五日目 苧環のベビーカー
5月23日 水曜日
一日経てば、光の速さで情報は伝わっていた。
昨晩気付いた時には、かなの携帯電話ひは数え切れない程のメールに電話、SNSの通知が入っていた。 今朝も酷く収まりそうになかったため、電源を切った。
それだけならまだ良かった。
学校に行こうと家を出た時、雑誌記者だと名乗る男がかなに声を掛けてきた。
「美月かおりさんですよね?」
__嘘だ、こんなの…。
「おい」
かなの後ろからした声の主は、彼女の左手を取って、言った。
「誰だよそれ。俺のカノジョはそんな変な名前じゃないけど」
声の主は、その美月かおりを「長谷川ちゃん」と呼ぶ彼だった。
「行くぞ」
携帯電話が使えなくなった。
家の前で男に呼び止められた。
それだけならまだ、良かった。
自分だけが苦しむのなら、幾らでも受けてやる。
…優しい彼に飛び火さえしないのなら。
「お前一人でどうにかできないだろ、絶対」
俺に頼れ。
その言葉がただ苦く、胸の中に溶けていった。
朝日の差し込む病室に、ノックが三回響いた。
看護師の誰かだろうと思って、梶原は「どうぞ」と返した。
「はじめまして、梶原幸男さん」
部屋に入ってきてドアを後ろ手で閉めたスーツ姿の男は、柔らかく微笑んだ。
「尚の父の、日野夕樹です」
洗面所で首元にガーゼを貼っていると、隣にある棚に、昨日貰った名刺を置きっ放しにしていたことに気付いた。
日野夕樹。夕日の夕に、樹木の樹。電話番号は、母のものと最後の数字が違うだけ。一応自分の父親だから、覚えておくことにした。
私のことを尚と名付けたのは父だと、何時だか母が言っていた。だからいつか、尚が望むなら名前を変えてもいい、とも。
それでも変えるつもりはない。例え夕樹が付けた名前であっても、それを誰よりも愛情を込めて呼んでくれたのは、血の繋がらない、たった一人の兄なのだから。
そのとき、彼女の携帯電話が鳴った。
「先生先生せんせえっ!」
朝から大音量の怜の声に、担任の秋山は振り向いた。
「こら怜さん、廊下を走らない、あと煩い!」
「何で尚、来ないんですかっ!」
怜はきっと、長谷川かなの件が関わっていると考えているのだろう、と秋山は考えた。
__それよりも深刻な事情で休んでいると思うんだけど。
「本人が電話で、風邪って連絡してきたよ?」
事実以上のことは言わない。例え親しい友人であっても、家庭の問題をそう易々と話すべきではないのだ。
黙り込んだ怜に「追試の勉強、ちゃんとしときなよ」と伝えて、秋山は職員室へ戻った。
尚の携帯電話の画面に表示された電話番号は、母のとほぼ同じものだった。何も考えずに出ると、電話の向こうの彼は楽しそうな声で言った。
『今、尚さんのお兄さんがいる病院にいるんですよ』
それを聞いた尚は通話を切って、学校に風邪で欠席すると連絡をしてから、家を飛び出した。
ドアを四回ノックしても、向こう側から声は返ってこない。ドアを開けると、中に居たのは梶原一人だった。
「尚」
彼に名前を呼ばれるのは嬉しい筈なのに、今だけは心の底にある不安を助長させるだけだ。
「…あの人は…?」
何時ものようにドアを閉めて、椅子に座った尚の顔に、梶原が手を伸ばした。
その指先が頬に触れる。
「尚、お前は、」
「やめて梶原さん。お願い…」彼女は昨日の様に泣きは、しなかった。
「私、あの人のところへ行きたくない。このままがいい…」
その声は震えていた。今にも消えてしまいそうな声だった。
「もう、私と血が繋がっている人なんて、あの人だけかもしれない…でも私、あの人のこと家族だなんて思えないの」
苦しそうにそう言い切ると、尚は目を閉じ、黙り込んだ。
__もし自分に明日があるのなら。
それは今までに、何度も願ったであろうことだ。何度願ったか数える術など、どこにもないけれど。
記憶だけではない。自分のこの頼りない体さえ、明日明後日、一週間後、一か月後、一年後、どうなっているか分からない。
彼女が居なければ、明日なんて来なくても構わなかった。失いたくないものなんて初めから無ければいいと思えるくらいに、彼女を…唯一の妹を、失いたくなかった。
「尚」
彼女の頬をそっと、撫でた。
「俺は尚のことが何よりも大切だ。実の父親の元へ尚な行きたくないのなら、そうすればいい。俺は尚の意思を尊重する」
でも、
__それは、私が二番目に嫌いな言葉。
俺は明日どうなってもおかしくない身だから
__分かってる。痛いくらい分かってる。
俺の元を離れたとしても、俺は怒らない
__怒らないんじゃなくて、怒れないんでしょ。気づかないんでしょ。
俺の所為で、不幸になって欲しくない
__よくそんなこと言えるよね。もうとっくに不幸だよ。
本当に、ごめん
__それは、私が一番嫌いな言葉。
それでも、一番嫌いな言葉でも、それを口にしてくれなかった「あの人」に比べれば、まだましだと思えた。
「絶対、離れてあげない。そんなこと言われたって、絶対に」
梶原の手の甲を自分の目から零れたであろうものが伝ったのを、視界の端に捉えた。
それでも伝える。今の貴方に伝えられるのは、今だけだから。
「おにいちゃんだけがずっとずっと、私の家族だから…おにいちゃんのことが大好きだから、私、絶対、」
そう、今だけだったのに。
背後でドアの開く音がして、尚は振り返らずに、梶原の目をただじっと見つめていた。
背後に立つ彼は薄く笑って、
「尚」彼女の名前を、ただ優しさだけを込めて、呼んだ。
おにいちゃん。
そう、自分のことを呼んだ。
そんな彼女は、昨日の幼い彼女とちっとも変わらなかった。
「怜ちゃん、尚ちゃんいる?」
「女バレの女神様」が一年の教室なんかに現れるものだから、昼休みに教室でバナナオレを飲んでいた怜は、慌ててそれを机の上に落とした。
「はいっ‼︎」
と部活の癖で口にして、
「いえ違います今日は休みです‼︎」
と早口で訂正を入れた。
さゆりが何の躊躇いもなく教室に入ってくるのだから、怜はまた慌てて床にバナナオレのパックを落としつつ立ち上がり、さゆりの前に立つ。
「さゆり部長どうしたんですか何かあったんですかっ!」
「怜ちゃん、」
聞いたことのない泣きそうな声に、見たことのない泣きそうな顔。「田辺先輩が来た!」と色めき立っていたクラスメート達は、見てはいけないものを見てしまったと思ったのか、友人達との会話に戻っていった。
「さゆりぶちょ、」
「かなちゃんと朝比奈くんが来ないの、尚ちゃんなら何か知ってると思って…昨日、あんなことがあったから、もしかしたら…」
__そんなの、あたしが知りたい…。
怜だってさゆりに問い質したいことがある。尚は昨日早退して何処かへ行ったきり、音信不通なのだ。かなの件と無関係とは思えなかった。
「先生は、何て言ってましたか?」
「知らないって…どっちも、家族に聞いても分からないって…それに、携帯に電話しても、二人とも出ないの…」
怜ちゃん、どうしよう…。
答えが出ないと分かっていて、怜にそう聞くさゆりは、何時もの頼り甲斐のある部長とは丸で別人だった。怜は何も言わず、同じ高さにあるさゆりの肩に腕を回した。
「さゆり部長、気持ちは分かります。あたしだって、不安です。でも」
さゆりは、涙で滲む視界の中で自分の後輩を見た。
「探しに行っちゃ、ダメです。部長まで巻き込まれたら厄介事が増えるだけですから、早まらないでくださいよ」
__怜ちゃんって、こんなに、頼もしい子だったっけ。
さゆりの知る怜は部活一筋で、何時も元気なムードメーカーだ。可愛い後輩で、時々凹んでしまう時があるから__そんな時にはいつも、元気になるまで側にいるの。
零れそうになる涙を、堪えた。後輩の前で泣くわけにはいかなかった。
「厄介事が増える」と怜は言った。突き放すような冷たさを含んだ様にもとれるその言葉を放った怜の目は、優しさと悔しさに満ちていた。
父親の腕の中に居る赤子は、静かに眠っていた。
「尚、君の弟だよ」
__そんなこと、そんなこと言われたって、私は、
「妻はもう子供を産めなくてね。一人っ子じゃ寂しいのは君も分かるだろう?」
__私にはおにいちゃんがいる。日野さんには、おにいちゃんが見えていない。
敬語で話すのを止めた。自分のことを「貴方」ではなく「君」と呼び、自分のことを「尚」と言って…丸で、本当の親子みたいに…。
「弟」から目を逸らし、兄を見る。兄の手を力一杯掴んだ尚の手は、震えていた。
「おにいちゃん、私、は、」
また、涙が一粒、自分の頬を伝う。
その涙を優しく拭った彼は、
「お前もお姉ちゃんだな、尚」
そう言って、微笑んだのだった。