四日目 白百合のネクタイピン
5月22日 火曜日
「星野ちゃん」
その声に思わず足が止まった。
尚は振り返り、階段の下にいる彼に軽く頭を下げ下げた。
「おはようございます、裕斗先輩」
出来る限り何時ものような明るい声を出したつもりだったが、尚よりも感情を読み辛い幼馴染の相手をしている裕斗には、尚の無理矢理作られた笑顔はばれていた。
「うん、おはよう」
「あの、昨日、」
「気にしないで。ごめんね、辛い思いさせちゃって」
「…えっと、いえ、その…」
否定は出来なかった。尚は何と言うべきか、言葉を必死に探した。
「朝比奈くん、尚ちゃん困らせちゃってるわよ」
裕斗の後ろに現れたのは、その感情の読み辛い幼馴染だ。彼女の今の笑顔が作り物かどうかは、裕斗にもあまり分からない。
「尚ちゃん、気にしなくていいのよ?尚ちゃんは好きな人いるんでしょ、こいつみたいに告っちゃいなさいよ」
「え?」
「おいお前、何言って…」
「女はね、ちょっと身勝手な方がいい…ってゆうのはあたしの恩師の言葉だけど。早く彼氏作って裕斗先輩に見せ付けちゃいなさい?」
固まってしまった尚の横を「じゃあね」と言って追い越すかなはやはり絵になる。尚と同じく立ち止まったままの裕斗も、尚を追い越して、言った。
「HR始まるよ、行こ?」
その顔にあるのは、かなと違って無理のある作り笑顔だった。
「長谷川ちゃん、あーゆーのほんとやめて」
「えー、いやよ面白いもの。あっさゆりおはよー!」
「かなちゃん朝比奈くんおはよ〜昨日尚ちゃん写真撮りに来てくれたよ〜」
「そっか尚ちゃん担当だったわね、女バレ」
「…シカトひどい…」
この三人はクラスメートから「美男美女トリオ」と呼ばれ、今この瞬間も「そういう視線」が自分達に集まっていることは、かなしか知らないのである。
「尚ーおっはよーう!どーした浮かない顔してらしくないなー」
「えっ嘘!怜に言われる程私って単純な女だったの⁉︎」
「ひどー!」
一方この二人は「会話に常にエクスクラメーションマークがつく非リアズ」と呼ばれ、それは双方自覚している。
「そーいえばさー!尚知ってるー?」
「いきなり言われても分からないから!何⁉︎」
リュックを下ろして椅子に座った尚の目の前に、怜が雑誌を突きつける。ピントが合わない状態のまま「ほら見てこれ!」と叫ばれても見えない分からない。
「怜近い!やめ、離せ!」
「ほらー分かんないの?かな先輩だよ怜、これね、五十嵐ちゃんが教えてくれたの」
怜から雑誌を奪って、その写真を見た。そこに写っているのはツインテールの少女で、その顔は現在のかなと大分似ているがやはり幼い。左下には「美月かおり(6)」とあるが、それは芸名だろう。
「天才子役美月かおり その素顔に迫る」
彼女の回答は、その肩書きにその肩書きに相応しいしっかりものばかりだった。誰かさんの幼少時代とは大違いだ。
将来の夢はなんですか。
_もっと演技が上手な、立派な女優さんになって、映画やドラマに出たいです。
もうすぐ小学生ですね。学校は楽しみ?
_はい。お母さんがランドセルを買ってくれました。早く学校に行きたいです。
「…流石かな先輩…」
「えっ尚そこ⁉︎てかこれ、知ってる人あんま居なかったんだってー。尚も知らないみたいだし、二年生も知らないってー」
「別に驚かないけどな。かな先輩美人だし、元子役って言われても別に…」
怜が珍しく思い詰めた様な表情をするので、尚はその顔を覗き込んだ。
「もううちのクラスの人達が大分広めちゃってるんだけど、もしかな先輩が知られたくなかったんだとしたらって思うと…」
__確かにそうかもしれない。
そうは思っても、部活の先輩が困ることになっていようと、尚には何も出来ないことは分かっていた。
「ねえ長谷川さん、これってホント?」
差し出されたスマートフォンの画面に映っているのは、幼い頃のかなだ。左下には子役時代の芸名があった。誰かが過去の雑誌を見つけて流出した、という理解でいいだろうか。
スマートフォンの持ち主であるクラスメートの男子に、かなは完璧な笑顔で返した。
「うーん、そうなんだけど…あんまり言わないで欲しいなぁ…」
お願いっ、と手を合わせれば、かなの言うことを聞かない人なんていない。その男子は顔を赤らめつつ、言った。
「う、うん、僕は誰にも言わないけど…」
「けど?」
かなが首を傾げると、その頬はより一層赤みを増した。
「これ、一年生の後輩からLINEで送られてきたからさ、もう一年生の間では広まっちゃってると思う…ほら、長谷川さんって有名だから」
__もう手遅れだ。
「ふふっ、そうかしら?教えてくれてありがとう」
彼は歯切れ悪くどういたしまして、と返した。
やはり男子高校生はちょろい。
「長谷川ちゃん、平気じゃないでしょ?」
「何言ってんのよ、馬鹿じゃないの。あたしがこのくらいで落ち込むとでも思ってるの」
「思うよ。長谷川ちゃんは何時も見栄を張るから」
「…あんたに言われたくないわよ。余計なお世話」
「そうやって突っ撥ねんのいい加減にしろ!」
「煩い、大丈夫だって言ってるでしょうが」
「だったら俺と一緒に弁当食おうなんて言わねえだろお前」
そう言うと、かなは黙り込んだ。
朝の件については、裕斗のところに尚からメールが来た。火元は彼女のクラスメートらしく、本人には悪気はなかった、とあった。
この際火元に悪気があったかどうかなんて問題ではなかった。休み時間の度にSNSによってこの事実は多くの生徒に広まっていることは目に見えていて、二人がこうして部室で弁当を食べている間にもその波は大きくなっているのだろう。
人の目に慣れている筈のかなはそれに負けて、教室から逃げてきた。
「…いつかこうなることは、覚悟してたから」
「だから平気、って訳でもないだろ」
「だったらなによ。あたしが平気じゃないって言えば満足かしら?もういい加減にしてくれない、あんたには関係ないじゃない…」
__可愛くない奴。
小さい頃は泣き虫だったのに芸能界に入ってから急に大人びた振る舞いをし始め、裕斗が気付いた時にはもうその口から本音の一つも出て来なくなっていた。どんなに辛い時も一人でどうにかしようと子供のくせに足掻いて、他人にちっともそれを悟らせない。
そして彼女の冷たく棘のある言葉は、彼女のSOSである…そのことは、裕斗しか知らない。
「ああ、満足だけど」
その声は、何時もより少しだけ尖っていた。
「俺に関係ない訳ねえよ馬鹿が。お前が小さい頃から一緒に居んの誰だと思ってんだ」
裕斗は彼女よりも演技が保てない。直ぐにこうして本音が零れ出てしまう。
でも、そういうところは彼女に見習って欲しい位だった。彼女が演技を止めたことはなかった。例え裕斗の前であっても。
「あんただと思ってるわよ?何かご不満かしら?」
今この時も、例外ではなかった。
弁当箱をバッグに仕舞い立ち上がった彼女の瞳は、冷たかった。
昼休み終了五分前、尚のクラスのドアが開いた。中に入ってきたのは担任の女性の先生だった。
「星野さん、ちょっと来て」
平静を装いきれていないその表情は、尚に何か良くないことがあるのだと悟らせた。
クラスメートの心配そうな視線を感じながら教室を出ると、普段の彼女らしくない声色の「今、職員室に電話が入って」という声が背後からした。
「誰からですか?」
と尚が尋ねると、少し間が空いて返ってきたのは、
「星野さんの父親」。
そう名乗る男の人が、さっき学校に電話をしてきた。
血の繋がった実の父親だと言っていた。
今から学校へ行くから会わせてくれ、と。
それだけ言って切られたから、何も言えなかった。かけ直しても出なかった。
その人が本当に星野さんの父親だということをも、本当に今からここに来るのかも分からない。
だけど一応、星野さんに話しておく。
本当にその男と人が来たら、会うか会わないかは星野さんに決めて欲しい。
__決めて欲しいって馬鹿じゃないの。そんな何処の誰かもわからないおっさんに生徒を会わせるなんて、屑だなあ。
…だけど、言ってくれて良かったと、思った。
「会います…会わせてください。でもその前に、兄に電話をさせてください」
『梶原さん、私の実の父親だと名乗る人とこれから学校で会います。私の本当の父のこと、梶原さんは知っていますか?』
いきなりこれだ。学校から電話が入ったというから尚が何かやらかしたのかと思ったが、その方がまだましだった。
何時になく冷たい彼女の声は事実と質問だけを梶原に伝え、ぴたりと聞こえなくなった。流石の梶原も直ぐに返せずに居ると、『知らないんですか?』と苛立ちを抑えきれていない声がした。
彼女のそんな声を聞いたのは、初めてだった。
「知らない」
『じゃあ、』
「待て、切るな」
『何ですか』
今度ははっきりと伝わってきた彼女の怒りは、自分に向けられたものではないことは分かっていた。それでも心が痛む自分は昔から成長しない。それは分かっている。
その上で、彼女に言った。
「頼む、会わないでくれ」
彼女は何も言わなかった。
「お前は、自分の父親のことなんて分からないだろう。どんな奴かも分からない、そもそも本当の父親かも分からない奴に子供のお前が会うなんて、兄として許せない」
『おにいちゃん、』
許さなくていいです。私のこと。
妹からの電話は、そこで切られた。
「お兄さん、何て言ってた?」
「…別に、何も。いいんです。兄にとっては赤の他人ですから」
私の本当のお父さんだと言う人は、眼鏡をかけて、スーツを着た、ひょろりとした四十歳くらいの男の人でした。
「貴方が星野尚さんですね、初めまして。日野夕樹です。」
自分の娘に頭を下げるのは、一体どんな気分なのでしょう。そして私に名刺を手渡す日野さんは、私のことを一体何だと思っているのでしょう。
応接室の空気が重くて、息がし辛くて、その空間から何度も出たいと思いました。父親のことを気持ち悪いという同級生の女の子の気持ちと、それは同じなのでしょうか。私には分かりません。
「絵美さんはお元気ですか」
それは、私の母のことです。
「三年前に事故で死にました」
それすら知らずに、よく私の通う高校を特定できたものです。
「…そうですか…」
薄い反応に、母への愛は全く感じませんでした。だから離婚したのでしょうけど。驚きと悲しみも感じない日野さんと、そのことに驚きも悲しみもしない自分は、きっと親子だからでしょう、とても似ています。
日野さんは言いました。
「私と一緒に住みませんか。私には、妻と、生まれたばかりの男の子がいます。貴方の弟になりますね。一人じゃ寂しいでしょうし、何より普段の生活が大変でしょう?」
「一人では、ないです」
日野さんはきっと巫山戯ているのです。自分が妻子を捨て、苦労させたことを謝らず、偉そうに一緒に住まわせてやると言うのですから。
「絵美さんの再婚相手の星野壮太さんと、その人の養子の梶原幸男さんが居ます。ですので、」
日野さんは、私の言葉を遮りました。
「でも、男ばかりで寂しいでしょう?きっと家事も尚さんがしている。私の家族になれば、そんなこともなくなります」
ひとのはなしをさいごまできくこと。
それは、梶原さんが幼かった私に教えてくれた、友達と仲良くするための、一番大切なことです。日野さんはそれを破りました。だから、この人にはきっと、仲の良い友達なんて居ないのでしょう。
私は日野さんと仲良くならないことにしました。日野さんはきっと、私と仲良くする気はないのだから。
「寂しくありません。それに家事をすることはそこまで苦ではないです。それに、」
私は、次の言葉を一息で言い切ってやりました。また言葉を遮られたくないからです。
「貴方達と一緒には住めません。貴方は私にとって、十七歳になって初めて出会った赤の他人なんです。例え、実の父親であってもです」
失礼しますと言ってソファから立ち上がり、応接室のドアを大きな音を立てて開け放ってやりました。日野さんが何かを怒鳴っていたけれど、聞こえないふりをしました。聞きたくありませんでした。
5月22日 夕方に、尚が来た。部活は今日はないと聞いていたが、実の父でも父親だと名乗る人が学校に来たからか少し遅く来た。
そのせいだろうか、部屋に入ってきた途端に、小さい子供の様に大声をあげて泣き出した。ずっと「許せない」だか「死ね」だか叫んでいた。尚がここまで何かに怒っているのは初めて見た。
落ち着いてから色々と問い質したが、黙ってしまった。何も教えてくれなかった。
梶原さんは起こらなかった。
私が言うことを聞かず日野さんと話したことを。泣いた理由を言わなかったことを。
梶原さんはやっぱり優しい。昔からそれは変わらない。
だって、記憶が一日しかもたないから。
梶原さんにとっての昨日は、これまでも、これからも、二年前に私がお母さんを消した日の、昨日だから。
おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん。
いつまでも、おにいちゃんだけでも、わたしのみかたでいてね。わたしをだいすきでいてね。
おにいちゃんのことが、だいすき。