109.氷川和親
白山姫奈子を初めて見たのは、小六の三月。初めて自分で主催するひな祭りのパーティーだった。
中等部へ進級するにあたって、社交の練習でもある会を氷川家で主催する。そういう催しで、親の厳選した良家の子どもたちが集められた。基本は初等部からの芙蓉会メンバーとそのOBや兄弟だ。
その中に唯一、芙蓉会でもない上に外部生の白山姫奈子がいた。白山家は最近芙蓉グループの傘下に入ったばかりの企業だ。少し強引と思えるほどのやり手な食品関連会社と聞いている。彼女はそこのご令嬢だと聞いた。
だからきっと、氷川との絆を強めるために入って来たのだとか、いやいや晏司のファンなのだろうだとか、口さがない大人たちが話していた。なにせ、芙蓉学院と並び立つ、桜庭女学園からの受験だったからだ。普通ならする必要のない受験だと思われた。
前評判からの想像どおり、勝気そうな釣り目の少女はピンクや水色のドレスの中で唯一の黄色。初見で目立つその手腕に、親と同様やり手なのだと思った。
しかし、もっと強いアピールをするかと思えば、驚くほどに控えめで余りに肩透かしだった。
だからなのだろうか。幼馴染の晏司が、珍しくちょっかいを出すから、思わず俺も目で追った。折角のパーティーへ来て目立たないように逃げ回る様は、逆に少しおかしくて声をかけてみたくなった。
ただ、ちょっと珍しい子。晏司も浅間さんも興味を持ったみたいだから、俺だけ知らないのは少ししゃく、その程度だった。
それなのに。同じクラスになってみたら白山さんの有能さがわかった。何事においても真面目に取り組む。かといって、それをひけらかすわけでもない。感情を隠しきれずにコロコロと変わる表情は、気さくで親しみやすく、令嬢らしくない。男女分け隔てなく接し、誰かに媚びることもなく、否は否と言う。裏表のない物言いは安心できた。
俺にはそれが新鮮だった。俺自身も、好き嫌いをあからさまにすることは美しくないと躾けられてきたし、俺の周りの人間もそうだったからだ。
好意は控えめに。悪意はオブラートに包んで。
影響力を持つ人間が好きだと言えばそれが正義になってしまったり、嫌いだといった物が店から排除されてしまうのだ。だから、誰からみても公平に見えるよう気を付けてきた。
当然ながら俺の周りを囲む世界は裏と表が乖離して、それを読み違えてはいけなかった。
しかし彼女は、好きなものは全身で好きだと表現し、嫌なことは声を荒げて抗議する。裏表のないシンプルさは下品だと評するものも多かったが、俺には好感がもてた。なにより、裏を読まなくて良く、気が楽で信用できた。思わず、非礼とわかっていても、晏司が嫌いか尋ねてしまった。そんな意地悪に近い質問にも誠実に答えようとするのが新鮮だった。晏司にその態度なら、俺にも誠実だろうと思ったのだ。
芙蓉会でもないのに、一生懸命クラスのために働く姿は健気でもあって、そんな彼女がいつしか好ましいと思うようになった。
「ラ・カンパネラ」をリクエストされた時、俺は今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えた。
俺は今まで無茶なお願いをされたことがなかったからだ。
今までの知人は、なにか俺に求めることがあっても、できるとわかっている範囲のことを、控えめにできるか尋ねるくらいのものだった。
それなのに彼女ときたら、俺のピアノ歴を尋ねもせずに、大人でも難関の「ラ・カンパネラ」をリクエストした。俺に恥をかかせるかもとか、そういった忖度は一切ない。その上それを当然できるだろうと、信じているような瞳で強請るのだから。
俺は、そうやって強請られるのも初めてだったんだ。我儘を言われたことなんかなかったんだ。根拠なく信じられたことなどなかったんだ。
彼女は俺に初めてを与える。
だからその期待にこたえようと思った。
難しいピアノ曲を当然のように要求する姿も魅力的に思えたし、そんな彼女と過ごす時間は心地良く、当たり前のように思ったのだ。同じように感じていると。
だから。恋人のふりをして欲しいなどと、バカなことを言った。
それを聞いた彼女は烈火のごとく怒った。
こんな風に感情をぶつけられたのは、生まれて初めてで驚いた。
そうやって怒られるまで、俺はそれがどんなに無礼なことなのか気が付かなかったのだ。
氷川の名を使って何かを頼むこと。それが相手を傷つけるなんて思いもしなかった。今までは誰もが「喜んで」と答えた。少なくとも、嫌な顔などされたことはなかった。まして、怒られるだなんて。
大事な気持ちを自覚もせずに一足飛びで口走った願いは、けして馬鹿にしたものではなかったが、彼女を深く傷つけた。
そして彼女は、言いにくかったであろう否を、はっきりと俺に突きつけた。
それまで俺は甘えていたのだ。傲慢にも断られると思わなかった。実際、自分の望みを断られた経験もなかったのだ。
だから、今になれば失礼だったと思う望みを厚顔無恥に要求できたのだ。
断られてショックを受け、謝ろうと逡巡し、できずにいれば彼女から謝罪され、後はあの合唱コンクールだ。
逆境を跳ねのける勇気に、追いつめられた中で晏司に見せた優しさに、俺ができることをしなければと思った。そうやって、悪意の中から善意を引きずり出して、味方にしてしまう彼女の力に俺ははっきりと自覚したのだ。
姫奈子さんは特別だ。
結局彼女は、俺の傲慢な願いを妥協しつつも受け入れてくれ、今では俺の祖母の元へ見舞いに行ってくれている。
それだって、期待するではないか。
あんな風に怒りはしたが、俺のことを憎からず思っているからこそ、祖母の元へ行くのだと。
ダメなところを見せても、許されないことを言っても、許してくれる、力を貸してくれるから、俺はやっぱり同じ気持ちでいるのだと、そう思っていたのだ。
選挙を通したレッスンで、姫奈子さんはどんどん魅力的になっていく。人を引き付ける笑顔を、声を手に入れて、人前に立てる力をつけていく。自分で考えて、自分の意見を表明できる、そんな女性になっていた。
姫奈子さん発案の、図書室のカフェスペースの充実化が徐々に進んできたことで芙蓉館へのあたりも少し弱まってきたように思う。芙蓉会への不満が弱まることで、外部生に対する差別も弱まってきているから不思議だ。
晏司もきっと姫奈子さんを特別に思っているだろう。でも駄目だ。晏司は姫奈子さんを傷付ける。
生駒に関しては言うまでもない。確かに有能だが、家の格が違いすぎる。
俺だったら、彼女を守れる。格式だって問題ない。
しかし、ジャックとか言う大学生に、キラキラとした眼差しを向ける姫奈子さんを見て焦った。晏司にすら、簡単になびく様子がなかったから、勝手に安心していたのだ。彼女は簡単に誰かのものになったりしないと、勘違いしていた。
でも、違った。
年上が好きなんだろうか。そういえばクリスマスパーティーでは大人の男性と仲良くしていた。彼女なら、国籍も年齢も格式さえも気にしないのかもしれない。
早く、早く、気持ちを確かめ合わなければいけないと。
だから、執行部の打ち上げを二の次にして、シンガポールの夜景とヘリコプターを用意した。最高の夜を演出する予定だった。
気持ちがせいた俺は、ついて来られない姫奈子さんが躓くまで気が付かないほど余裕がなくて。脱げてしまったサンダルが、晏司からのプレゼントだと知っていたから、邪魔をされたと感じてしまう。近づいて手を差し伸べれば、驚いたように見開かれた灰色の瞳。まるで俺の欲なんか気が付きもしないというように純粋で慄いた。そのくせ、誘うように甘いバニラにバラが香って息を飲む。
善意のつもりで伸ばしたはずなのに、なぜだかやましさを感じて慌てて手を引っ込めた。
ちゃんと言葉で確認すると、そう決心したはずなのにヘリの音は大きくて、ヘッドセットでは会話が筒抜けになる。付き合って欲しいだなんてとても言えない。
だったらと、仕切り直しに勇気を出してラウンジに誘えば、スゲなく断られた上。
『これで安心してうーちゃんとお付き合いできますよ! 良かったですね!』
それで、違う女の子との恋愛を応援されていたことを知らされたのだ。
まったくもって、俺の独り相撲だったわけだ……。恥ずかしい。
俺と浅間さんとの恋愛を誤解した上で、浅間の大奥様と祖母の仲を取り持ってくれるとはありがたいのだけれど、完全に脈がないことがわかった。正直、ショックだ。
だいたい、あの老獪な二人を手なずけるとか、いったいどうなっているのだ。
知れば知るほど知りたくなって、手を伸ばすたびに恥をさらす。
こんなに恥ずかしいことばかり、どうして彼女に見せてしまうのか。
彼女は俺にたくさんの初めてをぶつけてくる。
俺は一人大きく息を吐き出した。
『好きな人には好きだってちゃんと伝えないとダメですよ?』
知っている。わかっている。でも、そんな簡単に言えない。簡単に言ってはいけないと、躾けられてきたのだ。
それに、俺からそれを言った時、彼女は本心で答えてくれるのだろうか。
氷川の名に恐れをなして、頷いてしまわないのだろうか。
だとしたら。悲しすぎやしないだろうか。そう気が付いてしまったら、その言葉は嫌に重くて。
俺だって婚約や結婚など、簡単なことだと思ってたんだ。誰と結婚しても、自分は揺るがないと思っていた。自分さえ完璧であれば、望みは叶うと思っていた。恋愛など何の役にも立たない錯覚だと、バカにすらしていたのだ。
それなのに。
姫奈子さんを知って、自分だけでは望みは叶えられないと気が付いてしまった。
役に立たない感情に振り回される自分が恥ずかしくて、合理的でない自分に嫌気すらさす。
それでもなんだか嬉しいのはなぜだろう。
いつか言えるようになるのだろうか。
好きだと言えるようになりたいと、初めて思った。







