二日目 瑠璃茉莉のワンピース
5月20日 日曜日
今日の午後は、クラスの友達と「デート」する予定だ。勿論相手は男子…ではなく女子だ。何故その名目なのかというと、「非リア(ここでは、恋人のいない人のこと)」と呼ばれる類に入る尚に、(同じく「非リア」の)朝比奈怜が、「リア充の行きそうなとこ巡りしよーよ!少しでもリア充気分を味わおーじゃないの!」と言ってきたからである。悲しいような楽しいような…つまりは、虚しい。今日は午前中だけ病院へ行き、その近くで昼食を取ってから、駅で怜と会うつもりでいる。
「デートっぽい服」の類に入るであろう青い花のプリントがされているレースワンピースに、白いカーディガンを羽織る。尚はそこまで背が高くないので、これに白いパンプスを合わせて少し背伸びするつもりだ。
冷蔵庫から昨日の夕飯の残りの焼き魚を取り出し、卵かけご飯と一緒に食べる。誰も居ないダイニングルームに、尚の食べる音だけが響いた。寂しくなどない。いつもこんなものだ。昔からそうだ。
食器を洗って水切りかごに入れ、洗面所で歯を磨く。その後は顔を洗い、肩にも付かない短さの髪を櫛でとかす。首元の目立つ傷にガーゼを貼り、完成だ。
今日は何時ものリュックではなく白いポシェットを持ち、パンプスを履いて家を出た。ドアの鍵を閉めてから自転車に跨がり、ペダルに足を掛け…、
何時もと同じくぶっ飛ばす。
「おはようございます、梶原さん」
ノック無しに部屋に入ってきた尚に、梶原は大いに驚いたようで、手にしていた新聞を床に落とした。
「…お前、脅かしてくるんじゃない…仮にも病人なんだぞ、俺は」
「あははっ、ごめんなさい、やってみたくなって」
新聞を拾い上げて差し出した尚の格好に、梶原はぎょっとしたように目を見開いた。
__彼氏ができました、なんて、嘘ついちゃおうかな。
それは流石に可哀想に思えたので、「今日の午後、友達と出掛けてくるんです」と言ってやると、「別に言わなくてもいい」と梶原は返した。そうして目を逸らすものだから可笑しくなって、尚は腹を抱えて笑い出した。再び新聞は床に落下する。
「あーもう、梶原さんおかしーっ!ほんっと素直じゃない」
「おい笑うな、煩い!何処が可笑しいんだ、お前のその格好の方が可笑しい!」
「えっ何それ酷い女の子に言う台詞ですか⁉︎だから彼女できないんですよ!」
「今それは関係無いだろうが!言っとくけどお前『女の子』って言える程女っぽくないからな!」
「ひっどー!一応女ですよ私ー!」
「お前は女じゃない、ガキだ!」
「失礼極まりないっ!これでも私男子から結構告白されますから!」
「…は?」
引っ切り無しに続いた攻防はぴたりと止み、部屋に静寂が訪れた。軽く朱に染まった頬のまま、尚は続けた。
「私に彼氏が居ないからって、イコールモテないって思ってたんですか?いや思ってたんですね、違いますから」
梶原が何も言い返せないのをいいことに、続ける。
「でも誰とも付き合わないのは、好きな人が居るからなんです。もう二度と会わないかもしれないけど、その人以外好きになれないんです、私」
そう言い切った尚の目は、少なくとも子供ではなかった。それでも彼女を女だと認めてしまえる程、梶原は単純ではないのだが。
「…そうか、勝手にしろ」
つい、ぶっきらぼうな言い方をしてしまう。
梶原は正直なところ尚の言うことが信じられなかった。恋愛になんて興味が無いのだろう、と思っていた。「こういう話」など、今まで一度もしたことが無かっただけであって、尚には…。
娘が彼氏を連れて来た時の父親の心境が、今なら分かる気がした。__何だそれ、俺はこいつの保護者か。
動揺している梶原の隣に立つ尚は気にしてなどいないようで、新聞をもう一度拾って梶原の手元に置き、ベッドの隅に腰を下ろした。やれやれ、とでも言いたげな表情だ。
「はいはい、勝手にしますよーう」
じゃあ私もう行くんでと言って、尚は部屋を出ていった。
その足元にあるのは何時ものスニーカーではなく白いヒールのついた靴であり、梶原は今度こそ恋人の存在を疑った。
そのことを、尚は知る由もない。
本当は、まだ少し出てくるには早かった。
時刻は午前十一時、待ち合わせの時間は午後一時だ。それでも逃げてしまったのはきっと、何処か小っ恥ずかしい気がしたからで…。
「うううう…ばかだ私…」
駐輪場二もう少し自転車を預けておくことにして、病院近くの商店街を歩くことにした。昼食は其の辺のマックあたりで取ればいい、と思った。
__どうしてあのこと、話しちゃったんだろう。
つい、だ。つい、テンションの高いままに喋ってしまったことだ。これだけは梶原に知られまいとしていたのに、どうして自分はこんなに馬鹿なのだろう。
__忘れてくれないかなあ。
なるようになれ。いやきっと、なるようになるだろう。
あの時みたいに。何時もみたいに。
「あれ?今日は尚ちゃん来てないんですか?」
広美が何時もの優しい笑顔のまま、梶原に問い掛ける。
不思議に思うのも当然だろう。尚は梶原が入院し始めた日から毎日此処に通っているのだ。高校受験直前だって、少しでも毎日此処へ来た。
「今日は用事があるそうで。さっき帰りました」
その言葉に広美は少し驚いたように目を丸く開いたが、直ぐに何時もの笑顔に戻った。
「お年頃ですしね、それくらいが普通ですよ」
「お年頃…ですかね、あいつも」
そうですよ、と言って笑う広美に釣られて笑ってしまった。
それが酷く懐かしいと思ったのも、きっと明日になれば忘れているだろう。
「ごめん待った?」
そう言って瞬間的に腹を抱えて笑いだした怜に釣られ、尚もつぼにはまった。怜の台詞が妙にリアルで、もう何が可笑しかったか忘れるくらいに笑った後の、
「今来たとこだよ」というこれまたリアルな切り返しは、怜の腹筋に追い打ちをかけた。
これが彼のよく言う「若者のノリ」なのだろう。
「もー、尚のノリ心臓に悪いってばー!」
思い出してしまったようで、また笑い出した怜も、尚と同じく「デートっぽい服」に身を固めている。白いワンピースに鮮やかな黄色のパンプス、手には可愛らしい「かごバック」。「ワンピース着て取り敢えず白っぽければいいでしょ」という「非リア」なりのデート服の定義に二人揃って乗っ取られていていっそ清々しい。
「ごめんごめんって。怜、何処行くか決めてるの?」
尚がくつくつと笑っている怜にそう言うと、怜は何か思い出したようにはっと顔を上げ、尚を上から下までじっくりと見た。
「…な、なに?」
「尚さっき、病院から出てきたでしょ」
そう言った怜の顔に、今さっき迄の笑顔は残っていなかった。コロコロと調子の変わる怜は、こうして不意をついてくることが多いから侮れない。それも本人が意図している訳でもない。それの事実が余計に尚を困らせて、彼女の足を止めた。
「尚?」
「…病院の近くにいたの?さっき」
尚はうん、と嬉しそうに返す。こういうところが愛と似ている__つまりは子供っぽい。
「下見くらいはしとくべきでしょー?それでね、あの辺カフェが多いから見てみたんだ。そしたらなんか尚が歩いててー、」
声かけようとしたんだけど、なんか考え込んでるみたいだったから。その言葉に心当たりがあるが、尚は表情に出さずに返す。
「そうだったかな?ちょっとぼーっとしてただけだよ?」
そっかそっかと怜は頷いた。尚は再び歩き出した。
たとえ仲の良い友人でも、梶原のことを話すつもりなどなかった。彼のことを話せばきっと、何故彼のところへ毎日通っているのかを聞かれるだろうから。
「じゃー、一箇所目は駅南の映画館だよ!勿論観るのは最近流行りのコレでーす!てってれてーん」
そのよく分からないメロディーと共に怜が鞄から取り出した「コレ」は、最近学校でも話題になっている少女漫画で、今から観に行くのはそれを実写化した映画だ。尚は先週その漫画を全巻借りて読んだが、そのストーリーもキャラも「何処にでもありそうでベタ過ぎてでも不覚なことにキュンとして、それでいて映画はリア充が好きそう」なものである。因みに怜も同じ感想である。ただ少しだけ違うのは、
「ショータくんのキャストぴったりなんだよねー、もーホントますますあたしの好みだよーどーしよー…」
怜がその作品の中の主人公の片思い相手に、半分(以上)本気で恋してしまっていることくらいである(因みにその「ショータくん」と主人公は何故か結ばれない。だからこそ好きだと言う)。
__怜が誰とも付き合えないのは好きな相手が二次元に居るからで…お前、非リアでも別にいいんだろ!
尚と少し(いやかなり)違う状況にいる怜のことを羨ましく思ってしまったのは、自分の恋の相手が同じ次元にいるのに叶う筈がないからだ。
そんなこんなで非リア二人は、リア充の多い映画館に足を踏み入れた。ほんの少しの憎悪の念を抱いて。
内容はやはりべたな少女漫画そのもので、不覚にもキュンとして、周りにはリア充ばかりいて…キスシーンの時に右に居たカップルはキスしあがるし…というものだった。そして同時に、左に居た怜は本気で照れて尚を真っ赤にしていた。左右がなんとも形容し難い有様なので、尚は仏頂面でポップコーンを食べていた。キャラメルポップコーンの美味しさを心から実感した数十分だった。
「あーもうショータくんかっこよすぎるぅー」
それが怜の映画終了後の第一声で、
「やっと終わった疲れたねえ怜早く出よう」
それが尚の第一声だった。
まだ少し赤い頬の怜はぶっと吹き出して、またつぼにはまってしまったようだった。また声を上げて笑いながら、
「はいはいお疲れさん尚、いーよ行こっか」と言ってくれた。
「ショータくんみたいな人居ないかなー、あたしあーゆー人と付き合いたいなー…」
「怜、それ何回も言ってるからね!多分六回目!もう諦めてこっちが苦しい!」
正確には八回目である。流石に尚も参ってきているらしい。
怜は立ち止まって、悲しそうな目で尚を見下ろす。
「えーやだ諦めろとかひどー…てか待って、尚ひょっとして好きな人居るの?だからあたしにそんなこと言うのー?」
__なんだその発想の飛躍は!
「例え好きな人居たって、ショータくんみたいな二次元の男子は好きにならないから!」
「えー!…なんてその流れに乗って躱されて堪るかっ、好きな人居るのかどうか白状しなさーい!」
十センチ程上から大声で言われ少しその鍵が外れかかったが、尚は持ち堪えて、その鍵を嘘で固く閉める。
「居ないよ!居たらさくっと告って非リアから脱出してるから絶対!」
極めつけの作り笑顔は、親友にさえ見抜かれることはない。
「クレープ食べるんでしょ?置いてっちゃうよ!」
立ち止まったままの怜にそう言い捨て、尚は走り出す。目的地はショッピングモールの地下にある新しいカフェだ。
私の好きな人に、私はもう二度と会うことはできない。
その人のことを好きでい続ける自分がみっともないことは分かっている。それでもあの人を好きでいることは、とても止められそうにない。
高校生がこんな恋をしてるのって、どうなんだろう。やっぱり少し変わってる?若者のノリとやらで、一度は誰かと付き合ってみるのもあり?
…とんでもない。
あの人ならそんなこと、きっと許してくれない。
「付き合うっていうのはね、軽いように聞こえるかもしれないけど、とても大切なことなんだよ。だから、」
__尚ちゃんは、本当に自分が好きな人と、付き合うんだよ。
…それは貴方です、なんて、幼い自分は言えなかった。
今なら言えるのにな。
でももう今は、貴方は私と同じところに居てくれない。
貴方は卑怯だ。
だけどとても素敵なひとだ。
「…会いたい、」
零れた言葉ら誰の耳にも届かず、薄暗い部屋に弱々しく、響いた。
たった一人で戦うのは、切なくて苦しかった。