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乗り換え

作者: 村上 治
掲載日:2025/11/20

## 小説『乗り換え』


**プロローグ「中古自転車屋」**


その自転車屋を見つけたのは、まったくの偶然だった。休日の午後、特に用事もなく車を走らせていた僕は、見慣れない小道に入り込んでいた。古い商店街の外れ、シャッターを下ろした店が並ぶ一角に、その店はあった。

「サイクルショップ・ミズタニ」

手書きの看板。店先には色とりどりの中古自転車が並んでいる。ママチャリ、マウンテンバイク、子供用の補助輪付き自転車。どれも使い古され、色褪せて、でもどこか愛着を感じさせる佇まいだった。


僕は車を駐めて、店に入った。店内は薄暗く、自転車の部品や工具の匂いが充満している。奥の作業台では、白髪の店主が黙々とタイヤ交換をしていた。

「いらっしゃい。何かお探しで?」

「いえ、ちょっと見せてもらうだけで」

店主は軽く頷いて、また作業に戻った。

僕は店内をぶらぶらと歩いた。壁に立てかけられた自転車たち。ロードバイク、折り畳み自転車、錆びついたミニサイクル。それぞれに、かつての持ち主の人生があったのだろう。通勤に使われたもの、買い物に使われたもの、子供が乗り回したもの。


ふと、壁に目が留まった。作業台の上、工具箱の脇に、小さな額縁が飾られている。古びた写真だ。近づいてみると、僕の足が止まった。写真に写っているのは、一台の自転車だった。黒のフレーム。独特の流線型。ハンドルの形。そして、右手元にある五段ギアのレバー。


「ハーリーマジック…」


思わず、声が出ていた。店主が顔を上げる。

「ああ、それ? 懐かしいでしょう。もう二十年以上前のモデルですよ」

二十年。そうか、そんなに経つのか。

「これ、昔うちの店で扱ってたんです。子供用自転車の中じゃ人気でしたねえ。今じゃもう部品もないし、見かけることもなくなりましたが」

店主は懐かしそうに笑った。

「お客さん、乗ってました?」

「ええ…小学生の頃」

「でしょうねえ。あの頃の子供たちは、みんなハーリーマジックに憧れてたもんです」


僕は写真を見つめていた。五段ギア。あの独特のレバーの感触。カチャ、カチャ、という音。その瞬間、何かが堰を切ったように溢れ出した。隣町への道、平坦な道と、下り坂と、上り坂、風、塾の鞄の重さ、そして中間点、あの場所、空き地の前、街灯の下、僕と(サトル)が自転車を乗り換えた場所・・・・・。


土田哲。あいつは今、どこで何をしているんだろう。

「何か思い出しました?」

店主が優しく笑っている。

「ええ…いろいろと」

「自転車ってのは不思議なもんでね。ただの鉄の塊なのに、いろんな思い出を運んでくれる」

店主はそう言って、また作業に戻った。


僕はもう一度、写真を見た。ハーリーマジック。僕が小学五年生のとき、親にねだって買ってもらった自転車。あんなに嬉しかった。あんなに大切だった。でも、それ以上に思い出すのは、哲と交わした取り決めだった。「中間点で乗り換えよう」という、あの提案。最初は嬉しかった。新しい自転車を、親友と分かち合えるのが。でも、少しずつ変わっていった。ルールが。バランスが。そして最後――


僕は深く息を吐いた。

「ありがとうございました」

店主に声をかけて、店を出た。


秋の午後の日差しが、やけに眩しい。車に乗り込んで、しばらくぼんやりとハンドルを握っていた。哲とは、もう二十年近く会っていない。連絡先も知らない。SNSで探せば見つかるかもしれないが、そうする気にもなれなかった。今さら何を話せばいいのだろう。「あの頃のこと、覚えてる?」そんなことを聞いて、どうなるのだろう。


でも、僕の心の中で、あの日の風が吹いている。中間点へ向かう道。哲と並んで走った道。二人で自転車を乗り換えた、あの場所。我に返りエンジンをかける。現代的な車のエンジン音。静かで、滑らかで、快適だ。ハーリーマジックとは、まるで違う。それでも、僕はふと思う。あの頃の自分に、今の自分は何を伝えられるだろう。哲との日々を、どう説明できるだろう。すべては、あの「乗り換え」から始まったのだ。



**第1章「ハーリーマジック」**


僕が小学五年生のとき、新しい自転車を買ってもらった。それまで乗っていたのは、兄のお下がりの古い自転車だった。サドルは破れ、ハンドルはガタついていた。友達が次々と新しい自転車を手に入れる中、僕だけがその古びた自転車に乗り続けていた。

「誕生日に、新しい自転車を買ってあげるから」

母がそう言ってくれたのは、僕が十一歳になる少し前だった。


僕は自転車屋のカタログを何度も何度も眺めた。ページの端は折れ曲がり、お気に入りのページには指紋がべったりとついていた。そして、僕が選んだのがハーリーマジックだった。黒のフレーム。流線型のデザイン。そして何より、五段ギア。当時の子供用自転車としては、最新式だった。


誕生日、学校から帰って玄関先に置かれていたハーリーマジックを見たとき、僕は声も出なかった。カタログで見るより、ずっと格好良かった。

「大事に乗るんだよ」

父がそう言って、僕の頭を撫でた。

その日から、僕はどこへ行くにもハーリーマジックに乗った。友達の家へも、買い物へも。ギアレバーを操作するたびに、カチャ、カチャ、と小気味良い音がした。風を切って走る感覚が、たまらなく気持ち良かった。


そして、週に二回、僕はその自転車で塾に通うことになった。明効ゼミナール。隣町にある小さな学習塾だった。家から自転車で二十分ほどの距離。同じクラスの土田哲も、その塾に通っていた。


哲とは幼い頃からの付き合いだった。背は同じくらい、眼鏡をかけ、いつも本ばかり読んでいた。僕らはよく自分が読んだ本を交換して読んだ。彼はモーリス・ルブランの怪盗ルパンシリーズの愛読者、僕は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズの愛読者だったが、いつのまにか逆になっていた。哲とは何をするにも一緒にする仲だった。


「勇、お前も明効に通うのか。じゃあ一緒に行こうぜ」

哲がそう言ってくれたとき、僕は嬉しかった。

塾は毎週火曜日と木曜日の夕方。僕らは学校が終わると、一度家に帰って塾の準備をし、四時に哲の家の前で待ち合わせた。哲が乗っていたのは、家族共用のママチャリだった。茶色い古びた自転車。カゴは錆びていて、ベルの音も鈍かった。


最初の数回、僕らはただ並んで塾まで走った。僕のハーリーマジックは軽快に進んだが、哲のママチャリは重そうだった。下り坂でも、僕の方がずっと速かった。ある日、塾からの帰り道。哲が言った。

「なあ、勇。お前の自転車、ちょっと乗らせてくれよ」

「ああ、いいよ」

僕らは道の脇に停まった。哲は僕のハーリーマジックにまたがり、少し走ってみた。

「すげえ、軽い。ギアも付いてるし」

哲は嬉しそうに笑った。僕も嬉しかった。自分の自転車を褒められるのは、悪い気分じゃなかった。


それから数日後、塾に行く途中で哲が提案した。

「なあ、勇。俺、ちょっと考えたんだけどさ」

「うん」

「お前の自転車、格好いいじゃん。俺も乗りたいんだよね」

「うん、たまにならいいよ」

「じゃあさ、こうしない? 行きも帰りも、途中で自転車を交換して乗り換えるの。ちょうど中間点でさ」


中間点、それは小さな空き地の前だった。家と塾のちょうど真ん中あたり。街灯が一本立っている。

「そうすれば、お前も俺の自転車に乗れるし、俺もお前の自転車に乗れる。いいよなぁ?」

哲は笑顔で言った。僕は少し考えた。別に、彼のママチャリに乗りたいわけじゃなかった。でも、哲が嬉しそうにしているのを見ると、断る理由もなかった。

「うん、いいよ」

「マジで? ありがとう!」

哲は本当に嬉しそうだった。その日から、僕らは中間点で自転車を乗り換えることになった。


家から中間点までは、僕がハーリーマジックに乗る。哲はママチャリ。比較的平坦な道だった。中間点に着くと、僕らは自転車を乗り換える。そこから塾までは下り坂。哲がハーリーマジックで、軽快に坂を下っていく。僕はママチャリで、ゆっくりと後を追う。塾の友達の一部はママチャリを僕の自転車だと思っていたかも知れない。


帰りも同じ。塾から中間点までは、それぞれが自分の自転車。そこで乗り換えて、家まで帰る。最初のうちは、それで良かった。帰りの上り坂を自分の五段ギアつきのハーリーマジックに乗れるのだから気分も良かった。哲は中間点で自転車を乗り換えるたびに、「ありがとう」と言った。僕も「いいよ」と答えた。新しい自転車を、親友と分かち合っている。そんな気持ちが、僕を満足させていた。


ママチャリは確かに重かったし、ギアもなかったけれど、それほど不満はなかった。だって僕がママチャリに乗るのは行きの下り坂と帰りの後半の比較的平坦な道だったから。中間点での乗り換えは、僕らの日常になった。空き地の前の街灯の下。そこで僕らは立ち止まり、自転車を交換する。それはまるで、僕らだけの儀式のようだった。でも、そのバランスは、少しずつ崩れ始めていた。僕が気づかないうちに。



**第2章「ルールの変更」**


中間点での乗り換えが始まって、二ヶ月ほどが経った頃だった。梅雨が明けて、夏の日差しが強くなり始めた七月のある日。僕らはいつものように塾に行く道を走っていた。家から中間点までは、僕がハーリーマジック、哲がママチャリ。そこで乗り換えて、塾まではお互い相手の自転車に乗る。いつものルールだった。


中間点の空き地の前で、僕らは自転車を停めた。哲がママチャリから降りながら、言った。

「なあ、勇。ちょっと思ったんだけどさ、帰りのルール、変えない?」

僕は哲を見た。

「どういうこと?」

「塾から中間点までを、相手の自転車に乗るんだよ。で、中間点から家までは、自分の自転車」

「え?」

僕は一瞬、理解できなかった。哲は図を描くように、手を動かして説明した。


「ほら、今は塾から中間点まで、それぞれ自分の自転車だろ? で、中間点で乗り換える。でもさ、それだと結局家の前でもう一回乗り換えなきゃいけないわけじゃん」

「家の前で?」

「そう。だって、自分の家には自分の自転車を置かなきゃいけないだろ? 今のルールだと、お前は俺の家まで来て、俺の自転車を返して、わざわざ自分の自転車に乗り換えて帰らなきゃいけないだろ・・・・」


僕はようやく理解した。確かに、今までそうしていた。家に帰る前に、哲の家まで行って、自転車を乗り換えて。少し面倒だったけれど、それが当たり前だと思っていた。

「だから、塾から中間点までを相手の自転車で、中間点から家までを自分の自転車にすれば、スムーズじゃん。そのまま家に帰れる」

哲の説明は、理屈が通っていた。

「でも…」

僕は言いかけて、止まった。


でも、それだと僕は帰りの上り坂を、ママチャリで登ることになる。家から塾までの道は、行きが平坦で、塾の手前が下り坂。そして帰りは、塾から上り坂を登り、途中から平坦な道を通って家に帰る。


今のルールなら、僕は帰りの上り坂をハーリーマジックで登れる。ギアがあるから、それほど辛くない。でも新しいルールだと、その上り坂をママチャリで登ることになる。

「どう?」

哲が聞いた。期待に満ちた目で。たしかに哲の言う通り、今までのやり方だと家の前でもう一度乗り換えることになる。断るほどのこともないか・・・。


「まあ、いいけど」

僕は結局、そう答えた。

「マジで? ありがとう!」

哲は嬉しそうに笑った。その日から、帰りのルールが変わった。後から考えたら上り坂をギアのないママチャリで登ることを少し甘く見ていたのかもしれない。塾から中間点までは、僕がママチャリ、哲がハーリーマジック。そして中間点で交換して、そのまま家に帰る。最初の数回は、やはり上り坂が辛かった。ママチャリは重い。ギアもない。僕は立ち漕ぎをして、汗をかきながら坂を登った。


哲は僕の前を、ハーリーマジックで軽々と登っていく。

「大丈夫?」

振り返って、哲が聞いた。

「うん、平気」

僕はそう答えた。平気じゃなかったけれど、平気だと言うしかなかった。でも、慣れればなんとかなる。僕はそう思うことにした。


それから、僕はあることに気づき始めた。塾が終わって外に出るとき、哲の様子が以前とは少し違うことに。特に、同じクラスの女の子―名前は美香といった―が近くにいるときだ。以前、ママチャリで帰るときは、哲は僕より先にさっさと出発していた。「じゃあな」と軽く言って、一人で走り出す。僕も気にせず後から走った。


でも、ルールが変わってから、哲の出発が遅くなった。塾の玄関先で雑談をしたり、「ちょっと待って」と言って何か用事を作ったりする。最初は気のせいかと思った。でも、何度か繰り返されると、パターンが見えてきた。美香が塾の玄関を出る時間、哲はその時間に合わせているように見えた。そして、ハーリーマジックにまたがった哲は、少しゆっくりと走り出す。美香の目にしっかりと刻まれるように。


「バイバイ」

哲が美香に声をかける。美香も手を振る。僕はママチャリで後ろを走りながら、なんとなくそのやりとりを見ていた。ああ、そういうことか。僕は理解した。哲は、美香に自分がハーリーマジックに乗っているところを見せたかったのだ。あるいはママチャリに乗っている姿を見られたくなかったのかもしれない。それが悪いことだとは思わなかった。誰だって、格好良く見られたい。でも、そのために僕が代わりにママチャリに乗っているのだとしたら・・・。僕は少しだけ、複雑な気持ちになった。


夏休みが終わり、二学期が始まっても、僕らは週に二回、塾に通い続けた。中間点での乗り換えも続いた。ただ、僕の中で、小さな不満が育ち始めていた。行きは平坦な道を自分の自転車で走り、下り坂をママチャリで降りる。帰りは塾から中間点までの上り坂をママチャリ。塾に通う友達のより多くがママチャリを僕の自転車だと勘違いすることになっただろう。


よく考えると、唯一の上り坂である帰りの前半を哲がハーリーマジックで走っている。でも、それを哲に言うことはできなかった。だって、哲は悪気があるわけじゃない。ただ、効率的な方法を提案しただけだ。それに、僕が一度「いいよ」と言ってしまったのだから。


中間点での乗り換えは続いた。空き地の前の街灯の下。そこで僕らは立ち止まり、自転車を乗り換える。哲は相変わらず「ありがとう」と言った。でも、その言葉が、最初の頃ほど嬉しくなくなっていた。


秋になり、日が短くなった。中間点に着く頃には、もう薄暗くなっていた。街灯の下で自転車を交換する僕らの影が、地面に長く伸びていた。

そして、その秋の終わり頃。哲が、新しい自転車を手に入れることになった。



**第3章「ネオハーリー」**


その日、塾に行く途中で哲が言った。

「なあ、勇。俺、新しい自転車買ってもらうんだ」

「え、マジで?」

僕は驚いて哲を見た。

「うん。塾、一回も休まず通ってるからご褒美だって」

哲は誇らしげに笑った。確かに、哲は一回も塾を休んでいなかった。僕は風邪で二回ほど休んだことがある。


「どんな自転車?」

「ネオハーリー。ハーリーマジックの新しいやつ」

「ネオハーリー…」

僕はその名前を聞いたことがあった。自転車屋のカタログで見たことがある。ハーリーマジックの後継機種。七段ギア。より軽いフレーム。僕が羨ましいと思っていた自転車だ。

「いいなぁ」

「だろ?来週には届くらしい」

哲は嬉しそうだった。僕も友達が新しい自転車を買ってもらえることは嬉しかった。これで、自分もママチャリに乗らなくて済むとも思った。僕は自分のハーリーマジックと彼のネオハーリーで塾に通える。その考えが、僕を明るい気持ちにさせた。


翌週の火曜日。待ち合わせ場所の哲の家の前で、僕は新しい自転車を見た。ネオハーリー。深い青色のフレーム。ハーリーマジックよりも洗練されたデザイン。そして、右手元には七段ギアのレバー。

「すげえだろ」

哲が自慢げに言った。

「うん、格好いい」


僕は素直にそう答えた。本当に格好良かった。少し羨ましかった。でも、これで自分もママチャリに乗ることはなくなる。そう思うと、気持ちは楽だった。

「じゃあ、行こうぜ」

哲がネオハーリーにまたがった。僕も自分のハーリーマジックにまたがる。僕らは並んで走り始めた。二人で。


ネオハーリーは速かった。哲はギアを切り替えながら、軽々と進んでいく。僕のハーリーマジックも悪くはないけれど、やはり新しい自転車には敵わない。

そして、中間点の空き地の前に着いた。僕は習慣で自転車を停めかけた。でも、哲は停まらなかった。

「哲?」

僕が声をかけると、哲は振り返って言った。

「ああ、もう乗り換えはやめようぜ」

「え?」

僕は自転車を停めて、哲を見た。

「もうお互い自分の自転車で良くない?」

哲はしれっと、当たり前のように言った。

「もうお互い、乗り換えとかしなくていいんじゃない? それぞれが自分の自転車に乗る方が、自然だろ?」

ママチャリの重さは二人で分け合うが、二人とも新しい自転車ならば乗り換えはいらないだろう、という理屈のようだ。僕は何も言えなかった。


確かに、僕はハーリーマジックに乗っている。でも、ネオハーリーには一度も乗っていない。そして、これまでママチャリに乗ってきた時間は。帰りの上り坂を、重い自転車で登ってきた日々は・・・・。

「じゃあ、行こうぜ」

哲はそう言って走り出した。僕も自分のハーリーマジックにまたがって、後を追った。


哲のネオハーリーは、風を切って進んだ。七段ギア。最新の技術。僕のハーリーマジックも悪くはない。五段ギアで、十分に速い。でも、やはり実際に同じ道を走ってくらべたら・・・。塾に着くまでの短い時間、僕は黙って走った。何か言おうとしたけれど、言葉が出てこなかった。


塾が終わって、帰り道。僕らはそれぞれの自転車で走った。中間点を通り過ぎても、停まることはなかった。上り坂を登るとき、哲のネオハーリーは軽々と進んでいく。七段ギア。僕のハーリーマジックも、五段ギアで何とか登る。前よりは楽だった。ママチャリよりは、ずっと楽だった。でも、心の中で、小さな違和感があった。


結局、僕は何を得たんだろう。ママチャリに乗った時間。帰りの上り坂を、重い自転車で登った日々。それは、何のためだったんだろう。側から見れば、今はそれぞれが自分の自転車に乗っている。何の違和感もない。でも、僕の心の中には、何かが残っていた。中間点での乗り換え。あれは何だったんだろう。僕らは、また週に二回、塾に通い続けた。それぞれの自転車で。中間点の空き地の前を通り過ぎるとき、僕はいつも思い出した。あの場所で、僕らは何度も自転車を交換した。でも、もうそれはない。冬が近づいていた。



**第4章「最後の乗り換え」**


冬が来た。塾への道は、寒風が吹き抜けるようになった。僕らは手袋をして、マフラーを巻いて、自転車に乗った。中間点の空き地の前を通り過ぎるとき、僕はいつも一瞬だけそこを見た。街灯の下。僕らが何度も自転車を交換した場所。でも、もうそこで停まることはなかった。哲のネオハーリーは相変わらず速く、僕のハーリーマジックは相変わらず頑張って後を追った。塾では、僕らは普通に話した。笑い合った。自転車のことは、話題に上らなかった。


そして、二月のある日。学校で哲が話しかけてきた。

「なあ、勇」

「何?」

「俺、来月で塾辞めることになった」

「え?」

僕は驚いた。

「親父の転勤が決まって。三月に引っ越すんだ」

「引っ越し…」

「うん。隣の市。だから、もう明効には通えない」

哲は少し寂しそうに笑った。

「そっか」

僕はそれしか言えなかった。


哲の最後の塾の日。二月の終わり。まだ寒い日の夕方だった。僕は哲の家の前で待ち合わせた。

「最後だな」

哲が言った。

「うん」

僕らは自転車にまたがった。並んで走り出す。静かな夕暮れの道を。そして、中間点の空き地の前に差し掛かったとき、哲が突然、自転車を停めた。


「勇」

「何?」

「久しぶりにここで自転車を交換しようぜ」

僕は哲を見た。

「え?」

「最後だし。お前、ネオハーリー乗ったことないだろ?」

哲は笑っていた。でも、その笑顔は、どこか照れくさそうだった。僕は少し驚いた。でも、すぐに答えた。

「うん、いいよ」


僕らは街灯の下で、自転車を降りた。哲が僕のハーリーマジックに、僕が哲のネオハーリーにまたがる。久しぶりの、中間点での乗り換え。ネオハーリーは、やはり軽かった。サドルの座り心地も、ハンドルの握り具合も、全てが心地よかった。

「じゃあ、行こうぜ」

哲が言った。僕らは走り出した。中間点から塾まで。ネオハーリーは風を切って進んだ。


塾が終わって、帰り道。僕らは塾を出て、来るときと同じようにそれぞれ相手の自転車にまたがった。塾から中間点まで。上り坂。ネオハーリーは、驚くほど軽かった。七段ギア。ギアを切り替えるたびに、坂道がどんどん楽になる。僕は初めて、本当の意味でネオハーリーの良さを実感した。これが、ネオハーリーか。


横を見ると、哲が僕のハーリーマジックを一所懸命漕いでいた。

「やっぱりハーリーマジック、いい自転車だよな」

哲が少し息を切らしながら言った。

「そうだろ」

僕は答えた。中間点の空き地の前で、僕らは自転車を停めた。また乗り換える。哲がネオハーリーに、僕がハーリーマジックに。


そして、中間点から家までの道を、二人で並んで走った。哲の家の前に着き、僕らは自転車を停めた。哲はネオハーリーを降り、僕を見た。

「ありがとな」

そう言った。 何に対する「ありがとう」なのか、僕にはよく分からなかった。

自転車のこと?塾のこと?友達でいてくれたこと?それとも、今日、最後に乗り換えをしてくれたこと?僕も、よく分からないまま答えた。

「うん。またな」

「またな」

僕は手を上げて、走り去った。哲はネオハーリーを駐めて家の中に入った。


それから、三月まであと少しという間、僕らは普通に学校生活を送った。そして哲は三月の初めに引っ越していった。クラスでお別れ会をした。みんなが寄せ書きを渡した。僕も書いた。「元気でいろよ」と。哲は笑って、「ありがとう」と言った。そして、去っていった。

僕は、それからも週に二回、塾に通い続けた。ハーリーマジックに乗って。中間点の空き地の前を通るたびに、僕はあの街灯の下を見た。あの場所で、僕らは何度も自転車を交換した。ママチャリに乗った日々。帰りの上り坂を、重い自転車で登った日々。


でも、最後の日。哲は、もう一度だけ、僕と自転車を交換してくれた。あれは何だったんだろう。償い?お別れ?それとも、ただの思い出作り?僕には分からなかった。

哲はずるかったけれど、悪い奴じゃなかった。そう思えた。


六年生になっても、僕は塾に通い続けた。哲は、どこかの小学校に通っているはずだ。連絡先は交換しなかった。住所も知らなかった。それでも、いいと思った。中間点での乗り換えは、僕らだけの思い出として、あの場所に残っている。それで十分だと思った。



エピローグ


中学二年の夏。地区の弁論大会。僕は聴衆として客席にいた。

「次は、西山中学校二年、土田哲さんです」

司会者の声が響いた瞬間、僕の体が固まった。舞台に現れた哲は、背が伸びて大人っぽくなっていた。

「僕のテーマは、『友情について』です」

哲は話し始めた。小学生の頃、友達と塾に通ったこと。中間点で自転車を乗り換えたこと。自分がママチャリに乗っていたときは友達の新しい自転車と乗り換えたのに、自分がもっと新しい自転車を手に入れた途端、乗り換えをやめてしまったこと。自分の方が得をしていたこと。友達は何も言わなかったけれど、きっと気づいていたはずだということ・・・・。


客席を見上げた哲の視線が、一瞬、僕の方を向いた気がした。

「友情とは、常に完全に公平なものではないかもしれません。時には、どちらかが譲ることもある。僕たちの場合、彼のほうが僕にたくさん譲って関係を続けてくれた。それが本当の友情なのかもしれないと、今、僕は思っています」

哲は深く一礼した。会場から拍手が起こった。


弁論大会が終わって、僕は会場の外に出た。後ろから声がした。

「勇?」

哲が立っていた。

「やっぱり、お前だったんだな」

「うん。聞いてた」

しばらく、二人とも黙っていた。


「また、今度どこかで」

哲が言った。

「うん、またな」

僕は答えた。


連絡先は交換しなかった。それでいいと思った。哲は西山中学の友達の方へ。僕も、自分のクラスメイトの方へ。振り返ると、哲も振り返っていた。僕らは手を上げた。そして、それぞれの道へ。


その夜、僕はハーリーマジックで少しだけ夜道を走った。中間点の空き地はもうなくなり、新しく家が建っていた。でも、僕の心の中には、あの街灯の下が残っている。哲はずるかったけれど、悪い奴じゃなかった。今でもそう思う。


(了)




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