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欲しがりの妹が、記憶喪失の婚約者を欲しがったのですが。

作者: 千秋 颯

 オリヴァー・アルドリットは私の婚約者です。

 彼はアルドリット辺境伯家の嫡男であり、剣術に優れていました。

 文武両道で、おまけに優しくて誠実な人柄。

 しかし婚約者である私の前では等身大の男の子。

 そんな彼の事を私は愛していました。




 ある日。私達はピクニックへ出かけました。

 花畑の上に腰を下ろしていると、オリヴァーは突然私に背を向け、何か作業をし始めます。

 そして暫くすると彼は振り返り――


「ほら」


 ――花冠を私の頭に乗せました。


 驚き、目を瞬かせる私を見てオリヴァーは笑います。


「いくらアクセサリーをやっても、君はすぐに無くしてしまうからな。これならいくらでも作ってやれるだろう」


 オリヴァーはよく、女性物のアクセサリーを私にプレゼントしてくれました。

 けれど私は一度だってそれを彼の前で付けた事がありません。


 何故付けてくれないのか、と問われる度に私は無くしてしまったのだと謝り続けてきました。

 私は無くし物が多いうっかり者――彼の前では、そういう事にしていました。


 オリヴァーの言葉に申し訳なさを覚えた私が目を伏せると、彼は慌てたように両手を振った。


「ああ、違う違う。そんな顔をさせたかった訳じゃない」


 それから彼は、私の頬に触れて優しく囁きます。


「笑ってくれ――ルシア」


 彼の気遣いを無駄にしたくなかった私は、心に切なさを残しながらも微笑んだ。

 その時、少し強い風が吹き、髪の毛が煽られる。

 それを手で押さえながら、私はオリヴァーと見つめ合った。


 彼は目元を和らげ、穏やかな微笑を湛えていた。



***



 この世界は半年前まで魔族という存在に脅かされていました。

 人に良く似た姿を持ちながら、強力な魔法の技術で人と対立する恐ろしい存在。


 その軍勢は我が国の境――アルドリット領へ進軍しました。

 オリヴァーは他のご家族と共に軍を率い、魔族軍との戦に参加しました。


 結果彼はこの戦で大きく貢献し、辺境伯家が率いた騎士団は魔族軍を打ち負かしました。

 この戦の撤退をきっかけに魔族軍は弱体化していき、その隙を逃がすまいと人類は国を超えて手を組み、一斉に魔族軍を追い詰めました。

 こうして、長きに渡る戦は魔族の敗北という形で幕を閉じ――人類勝利の活路を見出した功労者として、オリヴァーは世界の英雄となりました。


 しかし……件の戦で最も大きな武勲を立てた彼は、その時負った怪我と魔族が放つ瘴気を多大に受けた影響で倒れてしまいました。

 魔族が纏う瘴気は、人体には悪影響を齎すもの。

 それを用いた魔法を人は『呪い』と称するのですが、オリヴァーはこの呪いを受けたとされました。


 私は毎日のようにアルドリット辺境伯家へ見舞いに行きました。

 用意した花を自らの手で変えて、オリヴァーの手を握って毎日話しかけ、彼の回復を祈りました。


 そして半年が経った頃。

 ――オリヴァーが目を覚まします。

 アルドリット辺境伯家から報せを貰った私はすぐに彼の元へ駆けつけようとしました。

 しかし、そんな私を家族が呼び止めます。


「オリヴァー様との婚約をポーラへ譲りなさい」


 父は言いました。

 ポーラというのは私の妹の名です。


 彼女は小柄で、小動物のような愛らしい容姿と、他者の心を掴む言動が得意でした。

 幼い頃から自分の我儘を貫く方法を良く知っていた彼女は、両親に甘やかされて育ちました。


 彼女には一つの口癖がありました。

 そしてそれを私はこの日も耳にしました。


「いいなぁ、お姉様は」


 両親の傍に立つポーラが目を潤ませます。

 彼女は幼い頃から、私の物を欲しがる癖がありました。

 私が夜会で身に付け、他の方から褒めて頂いたアクセサリーやドレス、親しくなった家庭教師、私の部屋……。

 挙げればきりがありません。


 ポーラが「いいなぁ」と一言口にするだけで、両親は彼女の肩を持ちました。

 そして「お前はこの子の姉なのだから譲ってやりなさい」というのです。


「お姉様はオリヴァー様と同い年だからという理由だけで、彼の婚約者でいられるなんて。私はずっとオリヴァー様が好きだったのに」


 ポーラが続けます。

 これは大きな嘘でした。


 ポーラは既に公爵家のご子息との婚約が決まっていました。

 両親は愛娘を優先し、より高い地位に在る者をポーラへ宛がいました。

 彼女もそれを望み、婚約が決まった当初は私を良く見下していました。


 しかし……彼女の婚約者は氷のようと囁かれる程に淡白なお方でした。

 故にポーラがいくら色目を掛けようと靡く事はなく、彼はいつまでも彼女に対し冷たい対応をしたそうです。


 だからこそ、仲の良い婚約関係を結べている私達を彼女が妬むようになっていた事は知っておりました。

 それに加えて今回、オリヴァーは英雄という輝かしい称号を手に入れたのです。

 ポーラがそれを羨み、また英雄の婚約者という地位を私から奪おうとするのも日頃の彼女の行いを見ていればわかる話ではありました。


 けれど、これだけは譲りたくありません。

 そもそも婚約相手を交えないまま進める話でもないと思いましたし、私達は――愛し合っていましたから。

 しかしいくら私がそれを拒絶しようと、両親は聞く耳を持たず、終いには父に頬を打たれる始末。

 両親の影で笑う妹を見ながら、私に決定権などないのだと思い知らされました。




 『では最後に、せめて彼に会わせて欲しい』――これが私に許される精一杯の我儘でした。

 余計な事は言うなと両親に釘を刺され、また自分も一緒に行きたいと駄々を捏ねるポーラと共に私はアルドリット辺境伯邸へ向かいます。


 両親の言う『余計な事』を私が口走らないようにという監視と、また婚約者の変更についての相談を持ち掛ける為……後は、惨めな私を嘲笑う為でしょうか。

 それらの為に彼女はついてきたのでしょう。


 アルドリット辺境伯家に着き、アルドリット辺境伯夫妻が私達を迎え入れてくれました。

 そしてオリヴァーの部屋へ案内される前に……驚くべきことを聞かされます。


 目を覚ました彼は――記憶を失っていたのです。

 医者は瘴気の呪いによる反動だろうという事しかわからず、治し方もわからない。

 とにかく、今の彼は一部の記憶――一般常識と幼少の記憶以外を忘れているとの事でした。

 また彼の中に残る数少ない幼少の記憶もどうやら朧気の様で、アルドリット辺境伯夫妻が私の名前を出しても望ましい反応はなかったと言います。

 私達の婚約は比較的幼少から交わされたものだったのでもしかしたら……などという期待はここで打ち砕かれました。


 ポーラにとってはこんなに都合の良い話はなかった事でしょう。

 彼女は婚約者の入れ替えについてアルドリット辺境伯夫妻へ話しました。

 『記憶がないのであれば、病み上がりのオリヴァー様を混乱させる恐れもありません』と言い、昔から付き合いがあったのは自分の方であったという体で接するのはどうかなどという提案もしていました。

 つまり、幼い頃からオリヴァーと婚約していた人物を私ではなくポーラだという事にしよう、というお話です。


 アルドリット辺境伯夫妻は私に同情的な視線を向けました。

 そしてこれは本当に貴女も許した事なのかと問われます。

 私は叫んで否定したい衝動を何とか押さえ込み、頷きました。

 長女であり、教養も多く積んで来た私の方が公爵家に嫁ぐのに都合が良くなったなどと、それらしい理由を並べながら笑ってみせましたが……正直きちんと笑えていたかはわかりません。


 それでもアルドリット辺境伯夫妻はもし私が構わないのであればこのまま婚約を継続するのはどうかと提案してくださりました。

 お二方は私に大変良くしてくださっていましたし、付き合いも長いので烏滸(おこ)がましくはありながらも、私は第二の家族のような存在だと思っておりました。


「私としても、公爵家へ嫁ぐことはとても光栄な事ですから……我が家の我儘に振り回してしまい申し訳ありませんが、是非とも承諾いただけますと幸いです」


 だからこそお二方のお気遣いは嬉しく、同時に別れが悲しいと思いましたが、それでも私は何とか首を横に振り、ポーラの言葉に口添えする事でお二方を説得しました。




 それから私とポーラはオリヴァーの部屋を訪れます。

 ノックをし入室した先で、彼はベッドに座っていました。


 青い瞳が私達へゆっくりと向けられます。

 そして――


「……どちら様ですか」


 この言葉を聞いてああ、本当に彼は記憶を失ってしまったのだと理解しました。

 ご両親からお話を伺っていたというのに、それでも私はもしかしたらという都合の良い期待をしていたようです。


 ――私の姿を見たら思い出してくれるんじゃないか、なんて。


 私の事を覚えていないオリヴァーの様子に、ポーラは歓喜しました。

 彼女はオリヴァーの手を取ると、明るい声で言いました。


「私はポーラ・ヘインズ。貴方の婚約者よ」


 オリヴァーが記憶を失うまで、一度だって外したことはなかった敬語を堂々と外し、まるで初めから親しい関係であったかのように彼女は振る舞います。

 ポーラという名に心当たりがなかったのでしょう。

 彼はゆっくりと首を傾げますが、すぐに納得した様に頷きました。


「貴女が俺の婚約者か。すみません……目を覚ました後、多くの人の名を聞かされたのでまだ整理がついておらず」

「いいえ。無理もないわ。……大丈夫。例え貴方が全て忘れてしまったとしても、私はどんな貴方でも愛すわ」


 ポーラの言葉に、オリヴァーは複雑そうに顔を曇らせます。

 それから次に、彼は後ろに控えていた私へ視線を向けました。


「貴女は?」

「ルシア・ヘインズ。……ポーラの姉です。本日は、彼女の付き添いに……」

「そうですか」


 震えそうな声と、溢れそうな涙を堪えて俯きます。

 途中で言葉は途切れてしまいましたが、幸いにもオリヴァーはそれに気付かなかったようです。


「ねぇ、オリヴァー? 体力が戻ったら一緒に色んな事をしましょう。貴方が戦いに出る前の時みたいに、ピクニックに行ったり、街に出掛けて買い物をしたり――」


 ポーラが語る思い出は全て、私とオリヴァーに関わる事だった。


 ――やめて頂戴。

 その時間は私の物よ。貴女のものではない。


 ……そんな言葉が溢れそうになりました。

 しかし、その時。


「ああ、申し訳ない。婚約については一旦保留願いたい」


 ――彼は真面目な顔でそんな事を言い出しました。


「……は?」


 ポーラが声を漏らします。

 しかし呆然とする彼女をよそに、オリヴァーは続けました。


「聞けば、俺と君は深く愛し合っていたというじゃないか。しかし今の俺は君の事を覚えていない……過去と同様に君を愛してあげられる保証がない」

「な――」


 その言葉を聞いた時、私はふと思い出します。

 ――そうだ。オリヴァーはそういう人だった。


「そ、そんな事気にしないわ! さっきも言った通り、私はどんな貴方でも愛してみせるもの!」

「それでは俺の気が済まないんだ。君と同じ気持ちを返してあげられる確証を得られるまで、悪いが待って欲しい」


 二人が何やら言い合いを始めている外で、私は思わず吹き出してしまいます。

 誠実で、優しくて――そして変に頭が固い。

 それが、オリヴァー・アルドリットという人物でした。


 記憶が無くなったとしても、彼の本質が変わった訳ではない。

 彼はきちんと今も目の前に存在しているのだと悟った私はなんだか拍子抜けしてしまい、また彼の頑固さに振り回されるポーラの様子がおかしくなってしまって、私はくすくすと笑いだしました。


「っ、何がおかしいの!」

「何か?」


 見下している女から笑われた事が気に入らなかったのでしょう。

 ポーラは噛みつかんとする勢いで私を睨みましたが、彼女の声のすぐ後に、オリヴァーがきょとんとした顔で問うてきました。


「い、いえ……申し訳ありません。……ふふっ、あはははっ」

「……おかしな人だな、貴女は」


 貴方には負けますとも。

 そんな軽口を私は心の奥にしまい込みます。


 彼が私へ向ける言葉は、且つての砕けたものではなくなっていたし、私はもう彼の隣に立つ事は出来ないけれど、それでも少しだけ心が軽くなった気がしたのでした。




 それから二週間が経ち、ポーラは毎日のようにアルドリット辺境伯邸を訪れていますが、オリヴァーの心を掴む事は出来ていないようでした。

 婚約者を入れ替える話は、そもそもオリヴァーが婚約を続けることに否定的である事から様子見ということになり、宙に浮いたまま。

 両家共に書面でのやり取りはまだ交わせていない状況です。


 私はあの日以来、アルドリット辺境伯邸には行けておりません。

 けれど一度死の淵を漂った彼が健やかにいてくれるだけで充分だと思いました。


 そして私は――モーティマー公爵家へ向かうことになりました。

 モーティマー公爵家の嫡男は、ポーラの婚約者です。

 何でも、両親が婚約者の変更を頼み込む手紙を送ったそうですが、その返事はとても淡白な文面ながら、モーティマー公爵家側の怒りがよくわかるものだったとか。

 当然のことでした。


 オリヴァーが武勲を上げる前であればまだしも、彼は今や国一番の英雄です。

 この時期に婚約者を入れ替えたいという申し出は、大貴族へ嫁がせようとしていた愛娘を、やっぱりより高い影響力を持つ英雄の婚約者にしたい……貴方の家はそれ以下の娘を当てがいたいと言っているようなものです。

 モーティマー公爵家からしたら舐められたと感じる事でしょう。


 そんなモーティマー公爵家の嫡男、ハミルトンの機嫌を取る為に私はモーティマー公爵家へ向かうよう両親から指示されたのです。




 どのような言葉をぶつけられるのかとびくびくしながら訪れたモーティマー公爵家。

 迎えは使用人だけでした。

 使用人に連れられた私は、ハミルトン様が持つ執務室へ案内されました。


 しかし扉の前に立った時。

 二つの声が聞こえます。


「おい、そろそろ帰ってくれないか」

「頼むよハミルトン。俺と君は友だったのだろう?」


 使用人は少々困った様子を見せながらノックをする。


「どうぞ」


 低く落ち着いた声が返されます。

 それを聞いた使用人は扉を開けると私に入室するよう促しました。


「し、失礼いたします」


「前の俺が君に心を許していたという事は君と話していてすぐに納得いったよ。きっと親友だったんだろう」

「悍ましいことを言うな。とんだ見当違いだ……おい、客が来た。アポなし侵入者はとっとと出て行ってくれ」

「あれ、君は」


 私の入室にも気付かず、話を続けていた先客の言葉を部屋の主――ハミルトン様はバッサリと切り捨てました。

 そこで漸く私の入室に気が付いた先客は私を見て、目を丸くします。


 驚いたのは私も同様でした。

 何故ならその先客というのは――オリヴァーの事だったのですから。


「お、オリヴァー……!? ……様っ」

「ポーラの姉君じゃないか!? ハミルトン、ヘインズ伯爵家の者が来るならもっと早く言ってくれよ!」

「先程も言ったが貴様が勝手に押し掛けたのが悪いんだ。私は用事があると断ったし、彼女もしっかり事前に連絡をくれた立派な客人だ」

「……オリヴァー様、その、本日はポーラとお会いする用事があるのでは……」


 ポーラは最近、毎日のようにオリヴァーと会う話を私にするのです。

 私が口惜しがる姿を見たいのでしょう。

 当然今日も、お見舞いへ行く約束をしたと私に話してから出かけました。


「ああ、申し訳ない……その、ですね」


 オリヴァーは何とも歯切れ悪く話します。


「これは貴女の妹と馬が合わなくて困り果てているようで、こうして理由を付けて家にまで転がり込んで来た」

「は、ハミルトン!」

「な、なるほど……」

「君も納得するのかい……」


 病み上がりな上記憶喪失ともなれば、一人で落ち着けるような時間も欲しいというものでしょう。

 しかしポーラは朝から夕方までアルドリット辺境伯邸にお邪魔していると聞きます。

 記憶を失う前から彼はポーラを苦手としていたので、余計に苦しかったのでしょう。


 結果、耐え切れなくなって家を飛び出してしまったとしても仕方がないのかもしれない、と私は思いました。

 ……病み上がりな上、半年で落ちた体力は計り知れないものになりますから、出来れば安静にして欲しくはあったのですが。


 また、逃げ込んだ先がモーティマー公爵家というのも、納得のいく話でした。

 オリヴァーと話しているお方――ハミルトン・モーティマー様は元々学友であられましたから。

 二人は王立学園に通う王太子殿下に気に入られた数少ない生徒であり、殿下経由で知り合ったと言います。

 王太子殿下の傍についていればいくらでも顔を合わせる機会はあり――そうしていつの間にか取り巻きの中でも特に親しい関係を築いていた、とオリヴァーから聞いた事がありました。


 オリヴァーが目を覚ましてすぐにハミルトン様も見舞いへ来たと、アルドリット辺境伯夫妻からお伺いしていましたので、恐らくその後も何度か見舞いへ向かう内、いつの間にかオリヴァーの心を掴んだのでしょう。

 どうやら記憶を失ってもオリヴァーが好む人物像などは変わらないようでした。


「申し訳ない、ルシア嬢。この後すぐに帰宅しますから、どうかこの件は内密にしていただけませんか」

「畏まりました。仰る通りに致しますから、どうかその……安静にしていただけますと」


 オリヴァーの体は以前に比べて随分痩せ細っています。

 精神的な自衛であろうと、動き回る事は好ましくないはずでした。

 オリヴァーはその言葉を聞くと目を丸くしてから、朗らかに笑いました。


「ああ、どうもありがとう。……騒いで悪かったよ。それじゃ」


 オリヴァーはそう言ってその場を去って行きました。

 この場に残ったのは私とハミルトン様だけ。


 ハミルトン様は扉が閉じたのを確認してから深い溜息を吐きました。


「あ、あの……この度はとんだご迷惑を」

「本当にな。貴女の家は随分と我が家を舐めているようだ」


 せめて自ら謝罪をと頭を下げるも、その声はすぐに切り捨てられます。

 正直、返す言葉もありません。


「婚約者の入れ替えを許容するつもりはない」


 想定された答えが返されますが、このまま帰る事は両親が許してくれないでしょう。

 何と申し上げればいいのかと私は頭を悩ませていました。

 すると


「貴女には既に、結ばれるべき相手がいるだろう」

「……っ!」

「そしてそれは、私ではないはずだ」


 ハミルトン様はそう言うと机の引き出しから一通の手紙を差し出しました。

 私は不思議に思いながらそれを受け取ります。


 それは、オリヴァーがハミルトン様に宛てた手紙でした。


「戦に出る直前、あいつはこんなものを寄越した。開戦が唐突だったからな。元から汚い字字体が余計に乱れているが」


 私は封の中にしまわれた便箋に目を落としました。

 そこに書かれていたのは――


『俺が戻るまで、ルシアを頼む』


 たった一文。

 そこに戦へ向かう彼の覚悟と、私への想いが滲んでいました。


 ぽつぽつと、雫が頬を伝います。

 小さくしゃくりあげる私を見て、ハミルトン様は何度目かの溜息を吐きました。


「ヘインズの家の奴なんかと繋がりを持つつもりは二度とない。貴女の妹との縁は喜んで切らせていただくが、代わりに貴女を迎え入れるつもりもない」


 ハミルトン様の言葉を聞いている内、何故オリヴァーが彼を好んだのかを少しだけ理解しました。

 厳しい言葉遣いではありますが、言葉尻から友を気に掛ける思いが感じ取れました。


「だから貴女の面倒を見るのは――今回一度きりだ」

「は、い」


 とっとと奴を取り返せ、とハミルトン様は言外に言いました。



***



 数ヶ月後。

 私はハミルトン様と共に夜会へ出席します。

 婚約者としてではなく、友情ありきのパートナーとして。

 そしてこのパーティーにはオリヴァーとポーラも出席していました。


 相変わらずオリヴァーはポーラを苦手意識しているようで、婚約者として振る舞うことを拒否していました。

 とはいえ以前からパートナー出会った女性を一人でパーティーへ放り出す事も出来ず、この日は仕方なく出席をしたのです。


 パーティー会場へ入ってすぐ、ハミルトン様はオリヴァーとポーラを見つけます。

 そして――


「準備はいいな?」

「……はい」

「貴女の事になると途端に愚かになるあいつの事だ。どうせ拍子抜けするほど容易に終わるさ」


 私達は二人の前へ出ます。

 ポーラはハミルトン様の姿を見て顔を強張らせました。


「これはこれは、私の元婚約者じゃないか?」

「な……っ!」


 背を向けて距離を取ろうとするポーラへハミルトン様はそう言います。

 彼の声は良く通り、周囲の方々の視線が一斉に私達へと集まりました。


「鞍替えした英雄の隣はどうだ? 私の傍よりも大層居心地がいいんだろうな?」

「な、なんのお話か――」

「まだわからないか? 我が友と、彼と愛し合っていた女性の仲を引き裂いておきながらなんと面の皮の厚い事か!!」

「ッ、ハミルトン様!!」

「……ハ、ハミルトン? 何の話だ」

「貴様もいい加減、目を覚ませ。こんな女のどこに惚れる要素がある?」

「い、いや、全く見つけられてないけど」


 こういう時、素直に言葉にしてしまうのはオリヴァーの悪い所でしょう。

 しかしこの時ばっかりは小気味好いと思いました。


 ハミルトン様は、例の手紙をオリヴァーへ突き付けます。

 驚いたオリヴァーはそれを反射で受け取りました。

 それこそが――合図です。


 私はオリヴァーの手を取り、強く引きました。


「え、ちょっと」

「な、お姉様……ッ!」

「待て、貴様とはまだ話が終わっていない」

「っ、誰か! あいつを止めて!!」


 駆け出した私達をポーラが追い掛けようとしましたが、それをハミルトン様が止めました。

 私達はそのまま、外へと飛び出しました。




 暫く走って、人気のない庭園で漸く足を止めます。

 二人揃って乱れた息を整え――それから私はオリヴァーを見ました。

 オリヴァーは困ったように私を見ています。


 しかし彼は急に何なのだ、と言った驚きは口にしませんでした。

 代わりに彼の口から漏れたのは。


「――貴女なんじゃないか」


 そんな言葉。

 想定外の言葉に息を呑み、目を見張ればオリヴァーは困ったように頬を掻きました。


「いや、違ったらすまない。もしかしたらただの願望で、俺が失った記憶とは何も関係がないのかもしれないんだが……ハミルトンの家で君に会ってからずっと考えて痛んだ。君が――俺の婚約者なら、よかったのにと」


 例え忘れてしまっても、過去の想いの鱗片が彼の中に残っている事を私は知っています。

 だから……これもきっと、偶然はないのだろうと思いました。


 真剣な眼差しが私だけを見続けています。

 それがどうしてだかとても嬉しくて……私は静かに涙を流しました。


「ああ、やっぱり。……俺を見る君の顔が、あまりに優しかったから」


 言葉を返す事も出来ずしゃくり上げる私の頬にオリヴァーが触れます。

 彼は指で雫を掬ってくれますが、それ以上の涙が私の顔を濡らしました。


「君の悲しそうな顔を見るのは、とても苦しいんだ。きっと……きっと、思い出してみせるから――どうか、笑ってくれないか」


 まるで、花冠をくれた時のような言葉を投げられて私は少しだけ驚きました。

 そしてあの時と同じような風に頬を撫でられ――私は笑みを作る。

 まだ苦しさは残っていたけれど、それでも彼が私を想ってくれているという事実が、嬉しかったのです。


 その時でした。

 オリヴァーがハッと息を呑みます。


「…………ああ」


 長い沈黙の後、私の顔を何度も優しく撫でて彼は声を漏らしました。


「本当に俺は……駄目な奴だ」


 突如、オリヴァーが私の腕を引いて、強く抱きしめました。


「君の家族の事も気付いていたのに上手く気遣ってやる事も出来ず……何ヶ月も君をほっぽって、挙句の果てに、忘れてしまっていただなんて」

「……オリ、ヴァー?」

「すまない、ルシア」


 オリヴァーが私の顔を覗き込みます。

 彼の青い瞳は潤んで、大きく揺れていました。


「……思い出したよ。きちんと、思い出せた。俺の――世界で一番、大切な人」


 既に涙が止まらないというのに、彼はどこまで私を泣かせるつもりなのでしょうか。


「……っ、よか、っ――」

「待たせてすまない、ルシア。――愛しているよ」


 オリヴァーがゆっくりと顔を近づけます。

 上手く言葉が紡げない私は、せめて彼の想いに応えたいと、彼の口に自ら唇を寄せました。


 長く深いキスは少しだけ涙の味がしました。



***



 その後聞いた話ですが、ポーラや両親の行いはハミルトン様によってあの場で全て公になったそうです。

 家族は蔑みの対象となり、誇張された悪評まで飛び交い始め――政界での信用は大きく落ちていきました。

 またポーラはオリヴァーと婚約を結ぶ事も出来ず、ハミルトン様からも絶縁を申し出され――おまけに悪評のせいで新たな婚約者も見つけられていないとか。


 とか、という言い方になってしまうのは、私がもうヘインズ伯爵家の者ではないからです。

 記憶を取り戻したオリヴァーはすぐに帰宅し、両親達に詰め寄り、今まで見た事がない程の怒りを見せました。


 私がそれを宥めた後、彼は両親に今すぐ私を娶る準備をと説得します。

 それから我が家に「ルシアでなければ婚姻は結ばない。我が家との繋がりが欲しいのであれば今すぐに婚姻させる事」というやや無茶な要求を通し――一週間と経たないうちに私はアルドリット辺境伯家へ嫁ぐ事となったのです。




「そういえば、ハミルトンの奴から返された手紙、全然使わなかったって言ったらさ」


 辺境伯邸でお茶会をする中でオリヴァーがそう話を切り出します。


「『ルシア嬢に対する貴様の頭の弱さは私の想像以上だったという訳か』って何故か呆れられたんだよなぁ」

「ふふ」

「寧ろ遅すぎたくらいだというのに」


 オリヴァーはあの後、芋づる式に記憶を思い出していき、今となってはすっかり以前の彼に元通りとなっていました。

 私はというと……オリヴァーの妻となった今、何一つ不自由ない暮らしをさせてもらっています。


「……幸せね」


 思わず、そんな言葉が漏れました。

 オリヴァーが目を瞬かせています。


 それから彼はつられるように微笑み、頷いてから、私へと距離を詰めました。

 整った顔がすぐ近くまで来ます。


「確かにそうだ。けれど……」


 オリヴァーは私の唇を奪い、口づけをします。

 そして満足げに笑みを深めてから低く囁きました。


「これからずっと、幸せにしてみせるよ。ルシア」


 それから彼は、今度アクセサリーを買いに行こうと言いました。

 もう無くすこともないだろうからと。


 そんな彼の言葉に……私は頬を赤らめながら小さく頷く事しかできないのでした。




 ……困ったわ。


 私は心の中で呟きます。


 こんな時が、永遠に続いて欲しいのに――


 ――心臓がずっと煩くてもちそうにもないなんて。




 幸福でありながらも落ち着く事の出来ないような新婚生活は、まだまだ始まったばかりなのでした。

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