132.スケート教室 2
休憩を終えてスケートリンクに戻る。綱は容赦なく氷の真ん中へ私を引っ張って行った。
「ちょっと、掴むところがないわ!」
さっきまでは、壁際だったから転びそうになれば頼れる場所もあったけれど、今度はそれがない。
「大丈夫です。私がいます」
綱はニッコリ笑う。しかし、優しいやつではない。すでにスパルタなやつだ。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「いいですか? 片手を離しますよ?」
「い、いやっ! だめっ! あ、ちょっと、ぎゃあっ、待っ、つなぁぁぁ!!」
思わず絶叫する。みんなが振り返るのがわかるけれど、私はそれどころではない。綱に離されまいと、ギュッとつないだ手に力を込めて必死に縋る。
「姫奈、声が大きい」
「だって、こわいわ、だって怖いんだもの。ゆっくり、ゆっくり、……ねぇ、おねがい。もっと、ゆっくり、ね?」
注意されて慌てて声を落とし、上目遣いで懇願した。綱は耳まで赤くなっている。大きな声で注目を集めたのがよっぽど恥ずかしかったのだろう。
綱は困ったように眉を寄せ、大きく深呼吸をした。
「……わかりました。では、まず両手のまま。でも、手は掴まないで。私がつかみます」
「掴まない?」
「そう、置くだけ、指を開いて」
綱の両手に手を置けば、下から綱が指先をグッとつかんだ。安心で肩から力が抜ける。
「こうやって掴んでいますから安心してください」
「……うん」
「それで、そう、さっきみたいに力を抜いて。私が引っ張っていきます」
「……離さないでね?」
「離しませんよ」
綱は笑った。そうやって引っ張られてリンクの中をまわる。休憩前よりずっと楽しくて、夢中になる。気がつけば綱の手は片手しかつながっていなかった。そのことに気が付いて、私の胸は高鳴った。
「ねぇ! つな! 片手離せたわ!」
「ええ」
「私凄いわ!」
「ええ。凄いです」
その瞬間、綱は繋がっている私の左手に力を込めて、グンと私を引っ張り手を離した。
「ぎゃぁ!!」
両手を離された格好になる。勢いのおかげで勝手に滑っていくが、スピードが落ちてよろめいた。そこを綱が絶妙なタイミングで左手を取り支える。
「もう! 離さないって言ったのに!!」
「でも、一人で滑れましたよ」
綱に言われて、ハッとする。確かに一メートルくらいだけれど、手を離れて一人で滑れた。
「私、スゴイ?」
「ええ、とても」
綱は嬉しそうに笑って、もう一度私を引っ張り出した。今度は先ほどよりスピードがある。
「綱、もっと、ゆっくり!」
綱は黙って笑っている。
「はやい、ねぇ、早いわ」
抗議した瞬間に、さっきの様に左手を離された。スピードがある分だけ長く氷上を滑る。面白い。
「姫奈、氷を蹴って!」
綱に言われた通り、氷を蹴れば自分の力で前に進む。一歩、二歩、よろめいたところを綱が来てささえてくれた。
「ほら、姫奈にもできました」
「私にもできた! 一人でできた!」
「頑張れば姫奈は何でもできます」
「綱、大好き!! すっごく楽しい! お願い。もう一度!!」
綱の手を両手で引っ張って強請れば、綱は顔を真っ赤にして口元を抑えた。
「姫奈……少しは周りを見て」
言われて周りを見てみれば、あまりに大声で騒いだからか、注目を浴びてしまっていた。氷川くんはギョッとした顔で、八坂くんはムッとした顔で、一条くんと二階堂くんはニヤニヤした顔で私たちを見ている。
「もうあまりそう言うことは、男性に向かって言わない方がよいかと……」
「そういうことって?」
「……『大好き』だとか……。誤解します」
「誤解? なにを? 間違ってないわ」
きっぱりと答えれば、綱は苦笑いと共に、長ーいため息をついた。
「恋愛感情があるのだと、期待します」
「っは!?」
恋愛感情? 私が綱に? 誤解するって誰が? だから一条くんと二階堂くんがあんな顔で見たの?
期待するって……綱が? 私が綱を好きだって……期待、する? 期待??
そう思ったら、急に胸が早鐘を打ち始める。バクバクとして身体から飛び出してしまいそうだ。
さっき、自分自身でそう言った。『大好き』だと、当たり前のようにそう言った。そうだ、ずっと、そう思っていたんだ。そう口にもしてきた。だってそう思うから。思ったままに口にして。
でも、……嘘だ。なんで、綱なんか。だって、今更。嘘でしょう?
小さい頃から一緒で、いつも怒ってばっかりで。全然私のことなんか大切にしてくれないし、それどころか意地悪ばっかり。絶対可愛いだなんて言ってくれない。光毅さまみたいに大人でもなくて、全然理想と違うのに。
それなのに、なんで。
身体が楽器になったみたいに、気持ちが胸の中で反響しあって、大きくなって膨らんで、今にもあふれ出しそうだ。この気持ちが恋だというの?
「そんなわけないじゃない!」
認めたくなくてとっさに否定する。
「わかっていますよ。ただの注意です。私以外に言えば誤解されるという意味です」
綱が呆れたようにため息をついた。その顔を見てキリリと胸の奥がきしむ。
ちがう。そうじゃない。そんなふうに言われてしまうのは悲しい。やっぱり、私は。
慌てて綱から離れようとすれば、慣れない足もとでバランスを崩す。転びそうになれば、綱がギュッと私を抱きすくめる。
思った以上の力強さと、広くたくましくなった胸に、カッと顔が火照るのがわかる。
「ほら、危ない」
耳元で囁かれる低い声に、内耳がウットリと震える。そこから、脳内に共鳴して身体が小さく波打った。このままもう少し、そう思ってしまう。初めての感覚に驚いて俯くと、綱が不思議そうにのぞき込んでくる。
「姫奈?」
その声にもう一度耳の奥から胸まで震えて、その意味を正確に理解してしまい、さらに深く俯いた。なぜだか無性に恥ずかしい。熱くなってしまった顔を見られたくない。このことを気が付かれたくない。知られたくない。
「どこか捻りましたか?」
綱の言葉にただ頷く。どこも痛くはないけれど。でも、ここにはいられない。このままなんて無理だ。
「……リンクから出ましょう」
心配そうな声に、嘘をついたことが痛かった。だけど、私の背を押す綱にすべてを任せてしまう。ずるいと自分でわかっていても。
リンクから上がってベンチに腰掛ければ、綱は私の靴ひもを解いてくれた。私はただただされるがままだ。だって、もう、何も考えられない。綱の声が胸の中で反響して、どんどんどんどん大きくなって、一杯になってしまう。
震える唇を両手で隠して、気が付かれないようにと願う。
誰にも見られたくない。
絶対に変な顔をしている。
だって、わたし。
綱が好き、なのだ。きっと。前みたいな意味じゃなくて。子供みたいな理由じゃなくて。
突然、巻き起こった自覚が、私の中に嵐を巻き起こした。
だけど、気が付いてしまったら、知られるのが怖くなった。
だって、綱は、きっと、私なんか好きじゃない。小さいころから一緒だから。私が白山家のお嬢様だから。お父様が私と一緒に中等部へ通わせろと生駒に命じたから、仕方がなくここにいる。自分の意志でここにいるわけではないのだ。
だからイヤイヤ付き合っているだけで、だから、あんなに厳しくて。意地悪で。
「姫奈?」
今も心配そうな声。申し訳ないと思う反面、仕方がなくでも心配してもらえることが嬉しい。そんな自分が嫌で、恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
「靴を持ってきます。ここで待っていてください。動かないでくださいね?」
コクリと頷けば、綱は私の頭を撫でてから荷物を取りに行った。
「うそつき」
ボソリと囁かれた声に顔をあげれば、そこには桝さんがいて――。
断罪するかのように私を睨んだ。
「……あ……」
言い訳しようと声をあげれば、桝さんはそのまま背を向けた。その背中はいつものオドオドしたものではなく、明確な嫌悪感で私を拒絶する。
桝さんは気が付いた。きっと、私の嘘に気が付いたのだ。
嘘をついて綱に心配をかける私を、軽蔑したに違いない。
綱に言うのかな。
そう思ったら泣きたくなった。悪いのは自分だけれど、綱に嘘つきだと思われたくない。それを桝さんから告げられたくない。
……神様の……いじわる……。
神様はいつだって私に厳しい。忘れていたわけじゃなかった。でも、さっきまでは本当に幸せだったから、神様に恨み言の一つも言いたくなる。
「ひな? 靴は履けそうですか?」
戻って来た綱が心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は一生懸命、息を吸い込む。
だって、自分で言わなくちゃ。後からバレた嘘で、自分の知らないところで軽蔑されるなんて嫌だ。桝さんと同じ背中を綱にされたら……想像しただけで胸が苦しい。
「ごめんなさい」
「?」
「嘘なの。どこも痛くないわ」
声が震える。ああ、これも嘘だ。胸が痛い。
「そうですか。なら良かったです」
「怒らないの?」
「怒って欲しいんですか?」
「だって、私、嘘つきだもの。怒られて当然だもの」
「じゃあ、怒ります。私に嘘をついたらダメですよ」
綱はそう笑うと、私の頭をポンと叩いた。
それがあんまり優しくて、声を出したら泣き出しそうで、私は黙って頷いた。
でも、胸が痛いのは秘密のままにしなければ。きっとみんなを困らせるから。そんなことはわかってるから。
生駒に知られたら、今度こそ綱を連れて家から出て行ってしまうだろう。彰仁に知られたら、絶対許さないっていう。お父様は……なんて言うのだろう。想像もできなくて怖い。今まで怒られたことはなかったが、さすがに怒るだろうか。
そして、綱。
私は綱を困らせる。お父様に言われて、私のせいで芙蓉を受験させられた綱。
綱は拒絶こそしないかもしれないが、きっと持て余すと思う。それとも嫌だとはっきり言うのだろうか。そう言って学校をやめ、自ら家を出ていくかもしれない。
そうなったら嫌だ。そうなったら悲しい。
お母様は私が綱と一緒にいたら綱を不幸にすると言った。
絶対にこの気持ちは誰にも知られてはいけないんだ。
気がついた瞬間に、諦めるしかないとわかってしまった恋は、心を酷く凍えさせる。それでも、それは氷のようにキラキラと光り輝いて胸に満ちて広がってゆく。凍みていく痛みさえもが嬉しくて、まだ大切にしたいのだ。
好き。綱が好き。
せめて自分で手放すまでは奪われないように。そう願って、胸の奥の宝箱にきつく閉じ込めた。







