獅子と蝶と女王毒殺未遂事件・4
「護衛役の件は、一度保留にしていただくことはできないでしょうか」
不意にそう切り出したイルメラに、ベアトリスは小首を傾げて次の言葉を待つ。
「……ゲオルグ様の、お傍にいたいのです。可能であれば、ですが……」
控えめで、徐々に消えそうな声だった。
イルメラだって、自身が罪人であることは重々承知している。女王の護衛役になることで処刑を免れた身であって、こんなことを言うのは我が儘以外何物でもない。
それでも、その優しさを一度知ってしまったら、そしてこの胸の内に溢れる慕情を認識してしまったら、もう言わずにおれなかったのだ。
場合によっては死刑もありうると覚悟を決めて、イルメラはまっすぐに女王を見た。
「構わんぞ」
女王は拍子抜けするほどあっさりと、イルメラの希望を承諾した。
驚いたイルメラが目を見開く。
「良いのですか?」
「なんとなくそう言うだろうという気もしていたからな。せっかく見つけた腕の立つ女の護衛であったが、まぁお前がゲオルグの傍にいるというのであれば、それはそれで利点はある」
女王は確かに同性の護衛役を所望していた。しかしイルメラがゲオルグの傍にいることが、果たしてそれと同じくらい良いことなのだろうか。
いまいち飲み込めていない様子のイルメラの表情に、ベアトリスはふ、と小さく笑みを溢す。
「ゲオルグは傭兵だ。貴族ではない。今はこの国を拠点に活動しているが、いずれ傭兵団は平和になったこの国を出てどこかへ行くことだろう……そんな時に、お前のような者がこやつの傍にいるなら私も安心できる」
ベアトリスの言葉に、イルメラは小さく目を見張る。
「……それは」
イルメラは罪人として、罪を償うために女王に奉仕するはずだった。それが女王はゲオルグと共にどこへとも行けと言うのである。
信じられない言葉に、イルメラは二の句を継げず固まった。
「人材は使いようだ。私もこの男にやすやすと死なれては困る。だからその命をそのために使ってくれと、そういうことだ」
「しかし……いえ」
戸惑いはしたが、すぐに考え直しまっすぐに女王に相対する。
「やります、やらせてください」
イルメラは、これまでにないほど力強く懇願した。
ゲオルグはイルメラの人生に初めて差した一条の光であった。絶対にその手を離してはいけないと、イルメラの胸の奥深くに封じ込められたはずの何かが叫び、暴れている。
「その言葉が聞きたかった」
女王は満足げに笑みを浮かべた。
「契約成立だな。うちの馬鹿兄貴をよろしく頼んだぞ」
「は、はい……!」
大きく頷いたイルメラの声の張りや瞳に宿る輝きは、もう感情のない人間のそれではなかった。
やはり彼女をゲオルグに任せたのは、正しかったようだ。
「よし。では小腹も満たせたし、私はそろそろ休もう。だが、少し飲みすぎたな……すまないが、帰る前に一杯水をもらえるか」
女王がそう言うと、イルメラはかしこまりましたと言って立ち上がり、ベッドサイドに置いてあった水差しを手に取った。
「水を汲んでまいりますので、少々お待ちください」
「ああ、頼む」
部屋を静かに出ていくイルメラを、椅子に座ったまま見送るベアトリス。
女王はイルメラが扉を閉めたのを確認すると、ひょいと立ち上がるや、遠慮なしにベッドへどすんと尻を落とした。
そして寝ているゲオルグの腹に、加減なしに拳をめり込ませる。
「ぅごわっ」
小さく、くぐもった悲鳴を上げるゲオルグに、ベアトリスは意地の悪い笑みを浮かべて肩を揺らしていた。
「……やめろよまだ腹の調子がまだ戻ってねぇんだぞ」
「わざとらしい寝たふりしてんじゃないわよ、最初から聞いてたんでしょ」
「まぁな、お前が来た気配で目は覚めていたけどよ」
ゲオルグは腹を押さえながら、迷惑そうな顔で上体を起こす。
ずっと眠っている様子だったゲオルグだが、これは狸寝入りだったらしい。
「よかったわね。彼女、一生ついてきてくれそうよ」
「余計なお節介しやがって……」
と言って、ゲオルグはベッドの上で胡坐をかき、片膝に頬杖をつく。まるで少年が悪戯を告げ口されたかのような不貞腐れたような表情だが、本気で怒っているわけではないようだった。
ベアトリスも楽しそうな笑顔のままで、その遠慮のなさからも二人は仲のよい兄妹のように見えた。
「言っただろ。わざわざ女子供が苦しむ必要なんかないだろって。傭兵なんかについてきたってろくな事ねぇんだぞ」
「あら、女王の護衛役が傭兵の従者よりも安全だって言いたいの?」
「そりゃあ、護衛なんだから多少は危険かもしれねぇが……それでも戦場に出るよか安全だろ」
「女王の護衛役が傭兵よりも安全だったとしても、身の安全だけじゃ彼女は満足できないでしょ。彼女はあなたがいるからあそこまで生き生きとするようになったんだから」
ベアトリスがそう言うと、さすがのゲオルグも黙り込む。
彼が女子供の苦しむ姿に弱いということは、ベアトリスが一番よく知っていた。なにせゲオルグにさんざん泣きついて困らせてきたのは、少女時代のベアトリス自身なのだから。
「……ゲオルグ。そんなに彼女が心配なら貴族になりなさいな。あなたと傭兵団の功績があれば、すぐにでも伯爵の地位は用意できる」
一際声のトーンを落とし、ベアトリスが囁く。
先に説明した通り、軍隊の保有は国にとっては負担であり、その規模が大きければ大きいほど負担も重くなる。軍隊というものは、何かを生み出す組織ではないからだ。戦争がない限りは、兵士の数も最小限でいい。
一方傭兵は経済活動であり、戦闘によって金銭を獲得できる。国で面倒を見る必要もなく、金を払えば戦闘に参加してくれる傭兵は、正規の国軍を大規模に配備することができない国家にとって非常に便利な戦力だ。
それゆえ、戦場で大きな功績を挙げた傭兵が貴族として取り立てられるという話も、それほど珍しいことではない。
現にゲオルグの傭兵団は数年前のゼニタ内戦において、その初期から女王側について活躍してきた。彼らの挙げた功績は、確かにゼニタの爵位を与えられても過不足ないものである。
貴族になり、傭兵団の運営は部下に任せてしまえば確かにゲオルグとイルメラは安全だろう。しかし――。
「いや……やめておく」
小さく息を吐き、ゲオルグはゆるゆると頭を振った。
「金は欲しいが、別に貴族になりたいわけじゃねぇんでな」
「ふ、そう言うと思った」
誘いを断られたというのに、ベアトリスの表情は満足げであった。
「縛られるのが嫌いなあなたらしいわ。いいじゃない、戦場でも、どこへでも行きなさいな。だからあなたには、イルメラくらいの重しがちょうどいい」
と晴れやかに笑うベアトリスは、ゲオルグと共に傭兵団で育ち、そして女王になった。
国に縛られた彼女はもう、ゲオルグと共に行くことはできない。
ベアトリスがイルメラを許しゲオルグに仕えさせたのは、自分の代わりにゲオルグを見守らせ、ゲオルグが戦場で無茶をしないように自制を促す目的があったのだ。
その意図を察し、ゲオルグは一杯食わされたとばかりにぼりぼりと頭を掻く。
「重し、か」
「そうよ。せいぜい長生きしなさいな」
そう言ってベアトリスはベッドから立ち上がり、元の椅子に戻る。
「また寝てなさい。そろそろ彼女が戻ってくるわ」
「わかってらぁ、この馬鹿妹め」
ベッドに乱暴に倒れこみ、布団を被ってこちらに背を向けるゲオルグの最後の言葉に、ベアトリスは一瞬きょとんとしてそれからすぐに破顔したのだった。
◇ ◇ ◇
「あーあ……せっかくの城仕えだってのに、もったいねぇ」
翌日。体調が回復したゲオルグはイルメラを連れ、王城を後にした。
空は晴れ、城の尖塔に掲げられた旗が風に気持ちよくたなびいている。二人はそれぞれ馬に乗り、堀に架けられた跳ね橋を悠々と悠々と渡っていた。
馬の蹄が立てるかっぽかっぽという音が、なんとも長閑である。
「なぁんで俺なんかにくっついてくるかなぁ!」
ゲオルグがわざとらしい大声を上げた。
「女王陛下のご命令です」
と、ゲオルグのすぐ後ろでイルメラが平然と答える。
彼女は既にメイドの衣装ではなく、男装して従士の衣装に身を包んでいた。
傍から見れば、派手な傭兵が見目麗しい美少年を従士として従えているようにも見えるだろう。
ちなみに、イルメラが乗っている黒鹿毛の馬はかつて彼女が育てたあの孤児の馬である。あまりにもイルメラに懐いていたため、成長した後に傭兵団が彼女専用の乗馬として確保したのだった。
「はいはい、女王陛下女王陛下」
馬の背に揺られながら、ゲオルグはやれやれとばかりに肩を竦めた。
ちなみに彼の愛馬は逞しい鹿毛の牡馬である。
「ゲオルグ様はあくまで傭兵です。女王陛下の周りにはたくさんの騎士が居りますが、国に縛られない生き方をされるゲオルグ様にこそ私の護衛術が必要でしょう」
「言うようになりやがって。女王陛下もいらん入れ知恵をしてくれたもんだぜ」
「ご迷惑であれば申し訳ありません。しかし女王陛下のご命令ですので、どうぞ受け入れてください」
「まったく、しようがねぇなぁ! そこまで言うならちゃんと地獄までついて来いよ!」
口は悪いが、その言葉と背中にはイルメラを受け入れるしっかりとした意思が見て取れた。
イルメラはそれを感じて、ふっと口角を上げる。
「はい……!」
不意に一陣の風が吹く。二人の背を押すような爽やかな風に、馬たちの足取りも軽いように感じられた。
◇ ◇ ◇
『で? 結局ゲオルグにくっついてくことを許したんだ?』
ゲオルグらが城を後にする頃、城内の交信の間では今日もベアトリスとテオボルトが交信という名のだべり場を開始していた。
「まぁ、ゲオルグにずっとくっついているのであれば滅多なことにはならないでしょ。刑罰としては監視者付きで放逐ってことで。それに、あれだけときめいた顔されちゃあねぇ……」
と言って、ベアトリスはベリーの砂糖漬けの載ったタルトを頬張る。
今日の菓子は無論王宮の菓子職人が作ったもので、ちゃんと毒味も済んだ安全なものである。口当たりの軽いクリームと甘酸っぱいベリー、サクサクとしたタルト生地のハーモニーはベアトリスのお気に入りだ。
実を言うと、元デューリンガー伯爵夫人が献上した重厚なケーキはさほど彼女の好みではなかった。
『しっかし、あの暗夜の蝶があんな顔するようになるとはなぁ』
「言ったでしょ。ああいうタイプはゲオルグに預けとけば間違いないんだって。あそこまでではないけれど、彼女の境遇は少しだけ私と似てたからね……」
『流石、女王を育てた男ってとこか』
魔鏡の向こうのテオボルトも、感心したように腕組みをして頷いている。
『あれだけ人間味が出てきたのであれば、俺もそっちに預けてよかった』
「テオがそう言ってくれるなら、私が何か言うこともないわね」
女王も王も、今日はどちらも機嫌麗しいようで。
交信の間に流れる和やかな雰囲気に、側仕えの者たちも皆穏やかな表情で二人のやり取りを見守っていた。
『……ところで』
ふと、テオボルトが考えを巡らせるように目を伏せる。
『あの二人、くっつくと思うか?』
「そこよね、問題は」
二人の声が急に真剣味を帯びた。
「イルメラのほうは確実にゲオルグに惚れてるわ。ゲオルグもイルメラに関してはまんざらでもなさそうだし……問題は二人が役割を気にして一線を越えるのに時間がかかりそうってことなのよね」
『わかる。イルメラは特に恋愛経験とか皆無だろうしな。自分の気持ちを素直に打ち明けさえできればいいんだろうけど』
「ああいうのがもだもだっていうのかしらー。これからも要観察ね」
『レポートいつでも待ってるぜ』
魔鏡を通じた交信で幾度となく王配探しをし、失敗するたびに生まれてくるカップルに接してきた女王と王は悲しいかな、他人の恋愛模様を観察して楽しむ趣味までできてしまったのである。
そんな王たちの密かな楽しみに、側近たちは静かに溜息を吐く。
この仲良し二人、さっさとくっつかないかな、と――。