107.シンガポール修学旅行 7
食事後、私は一人で部屋に戻った。恐る恐る封筒を開ける。便箋を開けば、見慣れた文字。角ばって、筆圧が高そうで、生真面目で正確な文字は堂々として大きく、まるで人柄そのものだ。
「……和くん……」
懐かしさのあまり、思わず口にしてハッとする。いけない、いけない、今は氷川くんなのだ。
――エレベーターホールで待ってる。話がしたい――
情緒のかけらもない事務的な内容とフルネームの書かれた便箋。白い余白が眼に刺さる。
チラリと、『果たし状』の文字が頭を掠めた。
……いやいや、無いよね? 氷川くんから『果たし状』ってことはないよね?
用件だけ、かつ、硬質な便箋の文字からは意図が微塵もうかがい知れない。
え、執行部の打ち上げ前に生徒会長からの呼び出しとか、不吉すぎない?
生徒会の一存で粛清されたりしない?
それって『果たし状』よりヤバくない?
いや、だったら、綱が教えてくれるよね?
詩歌ちゃんも、明香ちゃんも教えてくれるよね??
前世の私が叱られてないのに、呼び出されて叱られるような心当たりはない。しかし、他に呼び出される理由もないから、良くない可能性は非常に高い。
無視……は、さらにまずいよね? 素直に従った方がましよね?
……うん、一応失礼のない恰好で行こう。顔を見てヤバそうな雰囲気だったら、先手必勝で謝ろう。それでも許されなかったら、お腹痛いって言ってトイレに逃げよう。そうしよう。
髪を整えなおし、ドレスを一応チェックする。バングルは外しておこう。調子にのってると思われたら嫌だ。サンダルはこのままで良いよね? 蝶々は幸運を運ぶんだっけ?
戦々恐々として、指定のエレベーターホールへと向かった。
ホールでは氷川くんがすでに待っていた。
「来てくれて嬉しい」
珍しい穏やかな笑顔に、思わずよろめく。
背中に花背負ってるの? なんのオプション? いや、ただの花瓶でした。
いや、しっかりしろ、私! 『果たし状』かもしれないんだから油断するな!
「あ、あの、何の御用で?」
オズオズと伺えば、氷川くんは険しい顔をして口を噤んだ。ほんのりと顔が赤らむ。やっぱり怒っているのだろうか?
「失礼なこと、問題なことしてましたか?」
続けて尋ねれば、氷川くんは目を見開いた。
「なんだ、それは」
「だって、『果たし状』だったら困ると思って」
私の答えを聞いて、氷川くんは吹き出した。
「は、果たし状……。そんなわけあるか」
「だって、八坂くんがそう言ったから」
「晏司のヤツ……。そんなことはないから安心しろ」
「良かった」
ホッと一息つけば、ふと疑問が頭に浮かぶ。だったらなんで呼び出されたのだろう。
「ここでは人目があるから、ちょっと付き合ってくれないか?」
確かにチラチラと見られている。私は頷いた。
エレベーターに乗り込み上階へ向かう。他の生徒も乗り合わせたからか、氷川くんはあれから話さない。私は黙って上っていく数字を見つめた。
最上階のプールがある階でみんな降りる。私たちもそこで降りる。
まさかプールに誘われたわけではないだろうと訝しむと、氷川くんは無言で手招きしてスタッフオンリーのドアを開けた。
ハテナで頭が一杯だが、黙ってついて行く。表のホテルとは違ったシンプルな通路。その奥にスタッフ用のエレベーターがあった。
先へ急ぐ氷川くんに、小走りでついていく。前世でもそうだった。振り返らない背中を追いかけて、一生懸命だった。
「あっ!」
履き慣れないサンダルがスポンと脱げて、慌てて取りに戻る。なんでこんなときに。恥ずかしさで耳まで熱い。
「すまない。早かったか」
振り返った氷川くんが謝って、そのことに驚いた。前世ではそんなことなかったのだ。
「こちらこそ、恥ずかしいところをお見せしました」
「気が急いてしまった」
「いいえ」
靴を履き直して顔をあげれば、氷川くんが手を差し伸べてきた。意外すぎて手を取っていいのか戸惑ってしまう。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
答えれば、何事もなかったように氷川くんは手を引っ込めた。
エレベーターにのりこんで、さらに上に向かう。ここが最上階ではなかったのか。一体どこへ向かうのだろう。
エレベーターは直ぐに止まった。ドアが開けば、そこは満天の星。
バタバタと激しい風が吹き付けてる。慌ててスカートと髪を押さえた。
ヘリコプターだ。
氷川くんがなにか言って、ヘリコプターに進む。
多分、呼んでいるのだ。
「ひかわくーん!!!!」
叫んでみても声が届かない。こんなに大きな声で人の名前を叫んだことは初めてだ。
氷川くんは振り返ってなにか叫んだが、その声も私には届かなくて。
仕方がないから、激しい風の中、氷川くんを追いかける。
モーター音とプロペラの音が夜の空気をバラバラにする。何がなんだかわからないけれど、周りにいたスタッフに引き上げられてヘリコプターに乗った。
氷川くんは私が乗り込むと隣に乗り込んできた。私が自然と窓側になる。
ヘリコプターの中も相変わらずうるさい。隣り合っている氷川くんとも、会話がままならない。
「氷川くん!!!! これって!!!!」
声を大きくして尋ねる。
「姫奈子さん!! これを使え!!」
手渡されたのは、ヘッドセットだ。風のせいでメチャクチャになった頭に被る。
「これで聞こえるはずだ」
マイク越しのクリアな音がヘッドセットから響く。
「いったいどうしたんですか?」
「見せたいものがある」
氷川くんが答えると同時に、シートベルトを付けて下さいと、ヘッドセットから指示がでる。当然ながらヘッドセットは機長とも繋がっているのだと改めて気がついた。
あわてて、私はベルトを閉めた。
「それでは、離陸します」
機長らしき声がして、フワリと滑らかに機体が上がった。
音から想像するのとは真逆の柔らかさに、感動を覚える。
眼下に広がるのはシンガポールの夜景だ。目映いばかりのホテル群に、海がぽっかりと黒く口を開けている。一昨日歩いた大きなツリーは虹色に光を放ち、星を掴もうと枝を伸ばす。真っ白なマーライオンは水しぶきがダイヤモンドのように輝いていた。
「凄い!! 綺麗!!」
窓に張り付いて、宝石箱のような世界を覗きこむ。
所々で機長のアナウンスが説明をしてくれる。
大きな円を描く観覧車。テールランプの続く長い橋。ゆっくりと輝く光の帯。夢のような光景に、ただひたすらに目を奪われる。ヘリコプターは緩やかにベイエリアを旋回して行く。
あっという間の一時だった。ヘリポートに戻ってきて、グシャグシャになった髪を二人で笑った。
そして、ハタと気がつく。これはいったいなんなんだろう?
こんな約束してないし、意図が全く読み取れない。この夜景を見せたかったのだろうか? なぜ私に? 何のために?
疑問に思って氷川くんを見れば、彼は怯んだように後退りした。
「ちょっと、思ってたのと違ってたんだ」
何がだろう。
「あんなにうるさいと思わなくてだな」
「乗ったことなかったんですか?」
「ああ、ヘリは初めてだ」
「私もです」
「そうか。どうだった」
「楽しかったです! とっても綺麗で一生忘れません!」
「良かった。では、少しラウンジに行かないか?」
そう言えば話があるといっていたのだ。さっきは夜景に魅せられてスッカリ忘れてしまっていた。
私は髪を押さえた。グチャグチャになってる。これでラウンジに行くのは恥ずかしい。きっとベストのみんなが集まっているのだろう。みっともない恰好で行けば、ぜったい綱からお説教コースである。
「髪が乱れてるの。良かったら、お話しはここでできませんか?」
もうここには二人きりだ。聞いても構わないだろう。
「……やっぱり、失敗だったな」
氷川くんは小さく息をつき、目を反らした。
何か言い出しにくいことなのだろうか。
「華子様のことですか?」
私と氷川くんとの共通の話題などそれくらいしかない。
「華子様?」
氷川くんが驚いた顔で私を見た。
「氷川くんのおばあ様の」
「いや、名前で呼んでいるのか」
「うーちゃんも名前で呼ぶのを許されていますよ?」
「浅間さんが?」
「聞いていなかったんですか? 蝶子様と仲直りしたんです。これで安心してうーちゃんとお付き合いできますよ! 良かったですね!」
氷川くんはそれを聞いて、苦い顔をした。
「俺は浅間さんと付き合うなんて話をしたか?」
言われて驚く。前世の件があったから、そう思い込んで話してしまったが、直接今の氷川くんからそんな話をされていない。
そもそも、恋バナできるほど仲良くもなかった。
「すみません。勝手に勘違いをしていました」
だけど、一年の頃から一緒に学級委員を勤め、イベントの度に芙蓉会として二人が並ぶのは当然の光景だったから、私じゃなくても勘違いをすると思う。
「姫奈子さんにはそういう風に見えていたのか」
「ええ、ごめんなさい」
だって、私は知っているのだ。今はともかく、少なくとも近い未来に、貴方は彼女を好きになる。
「俺は浅間さんと何の関係もない」
「そうですか」
「違う人が」
氷川くんはそう言って唇を噛んだ。
私は不思議に思って、彼を見た。
「……別に好意を持っている人がいるんだ」
恥ずかしそうに呟く姿は、まるで見たことがなくて、こんな少年みたいな顔をこの人もするのだと、ボケッと感慨深く思う。
「ただ、なんというか、しくじったと言うか、伝わってなかったんだと、今解った」
「はぁ……ちゃんと言ったんですか?」
「い、言うって」
「好きだって」
「す、好きだなんていえるかっ! そんな、はしたない!」
「好きな人には好きだってちゃんと伝えないとダメですよ?」
氷川くんのおばあ様のように、いつ会えなくなるかわからないのだ。
「そうか……、でも、まだ心の準備が……だな」
氷川くんが胸の辺りを押さえて、情けない顔をした。こんな顔も初めてで、なんだか優しい気持ちになる。
「意外にヘタレなところがあるんですね」
思わず笑えば、氷川くんはちょっと傷ついた顔をした。慌ててフォローする。
「悪い意味じゃなくて! もっと自信満々な人なのだと思っていたから、親近感がわきました。そういう氷川くんはわりと好きです」
「……だが、こんな情けないところ、君にしか見せないぞ」
氷川くんは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
「恋の相談にならのりますよ。恋人のいない私では頼りないと思いますけど」
そう言えば、氷川くんは困ったように笑った。
「そうだな、もう一度よく練ってから仕切り直すことにする」
なんだか脱力したような顔でそう言われ、私は意味がわからずに曖昧に頷いた。







