仄か(ほのか)な予感
雨は嫌いだ。
前髪に変なくせは出るし、湿気を含んだじめっとした空気も。なにより薄暗い空がわたしを陰鬱な気持ちにさせる。
「会社、行きたくないな」
傘を叩く雨音に紛れるようにように小さく呟く。
滅入る気持ちを和らげようとデパートで買ったお気に入りの傘はもう雨をはじかずに、雨水はしっとりと傘の紺色の生地を伝っている。骨の裏側のあたりに小さな錆がついている。そろそろ傘を新しくした方が良いのかもしれない。
普段は最寄り駅まで自転車を使っているが、雨の日はバスにしている。市営バスなので片道100円で済む。とはいえ、しがない契約社員にとって痛い出費だ。節約だけを考えれば自転車を使えばいいが、雨で服が濡れる不快さを思えば致し方ない。
民家の前にあるバス停には既に何人か並んでいる。
わたしは最後尾に並ぶと鞄から携帯を取り出した。折り畳みの携帯を開き、時間を確認する。
七時五分。
雨の日は時刻表よりバスは遅れがちだから、しばらくは待たされそうだ。
携帯を鞄に仕舞い、ため息をつく。近くで子供らしい高い声がした。
「パパ、パパァー」
その声に、前に並んでいるサラリーマン風の若い男性が振り返った。
視線の先にはラフなスウェット姿で片手で傘を持ち、もう片方の手で小さい女の子を抱いた若い女性が男性の方へ向かって歩いている。
「みーくんお弁当忘れたでしょ。はーちゃんも一緒行くって聞かなくてさ。間に合ってよかった」
「はいっ、どーじょ」
母親に抱かれた女の子はお弁当が入っているらしい袋を重たそうに持っている。
「はーちゃん、ありがとう。風邪引いちゃうからもう帰ろうね」
男性が袋を受け取ると、はーちゃんと呼ばれた女の子は子供らしい声で答えた。
「はーちゃん、いい子いい子なんだよ。ねー」
サラリーマン風の若い男性の前に並んでいた年配の婦人がニコニコしながら「お利口さんねぇ」と女の子に声を掛けた。
その、瞳。
仄かに暗い光を宿している。
これは、勘と言ったらいいのか。
これと同じ独特の目をしていると思った人はその日に皆、死んでしまう。
―――わたしの知る限り、では。
わたし以外の人は皆一様に、特に変わったところはないと言う。
目の色が劇的に変化して見える訳ではない。ただ、わたしが暗いと感じるだけだ。
それに、死因が分かる訳でもないからこの人は死んでしまうんだと思うくらいで、どうする事も出来ない。
嫌な思いをするばかりで、役に立った事など一度もない。
近くで明るい声が聞こえる。
わたしは聞こえる声をなるべく聞かないよう、用もない鞄の中を漁った。
しばらくすると低いエンジン音が聞こえ、バスはわたしの前をゆっくりと通過して止まった。
わたしの周りをねっとりと厭な空気が包み込み、体が重苦しい。
見たくもないものを見、朝から気分が悪い。
ふぅと息をつくと、バスに乗り込んだ。
バスにしては比較的小さめの車内は混んでもいないが、座れる程ではない。
入ってすぐの場所で立つと、静かな車内で世間話が続いていた。
「今日会いに行く孫はね、もう中学生になるんだけど。おこづかいあげる時ぐらいしかおばあちゃんの所に寄って来ないのよ」
「そうなんですか」
「ばあちゃんばあちゃんって寄って来るのは小さいうちだけなのよ。あなたも仕事ばかりじゃなしに今のうちに可愛いがらないと、うちみたいに大きくなってからパパに寄りつかなくなっちゃうわよ」
「……ええ、気をつけます」
わたしの右斜め前には年配の婦人、右隣ではサラリーマン風の若い男性が相槌を打っている。
何気なく見たことを、わたしは後悔した。
――ああ、この人も。
小さい子供がいるのに。
ぱっと見た限り病気ではなさそうだ。
わたしの視線に気付いた男性は、申し訳なさそうに頭を下げた。自分たちがうるさくしているからわたしが嫌な顔をしたと思ったのだろうか。
わたしは愛想笑いを浮かべ、俯いた。
――違うのに。
あなたはもうすぐ死んじゃうんです、言った所で信じるはずもない。
わたしは自嘲的な笑みを浮かべた。
――否、違う。
あなた“達”だ。
……あなた、達?
わたしは、次第に体が冷えていくのを感じた。
背中にじっとりとした汗が伝う。
ふいに顔を上げるとガラス越に目が合った。わたしだ。
雨は激しさを増している。
ここはバスで良かったと普通は思うところだろう。
機械的な声が車内アナウンスしている。
「――次、止まります」
誰か他の乗客がボタンを押したのだろう、わたしはほっと胸を撫で下ろした。
一刻も早くこの場から逃げ出したい。
そう思う一方で、本降りの中を駅まで歩きたくないし、下手をすると遅刻するのは困る、そう思った。
――どう、したら。
「……あんた顔真っ青だよ、少し座った方が良い」
優先席に座っていた白髪混じりの男性が立ち上がっている。
「あの……大丈夫ですから」
「俺は次で降りるから、遠慮せずに座ってなさい」
男性はそう言って、わたしに座るよう促している。
「……はぁ、すみません」
わたしは断りきれずに二人掛けの座席に座った。
バスはバス停で、男性を下ろすとすぐに発車した。
――さっきの人に悪いから、降りなかっただけ。
次は――。
がくん。
衝撃が走る。
一瞬の事だった。
――わたしが薄く目を開くと。目の前のガラスが映していたのは、仄暗いわたしの瞳。