後日談:青い揺れのあとで
公開ボタンを押してから十分。受信箱の角が小さく光った。コメント通知だ。
「きたね」
相沢が椅子をくるりと回し、モニターの前に滑ってくる。桂一は一度だけ深呼吸して、開いたままのアナリティクスを横に寄せた。曲線はゆっくり立ち上がっていく。
「『昨日、階段の角で撮影講座をしてくれた者です。掲示があると、みんな止まる場所が分かるんですね。危なくなくて助かりました』だって」
「高校生の子だな。ありがとうを返しておいて」
「もう一件。『1/10の写真、家で見比べたらほんとに人影っぽくてびっくり。けど肉眼は帯のままって書いてあって納得しました』」
「“見え方の理由”まで読んでくれてる。良い流れだ」
画面の右に、新しい通知が二つ重なる。商店会の連絡先からと、役所の公式アドレスから。
「商店会のほう、読み上げるね。『昨夜、通路の詰まりが目に見えて減りました。貼り紙の効果が出ています。二十二時を過ぎると人が散り、路上の滞留も解消。夜光がきれい、という声も多く、散歩の人が戻ってきました』」
「“夜光がきれい”はいい言葉だ。危ない“幽霊”から、扱いやすい“きれい”に寄せる」
港湾課のメールはやや硬い文章だった。
「『掲示の常設を本日より実施します。巡回時間帯は二十〜二十一時を中心に増員。上り口の掲示一枚追加、完了しました。落水ゼロの維持にご協力ください』」
「短いけど、要点は完璧だ。白鳥にも転送しておいて」
「はいよ」
窓の外は昼の白さ。事務所の机の上には、使い切ったテープの芯と、予備のA5用紙が積まれている。相沢がふと、封筒から一枚のメモを取り出した。
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掲示点検メモ(A6)
位置:踊り場/橋脚側欄干/通路角
角の圧着:良・良・要押さえ
備考:週末は上り口に一枚追加(対応済)
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「このメモ、商店会にも共有していい?」
「いい。貼り替えタイミングが目で分かるように、写真も添えて」
そこへ、NPOの共有フォームから成瀬の連絡。件名は簡潔だ。
「『別件(橋)報告あり』。本文読むね。『川筋の歩道橋下で、青い帯を見たという投稿が三件。同じ夜、風は南。月齢は十一。撮影はスマホでオート。場所は港から電車で一時間ほど。現地の商店主が協力可能とのこと』」
「早いな、成瀬」
通話をつなぐと、成瀬の落ち着いた声がスピーカーに広がった。
「昨日出した“出やすい夜カレンダー”が回り始めたみたい。条件に当てはめてくれる人が多くて、報告が揃うのが速い」
「ありがたい。まずは安全からだ。掲示の雛形を送る」
「受け取りました。言い回しは“青い揺れ”で統一するね」
少し遅れて、白鳥からもメッセージが落ちた。
「『グラフ送付。相対明滅、昨夜は波周期とPWMの谷が重なる区間が増加。設定変更不要。巡回時間の調整で対応可』」
「安定してる。——制度は敵じゃない、のやつだ」
「はいはい、名言扱いね」
相沢が笑い、プリンタのトレイに手を伸ばす。図版の最終出力が三枚、静かに吐き出された。夜光の仕組み、PWM×水面反射、見学の導線図。それぞれに短い注釈だけが添えられている。
コメントはさらに増える。高校生の追記、「写真の練習になるので、今度は友だちに危なくない見方を教えます」。近くのカフェの店主、「人だかりが階段で止まらなくなって、店の前が静かになりました。青い揺れ、きれいでした」。港湾課の補足、「週末は橋の上の詰まりを重点的に見ます」。
「なんか、ちゃんと回るって感じだね」
「紙が街の言葉で読まれ始めた。良い兆候だ」
相沢が肩越しに、アナリティクスの画面を覗く。
「昼なのに珍しく伸びてる。滞在時間も長い。図版、効いてる?」
「文章で押さえ、図で短く伝える。いい配分だと思う」
と、画面の端で通知がまた跳ねた。今度は名前に覚えがある。昨日、現場で“肩っぽい”を連発していた高校生だ。
「『記事、家族で読みました。お父さんが“怖くないなら見に行こうか”と言っています。柵には触らない、を守ります』」
「最高のコメント来たね」
「うん。——“怖くないなら見に行こう”って言葉、使わせてほしいくらい」
机の端に置いていた連絡カードの束が薄くなっている。相沢が新しい束を輪ゴムでまとめた。
「次の現地、どうする? 成瀬の“別の橋”」
「条件表をもう一度見てから。——川幅、照明の種類、橋脚の材質。水の色も見たい」
「白鳥さんには?」
「照明のドライバ型番だけ聞いておく。設定は触らない。記録と提案」
静かな数分ののち、商店会の代表から電話が入った。受話器越しの声は少し弾んでいる。
「『昨夜は“幽霊”じゃなくて“青い揺れ”って言う人が多くてね。写真を撮る人も、階段の前で止まらない。ありがとうございました』」
「こちらこそ。困ったら、掲示の横に立って一言“ここで止まりましょう”って言ってください。効きますから」
「ええ、やってみますよ」
通話を切ると、相沢が机に肘をついて言う。
「掲示のラミネート、もう少し刷っておく?」
「お願い。角の圧着を強めに。——それと、商店会用に“貼り替え手順の紙”も一枚」
―――――
貼り替え手順メモ(A5)
角から剝がす。橋にテープ残渣が出たら指で丸めて取る
新しい掲示の四隅にテープ(小)を貼る
目線の高さで貼り、角を二度押さえる
週末は上り口に一枚追加(夜間のみ)
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プリンタが低く唸り、紙が積み重なる。成瀬から、もう一通。
「『“別の橋”の商店主さん、掲示に前向き。場所の写真を送ってくれました。水は濁り気味、照明は温白色。満潮前後で出るとの証言あり』」
「“出やすい夜”が少し違う。——面白い」
「私、明日でも動けるよ」
「行こう。二手に分かれてもいい」
白鳥から電話。声は相変わらず乾いている。
「『川筋の橋、照明はメーカーBのPWM固定型。夜間調光は70%運用。ドライバのデータシート、さっき送った』」
「受け取りました。——設定は触らない。現地で“見るだけ”」
「それが一番早い」
夕方、記事のコメント数は二桁を超えた。炎上はない。質問は短く、礼が多い。
「『“怖がる前に扱い方を知る”、よかったです』」
「ね、タイトルの下のあの一行、効いてる」
しばらくして、現場からの写真が端末に届いた。港湾課の若手が撮ったらしい。掲示は目線高、角はぴたりと押さえられている。通路は流れ、柵に寄る人はいない。
「現場、いい感じ」
「うん。紙は街に馴染むと、急に強くなる」
最後の通知は、商店会の小さな居酒屋からだった。
「『夜光、ほんとにきれいでした。怖がらないで見られるようになったのは、あの紙のおかげです。テープ代が足りなくなったら言ってください』」
「優しい世界だ」
「でも、予算の管理はこっちでやるから大丈夫」
桂一はモニターを閉じ、深く一つ伸びをする。
「——さて、“別の橋”の段取りに入るか」
「はいはい。私は掲示の束を作って、成瀬さんはフォームの受け口を増やして、白鳥さんはドライバの確認」
「全員、いつも通り。心霊かどうかは書かない。扱い方を先に置く」
窓の外、雲が薄く赤くなっていく。港の匂いに、紙とインクの匂いが混じった。
青い揺れは今夜もどこかで生まれるだろう。次の橋かもしれない。
受信箱の角がまた、小さく光った。次の「こん」は、次章への合図だ。
午後の終わり、思わぬ相手からも連絡が届いた。地元高校の写真部顧問だ。
「『昨日の“安全→撮り方→理由”の順がとてもよかったので、校内掲示に引用してもよいでしょうか。文化部の展示に初めて列ができました』」
「うれしい報告。引用可、の一文を返して。校名の記載は任意で」
「ねえ桂一、通販で“掲示セット”売るのは?」
「やめよう。誰でも無料で刷れる紙で十分。——必要なのは“すぐ置ける雛形”」
「はいはい。じゃあPDFにして置くね。A5とA4、どっちも」
机の上で、紙が流れ作業のように完成していく。相沢がホチキスを鳴らし、桂一がリンクを貼り、成瀬がフォームを拡張し、白鳥が凡例の言葉を短く削る。四人の作業は静かで、速い。
数時間後。現場の夜の写真が追加で届いた。橋の上に“青い揺れスポット”の人だかりはない。踊り場で一瞬立って、すぐ歩く。掲示の前には小さな“順番”が自然にできている。
「詰まってないね」
「うん。『写真を撮ったら一歩下がる』が回ってる」
受信箱の下段に、長めのメッセージが沈んだ。差出人は港湾課の若手。文末に「個人の感想です」とある。
「『現場で“幽霊”と言われると、どう返していいか困っていました。今回“青い揺れ”という言い換えが浸透して、注意も柔らかく言えるようになりました。助かりました』」
「現場の言い方が揃うのが、一番効く」
相沢がペンを回しながら、ニヤリとする。
「じゃあ次の橋でも、“青い揺れ”の言葉から始めよう」
「そうだな。まず“怖い”を“扱える”に。紙の仕事だ」
夕飯時。コンビニの袋を机に置くと、スマホが震えた。成瀬だ。
「『商店主さん、明日の夜なら時間が取れるそうです。橋の下、川べりの足元が少し悪いから、先に安全の紙を置いてほしいと言ってました』」
「了解。導線の図を一本足す。——白鳥、川べりの照明は?」
「『器具はB社の連続調光。PWMの周波数帯は製品資料で判明。明日、無接触で見るだけ』」
「ありがとう。許可は成瀬経由で通す。所有者立会いの線で」
食べ終わるころ、コメント欄に静かなやりとりが増えていた。
「『“青い揺れ”、子どもにも見せられました』『怖くないほうが、きれいだと思いました』」
「“きれい”が育ってる」
「うん。——この言葉、街の財産にしたいね」
締めの作業。記事末に、PDFリンクを二つ追加する。掲示の雛形と、貼り替え手順の紙。最後に短い注記を置いた。
——この紙は誰でも使えます。加工・再配布可。危ない場所では、必ず大人が見守ってください。
「よし、完了。次は明日の段取りだ」
「私は現地の導線テストをやる。三回歩いて、詰まる角を洗い出す」
「僕は商店主さんと時間合わせ。掲示の位置写真も撮っておく」
「白鳥さんは?」
「『ロガーと遮光筒、持参。設定は触らない。街の灯りは街のままで』」
「決まり」
夜の色が窓から濃く流れ込む。事務所の灯りを一つ落として、モニターの明るさを少し下げる。静かな青が、画面にも室内にも、薄く残った。
読了ありがとうございました。




