1 ◆ リンネ
第一章
1 ◆ リンネ
「動くなよ……」
私は捕虫網を静かに蝶の上に翳した。その影で蝶を驚かさないようにゆっくりと近づけていく。今度こそ鱗粉の一片も欠かさずに捕まえたかった。簡単なことだ。そっと綿でも被せるように蝶の上に網を置くだけで良い。
……だがイメージするのは容易だけれども、実際に行うのはなぜか難しかった。
柔らかい風にそよぐ草の音と、城とその前に広がる野原を囲む深い森の縁に棲む鳥たちの遠い歌声、そして城を守る河から分かれて庭先に流れる小さな流れの音の他は何も聞こえない晴れた静かな午後だった。
「あ……!」
突然、集中していた私の耳に水を蹴散らして小川を渡る馬の足音が聞こえ、私は捕虫網を何もいない草の上に滑らせてしまった。蝶はそれに驚いて飛び去る。私は邪魔をされたことに少なからず腹を立てて立ち上がった。
「誰だ、止まれ! ここが大公私領と知ってか!」
声を張り上げつつ振り返ると、葦毛の馬に乗った若い男がこちらに向かって来るのが目に入った。
「エーリック」
そして、馬上の青年は人懐こそうな笑顔で私の名前を呼んだ。
「リンネ!」
私はさっきまでの不機嫌をすっかり忘れて青年に駆け寄った。彼――リンネは身軽な様子で馬から降りた。
「やあ! 虫捕りですか? ……逃がしてしまったかな」
私は首を振った。
「良いんだ。ちょっと驚いただけ……大きな声を出してごめん」
「いいえ。若公爵に謝らせたなんて大奥様に知れたらお叱りを受けてしまう」
「そうか、ごめ……あ」
私たちは肩をすくめて笑いあった。
「ねぇ、今度はいつまでいる? 三月ぶりだよね!」
「そうですね。今度はしばらく滞在させていただければと思っています」
「やった!」
私は捕虫網を持った拳をリンネにちょっと掲げた。リンネはその拳に自分の拳をこつんと当てて応える。
「大公もしばらく後にこちらへいらっしゃいます。珍しいお客が一緒ですよ」
「珍しい客?」
「ええ。ホルムグレン伯から贈られたとか。奇妙な術を使う異邦人です」
「へええ! 奇妙な術ってどんな? どこから来たの?」
「はるか東の方からだとか。城に到着したら存分にお尋ねなさったら良いですよ。片言ですが話せます」
「話が出来るんだ! 父上に会うのは愉快ってわけじゃないけど、そんなおまけがつくなら大歓迎だな」
「そんな口を利いたら悲しまれますよ。小さな頃はそれはそれは慕ってらっしゃったのに」
「今だって尊敬していないわけじゃないよ。ただ少し……」
「少し?」
「いや」
私がもっと小さかった頃、まだ大公と呼ばれるのはおじいさまで、その補佐をしていた父上は今とそう変わらず森の館にはあまり帰ってこなかったけれど、今のように硬い表情をすることはめったに無かった。私や妹に都のおかしな出来事を話しながらいたずらっぽく笑う浅い夕焼け色の目は、大公位を継いでからはすっかり陽が落ちてしまった後の空のように見えるのだった。
黙り込んでしまった私の気持ちを知って知らずか、リンネは少し微笑んでから馬の背をやさしく叩いた。手綱を放されたクルトは、私たちの間に漂った沈黙を食んででもいるように柔らかな草に顔を埋めて口をもごもごさせている。
「それにしてもたった三月、目にしないだけでも成長ぶりが窺える。元服ももうすぐですね」
「たった? 三月あればアンゼリカの草が僕の肩まで伸びる。……元服なんてまだまだだよ。僕はまだ……子供だ。……勉強部屋から抜け出して蝶を追ってたって、ハンスにちょっと小言を言われればそれで済むんだから」
「君くらいの年頃の少年たちは皆早く大人になりたがっているよ」
「……大きくなれば自由が手に入るって、私だってそう思ってた。他の大抵の子供たちと同じようにさ。でも良く見えてくればそんなもの幻想だ」
リンネは少し顔を曇らせた。それから私の肩に手を置いて少し笑った。
「エーリック、君は誰よりも自由に振舞おうと思えばそうできる立場になるというのに?」
「自由に?」
私は背の高いリンネを見上げた。
「この国で大公より何でも出来る者なんているかい?」
「私はリンネのようになりたい」
リンネは笑って首を振った。
「私のようにですか」
「海が見てみたい。国中の土地を旅して珍しい蝶を集めて……」
私はリンネがじっと私の顔を見ていることに気づいて目を伏せた。
「いや、解ってるよ。放りだすつもりはないんだ」
「エーリック」
「まだ夢くらい見たって良い筈だろう?」
「……まったく」
ポンポンと肩を叩く。
「まったく誰がそれを禁止する? そんな奴は私がやっつけてさしあげよう」
冗談めかして言うリンネを見て、私も笑った。
「ありがとう」
私はこれ以上ここで弱音を吐くのを止めなくてはならなかった。相変わらずのんびりと草を食んでいるリンネの馬を見遣って言った。
「ほら、クルトに水をあげなくちゃ。長旅で疲れているでしょう」
「……そうですね。朝からずっと走りづめだ」
リンネは聡く頷いた。
「晩餐のときにまた」
「それでは失礼を。後でこの三月の成果をみせてくださいね!」
捕虫網を指差してリンネは言い、クルトの手綱を手繰り寄せた。
「うん!」
今度は明るく返事をすることができた。
リンネはそんな私に笑って頷き、降りたときと同じように軽々とクルトの灰色の背に飛び乗ると、城のほうへ駆け抜けていった。
半島のほとんどの部分を支配する王国の、その半分を実質統治するカール大公が私の父だ。私はそのただ一人の息子、つまり総領息子というやつだった。
国祖である神王とともに建国に血肉を捧げた大昔の先祖は、王国の北方に領地を得、何代か経て後に大公に封ぜられた。その後、主君である王家は少しずつ力を失っていき、それとは対照に私の家である大公家はゆるやかに力をつけていった。今やその領地は属領を含めれば国の半分を超えるほどに達している。まだ成人に達していない私や妹、それに母やおばあさまなどの家族は、『最初の領地』と呼ばれている北の森深い地方の城で暮らしていて、父は王国の都にある館で寝起きし、政を忙しくこなしていた。
リンネは不思議な男だった。たまに城へ帰ってくるが、一年のほとんどをどこかへ旅している。私の家族のように遇されていて、血縁者なのは間違いがないのだけれど、誰とどのような血のつながりがあるのか誰も知らないようだった。いや……誰もが心のどこかで疑問に思ってはいたのだろうけれど、あまりに自然に家族や彼がそのように過ごしていたので、瑣末なこととして日々のもっと気にかけるべきこと――今年の作物の出来だとか子ヤギの病気なんか――を心配することに心を費やすことにしていたのだろう。薄いラベンダー色の目とオーク色の髪は一族特有のものだったし、なんにせよ、みんな朗らかで慎み深いリンネが好きだったのだ。