ諦めることないわよ。私はひーちゃんを応援しているわ。息子にもきつく言いました。和親の結婚に関しては相手の気持ちを大切にするようにと。氷川の力を使って無理強いだけはしないようにと」
「華子様……」
「自分の気持ちを大切にしていいの。もう私たちの時とは時代が変わったのだから。でもね、ひーちゃん。もし、あなたが彼を諦めるその時は、……和親も見てあげて」
華子様は深々と私に頭を下げた。
「止めてください。華子様。氷川くんだってそんなこと望んでいません」
私は慌てて華子様の背に手を回して抱き起す。その拍子に、我慢していた涙がこぼれた。
「そうね。そうかもしれないわね。でも、お願いよ。和親が困ったときには助けてやって欲しいのよ」
「それは当然です。私は氷川くんの友達だから。私だっていっぱいいっぱい助けてもらっていますから」
華子様は顔をあげ、私の頬を拭う。
「ああ、ああ、バカね、ひーちゃん。泣くようなことじゃないのよ?」
「でも、だって、華子様が悪いんです!」
「そうね、私が悪いわね」
そう言うと、嬉しそうにウフフと笑う。
「今になれば、蝶子とあなたくらいのものよ。私が悪いなんて言うのは」
「だって! 華子様が悪いわ!」
「良かったわ。ひーちゃんとお友達になれて。それだけでも和親には感謝だわね」
「……うそです。華子様は悪くないです……。でも私だって、華子様が好きだから……」
旦那様の元へいかないで欲しい、そうは言えなくて。好きな人の元にいくことを止めることはできなくて。
子供のように泣きじゃくる私を華子様は抱きしめて、よしよしと頭を撫で続けてくれた。
華子様は翌日のお昼に眠るようにして息を引き取った。
部屋は綺麗に整えられ、友人たちへの手紙も用意されていたらしい。家族には午前中に連絡し、会っていたのだという。余りに綺麗な逝き方だったと、皆がうらやむような最期だったと、後から氷川くんに聞いた。
お葬式には私も参列した。氷川くんから直接連絡が入り、別れを告げて欲しいと言われたのだ。棺桶の中に眠る華子様は、薄化粧をしてとても綺麗だった。敷き詰められていたのは、白い胡蝶蘭でそれも華子様らしかった。
式場にはたくさんの花輪が寄せられていて、中でも蝶子様と水谷千代子の花輪はとても大きかった。水谷千代子を筆頭に各界の著名人も参列していて、華子様の人脈の広さと影響力を初めて知った。今更ながら凄い人だったのだ。
もちろん蝶子様も詩歌ちゃんも参列していた。蝶子様は親友の死に取り乱すこともなく、とても美しかった。
氷川くんも親族席で毅然として振る舞っている。本来ならそうあるべきなのだろう。
だけど私は泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。
前世でも死ぬほど泣いたのに、今回はそれ以上に泣いた。
だって、頑張ったのに。華子様が長生きできるようにって、一生懸命頑張ったのに。全部無駄になった。私が何をしても無駄だった。
変えられない運命もあるのだと、神様は非情にも突きつけたのだ。
華子様はいつか亡くなるのだろうとわかっていたから、悔いのないようにとすごしてきたつもりだった。それなのに後悔ばかりが残っている。もっと、もっと、できたことはなかったのだろうか。できたことがあったはずだ。
涙も鼻水も一緒くたになって泣いた。
ハンカチはぐちゃぐちゃで、みっともないほどに泣いた。
ボロボロになってお焼香を終える。すると淡島先輩と葵先輩がやって来た。お父様の淡島病院長と一緒に来ていたようだ。
「姫奈子さん。これ使って」
葵先輩が真っ新なハンカチを差し出してきた。私はそれを受け取り、礼を言う。
「父が言ってたよ。白山さんのおかげで氷川の大奥様のQOLは向上したって」
葬儀の席に似つかわしくない堅苦しい淡島先輩の言葉に、瞬きした。涙がポロリと零れる。
「QOL? ですか?」
意味がわからず問い返す。
「Quality of life。治る見込みのない患者さんはね、病気を治すことよりQOLの向上が大切になってくるんだよ。最期までその人らしく、生ききれるようにってことだね」
「そうですか」
「総合病院にいると、どうしても延命治療を重視になりがちだ。最期は管だらけになって意識もなくて何カ月もベッドに縛り付けられる。それを考えれば大奥様は幸せだったよ」
確かに前世の華子様は、最期にはベッドから起き上がることもできなくなっていた。点滴のチューブと呼吸器をつけて、眠ってばかりいたことを思い出す。
「……」
「白山さんが来るまでは、大奥様は病室すら出なかったんだからね。医者から見ても大往生だったし、病気の進行を考えれば不思議なくらい元気だったみたいだから。最期にコンサートに行けるまでになるなんて、父も思っていなかったらしい」
私がやったことは無駄ではなかったのだろうか。
「私、華子様の役に立ったかしら?」
淡島先輩は静かに頷く。
「あの病院で誰よりも幸せな最期だったと思う。僕が保証しよう。だからそんなに悲しまないでいい」
淡島先輩の言葉に、滂沱のように涙があふれる。それを見て淡島先輩はアタフタと慌てた。
「風雅のバカ」
葵先輩が呆れたように叱り、私の頭を抱きしめた。
慰めに来たはずが、さらに泣かせているのだから葵先輩が呆れるのも仕方がない。
既に夫婦のような二人を見て、私は少しだけ笑えた。
そろそろ出棺の時間だ。
すると氷川くんが小さな包みをもってやって来た。
「姫奈子さん」
泣きすぎてみっともない状態で私は言葉も出なかった。
「祖母から預かった。姫奈子さん宛だ」
氷川くんから差し出された包みを開ければ、真っ白なハンカチが入っていた。ハンカチには白い糸で胡蝶蘭と花文字のHが刺繍されていた。つけられたメッセージカードには華子様の字が墨でクッキリと。
―― ひーちゃんを大切にしてちょうだい ――
「……!!」
自分を大切にしていいのだ。自分の気持ちを優先することは、我儘でいけないことだと思っていた。でも、最期に華子様が教えてくれた。自分を押し殺すことで、悲しむ人は自分以外にもいるのだと。
唇を噛み、涙を拭って顔をあげる。精一杯の笑顔を作る。華子様や蝶子様には及ばないけれど、それでもできるだけ素敵な淑女になりたい。
「氷川くん。ありがとう。華子様に会わせてくれて本当にありがとうございました」
私はありったけの感謝を込めて、氷川くんに頭を下げた。
長い長いクラクションが鳴り響く。参列者が一斉に頭を下げる。黒塗りの車は静かに、ゆっくりと、私たちの華子様を旦那様の元へと連れていってしまった。







