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起:青い影はどこから来る?

 火曜、午後三時。

 受信箱の右上がこんと光った。モニターには既読と未読のグラデーション。新着の件名は短い。


「港の歩道橋の下で“青い幽霊”が出ます」


 桂一はマウスを止め、ブリッジ越しにレンズを指で押し上げた。かけているのはブルーライトカットの眼鏡だ。夜に健やかに眠り、朝にすっきり起きるための実用で、現場用の伊達とは別物である。


 本文は落ち着いた文体だった。

 ——湾岸の歩道橋下、夜になると人影のような青白い揺れが水面近くに現れる。SNSで“幽霊”タグがつき、見物が増えて危ない。管理の窓口に問合せも入っているが、原因は不明。心霊スポット化は避けたい、とのこと。写真はブレたものが多い。動画もあるが、明るさが脈打つように見える。


「原因不明、ね」

「“危ない”って言ってる。通路と柵が映ってる」

「行こう。安全の紙が先だ」


 相沢は黒のパーカーに薄いベージュのシャツを羽織り、肩がけの小さなバッグにA5の空白紙を差し込む。

 桂一は薄手のジャケット。名刺サイズの配布カードと、透明の**サンプル瓶(100ml)**を二本。白い布と黒布も畳んで入れた。出る前に、ブルーライトカットの眼鏡をケースへしまい、現場用の“伊達のメタルフレーム”にかけ替える——現地で怪しい姿勢を取る自覚があるぶん、入り口の印象は柔らかくしておく。


「成瀬と白鳥にも声をかける?」

「現場の空気を見てから、条件と照明で分けて頼もう。まずは“見学の導線”を作ろう」


     ◇


 夕方、湾岸の風は少し湿っていた。橋脚のコンクリはまだ温かく、潮の匂いが薄く貼りついている。歩道橋のLEDは既に点灯していて、橋桁の裏を白く照らしていた。

 通路の端には、スマホを持った人がぽつぽつ。視線は下、水面へ。


「まず、安全の張り紙」

「短く、驚いたら立ち止まらないを先頭にする」


―――――

見学のお願い(暫定/A5)

この場所では、夜に青白い揺れが見える日があります。

・驚いたら立ち止まらず、安全を優先してください。

・撮影は短時間で。設備や柵には触れないでください。

・原因は調査中です。指示に従い、通行の妨げにならないようご協力ください。

掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____

―――――


 テープの端を二度押し、目線の高さに据える。相沢は周囲の人流を見て、二メートルおきにもう一枚。

 その間に、桂一は観測記録シートを出して、最初の欄を埋め始めた。


―――――

観測記録シート(A4)

地点:湾岸歩道橋・橋脚3〜4間/時刻:17:42

潮位:下げ始め 風:南南西 3m/s 波周期:短

照明:点灯(調光:60%目視) 路面:乾

写真:1/60・ISO800・WB4000K

結果:青白い揺れ 未確認(薄明)

備考:見学者 10人前後/通路狭し(柵内立入なし)

―――――


 空は群青に寄り始め、海の鏡が深くなる。

 最初の揺れは、橋脚の影からほどけた。青白い帯が短く生まれ、伸びて、ちぎれる。


「……人影に見える、って言われるの分かる」

「帯の端が丸くて、肩みたいに見えるね」


 橋脚の風を確かめて、相沢がスマホを持ち上げた。

「潮と風の読みは外したくないし、成瀬さんにも声かけるね」

 “成瀬”は地域NPOの相談員。現地の聞き取りと環境条件の地図化を専門にする、私たちの協力者だ。


 メッセージを送る指が止まることなく動く。同時に桂一は、白鳥のアイコンをタップした。

「照明の調光、運用の話を聞きたい。PWMのクセも」

「了解。運用側の視点、用意しておくよ」白鳥の返信は短く、速い。


「原因不明はそのままにして、素材を揃えよう」

「水の側と光の側、ね」


 桂一はサンプル瓶を一本取り出し、許可範囲内の桟橋際で、水を少しだけ掬った。陽の当たらない袋に入れ、暗所にしておく。

 相沢は露出とシャッタースピードを変えながら、同じ場所を連写する。1/60、1/30、1/10。モニターの中の帯は、速いシャッターでは短く、遅いシャッターでは伸びて人影になった。


―――――

撮影メモ(A5)

地点:橋脚3〜4間/時刻:18:06〜

SS:1/60→人影弱/1/30→帯やや伸び/1/10→人影様に伸長

ISO:800→1600(ノイズ増) WB:固定

備考:スマホ勢の多くはオート(低照度→SS低下)

―――――


「写真の側の“人影化”は、SSシャッターが効いてる」

「肉眼の側は?」

「水に聞くしかない。夜光が居るか、揺すりで薄く光るか」


 歩道橋の柵に寄りすぎないよう距離を保ち、サンプル瓶を暗い布の上でそっと揺する。何度か——三回目で、微かな青が底に咲いた。


「うっすら、来た」

「撮らない。今は記録の単語だけ。——青(微)」


―――――

夜光採取メモ(A5)

採水:表層(桟橋際)/容器:透明100ml

暗所テスト:振動 1回・2回・3回→発光(微)

月齢:10 外気:26℃ 水温:24℃

備考:採取=許可範囲/放流=元の水域

―――――


 そのとき、橋桁の裏から風が一段吹き、LEDの光が桁の隙間で細く脈打つように見えた。水面の帯は増幅され、肩に似た形がいくつも短く並ぶ。


「照明の脈に、水の薄い光が乗る感じ」

「でも、断定はしない。今は“近い”に置く」


 桂一は見学の導線を確認するため、少し離れた場所へ歩く。柵の切れ目、足元の段差、風で紙が剥がれそうな箇所。相沢は掲示の追加と配布カードを出す。


「市影譚です。通行の妨げにならない範囲でお願いします。設備や柵には触れないで」

「“幽霊”なんですか?」と若い声。

「原因はまだ不明です。見え方に条件があるようなので、紙で順番に確かめます」


 正面のカメラにライトを当てすぎる子に、相沢が短く手振りで合図する。まぶしさは事故のもとだ。

背後から声をかけられた。作業着の男性。名札には港湾管理の文字。


「正体が分かると助かるんだがね。見物が増えて、落水されたら困る」

「心霊かどうかの断定はしません。まずは扱い方を置きます。夜の導線と撮影の注意、それから原因になり得る条件を紙にします」

「それは助かる。照明の運用は、白鳥って人に聞いてくれ」


「連絡取ってます。設定変更はしません。記録と提案だけ」


 青い帯は、満ちたかと思うと薄くなり、また寄せてくる。波が階段を上り下りするみたいに、静かにリズムを持っている。

 成瀬から電話。スピーカーにする。


「成瀬です。潮汐、今は下げ。南寄りの風で、岸壁際に浮遊物とプランクトンが寄りやすいよ。月齢10で、肉眼でも薄く見える夜が出る。——出やすい夜をカレンダーにして渡す」

「助かる。住民の聞き取りもお願い。危ない場所の情報も」

「了解。NPOの共有アカウントで受け付ける。**“幽霊タグ”は“青い揺れ”**に言い換え、でいい?」

「いいね。煽らない言葉にしよう」


 白鳥からもメッセージが入る。

〈今夜は調光60%運用っぽい。PWMは1kHz前後のはず。水面反射×ローリングで“帯”になりやすい〉

〈明日、無接触で光ロガー置く。所有者立会いで〉

「了解。所有者の判断の範囲で」


 相沢が戻ってくる。人の流れは落ち着き、掲示は風にめくれずに立っていた。


「序章は揃った。——原因不明でスタート、素材は水と光、安全は紙」

「心霊かどうかは置く。近い/似ている/不一致で並べる」


 桂一はまとめの三行を、コピー用紙に太い字で書いた。


 ——水:夜光(発光)=微(振動3回)

 ——光:LED(調光60%・PWM推定1kHz)

 ——見え方:SS遅→“人影化”、SS速→帯短


「明日、白鳥の光ロガーと、成瀬の条件カレンダー」

「それと、見学者向け掲示の正式版。“心霊”かの断定はしないけど、**“扱い方”**は先に街へ出す」


 夜風が少し冷たくなった。青白い揺れは、今日はここまでと告げるみたいに細くなり、橋脚の影に収まっていく。

 受信箱のこんが、ポケットの中でひとつ震えた。新しい相談だ。——「別の橋でも、青い帯が」。

 桂一は伊達のメタルフレームを外して、レンズを布で拭いた。


「広がる前に、紙だ」

「煽らない言葉、触れない手順、落ちない導線。——出だしはいい感じ」

「次は、少し踏み込もう」

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