13.生駒綱守
自室に戻り、勉強を始めるべく机に教科書を広げた。
こぢんまりとした離れの和室は、先代が使っていたものらしい。離れの庭には日本庭園も造られていて、そこにはお稲荷様も鎮座している。先代が田舎の本宅から遷座したと聞く。小さな石のお宮に、お嬢様は朝夕詣でる。
わがままで気まぐれなお嬢様にしては意外に思える習慣で、自室の窓からそれを見るのはいつも清々しいと思っていた。
私は、鉛筆を回しながら今日のでき事を思い返して、ふと頬が緩む。
そう言えば今日のことも意外だった。
私の芙蓉会への入会祝いに、白山家でお祝いを開いてくれたのだ。
いそいそとした姫奈子お嬢様に手を引かれて、ダイニングルームに入れば、唐揚げが大皿に盛りつけられていた。
形が歪だったり、焦げていたりと手づくり感がいっぱいの唐揚げはお嬢様のお手製だ。
テーブルには珍しく旦那様と父もそろっている。
「綱守の芙蓉会を祝して乾杯!」
旦那様の声が響いて、ガラスの透き通るような音が響いた。
「綱守頑張ったな」
父から声がかかる。
こんな風に祝ってもらえると思っていなかったから、嬉しくておもわず口元が緩んだ。
芙蓉学院の学費は高い。旦那様が心配するなとは言ってくれたけれど、そんなわけにはいかなかった。それに白山家と並んでいてもおかしくない理由も欲しかった。だから私は今までにないくらいに頑張った。
その結果、特待生の枠を勝ち取ったのだけれど、予想していなかったことが起きた。
私は芙蓉会のメンバーに選ばれたが、お嬢様は選ばれなかったのだ。
そのことを知ったとき、喜びより先に隠さなくてはいけないと思った。弟の彰仁さまも芙蓉会のメンバーなのに、この屋敷の中でお嬢様だけがメンバーから外れることになったのだ。
きっと、傷つく。
そう思った。
父も同じ意見だった。だから、白山家にはあえて話さないと決めたのだ。
しかし、そう思った当のお嬢様がこんな会を提案してくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言えば、奥様も彰仁さまもにっこりと笑った。
私が姫奈子お嬢様に出会ったのは、六歳の秋だった。
母が入院することになり、父が介護と子育てを両立するために、白山家の執事を辞するため、挨拶にやって来た日のことだった。
初めて入る大きなお屋敷。応接に通され挨拶を一通りしたあと、積もる話があったのだろう。家の主人に父は呼び止められ、私は庭で待つように言われた。
芝生が青々とした洋風の庭には木製ブランコがあり、私はそれを漕ぎながら父を待った。
母の入院が長引くだろうと、父の様子から察せられた。ゆくゆくは、小学校を転校し父方の祖父の家に厄介になるのだと聞かされていた。父方の祖父の家は、今まで数えるほどしか行っていない。ほとんど知らない人だ。
不安が押し寄せてくるザワツク心を振りきるように、ブランコを必死にこいだ。
気がつけば、茶色の髪の女の子がこちらを見ていた。有名な女学園のワンピース。きっとこの家のお嬢様だ。
グレーの瞳と目が合う。
「あなた、だれ?」
「生駒綱守」
「ふうん? 生駒の子供?」
「はい」
思わず丁寧語になった。そうさせる雰囲気があった。
「ブランコいいかしら?」
「はい」
自分の欲しいものは躊躇いもなく要求できる生粋のお嬢様。
私はブランコから降りて譲る。
彼女はそこへ立ち乗りした。
「こいで!」
「はい」
「もっとこいで!」
人に命ずるのに何のためらいもない。我儘に甘やかされてきた、そんな女の子だ。嫌だな、ムカツクな、そう思うのに言うことを聞いてしまう。
もっともっととせがまれて、だんだん息が上がってくる。ムカつく気持ちに任せるまま、わざと激しく背中を押す。
激しく揺れるブランコに、キャーキャーと声をあげる女の子。
こっちは八つ当たりの様に強く背中を押しているのに、女の子はそんなことを微塵も疑いもせずに素直に笑い声を上げるから、私もつられるように笑いが漏れた。
なんで初めて会った人間をこんなに信じられるんだろう。
スカートが空に、芝生に翻ってとても綺麗だ。空の青と大地の緑、そして制服のグレーに、スリップの白とそこから伸びる素足の肌色。
眩しい。
「綱守!」
父の嗜める声が庭に響いて、我に帰る。青くなった父の顔。空に舞い上がる茶色の髪。グレーの瞳が青空を巻き込む。
私は慌ててブランコのチェーンを掴んで、徐々にスピードを緩める。
それすらも、女の子はケラケラと天真爛漫に歓声をあげる。
やっとのことでブランコが止まり、彼女は私の父と、この家の主人を見た。
「お父様!」
彼女はブランコから飛び降りて、まっすぐに駆け寄っていく。
「一緒に遊んでいたのよ!」
私は漕がされていただけだ。
「生駒、家を辞めてしまうんでしょ? だったら、この子、私にちょうだい。この子が欲しいわ」
そう彼女は屈託なく言った。まるで、花いちもんめみたいに言った。何でも欲しいものは手に入ると思っているみたいだった。
そんなわけないのに。
そう思う反面、私の心は浮ついた。父の足手まといになっている自分を欲しがってくれる人がいる。
この家の主人は驚いて、目を見開いた。そして暫し考えた。
「どうだ生駒、子供と一緒にこの屋敷に住まないか」
その言葉に父が動揺する。いつも冷静な父がはじめてみせた顔。
「旦那様!」
「仕事が続けられない理由が家に帰れないことなら、ここに子供をおけば良い。姫奈子とも同じ歳だし、ここからなら小学校も近いだろう。ばあやもいる。うちの子と一緒に飯ぐらい食わせてやる」
「そんなわけには!」
「お前の代わりを探すのは大変だからな。そうしてくれれば私は助かる。姫奈子も、この子が気に入ったようだし」
「しかし!」
旦那様は女の子の前に屈んだ。
「姫奈子、綱守をお前にくれてやるわけにはいかないが、一緒に住むことならできるかもしれない。それでいいか?」
女の子はムッツリと膨れた。
「仕方がありません、それで我慢しますわ」
「だそうだ、生駒。先代の使っていた離れが空いている。そこを使え。住み込みの執事など珍しくないだろう」
「しかし、旦那様、私には子供がおります」
「お前だって若い時分は先代の書生として、昔の屋敷に住んでいただろう。気にするな」
父は私に向き直った。伺うような顔だ。困っているような、それでいて嬉しそうな、恥じ入るようでもあり、期待するようでもあった。
「綱守、お前はそれでいいかい? おじいちゃんの家でなく、この家に住むことになってもいいかい?」
あまり行ったことのない父方の祖父の家とここでは、私にとっては何のかわりもなかった。小学校を転校しなくていい分、こちらの方がいいくらいだ。
「はい」
私の答えを聞いて、父は泣きそうな顔をして頭を下げた。
「ありがとうございます。旦那様、お嬢様」
震える声だった。
この仕事を父が大切にしていたのは私も知っていた。忙しくてなかなか会えないのに、帰ってきたときは白山家の話ばかりした。
だからきっと辞めずにすんで、嬉しかったのではないだろうか。
私も黙って頭を下げた。父から仕事を奪う存在にならなくて済んだ。そのことに救われた。
それから、私は白山家に居候することになった。本邸と渡り廊下で繋がっている小さな平屋が私たちに与えられた。先代のご隠居が住んでいた離れはきれいだった。小さいけれど、キッチンもバスもトイレもあった。
しかし、そこはほとんど使うことはなかった。なぜなら、父は仕事で不在がちだったため、遊びも食事も白山家の本邸でお世話になっていたからだ。
大らかな奥様は笑った。食事は人数が多い方が美味しいわ、子どもは三人いると輪になりやすいのよ、だから遊んでいきなさい、と。
白山家の使用人達も可愛がってくれた。仲間の一人、そんなふうな連帯感だった。程なくして母が亡くなったのだが、その喪失感を埋めてくれたのは白山家での生活だったと思う。
何かと綱綱と私を呼ぶお嬢様と、それについて歩く彰仁さま。泣いたり笑ったり喧嘩したりをフォローして歩く毎日は、大変だけれど寂しくはなかった。
私はいつしか、お嬢様の面倒を見るのは自分だと思うようになっていた。生意気で高慢ちきでわがままなお嬢様にもの申せるのは、他人では私だけだったからだ。
だから、芙蓉学院を受験しないかと父に言われたとき、私は当然のように頷いた。
幼稚園から女子校のお嬢様が、学友もいない共学に進学するのは不安だらけだ。お嬢様が行くなら当然私も行くと思っていた。ただ、相当勉強しなければならないと思った。
私の芙蓉への進学は白山家の意向でもあったらしく、私はお嬢様と一緒に家庭教師と学ぶことになった。
なんと、お嬢様は幼等部、初等部と受験に失敗しており、なんとしても中等部では合格しなければならないらしかった。旦那様のたっての希望と、お嬢様の玉の輿に対する野心がそうさせているらしい。
生意気で我が儘で高慢ちきなお嬢様だが、欲しいものを手に入れるためには努力を惜しまない、そういうところは気持ちが良かった。
だから私はお嬢様の欲しいものが手に入るよう、サポートをして行こうと思ったのだ。
大体にして、あの性格では新しい環境で友達ができるとは思えなかった。
それなのに。
風に乗ってバイオリンの音が響いてくる。お嬢様だ。中等部受験で止めてしまったバイオリンをたまに弾いているのは機嫌がいい証拠だ。しばらくして、もう一つバイオリンの音が重なる。彰仁さまだ。顔を合わせれば喧嘩ばかりなのに、仲が良いことだと思う。
バイオリンの音色に耳を澄ました。
あの浅はかで短慮なお嬢様に付き合いきれるのは私くらいだと思っていたのに、学院内での様子が予想と違ってモヤモヤとしている。
中等部受験を終えて、芙蓉に入学することが決まったことで、お嬢様は少し大人になられたのだろうか。
最近少し変わられた。
今日のこともそうだ。
喜ばしいことなのに、胸の奥が不安で揺れる。
声をかけてくるクラスメイトに、芙蓉会のメンバーに、嫌だなと思う。
お嬢様のことなんか知らないくせに、そう思ってしまう気持ちが良くわからない。
姫奈ちゃんなんて八坂くんが呼ぶから、私はあえて『姫奈』と呼びつけた。怒られるのは覚悟の上だったのに、許されてしまってそのことに動揺する。
エプロンなんか贈らないで欲しい。そんな姿は私だけが知っていればよかった。
先輩面してお嬢様に教える、そんなことすらイライラする。
整理のつかない気持ちに頭を振って、指の間で回していた鉛筆を握り直した。
これ以上考えても仕方がないことだ。
バイオリンを聞きながら、勉強に戻る。
勉強をお嬢様に教えるのはとても楽しい。傲慢なお嬢様の鼻をへし折るのは、いつだって私だけでいい。
教えなさいよ、なんて当然のごとく、命じられるのは私だけでいいのだ。
紙滑る鉛筆の音に、バイオリンの音色が重なる。
白山家の夜が静かに積もっていった。







