128.中等部三年 お正月 2
目が覚めれば身体が重い。目の周りが腫れぼったく、頭がぼんやりとする。ノロノロと起き上がって鏡を見れば酷い顔だ。
時間を見ればお昼過ぎ。
どうして綱は起こさないのよ!
むしゃくしゃとして、ベッドから出れば着替えていなかったことに気がついた。
不思議に思ってそのままリビングへ行けば、彰仁がうんざりした顔で私を見た。
「なによ」
「やっと目が覚めたか。酔っぱらい」
「酔っぱらってなんかないわよ」
ムっとして答えれば、彰仁はため息を吐き出した。
「綱は? 来てないの?」
「姫奈子、ちゃんと謝れよな」
「誰に?」
「綱に」
「なんでよ」
綱に謝ることなんか別にない。
彰仁は驚いたような顔で私を見た。
「覚えてないのか? お前、綱を襲っただろ」
一気に醜態を思い出して顔が真っ赤になる。
「お、お、襲ってなんかないもん! あんなの、昔からそうでしょ!?」
「昔って……、幾つのつもりだよ」
彰仁は呆れたように言った。
「姫奈子がどう思っているかは興味ないけど、お前のせいだからな。生駒の家と家をつなぐ渡り廊下、壊すそうだ。すっごくメイワクだ。お前のせいで、表玄関から一度外に出ないと生駒の家に行けなくなったじゃないか」
「なんで!?」
「だから姫奈子が綱を襲ったからだろ?」
「襲ってないもん!」
「『間違いがあってからでは遅いから』って生駒が頭を下げに来たぞ」
「間違いなんかあるわけないでしょ!」
声を上げる。
「だ・か・ら! どう見えるかは別だろ。軽率なんだよ! 俺たちはもう子供じゃないんだからな」
「……子供じゃない……」
「綱にどれだけ迷惑かけてるかわかってるのか? 少しは綱のこと考えろよ。姫奈子のせいで生駒たちが白山家を去ることになったら、俺は許さないぞ」
彰仁に言われて、ゾッとする。全く持ってその通りだ。優秀な生駒を手放すなんて考えられない。綱が家からいなくなるなんて、今はまだイヤだ。
それなのに私の軽率な行動が、生駒に頭を下げさせたのだ。また同じことを繰り返せば、生駒ならここを出ることを考えるだろう。
私は唇をかみ締め、グッと顔をあげた。
「……謝ってくる……。生駒と、綱に……」
「そうだな。あと、渡り廊下のドアは鍵がかかってる。表から行けよ」
トボトボと綱の家へと向かう。
靴を履き、外へ出る。お正月の凛とした空気が頬をなで、ブルリと体を震わせた。いつものクセで薄着だったかもしれない。こんなに綱の家は遠かっただろうか。
インターフォンを押せば、生駒が出てきて申しわけなさそうに頭を下げた。
「生駒、ごめんなさい」
「いいえ、私どもの不手際です」
「そんなことないわ。私が悪いのよ」
「綱守がついていながら、あのようなこと、あってはならないことでした」
「綱は全然悪くない!」
大きな声を出せば、生駒は困ったような顔をした。
「綱は悪くないわ。綱を叱らないで。本当に、本当に私が悪いの。ケーキを持ち込んだのも私だし、止められたのに食べすぎたのも私なの。全部、全部、私が悪いの。だから叱らないで。お願いよ」
「お嬢様……」
「これからはちゃんと綱の言うことを聞くわ。もうあんな風にふざけたりしないわ。ちゃんと淑女らしく振る舞います。だから、渡り廊下を壊すなんてやめて」
「それは……きけません。本当はお屋敷を出ると申し出たのです。しかし、旦那様がそこまではしなくてもよいとおっしゃって。最低限の妥協です。本来ならもっと早くにこうするべきでした。私どもが旦那様に甘えすぎていたのです」
「そんなことないわ」
「自覚が足りなかったのです。私も、綱守も」
「自覚……」
「綱守を同じように扱ってくださる奥様に甘え、分を超えすぎてしまいました。お許しください。今後は綱守にも身の程をわきまえさせます」
「なによ。なによそれ! 身の程って何? 綱と私の何が違うの!」
「あなたは白山家のご令嬢。綱守は使用人の子供です」
「は? 同じ人間じゃない!」
「生きる場所が違います」
「そんなわけない!」
「お嬢様。あなたは将来、一廉の人物と縁付かれるでしょう。そのときにおかしな噂があってはなりません」
「おかしな噂なんてありえないわ」
「ええ、ええ。私もそう信じております。しかし、もう二人は大人です。年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしているなど、外聞が悪いのです。今後は綱守もお嬢様のお部屋には入らないように言いつけました。お嬢様もこちらへお入れすることはできません」
「そんなの変よ!」
「いいえ、それが普通です。旦那様にもご理解いただきました」
生駒ははっきりと言った。
「お父様も……」
「はい。奥様もご承知です」
もう、これは覆らないのだ。
「……綱は、いる? 綱に謝りたいの」
「謝る必要はございませんよ」
生駒は優しい顔でそう言った。
「私が謝る必要があるの。私が誰に謝罪するかは、生駒が決めることじゃないわ」
キッパリと言えば、生駒は驚いたように目を見開いた。そして、振り向いて家の中の綱を呼んだ。
綱が困った顔で玄関先に出てくる。生駒は綱の後で見守っていた。綱がちらりと生駒を見れば、生駒は厳しい顔で綱を見た。もう私たちを二人っきりにはしない、そういう強い意志を感じる。
私は綱に深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。綱。私が言うことを聞かなかったばっかりに、あなたにすごく迷惑をかけたわ」
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「だって、綱は悪くないのに……。お父様が失礼なことを言わなかった?」
「いいえ。旦那様も奥様もお叱りにはなりませんでした」
「本当に?」
「本当です」
「こんなことになって……ごめんなさいね。大げさなのよ。うちの両親は」
「大げさなどではありませんよ。大人ならこれが普通なんです」
綱は困ったように笑った。きっと現状に納得しているのだ。もしかしたら今までの状況に辟易していたのかもしれない。
距離ができて喜んでいるのかもしれなかった。私だけが寂しがっている。
そう思ってしまったら泣きたくなって、唇をかむ。泣いて困らせたりしてはいけない。
「そう……、いままでも私、迷惑だったかしら?」
「そんなことありませんよ。でも、髪を結いにいけなくなってしまいました。申しわけございません」
綱はそういって深く頭を下げた。
「そんな、それは、いいのよ」
「一人でできますか?」
「がんばるわ」
「もし無理なら――」
「綱守! それはお前の仕事ではないよ」
生駒の厳しい声に、二人でハッとする。
「失礼しました。お嬢様」
綱がもう一度深く頭を下げる。黒蜜のような髪が、音を立てて綱の瞳を隠した。
綱の『お嬢様』に心が鈍く痛む。グッとこぶしを握り締めた。
夜はお母様に呼び出された。昨日の不手際を怒られる。
「姫奈子、あなたが綱守くんを信頼しているのはわかっているのよ。兄のように慕っているのもね」
お母様の声がチクチクと胸を刺す。べつに兄だなんて思ってない。
「でもね、ずっと一緒にはいられないのよ」
「綱だって成人すれば独り立ちすることくらいわかってるわ。でも、ゆくゆくは執事として戻ってくるんでしょ?」
「ええそうね。でも、そうじゃないのよ。あなたは他家に嫁ぐの。そこの執事とその家を盛り立てるのよ。そこの執事は綱守くんじゃないわ。綱守くんが戻ってきてくれたとしても、その時は彰仁の執事になるのよ」
ガツンと殴られたような気がした。
白山家さえ没落しなければ、綱は私の執事になるのだと勝手に思っていた。前世からずっとだ。
でも違ったのだ。
「だから、彼を自分の執事のように思ってはいけないの」
言われて戸惑う。執事だと思っているわけじゃない。執事にしようと強制してるわけじゃない。綱の夢があるならば、それを優先して当たり前だと思う。
でも、没落さえしなければ、自分の未来に綱がいるのは当然だと思っていた。
「……執事だなんて……思ってないわ」
絞りだす。
でも、だとしたら。私は綱を何だと思っているのだろう。兄でもない、執事でもない、それなのにずっと一緒にいると思っていた。
「ええ、それならそれも問題よ。あなたわかっていないでしょう」
ピシャリ、お母さまは言い切った。
「だから、そろそろ、あるべき距離をとりましょうね? 子供じゃないのだから。あなた達は血がつながってないのだから、もう兄弟のようにはしていられないの。そうしないと綱守くんに迷惑がかかるわ」
「綱に?」
「ええ。綱守くんは芙蓉会であり執行部でしょう? 彼を、と望まれるご令嬢もいるでしょう」
胸を殴られたような衝撃で息が止まる。
「……誰か、そう言って?」
お母様はにっこりと微笑むだけで明言はしなかった。でも、そうなのだ。綱をパートナーに望む人がいるのだ。
「あの子はちゃんとした子よ。白山家からも太鼓判を押せるわ。格式の高いお家に望まれても、やっていける子なのよ。白山家の執事ではなく、もっと大きな世界を望むことができる。綱守くんに泥を塗ってはいけないわ。あの子のチャンスを私たちが奪ってはいけないの。綱守くんが望むなら、どんなバックアップもするとお父様も言っているわ」
お母様は私の目を覗き込んで言った。
「わかるわね? 姫奈子。あの子はあなたのお人形じゃないのよ。彼には彼の人生があるの。そのためにあなたには大人としての分別を持ってほしいのよ」
人形だなんて思ったことなんかない。分別を持つってどういうこと? なんで綱と仲良くしちゃいけないの? どうして急に駄目だっていうの? 昨日までは良かったのに。どうして急に大人だなんて言うの?
「聞き分けて頂戴。あなたが綱守くんを不幸にしたら駄目でしょう?」
私が綱を不幸にする……。言葉にされて吐き出しそうだ。そんなつもりは全然ない。綱には誰よりも幸せであってほしい。
「ねぇ、姫奈子ちゃん、わかるわね?」
お母様が私に「ちゃん」をつける時、それは同意を確認するようであって、実際は命令でしかない。
私は、静かに頷いた。もう何も考えたくなかった。
そうして綱と私は、お互いの部屋への出入りが禁止された。さらに、二人だけで出かけるのは基本禁止。家の車を使う分にはよいのだが、電車などを使って二人きりで出掛けることはできなくなってしまった。例外は学校行事などだけだ。もう、あのチーズのお店にも、プラネタリウムにも電車では行けない。
しかし、それだけで食事は以前の通り一緒だし、勉強だって白山家のリビングであれば一緒にしていても許された。
綱も生駒も態度は変わりない。まるで何もなかったみたいだ。私だけがガッカリしている。
そのことに落ち込みながらも、生駒が我が家から出ていかなかったことに安堵する。最悪な結果にならなかったことだけでも、感謝しなくてはいけない。
今後は行動に気を付けろと、彰仁に釘を刺された。何がいけないのかと問えば、たとえば手を繋ぐなだとか、真っ赤な顔で怒られた。その剣幕に、私はただただ頷いた。







