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紫陽花の海  作者: 松上遥
3/5

三日目 若葉のアスファルト

5月21日 月曜日




 教室の中は先週よりも煩く、騒がしい。

「マンドリン部は中庭でやるんだっけ?」

「そーだよー吹部が体育館とるからー」

「サッカー部カフェやるってあのメンツでマジ?」

「野球部は地味過ぎんだろフリマってなんだよ」

 文化祭を週末に控えている為か、クラスメートの話題は文化祭一色だ。部活の出し物にクラスのカフェと、仕事は山積みだ。

 勿論尚も例外ではなく、こうしてクラスメートが他愛ない話をしている間も仕事中…つまりは撮影中だ。

 写真部の出し物は毎年「ミニ写真館」(これ以外に何をやれるかそもそも知らない)、テーマは「青春」。文化祭の準備期間の生徒や先生こそ、尚の撮りたいものだった。

 放課後は荷物を部室に預け、カメラを手に校内を駆け回る。端から見ると理解し難いかもしれないが、これが写真部における「部活動」である。


「あっ先輩ー!写真部来ましたーっ!やっほー尚」

 バレー部の怜に話を付けてあるので、最初は女バレ・出し物はお化け屋敷だ。本来部活のない月曜日に集まって、部室で準備しているのを撮らせて貰う。奥に居る部長の田辺さゆりのところに歩み寄り、軽く頭をさげる。試合の様子を撮影しに行ったことがあるので、一応「知り合い」という間柄だ。

「こんにちはさゆり部長、お邪魔します」

「はいどうぞ〜お好きに撮ってってね〜」

 人懐こい笑顔を見せるさゆりは学校中で一、二位を争う程の美人だ。身長は170センチ、加えてモデル体型。試合ではエース兼キャプテンでチームの大黒柱だ。その上勉強も出来性格も完璧な彼女についた渾名は「女バレの女神様」。__ああ今日もお美しい!

 部室の出入り口に戻り、装飾が所々完了している部室全体を一枚。こっそりさゆりのアップを一枚。梶原に見せてやろう、と思った。


 撮った写真を一枚一枚確認していく。女バレ・お化け屋敷、サッカー部・メイドカフェ(目の毒でしかなかった)、生徒会・前夜祭の司会進行、吹奏楽部・体育館にてコンサート。

 尚が撮影に行くべき所は回ったので、部室に戻ってポスターを描いていた。「写真部・部室にてミニ写真館 テーマ・青春」とマジックで書き、先輩の一眼レフをスケッチする。尚は絵を描くのもそこそこ得意なので、ポスター制作は何時も尚の仕事だ。

 尚と長机を挟んで座る一眼レフの持ち主、朝比奈裕斗が、本日何度目かの同じ台詞を口にした。

「あー暇だー…」

「先輩暇じゃないですよね!撮る分撮ったなら現像しちゃってください!さあ動いて!」

 尚もこれを言うのは何度目か(本人達も分かっていない)、である。

 裕斗は高校二年生で、肩書きこそ「写真部部長」だが、部長らしさは全くなく、実質この写真部を仕切っているのは、裕斗の幼馴染で副部長の長谷川かなだ。しかしセンスの良さは天下一品で、コンクールの常連である。

「やだよ面倒だもん…星野ちゃんやってー」

 彼は尚のことを「星野ちゃん」と呼ぶ。そして幼馴染であるかなのことも「長谷川ちゃん」と呼ぶ。尚は初めのうちは余所余所しいのではないかと思っていたが、それが二人の独特の距離感で、他人には理解出来ないのだと片付けた。

「私はポスター作ってるんです!動いて下さい時間無いじゃなですかお願いですから動いて下さいお願いします!」

 下書きした一眼レフをマジックでなぞる。あとは縮小した写真を貼り付ければ完成だ。貼り付ける写真は、かなの撮った青春らしさ溢れる女子高生の後ろ姿(モデル:田辺さゆり)だ。

 少しの間裕斗は黙った。「お、動くか?」と尚は期待したが、事態は斜め上にぶっ飛んだ。

「ねえ、星野ちゃん」

 珍しく真剣な声で、裕斗は続けた。

「俺と付き合う気、ない?」

「…え?」

 尚は手にしていたファイルを床に落とした。


 __どうしよう、聞いちゃダメだよコレ!とりあえず逃げよう退避だ退避っ!

 それは本当に偶然だった。

 写真部副部長、学校中で一、二位をさゆりと争っている(周りにはそう見える)「写真部の女神様」の長谷川かなは、喉が渇いたから部室にオレンジジュースを取りに来ただけだった。それだけだった。

 部室に裕斗と尚が居たのは分かっていた。あの二人は大分仲が良い(本人達はきっと否定する)から、話している内容も他愛ないものの筈だった。少なくともかなはそう思っていた。


 ねえ、星野ちゃん。

 俺と付き合う気、ない?


 その言葉に対する尚の反応は「え?」だった。かなも「は?」とパニックになった。

 二人は仲が良いから、尚はその提案に乗るかもしれない。そのことは別にかなにとって悪いことではないし、寧ろ祝福したいくらいだ。__でも…。

 頭の中が段々と冷えていき、ある程度落ち着きを取り戻した。三階から二階へと階段を下って、その途中にある渡り廊下に出る。其処は渡り廊下の割には広いスペースで、文化祭のクラス発表のダンスの練習場所にもなる。今は珍しく誰も居ない。それをいいことにかなはシャッターを切った。柵に肘をついて、 外部活の練習をぼんやりと眺める。

 朝比奈裕斗が、部活の後輩に告白した。

 そのことを知れば悲しむだろう人物を知っているから、こんなに苦しいのだ。素直になれないのだ。

「これだから恋なんて、って思っちゃうもんだな…」

 他人事なのにさ。

 零れた声は何だか子供っぽくて、でも切なくて、可笑しくなって笑ってしまった。


 ぱたぱたと廊下を走っていく足音が聞こえた。ひょっとしたらそれは部員で、ひょっとしなくても今の裕斗の言葉が聞こえてしまったのだろう。

尚は足元に落ちたファイルを拾い上げ、裕斗の表情を窺う。

 __うっ、

 真剣そのものだった。いつもの彼から想像できないくらいの、真剣な瞳だった。ウケ狙いでも嘘告白と呼ばれるものではない。

 だから苦しい。辛い。この場から逃げてしまいたい…。

 顔に熱が集まっていくのが分かった。

 尚は今まで一度も告白されたことがなかった訳でもない。だがその相手は何時も尚とあまり接点がない人で、断っても日常生活に支障はなかった。寧ろ「じゃあせめて友達になってください」と言われ親しくなった人も居る。

 でも裕斗は違う。断ったらどうなってしまうのだろう?

 尚は何故か落ち着いていた。どうしたら裕斗に問題無く断ることが出来るだろうと、ただそれだけを考えた。付き合うという選択肢はない。尚だって裕斗と同じように、好きな人が居るからだ。

「…ごめん、なさい」

 裕斗の言葉からどれ位の時間が経ったのだろう、やっと尚はそれだけを口にした。歯切れの悪い上小さい声は、裕斗に届いただろうか。そしてもう一度、口を開く。

「好きな人が居て、だから、付き合えません」

 居た堪れない思いで、裕斗の目から視線を逸らした。

「私のこと好きになってくれて、ありがとうございます…これからも、裕斗先輩は、私の先輩で居て下さい…」

 深く頭を下げた。先程描き上げたポスターが目の前にあった。頭を上げようとしたとき、裕斗の溜息が聞こえた。頭を上げると、その頭に手が伸びてきて、撫でられた。優しい手だった。丸で彼のような。

「うん、星野ちゃんの先輩で居るよ。真剣に答えてくれてありがとう」

 気を抜くと本気で惚れてしまいそうな、見たことのない、綺麗な笑顔だった。

 目に涙が溢れて、その笑顔が滲んだ。こんなに自分が涙脆いとは思わなかった。

 __何か言わなきゃ。答えなきゃ。

 気持ちだけが焦って、閉じた口が開いてくれない。丸で自分の体じゃないみたいだった。

「ちょっとジュース買ってくるね」

 裕斗は椅子から立ち上がり、扉の方へ歩いた。上擦った声でどうにか尚が「はい」と言うと同時に、それが閉じられる音がした。

 尚はその音が聞こえると直ぐに、リュックに手を伸ばした。


「長谷川ちゃん」

 かなをそう呼ぶ人は、ただ一人しか居ない。

「…なに、朝比奈くん」

 その声は不自然ではなかっただろうか。平常心を装うことが出来ているだろうか。

 振り返ると、ペットボトルが飛んできた。顔の前まで来たそれを右手で受け止める。それは冷たいオレンジジュースだった。

「取りに来たんでしょ、さっき」

「ありがと。なぁに、負け犬モードなときもイケメンなの?」

 キャップを開けて、一口飲んだ。やっぱり冷たい方が美味しい。

「長谷川ちゃん、そのキャラやめてよ」

「あんたに言われたくないわよ、一番」

「…どっちもどっちな」

 隣で缶が開き、炭酸の抜ける音がした。

 二人は幼馴染という名の腐れ縁だ。互いの本心も知れているし、こうやって自分らしくない振る舞いをしていることもばれている。

「口調が少し崩れてるわよ」

「寧ろ見習って欲しいくらいだな」

「煩いわねえ、あたしだって好きでやってるわけじゃないの」

「俺と話すときくらいはさ、」

「嫌よ、もうあんたにだって本心は見せたくないわ」

 思わず本音を口にしてしまう辺り、現役だった頃よりも演技力が落ちたように思う。

 __もう誰も信じないって、小さい頃に決めたんだから。

「フラれちゃった?」

 先程まで大分動揺していたことはばれていないだろうか。今が精一杯の演技だということも。

「さっき負け犬って言ってたろ、分かってんじゃねーか」

「もちろん。尚ちゃん、一途な子だもの。負け戦よ」

 __ううん、あんたならいけるかなって思って、少し焦った。

「知ってんなら言ってくれてもさ、」

「調子ぶっこいてるあんたが折れるとこ、見てみたかったの」

 まあ、あんまりいいもんじゃないわね。

 それは本音か嘘か掴み損ねて、裕斗は苦笑を返した。

「さっき、メールがきたわ、尚ちゃんから。今日はもう帰るって」

 その画面を見ると、如何にも彼女らしい文面だった。


 かな先輩すみません、今日は用事があるので帰ります。急でごめんなさい。

 自分の担当の部活動の撮影は終わりました。明日見せます。

 ポスターは完成したので確認お願いします。机の上に置いてあります。


 かなは川辺を自転車で走り抜けていく女子生徒を見つけて、シャッターを切った。


 ノックは四回した。

 にもかかわらず何時もの様な偉そうな声が返ってこなかった。部屋の主は不在だ。ならばと尚は遠慮無く入る。

 窓から射し込む傾いた日が、室内の塵を輝かせていた。尚が一歩動くとその小さい光は動いて、また元の気流に帰って行く。

 ベッドに腰を下ろし、傍にある棚の中から一冊の古びたノートを取り出した。それは尚が普段授業中に使っている様なノートではなく、文庫本にも見える、梶原の日記帳だ。開けば小さな文字がびっしりと詰まっていて、読むのには少し苦労する。


12月29日 星野尚という小さな女の子が家に来た。父親の再婚相手の子供だという。人見知りの激しく無愛想な子で、俺と二人になった途端泣き出した。近付くと「来ないで」と叫ばれた。どうしろって言うんだ。


 十年以上前、梶原に出会った日のことだ。尚は確か小学生にもなっていなかった。日記にある様に人見知りが激しく、当時大学生だった梶原は今と変わらず「こわいひと」だった。彼は幼い頃の尚を怖がらせるには十分で、母から「このおにいちゃんと仲良くしてね」なんて言われたときにはもう泣きそうで、部屋に二人にさせられたらもう色々限界だったのを覚えている。自分が泣き出したとき以上に慌てた梶原を、尚は今のところ見たことがない。


12月31日 またあの女の子が家に来た。昨日買っておいた熊の縫い包みが気に入らなかった様で大分ショックだったが、俺の撮った写真はえらく気に入った様で、少しは笑ってくれた。

 そういえばこの子を何て呼ぶか決めていなかった。

 また後で考える。大晦日だが早く寝たいと言って聞かないので、取り敢えず寝かしつけることにする。


1月1日 尚の母親が俺の父親とどっか出掛けた。そういうことか。まあ別に悪いことでもないと思う。でも朝出て夜中になっても帰ってこないのは流石にどうだろうか。

 尚は正月が何かを知らなかった。あけましておめでとう、の意味も、初詣という単語もだ。尚の母親は一体どういう教育をしているのだろうか。俺の母親の方がまだましだった。

 だから初詣をしに近所の神社に連れて行った。知り合いに子持ちなのかと本気で疑われた。面倒だから妹だと答えた。

 屋台を初めて見たようで、チョコバナナだの林檎飴だの綿飴だの、やたらと欲しがった。それも何かと聞いてきた。

 それはまだ可愛い方だった。あいつはお金も、池にいる鯉も、携帯電話も、カラスも何か分かっていなくて、「これなに」とばかり言っていた。ここまで酷いとは思わなかった。あそこまで楽しそうに写真を見ていたのは、その中に映ったもの全てが初めて見るものだったのだろう。ネグレクトを疑ったが、着ている服もちゃんとしたものだし、痩せ過ぎているわけでもない。ただ家の外にあるものに対して無知すぎた。この様子だと保育園にも幼稚園にも行っていないのだろう。

 今年の春小学生になるのに、こんなんで大丈夫なんだろうか。


 尚は溜息をついた。

 それからというもの、尚は毎日梶原に色々なところへ連れて行かれた。公園、図書館、コンビニ、本屋、スーパーマーケット、デパート、遊園地、動物園。文字通り無知だった尚にとってそれは梶原との「おでかけ」はとても楽しく、それまでの人生で一番充実した時間だった。

 尚が小学校に上がる前に、梶原の父と尚の母は結婚した。新しい父はランドセルを買ってくれた。懐かしい話だ。


4月8日 尚の入学式には三人で行った。早速友達が出来ている様で(つまりはちゃんと話せていて)安心した。


 尚の後ろでドアが開いた。

「こんにちは、梶原さん」

 曽て「おにいちゃん」と呼ばれていた部屋の主は「ああ」とだけ返した。

 梶原はベッドに移動する訳でもなく、尚の隣に移動した。

「ベッドに戻るの手伝いましょうか?」

「…いや、いい」

 車椅子の背凭れに体重を預けた彼は、尚の小学校の入学式のときのことなど、きっと覚えていない。

「あの」

「なんだ」

「もし私が誰かと付き合うって言ったら、」

「勝手にしろ」

 何時もと変わらない様子で何よりだ。

「私の先輩に、面白い人が居るんです。その人は何時もだるそうにしてるんですけど、写真撮るのはとても上手で、」

「そいつと付き合いたいのか?俺に聞かなくてもいいって言ってるだろう」

「いいえ、先輩が私に付き合ってくれって言っただけです。私は別にその気はなくて」

「…どうでもいい」

「あははっ、そうですよね全くです」

 これ読んでました。そう言って尚は、日記帳を梶原に返した。

「梶原さん」

 呼ばれた彼は手元にあるそれの表紙を見たまま、答えなかった。

「私がもし明日来なかったら、どうしますか?」

 彼は視線を日記帳から尚に移し、そしてまた落とした。

「気付かないかもな」

「…ですよね」

 尚は小さく笑った。


 __今日の私のことを、明日の貴方は覚えていないんでしょうね。

 憎みはしないし恨みもしない。

 けどそれは確実に胸の内に溜まっていく、綺麗じゃない何かだった。

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