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紫陽花の海  作者: 松上遥
1/5

一日目 向日葵の折り紙

5月19日 土曜日




 夜空に瞬く星に手を伸ばす。

 その下に揺れ動く黒い波は静かな音を立てて、自分の脚を濡らす。

 前、ここに来た時には、空に陽が高く昇り、波はそれを反射して眩しいほどに煌めいて…


 隣には、静かに笑う貴方がいた。



 ずしりと重い紺色のリュックを背負って、自転車に跨がる。漕ぎ出すとそれは悲鳴をあげる。無理もない、二年間毎日三十キロ以上走ったのだ。それでも休ませてやるつもりなど到底ない持ち主は、今日も思いきりペダルに体重をかけた。

 自動車道の脇の歩道を突っ切って、川辺のコンクリートの道を走り抜ける。赤い橋を渡って、住宅街の中心を通る細い道を抜けると、真っ白な建物が現れる。県立病院だ。

 近くの駐輪場に自転車を留めて、病院へ足を向ける。

 毎日ここへ来るのには、勿論理由があるからである。


 この病院の近くにある高校の生徒である星野尚は、二年前の三月から毎日ここに来ている。エレベーターで会う人なんて全員友達だ。今日は小学生の愛と会って、折り紙の向日葵を貰った。お礼に尚は飴玉をあげて、五階で降りた。

 今日は珍しく人が廊下におらず、尚はそのまま目的の部屋まで歩いた。

 ノックは四回してくれ、お前だと分かるように。

 その言いつけをきっちり守り、尚はドアを四回、打つ。

「入れ」

 命令口調なのは、今に始まったことじゃない。他の人には決して口にしたりしない。尚が相手のときだけだ。

 ドアを開き、尚は中に入る。ドアを後ろ手で閉めると怒られるので、決してそんなことはしない。振り返って、両手でドアを閉める…この部屋の主に敬意を示す為に、彼に背中を向けないように気を付けながら。__面接会場が、ここは!

「毎日毎日、飽きないのか?楽しくも何ともないだろう」

「人が折角お見舞いに来てあげてるのに、相変わらず冷たいんですね」

 隅にある椅子をベッドの近くに置いて、腰を下ろす。慣れているとはいえ十五キロを自転車で飛ばしてきたのだ。一介の文化部女子高生にはきつい。

 ふぅ、と息をつく尚に、彼は続けた。

「お前は女子高生だろう、肩書きだけは。高校生なら、恋人とやらでも作って休日遊びに行くもんだと思うのだが」

「悪かったですねー彼氏も居なくて!どーせ肩書きだけですよ、はいはい」

「否定はしないが、そこまで言ったつもりはない」

 __腹立つ!すげえ腹立つ!お前だって彼女居ないだろ!私会ったことないもの‼︎

一々癪に障る言葉しか出せないようなその口の持ち主は、いい歳した男だ(あと五年もしないうちに「おっさん」の仲間入りだろう)。三十一歳の元会社員であり、二年前から入院している。名前は梶原幸男、独身だ(そして、確実に彼女は居ない)。

 尚は背負っているリュックを降ろし、中から大きいアルバムを取り出して、ベッドに開く。これは二人の「休日の習慣」だ。

「花屋さんに小さい向日葵があったんですよ。もう春も終わっちゃいますね」

 花屋の写真を指差して尚は笑顔で話し出した。

「中庭の花壇、後で見に行きませんか?何か咲いてるかもしれないですよ」

「…そうだな」

 いつもは早い梶原の返事は、写真を見ている間は遅くなる。

「これ、何だ?」

「文化祭の準備で、看板作ってるところなんですよ。私のクラスはカフェやるんですよ」

「…そうか」

 梶原はぱらぱらとページを捲り、やがて黙ってそれを見るようになった。

 この「休日の習慣」は、二年前に始まった。中学生の頃から写真を撮るのが好きだった尚が、何の気なしにアルバムを持ってきて梶原に見せたところ、梶原が見事にはまってしまった、それだけだ。

外に出られない梶原にとっては、雑誌やインターネットだけでは物足りないのだろう。尚は高校で写真部に所属しているので、こうして毎週大量の写真を持ってくるのは苦ではない。

 まじまじと文化祭の準備の写真を見ている梶原を、尚は自分のデジタルカメラを取り出して一枚、撮る。

「…おい、何勝手に撮ってる」

 カメラ目線になったところを、もう一枚。

「じゃあ、撮るって言えばいいんですね?じゃあ撮ります」

 もう一枚。

「おいっ…ハァ、もういい、勝手にしろ」

「はい」

 溜息をつく梶原を、またもう一枚。これくらいで止めてやろう、と尚は電源を落とす。

「これもまた現像して、来週末持ってきますね」

「下らない…何が楽しいのか俺にはわからない」

「だって梶原さん、」

 そこまで言いかけて、尚は口を閉じた。梶原がその言葉の先を尋ねるわけでもなく、自然と部屋は静寂に包まれた。

 今週のアルバムに綴じてある写真は、主に文化祭の準備や、水曜日に降った雨の景色が写ったものだった。尚のクラスメイトらしき生徒が放課後書類の整理をしている後姿、中庭に作られた吹奏楽部の仮設ステージの上からカメラに向かってピースをする女子生徒、ステージ発表の練習をする先生。尚の写真には、必ずと言っていいほど誰かが写っている。風景も撮らないわけではないが、本人は「なんか気味悪いから」とあまり好まない。「写真を撮って色んな人と関わり合うことが大好き」と、いつか梶原に言ったこともある。

 アルバムの最後のページまで捲ったところで、静寂を破ったのは梶原だった。

「中庭、行くか?」

 尚ははっと顔を上げて、梶原を見た。そのきらきらした目から逃れるように、梶原は尚から目を逸らした。

「勿論です、行きますっ!」


 梶原の座る車椅子を押して部屋を出ると、そこには先程会った愛が居た。どうやらドアの前で待っていたらしい。

「愛ちゃん、どうしたの?お部屋、違う階だよね?」

 尚が膝を床について、愛と目線の高さを合わせる。梶原は子供が基本苦手なので、こういうときには大抵黙っている。

「なおちゃん、おしゃしん、ちょうだい?」

「そうそう、愛ちゃんにあげるつもりのおしゃしんがあるんだ。ちょっと待っててね」

 愛は偶にこうして尚から写真を貰いに来る。理由は梶原とあまり違わない。彼女は学校にさえ行けない身なのだ。

 梶原が子供を苦手なのを知っているので、尚は成る可く急いで室内のアルバムからそれを取り出し、戻った。

「はい、愛ちゃん。お花屋さんの向日葵だよ」

「わあ、かわいいっ!ありがとう尚ちゃんっ」

 愛は、梶原が目も当てられないくらいに目を輝かせた。

「あっ!愛ちゃん、ここに居たのね」

 そう言ってこちらに歩いて来るのは、看護士の原田広美だ。勿論、尚の「友達」である。

「えへへっ、みつかっちゃったあ」

「…あら。尚ちゃんのところに来てたのね、尚ちゃん、梶原さん、こんにちは。愛ちゃん、お部屋に戻ろう?」

「はあい」

 広美に手を引かれながら歩いていく愛を見送ってから、尚は梶原に向き直った。

「私達も行きましょう」

「…ああ」

 改めて尚は梶原の後ろに廻り、歩き出した。


 中庭には割と大きい花壇があり、その周りにはベンチが置かれている。今この時間帯は、尚と梶原以外誰も居なかった。花壇にはまだ春らしさを感じられる花が咲いており、二週間前と比べあまり変化していない。変わっていることを挙げるなら、花壇の隅に固まって咲いていた蒲公英の黄色い花弁白い綿毛になっていることくらいだろうか。

「わあ、綿毛だっ!」

 尚が声を上げて、首に下げていたカメラを構える。

 梶原が近付き、声をかける。

「…飽きないのか?」

「飽きませんよ。…とういかそれ、さっきも言いましたよね?」

 尚は一通り撮り終わったようで、梶原を振り返った。その彼女の顔にはやはり、何時もの笑顔が張り付いている。

「梶原さんのところに毎日来るのも、まだ、飽きないです」

 じゃあ一つ貰おうかなあ、と尚は綿毛を一つ、手に取った。何故、と言いかけた梶原は、それを言うタイミングを逃した。思わず目を逸らしてしまう自分に少しだけ腹が立つ。認めるわけにはいかなかった。大人である自分が、子供の尚の言動に動揺していることを、だ。

「梶原さんは、私に飽きたんですか?」

 息を吹きかけて種を飛ばす尚のその言葉に、今度こそ梶原は明らかに動揺してしまった。え、と言葉にならない声が口から漏れた。小さな声であっても尚の耳に届いたようで、尚は梶原を振り向いた。その手にある種の無くなった茎を花壇の側に寝かせて、不安そうな顔で「え、うそ…」と零した。

「いや、決してそういう訳じゃない!」

 思わず大きな声で返した梶原に、尚は信じられませんよ、という視線を返した。先程までの笑顔は何処かへ消えてしまっている。

 そして噛み付くように、大声で言った。

「じゃあ嫌いになったってことですか⁉︎そんなにうざかったですか⁉︎ごめんなさい、私今まで…」こうなると尚は止まらない。そのことを梶原は承知している。

「違う!一旦落ち着け、尚」

 梶原は、涙目になってしゃがみ込んでいる尚の両肩に両手を置いた。尚の目は、梶原のそれよりも低い位置にある。尚の反抗的な意思を滲ませるその目の下にある口からは、言葉にも、声にも成り得ない音がぼろぼろと零れている。

 今屋上に、誰も居なくてよかった。彼女のこんな一面を、他の誰かに明かしてしまう訳にはいかない。

梶原はできるだけ優しい声で、ゆっくりと話した。

「尚、俺はお前に、飽きてなんかない。嫌いになんてなってないし、ならない。」

 昔からそうだ。

 スイッチが入ると被害妄想が止まらなくなってしまう尚の鎮め役は、何時も梶原だ。昔から付けている日記に幾度となく書いてある彼女の心の傷は、梶原だけが知っていた。

 そして何時も、

「俺だけは、お前を捨てたりしない。お前の前から消えたりしない。」

 この「お決まりの言葉」で、

「…うそつき」

 彼女は「お決まりの返事」をして、

 笑う。


 __これだから、子供は苦手だ。

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