獅子と蝶と女王毒殺未遂事件・3
デューリンガー伯爵夫人が女王に献上したケーキには、実際のところ下剤がしこたま盛られていた。
拘束された夫人は尋問されるまでもなく、女王が憎かったので嫌がらせのためにやったのだと証言し、あっさりと罪を認めた。彼女は実家が女王の派閥に敗北したために取り潰され、家族が離散してしまったことをずっと恨んでいたのだという。
政略で派閥違いの家に嫁いだために処罰を免れたものの、夫ともあまり折り合いがつかず、伯爵夫人という地位にも嫌気がさしていたために、今回の事件を引き起こすに至ったということらしい。
ケーキに盛られていたのが人を死に至らしめるような毒物ではなく、女王の暗殺をしたかったというよりもただ単に嫌がらせがしたかっただけという動機が判明したため、夫人は処刑ではなく伯爵家から離縁させられ、そのまま田舎の修道院に入れられることとなった。妥当な処分だろう。
女王はむしろ、夫のデューリンガー伯爵を黙らせることができて上機嫌な様子であった。というのもこのデューリンガー伯爵、自領で起こす事業に対してあちこちから資金を募っていたのだが、あまり計画性があるとは言えない性格故に貴族の中でも煙たがられており、資金繰りに困って度々女王にまで投資を求めてきていたので、この事件を使って伯爵を黙らせられるというわけである。
夫人の暴走を止められなかったデューリンガー伯爵は身内の管理不行き届きということで、領地の一部を返上させられ一時謹慎処分となった。これでしばらく彼は身の丈に合わない事業拡張などは行えないだろう。
デューリンガー伯爵家に関する処遇はそんなところである。
◇ ◇ ◇
「…………」
ゲオルグが下剤入りケーキを食べたその日の夜。
ゲオルグは必要な処置を受けた後、城の客間で寝かされ、イルメラは別にそう命令されたわけでもないが彼に付き添うことにした。
別に行かなければいけない場所もなければ、やらなければいけないこともない。であればここにいたいと、理由もなく思ったのだ。
時刻は既に夜半を過ぎている。城はしんと静まり返り、不寝番以外は起きている者もいない。
一時は毒を飲んだかと心配されたゲオルグであったが、医師たちの適切な対処と伯爵夫人が薬の種類を自白するのが早かったおかげで、すぐに容体は安定した。安定はしたが、それまでに下剤の効果と催吐処置のせいで上から下からそれはそれは大変なことにはなった。
ともかくそれも治まり、ゲオルグは一晩安静ということになっている。正直なところ、イルメラが何かできるわけでもないのだが、どうにも離れがたく、こうしてベッドの横に椅子を寄せて、眠っているゲオルグの様子をただただじっと見つめているのだった。
夜の静寂の中、テーブルの上の燭台の火が音もなく揺れている。
「入るぞ」
軽いノックの音がして、イルメラがどうぞと言う間もなく客室の扉が開かれた。
入ってきたのは――。
「女王陛下……」
相手が誰かわかった瞬間、イルメラがはっとして立ち上がる。それを制するように、ベアトリスは唇に人差し指を当て、静かにという仕草を見せた。
あまり音を立てぬようゆっくりと扉を閉める女王の手には、藤のかごが提げられている。
「伯爵家の処分がだいたい終わってな。お前ならまだ起きているかと思って様子を見に来た」
そう言って、ベアトリスがベッドの傍にやってくる。イルメラはベッドサイドのテーブルの椅子を引いて、席を勧めた。
ベアトリスはそれを見てにこりと微笑み、持っていたかごをテーブルの上に置くと、何も言わずその椅子に腰を下ろす。
「夜食を持ってきた。よければ一緒に食べてくれ」
そう言われてイルメラがかごを覗き込むと、中には薄焼きのパンで具を挟んだ軽食と、ワインの瓶が入っていた。
「大丈夫だ、これは城で作らせたものだから毒は入っていない」
かごの中身を確認してから思わずベアトリスのほうを見てしまったイルメラの反応に、ベアトリスは屈託のない笑顔を見せた。
ともかく言われるがまま、イルメラはかごからパンを取り出して自分と女王の前に出し、それから瓶の栓を抜いて二つのグラスにワインを注いでいった。
薄焼きのパンで様々な具を挟む料理は、あのケーキ同様この地方では定番の食べ物である。といっても、ケーキと違ってこちらはだいぶ庶民的な食べ物だ。
女王はそれを当たり前のように手掴みにして口に運び、ワインを飲む。
その様子をしばし観察してから、イルメラも遠慮がちにパンを手に取り、一口齧ってみた。
中身は柔らかく煮込まれた肉と豆と、それからチーズだろうか。パンはまだ温かく、滋味深いその味わいに、訳もなくほっとする。
二人はそうして、しばらく無言で夜食を共にした。
「……良い男だろう、ゲオルグは」
ベアトリスがぽつりと呟いたのは、パンがすっかり胃に収まり、二杯目のワインをイルメラに注がせた後であった。
イルメラは瓶を持ったまま、女王を見る。
女王はゆるゆるとグラスを揺らしながら、眠るゲオルグを見つめていた。その横顔はなんとも穏やかで、昼間の苛烈さは微塵も感じさせない。
それからイルメラもまたゲオルグの寝顔を見た。くっきりとした眉に、彫りの深い男らしい顔立ち。厚い唇。これまでいくつもの死線を潜り抜けてきただろう精悍な傭兵の顔であるが、どことなく愛嬌もある。ゲオルグは不思議な男であった。
「こやつは昔から女には弱くてな。私も何度も助けられた。面倒見もいいから、私にとっては本当に良い兄貴分であったよ」
イルメラは再び女王を見た。懐かしそうに微笑みながら傭兵を見つめるその顔は、悪戯っぽい少女のようであった。
「陛下は、内戦の折にゲオルグ様の傭兵団と……」
「いや、こやつとの付き合いはもっと前からだ。私は十歳の時に城を出され、こやつの傭兵団に入れられたのだ。ゲオルグから聞いていなかったか?」
イルメラは小さく首を横に振った。
「まぁ詳しいことまでぐだぐだ言うつもりはない。とにかく私は十歳からこやつとこやつの父親に預けられ、男児として、そして戦士として鍛えられた。王女のままでは、王統派の者たちの手から逃れられぬとわかっていたのでな」
ベアトリスはそう言って、どこか遠い目をした。
「私が王女であることを知っていたのは、当時の傭兵団長だったゲオルグの父親と、後継ぎのゲオルグだけ。とにかく周りの荒くれ者どもに私の正体を勘づかせぬよう、二人は私を厳しく育てた。でもゲオルグも親父殿も、私を本当の家族かのように可愛がってくれたものだよ」
ベアトリスの言葉に、イルメラは不思議な納得を感じていた。
イルメラ自身、親や兄弟の情などというものは一切感じたことがない。しかしそれに近い感情については、身に覚えがあったのだ。
ヴァルハルタからゼニタに送られ、紆余曲折あってゲオルグの元にやってきた時のこと。彼はまずイルメラに、傭兵団の所有する牧場で働くように命じた。
傭兵たちが使う軍馬を養うための場所で、その牧場の主は引退した傭兵、従業員はその家族という、さほど大きくもない牧場だ。
牧場での下働きはやったことがないが、そうするように命じられたからにはイルメラはただ従うのみである。牧場主の老夫婦に仕事をいちいち教わりながら、慣れない作業に取り組んだ。
中でも難しかったのが、生まれたばかりの仔馬の世話であった。生まれた直後に母馬を亡くした仔馬のため、他の母馬から乳を搾り、人の手で数時間おきに授乳させなければならないのである。
ただ数時間おきに乳をやるだけなら難しくはないが、仔馬が事あるごとに温もりを求めて人にすり寄ってくるのだけは、どう接すればいいのかがわからずイルメラは悩んだ。
仔馬の世話以外にも仕事はあるのだが、困ったイルメラが老夫婦に尋ねると彼らは「ちょうどいいからお嬢さんはその子の世話だけしておいてくれ。そうすれば儂らも安心して他の馬の世話ができる」などと言って笑っていた。
とにかく干し草の上で、仔馬を撫でたり抱きしめたりしているだけでいいというのは不思議な仕事であった。しかしそうしていると母親を求めて頻繁に鳴いていた仔馬はおとなしくなり、安心したようにイルメラの膝に頭を預けてよく眠った。
そのうちにイルメラも不思議と気持ちが落ち着いて、いろいろなことを考える余裕が出てきたように思うのだった。
その牧場で働いた数か月間は、とにかく初めてのことだらけであった。牧場主の一家はイルメラのことを罪人とも思わず、一人の人として扱ってくれた。馬や、牧場で飼われている動物たちは人懐っこく、とても友好的だった。
人の気遣いが温かいということも、生き物が可愛いと思う感覚も、ここで初めて知ったように思う。
ここでは人も、動物すらも、物扱いなんてされない。それがわかった瞬間、自分がどれだけ酷い扱いをされていたのかを理解した。
かつてベアトリスは、ゲオルグと彼の父親と本当の家族のように暮らしていたのだという。それを聞いた瞬間、イルメラはあの牧場で触れ合った仔馬のことや、嫁いでいった娘の服を着せて自分を可愛がってくれた老夫婦のことを思い出していた。
今こうしてゲオルグを見つめるベアトリスの目がこんなにも優しいのも、きっと同じ感覚なのではないか、と。
かつて感情が死んでいるとさえ言われていた女であるイルメラがそう思えたのも、つまりはゲオルグの計らいによるものであった。
きっとゲオルグは、イルメラに人間らしい心を取り戻させるために、まずあの牧場へ連れて行ってくれたのだ。
それ以降は傭兵団の本部に移って、本格的な護衛の訓練も受けさせられたが、それにしたって娼館での訓練よりもずっと優しいものであった。
うまくやれなくても食事は取り上げられないし、体罰や折檻はないし、それでいて体を休める時間はちゃんとある。それが人間扱いということなのだ。
ゲオルグは最初に出会った時から今日ケーキを食べるところまで、ずっとイルメラを守ってくれていた。
特別甘やかすわけでもないし、わかりやすく女としてイルメラを求めてきたこともない。でもゲオルグは傭兵団の長として、そして一人の人間として、イルメラの心身を癒し、傷つくことのないようさりげない気遣いをしてくれていた。
その二つ名の通り、獅子が群れの仲間を守るが如く――。
「……はい、ゲオルグ様は、とても良いお方です」
再び眠るゲオルグの顔を見つめながら、イルメラは我知らずそう呟いていた。
「良い顔をするじゃないか、イルメラ」
女王にからかうようにそう言われて、イルメラは自分がいつの間にか微笑を浮かべていたことに気が付いた。
はたと気付いて手で顔を覆ったが、もう遅い。
頬がじんわりと熱くなるのを感じながら、イルメラはもじもじとベアトリスに向き直った。
「あの、女王陛下」
「どうした」
「護衛役の件は、一度保留にしていただくことはできないでしょうか」
イルメラは、意を決して懇願した。