転:出やすい夜、集まる目
雨上がり。昼の湿気を連れた風が、海から町へ押し返している。歩道橋の下は昨夜より人が多い。SNSに貼り紙の写真が回ったせいだろう。通路の角が詰まりやすい。
「相沢、角の誘導、頼む」
「はーい。階段側半歩つめまーす。撮る人は柵に触らないで、ね」
成瀬が腕時計を見てうなずく。
「今は下げの中盤、南南西3メートル。月齢は十一。——“出やすい夜”です」
「了解。白鳥、ロガーは昨日と同じ位置で」
「結論から言うと、設定は前提どおり。触らない。今日は波の周期が合ってる。データは取れる」
橋桁の裏でLEDが点り、白い光が桁のすき間に薄く溜まる。人の気配が一段濃くなった。
「まず、起きない時間から並べるよ」
「了解。起きない=材料」
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観測記録シート(A4)
地点:橋脚3〜4/時刻:18:12
潮位:下げ(中)/風:SSW 3m/s/波周期:中
照明:点灯・調光60%(目視)/路面:湿
結果:青い揺れ 無(薄明)
備考:見学者10→25(増加)/誘導開始
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薄明が抜けると、橋脚の影から青白い帯がひとつ、ふっと伸びた。すぐに二つ、三つ。肩のような丸みが見えて、どよめきが走る。
「来た。相沢、作例」
「1/60一枚、1/10一枚。——うん、やっぱり伸びる」
「子どもたち、階段のほうで止まって見てね。自撮り棒は伸ばしすぎないで」
「幽霊なんですか」
「今は調査中。危なくない見方だけ守って」
白鳥がロガーの表示を横目で見て小さく言う。
「波の揺れとPWMの谷が、たまたま重なってる時間帯。帯は伸びやすい」
「“近い”に足す。因果は置いて、手順だけ進める」
そこへ、地元の高校生グループが近づいてきた。昨日、掲示の写真を上げていた子だ。
「すみません。どう撮れば“人影”っぽくなるか、教えてもらえますか」
「じゃ、短い講座いくよ。まず1/60で撮って、次に1/10に変えて同じ場所。——比べてみて」
「おお、1/10は肩っぽい!」
「でもそれは“写真の中の見え方”。本人が勝手に近づくのはナシね。柵に寄らない。約束」
高校生たちが素直にうなずく。成瀬が横でメモを取った。
「若い人は“どう撮るか”を知りたい。——説明の順番を“安全→撮り方→理由”にします」
「港湾課、到着です」
指定管理者の監督と一緒に、作業着の二人が現れた。桂一は名刺サイズの連絡カードを差し出す。
「常設掲示の件、今日は案を持ってきました」
「見せてください。事故さえ出なければ……正体はどっちでも構わないんです」
桂一は鞄からA4の提案書を出す。丁寧語、箇条書き、短く。
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常設掲示・設置提案(A4/港湾課・指定管理者向け)
目的:落水・接触事故の予防(見学の安全導線)
設置:目線の高さ×3(踊り場/橋脚側欄干/通路角)
文言:現行A5(心霊ではない旨・柵に触れない・驚いたら進む)
維持:巡回時に角のテープ点検(剝離時のみ貼替)
窓口:市影譚が一次受け(技術照会は所有者へ橋渡し)
備考:原因断定は行わず、扱い方の周知に限定
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「現場は狭いので、紙は少なく強く。導線で詰まりを減らせます」
「分かりました。内部に回します。貼る場所の写真も添えてください」
「相沢、位置写真」
「オッケー、正面・斜め・遠景の三点セットね」
そのとき、通路の角で小さなざわめき。子どもが柵に手をかけたのを、父親が止めるのが遅れた。
「ちょっと待って、そこで止まらないで。階段側に半歩ずれよう」
相沢の声が届く。父親が子どもを抱き上げ、列が流れ直す。
「今の一文、掲示にも足しておこうか」
「いいね。“立ち止まるなら掲示の前で”」
成瀬が小走りで戻ってくる。
「住民の聞き取り、三軒。『南風で二十二時までがピーク』『満月は出にくい』『週末は橋の上で詰まる』。——“週末の誘導人員”を提案に足します」
「助かる。必要なら、ボランティアの段取りはNPO経由で」
白鳥がロガーを覗き、短く咳払い。
「二十分、いい形で取れた。980Hzの谷は安定。水面の乱れが増えると、帯の伸びも増える。——結論を急がないなら、『運用で避けられる』情報は出せる」
「どの言い方がいい」
「“点検周期を“出やすい夜”の手前に寄せる”“巡回をピーク時間帯に合わせる”。設定自体は触らない」
「制度は敵じゃない、だね」
「そう。運用で避けるのが、一番早い」
青い帯が連続して現れ、歓声が上がる。小さく拍手も混じった。誰も落ちていない。掲示は風にめくれず、テープが橋に馴染んでいる。
「そろそろ短報を街に出すよ。内容は三枚」
「構成、言って」
「一枚目が“安全”。二枚目が“見え方の条件”。三枚目が“出やすい夜のカレンダー”」
「言葉はやさしく、根拠は短く。——私、図版つくるね」
「頼む。図は夜光の仕組みと、PWM×水面のイメージ。専門用語は括弧に入れて、長くしない」
成瀬が頷く。
「カレンダーは住民の言い回しに直します。“南風の夜”“月が少し欠けた夜”で○。——“満月は×”。数字だけにしない」
港湾課の職員が短く笑う。
「あなた方、役所より役所っぽい」
「町で安全に楽しんでもらうための“紙”だけ、先に置きたいんです」
「白鳥、データの口頭レビュー、今ここで一分」
「了解。——結論から。照明は調光60%、PWMは約980Hzで安定。水面が鏡になる時間帯に、波の周期とPWMの谷がたまたま重なると、帯が伸びやすい。写真で“人影”に見えるのは、シャッターが遅いと軌跡が伸びるから。肉眼は短い帯止まり。——設定は触らない。運用で避ける」
「十分。紙に要約して添付する」
すぐ後ろで、中学生がスマホを持ったまま宙を見上げていた。
「ねえ、こわい?」
「こわがらなくていい。“扱い方”の紙、もう貼ってあるから。それだけ守って」
相沢が高校生たちに声をかける。
「撮ったら一歩下がる。撮らない人に道を返す。——はい、ありがと」
桂一はその様子を見ながら、短報の冒頭をメモに書き付ける。情緒は削り、事実と手順だけを置く。
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短報(案)冒頭(A4)
この場所では夜に青白い揺れが見える日があります。
・見学は短時間で、柵に触れないでください。
・驚いたら立ち止まらず、通路を空けてください。
・“出やすい夜”は南風+下げ潮+月齢8〜12の傾向があります(成瀬/市民NPO)。
・写真で“人影”に見えるのはシャッター速度による効果です(相沢)。
・照明の設定変更は行いません。点検や巡回の時間調整を提案します(白鳥)。
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「じゃ、あと十五分で切り上げよう。ロガーの抜き取り、掲示の端、誘導の締め」
「了解でーす。最後に“触れない実演”やっとく?」
「やろう。近づかないで変わる、を見せよう」
相沢がアルミ箔を小さく丸め、黒布の上で振り子のように揺らす。水面の帯は触れずにわずかに表情を変える。子どもが目を丸くした。
「触らなくても、見え方は変わる。だから“触らない”でね」
「はーい!」
白鳥がロガーを外し、メモリを保管用のケースへ入れる。
「データ、明日午前にサマリ渡す。図にするならグラフの縦軸は“相対明滅”で」
「分かった。図のキャプション、私書いとく」
成瀬が最後の聞き取りをまとめて戻る。
「週末は橋の上、二十時台に詰まりやすい。——掲示の位置、上り口にもう一枚足すのがよさそう」
「追加案、明日出す。巡回のチェック項目に“上り口の詰まり”も入れてもらおう」
潮の匂いが少し弱くなる。青い帯は細く、波にほどけていく。人はまばらになり、通路が空気を取り戻した。
「じゃ、撤収」
「はーい。——今日の反省、“声かけの言い方”をメモしておくね。『よかったら階段側に半歩』は効く」
「成瀬、カレンダーの文、最後に一行足して」
「“満月は×”の理由を“明るいと水面の鏡が薄くなる”に言い換えます。専門用語は使わない」
「白鳥、役所向けの一文、頼む」
「“設定変更ではなく運用調整で対応可能”——これでいこう」
桂一は三人の言葉を並べ、短報の枠を閉じる。心霊かどうかは書かない。並べた条件と、守る手順だけを残す。
最後に、貼り紙の角を指で押さえる。テープは剝がれていない。
今夜も、誰も落ちなかった。通路は静かに流れ、橋の下の青は、きれいなまま終わった。




