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無鐘寺の鐘

作者: 野津敬
掲載日:2026/07/23


八月のなかばを過ぎた頃、大雨が1週間も降り続いた。

町のいたる所で用水があふれ、何百件もの家が水につかった。


そのせいで、夏休みだというのに、家の中での缶詰状態が続いた。ゲームし放題といえばその通りだけど、自由があってからこそというもの・・いい加減、気持ちが腐りかけてきた頃、やっと雨が上がった。


照りつける夏の太陽をありがたく迎えながら、僕は自転車をこぎ、近くの無鐘むしょう寺へ向かった。寺の隣には小さな公園があり、僕ら6年生がよく待ち合わせに使っていた。きっと誰か来ているだろうと思った。


「ん!」

寺に着いたところで視界に飛び込んできたのは、静かな境内には似つかわしくない大型のトラックだった。荷台にはフォークリフトと赤土色の大きな塊が積まれている。


自転車を降りて前に進みと、トラックの前で5、6人の大人が、住職を囲んで話をしていた。


大人たちの後ろで、同じクラスの誠二せいじのぼるが、自転車にまたがったまま立っていた。

自転車を進めて、二人に「よっ!」と手を上げて、「どうしたの?」と僕が聞いたところで、誠二が「しー」と唇に指を当て、そのまま大人たちの方を指さした。誠二と昇は、大人たちの話に聞き耳を立てていたらしい。


・・ ・・ ・・


「確かにあれはこの寺の鐘だが……」

住職が、赤土色の塊を見上げながらかすれた声で言った。錆に覆われていたので気づかなかったけど、それは確かに寺の釣り鐘だった。

「なれど、ここは無鐘寺。江戸の昔、殿様よりその名を名乗るように言われて以来、ここにはないはずのもの」

「この寺の鐘なら寺に戻すのが道理でしょう。おかしな事を言ってはいけませんな」

作業衣姿のおじさんが言い、居合わせた大人は皆、そうだとばかりにうなずいた。


住職は険しい顔で首を振った。

「この鐘には災いが取り憑いているかもしれぬ。事のよしを話せば、あなた方に災いが降りかかるかもしれん」

「いずれにせよ、鐘の持ち主ははっきりした。住職のおっしゃるとおり、災い云々《うんぬん》があるなら、なおさらに寺に置いて供養してもらわんと」

鐘に手を合わせた住職を後目に、大人たちは動き始めた。


「作業開始だ」

「子供らは離れてな」

僕らは境内の外に追いやられた。

振り返れば、見る間にもトラックからフォークリフトが降ろされ、ガタガタという地響きとともに、鐘は本堂の向こうに運ばれていった。


「あの鐘って?」僕は隣に立つ二人に聞いた。

「もともとは黒蛇川くろへびがわの底に沈んでいたらしいよ。それが、今回の大雨の濁流で転がされて下流の浅瀬に打ち上げられたんだ。それを見つけた河川管理組合の人が、この寺の空っぽの鐘突き堂を思い出して運んできたんだ」

昇が言った。

「けど、災いだなんて大袈裟だよ。住職はあんな鉄クズを届けられて迷惑だったんじゃないかな」

そう言った誠二が、パチンと手を叩いた。

「おっと忘れてた。黒蛇川といえば、あそこの潜水橋せんすいきょうが、大雨のせいで壊れてしまったそうだ。見に行こうよ」

「それは見物みものだね」

気持ちを切り換えた僕らは、自転車のペダルに置いた足にぐっと力を込めた。


・・ ・・ ・・


「あれはひどいや」

土手から見下ろした橋は、真ん中から切り取られたようになくなっていた。

僕らは自転車を降りて、通行禁止の看板がぶら下がっているロープをくぐった。


土手を下ると、泥だらけになった橋が前に伸びて見えた。濁流に洗われたコンクリートの上には、枯れ草がワカメのようにへばりついている。


「やっぱり潜水橋だね。川の水かさが増してた時は、水に潜っていたんだ」

「多分、上流から流れてきた丸太かなんかが激突して、橋は壊れてしまったんだろう」

僕と昇が話している横で、

「ちょっと先まで行ってみよう」

と誠二が歩き始めた。橋のたもとを過ぎても止まろうとしない。


「危ないよ」 僕は言いかけたが、怖がっていると思われたくなくて黙った。昇も同じ気持ちらしく、眉をひそめて見ているだけだった。


「少し行くだけならきっと大丈夫だ」

僕は、昇を岸に残して橋を歩き始めた。

橋の下、三十センチほどのところを、黄土色の水がどうどうと流れている。足元のコンクリートが、わずかに揺れているように感じた


「このへんで戻ろう。これ以上は危険だよ」

誠二に追いついた僕は言った。

あと十メートルほど先で、あの世にでもつながっているように橋はぶち切れてしまっている。

「なっ、そうしよう」と声をかけた僕は息を飲んだ。

誠二は小さく「呼んでる…呼んでるよ…」と言いながら、そのまま止まらずに歩いていったのだ。


「誠二、だめだ!」

叫んだけど、誠二は止まらなかった。むしろ歩みを速めて途切れた橋の先で…ああ、ふいと消えた。すぐに下流に視線を注いだ。けど、流れていく誠二の姿は見えなかった。


「誰か、誰か!」

助けを求める昇の悲鳴のような声が響くなか、僕は橋の先にそっと進んだ。きっと誠二はどこかに引っかかっているに違いない。

「誠二!」

幸運なことに、誠二は砕けたコンクリートから飛び出た太い針金に、ベルトで引っかかっていた。下半身を濁流が洗っている。


「大丈夫か」

声をかけたが、誠二は身動きひとつしなかった。

僕は夢中で手を伸ばし、誠二の肩に斜めに掛かっているポシェットの紐をつかんだ。


「うっ、なに…」

全身に鳥肌が立った。


意識を失っている誠二の腰の下に黒いものがまとわりついていた。枯草などではない。ぬらぬらしたボロ布のようなそれは、水の流れに逆らうように、じりじりと誠二の体を登り始めている。


僕は得体の知れないものを見ないように目をつぶり、渾身の力を込め、手にしたポシェットの紐を引っ張った。

「!」

不意に手の中の重みがなくなった。


目を開くと、鼻の先に黒く開いた何者かの口があった。


…ひ・とつかえ  ふ・たつかえ…

その口から くぐもった声とヘドロのようなものが吐かれた。


僕の目の前は真っ暗になった。


… … …


線香の匂い…お経の声…。

『ここは寺…』

僕は目を覚ました。横には誠二が寝かされていた。前には祭壇があり、住職がお経を唱えている。もう夜なのか、天井には裸電球が黄色く光っていた。


「さて」

住職が振り返った。

「目が覚めたようだね。君にはきちんと説明せねばな」

七十歳をとうに過ぎているだろう、しわだらけのその顔には見覚えがあった。先ほど、錆だらけの鐘をめぐって話をしていた無鐘寺の住職だ。ということは、ここはその寺の本堂だろうか。


「このような場所で目を醒まして、さぞ驚いたことだろう」

『どうして僕はここに…』

「いや、危ない所だった。もう少しで濁流に流されてしまうところだった…」

僕が口を開く前に、住職はいきさつを説明し始めた。


住職は、寺の境内から自転車で走り去った僕らの後ろ姿を見て、奇妙な胸騒ぎに襲われたそうだ。

不安に導かれるように軽トラで潜水橋に駆けつけると、助けを求め続ける昇を見つけた。それで、軽トラを橋の途中まで進め、積んであったロープを命綱にして、気を失っていた僕と誠二を助けてくれたのだ。


「それで昇…もう一人の子は?」

助けてもらったお礼を言った後で僕は尋ねた。


「彼は大丈夫だった。災いの気は憑いていなかったから家に帰した」住職は言った。

「災い……僕と誠二に何かが?」

僕が問うと、住職は痩せた腕を上げて制した。

「まあお待ち。話には順というものがある」

住職は語り始めた。


「わしが何故に、黒蛇川の潜水橋に駆けつけたかだが…、

君たちも見たあの錆だらけの鐘は、実は壊れた橋の柱の下に埋められていたものでな。その因果が、わしを潜水橋に向かわせたのだ」


「鐘が橋の柱の下に埋められていた。因果?」

首を捻った僕の前で、住職はこくりと頷いた。


「ずっと昔、江戸時代の出来事だよ。この地方を治めていた殿様が、隣国の大名を迎えて城で大切な会合を開こうとしていた。ところがこの寺の若い僧が、居眠りをしていて時の鐘をくことを忘れてしまった。そのせいで隣国の大名が既に到着していたのに、家臣が集まらず、会合は流れてしまった。激怒した殿様は、僧を捕まえ、当時、暴れ川だった黒蛇川に架ける橋の人柱ひとばしらにしたんだ。

僧はこの寺の鐘の中にくくられて、生きたまま沈められた。それを土台にして橋は作られた。時代が流れて橋が改修工事されても、いわくつきの土台だけは変えることはなかった。

君も知っているかもしれないが、あの橋では何人もの人が、理由もないのに川に転落して溺れてしまっている。これまで幾度も、成仏のための祈りが捧げられたが効果はなかった」


住職の言う通りだった。つい先日、大雨の降りはじめる前にも、散歩に出ていたお年寄りが川に転落して亡くなっていた。乾いていたはずの橋の上に、足を滑らせた跡が残っていたそうだ。


「そして僧と一緒に川に沈められた鐘は、長い歳月を経て寺に戻ってきた。だが奇妙なことに、鐘には怨念おんねんの「気」はなかった。君たちが自転車で走り去った後で、わしははたと思った。怨念は黒蛇川の潜水橋に残っていて、君たちを呼んだのではないかと」


「僕、水中から得体の知れない物が、這い上がってくるのが見えたんです。もしかしたら、それが…」

僕は言った。全身が総毛立ち、歯がカタカタと鳴った。


「おそらくな。そして君たちは、【それ】に見入られ、帰るべき場所にそれを運んできた。つまり、わしも怨念に呼ばれ、その思いに手を貸したのだ」

「住職が手を貸した?」

「因果の流れというものだよ。そしてその流れに従い、わしはここで君らに憑いているものを成仏供養する。すまないが家に帰ってもらうのは、それが済んでからになる…くっ」


急に住職が身もだえしながら突っ伏した。


「ああ、そんな」

隣に横たわったままの誠二の少し開いた口から、例の黒いものが流れ出ていた。


【怨念】は誠二の体に入り込んでいたのだ。その触手のような片手が長く伸びて、住職の首に巻き付いていた。


ピチャーン ピチャーン

どこからともなく、水が滴る音が響いた。


祭壇の蝋燭が消え、天井の電球もふと消えた。


闇の中で、背中にぬるりと湿ったものが張り付いた。すうっと青白く光るものが目の前に浮かんでいる。人魂ひとだま… …


…ひとつかえ ふたつかえ…


耳元で、誠二を助けようとした時に聞こえた声が囁いている。

視線を横にずらすと、ぬるめいた塊が肩の後ろから首を出していた。


「くっ」

それを払いのけようとしたが、体は凍りついたように動かなかった。

すうっと人魂ひとだまが後に流れた。同時に僕は立ち上がった。自分の意志ではない。背中に張りついているものが、僕の体を動かしていた。


障子の戸を開け、裸足のまま本堂の外に降りた。砂利をすりながら進んだ先に見えたのは、鐘突堂かねつきどうに置かれたあの鐘だった。僕の体は鐘撞堂の石段を登り、鐘の前にしゃがみこんだ。


ぐぐっ ぐぐっ

無理矢理に伸ばされた手が、鐘の縁を掴んだ。僕は鐘を持ち上げ、ぐらつきながら鐘突堂の屋根の下のフックに引っかけた。

ボキッ ボキッ

尋常ではない重さに、体中の骨がきしんで折れた。

痛い…痛い…例えようもない激痛…

でも僕は、呻くことも気絶することもできなかった。体はただ壊れていく操り人形のように動き続けた。


…ひとつかえ ふたつかえ…

突き棒の綱を握らされた僕の耳元で、舐めるような声がささやかれ続けている。


怨念は尋ねていた。何回、鐘を撞いたらいいのかを。でも、そんな事を知ろうはずがない。


後ろに大きく引かれた腕の筋肉がきしんだ。骨が折れるだけでなく、腕が奇妙に凹んで千切れかかっていた。


『いったい正解は幾つなんだ!』

動かない唇の奥で叫んだ。


その時、鐘の内側から低い声が漏れた。

『我が恨みの心に応じてはならぬ。 我が本望はただ安らかに眠ること。慈悲の導きよ、どうか我と皆々に…』


激痛がかすかに遠退いたようだった。

腕は千切れてしまうかもしれない。ただ気力だけを頼りに、僕は綱を前に突き出した。


『どうか成仏を!』


ゴォワァーン―― 雷鳴のような音が湿った闇を震わせた。


体を操っていた力が弱まっていく。その場に崩れた僕は、鐘の中からこぼれ落ちたものを握り締め、芋虫のようにのたくりながら鐘突堂から這い降りた。


長く続いた鐘の音が止まるのと同時に、お堂の柱が折れ、鐘は地面に落ちて砕け散った。


硬く強ばっていた手を開くと、仏様が手を合わせたような形の骨の欠片かけらがあった。

青白い人魂が、揺らめきながら骨の中に消え、同時に僕の意識も闇に消えた。




…怨念。真の成仏の時までは、暫くこの世を浮遊することあり…


今宵こよい、あなたの背後または枕元で、数を尋ねる声があっても、決して応えてはならない。このこと、世の人へ伝わることを望むばかり…

                                                          了


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