6話
「山の民」の部隊が谷の向こうへ消えてから、五日が経った。
俺の指揮の下、領地では石が獣の骨を叩き割る、乾いた打撃音だけが響いている。
「負債」組の領民たちは、砕いた骨の粉末を痩せた土に撒いていた。
その一連の動作に、感情の起伏はない。
ただ、今日の労働を終えるためだけに、彼らの腕は機械的に上下していた。
ソフィアお嬢様が、その光景から谷の入り口へと視線を移す。
作業を見つめる彼女の指が、無意識に自身の袖を固く握りしめているのが見えた。
「……本当に、彼らは戻ってくるのかしら」
「戻ってきます、お嬢様」
俺は、執事として完璧な角度で一礼し、抑揚のない声で応えた。
「彼らの『家族』という名の『担保』は、この地にありますので」
俺は、作業場の片隅で、同じように骨を砕く山の民の老若男女を顎で示す。
「ーー問題は、彼らが『何』を持って帰ってくるか、です」
その言葉を合図にしたかのように、土埃が舞った。
「伝令! 伝令です!」
山の民の斥候が一人、息を切らして作業場に転がり込んでくる。
「リーダーたちが……谷の入り口に戻られました!」
一斉に、骨を砕く音が止んだ。領民たちの間に緊張が走る。
ある者は荷車を期待して谷の入り口へと身を乗り出し、ある者は斥候の切羽詰まった表情に眉をひそめている。
俺は、その二種類の反応を冷静に観察する。
斥候は、俺の前に膝をつき、絞り出すように続けた。
「……ですが!」
◇
谷の入り口には、数台の荷車が並んでいた。
その上には、麻袋に詰められた大量の穀物と、未来を繋ぐための種籾が山をなしている。
領民たちから、押し殺したような息を呑む音が漏れた。
だが、誰も歓声を上げない。
帰還した山の民の部隊が、荷車の周囲に仁王立ちしていたからだ。
彼らの顔には、取引を成功させた者の高揚感はなく、煮え切らない怒りと、当惑だけが浮かんでいた。
リーダーの男は、腕を組み、荷車の車輪を忌々しげに睨みつけている。
領民たちは、その異様な雰囲気の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇
館の執務室。
リーダーはテーブルの前に立つと、一度何かを言いかけて口を閉じ、小さく舌打ちをしてから、ようやく話し始めた。
「……旦那の命令通り、『食料』と『種』は手に入れた。だが、街はあんたが思うより、ずっと厄介だった」
彼は懐から、売れ残った獣の牙を一本取り出し、テーブルの上に置いた。
「市場でこれを換金しようとしたら、嗅ぎつけられた。『白百合の救済ギルド』と名乗る連中が十数人で現れて、俺たちを囲みやがった」
リーダーは、当時の状況を思い出したのか、こめかみを指で強く押さえる。
「奴らは言った。『その品は「聖女」様が管理される「神聖物」だ。不当に安く売ることは許さん』と。話にならん値で買い叩こうとしやがった。あれは脅しだ」
俺は、黙って報告を聞いている。
「どうにか別の商人に裏から売って逃げてきたが、奴ら、何か裏でデカい商売をやってやがる。俺たちが売った資源の何倍もの値で、どこかに横流ししてるに違いねえ」
報告が終わると、俺は指先でテーブルの表面を、一度だけ、軽く叩いた。
牙を手に取り、その先端を指でなぞりながら、目を閉じる。
(……なるほど。あのタヌキ(聖女)は、宗教的権威を使い、『独占市場』を形成していたか。獣害の恐怖を煽り、そこから得られる資源の流通を独占する。見事な『搾取』の仕組みだ)
俺は目を開けた。
そこには何の感情も浮かんでいない。
「ご苦労だった。お前たちが持ち帰った情報は、荷車の食料すべてよりも価値がある」
◇
再び、広場。
俺は、荷車に積まれた穀物を、無言でソフィアお嬢様に指し示した。
お嬢様は頷き、一歩前に出る。
彼女はリーダーから穀物の小さな袋を一つ受け取ると、まず「負債」組の代表である老人の前に進み出て、その手のひらに穀物を注いだ。
次に、彼女は「人質」であった山の民の家族たちが集まる場所へと向かった。
その代表である老婆の前に立つと、お嬢様は微笑んだ。領民の老人に見せたものと、全く同じ、穏やかな笑みだった。
彼女は、老婆の手にも、全く同じ量の穀物を手渡した。
老婆は、手の中の穀物とお嬢様の顔を二度、三度と見比べ、やがて深く、深く頭を下げた。
俺は、その光景――お嬢様の権威と、山の民の完全な帰順が確定する瞬間――を、冷徹に見届けていた。
分配が一段落し、領民たちが新たな活力を得て荷車の運搬を始めたタイミングで、俺はお嬢様の斜め後ろに、音もなく移動した。
周囲の喧騒に紛れて消える、二人にしか聞こえない声量で、報告する。
「お嬢様。素晴らしい『仕組み』の完成です。ですが、朗報がもう一つ」
お嬢様が、俺に視線を送る。
「――敵の『金庫』の場所が、今、判明いたしました」
彼女の手が、分配用の袋を強く握る。
「次の『フェーズ』に移行します」
俺は、聖女が君臨する王都の方角を見据えながら、冷ややかに告げた。
「この穀物が尽きる前に、あの『聖女』様の『市場』を、我々が完全に『破壊』しに行きましょう」




