獅子と蝶と女王毒殺未遂事件・2
「女王陛下から伝わっていたと思いますがね、イルメラの訓練は俺が任されてまして」
勧められた椅子にどっかりと腰かけ足を組み、ゲオルグがテオボルトに説明する。
ヴァルハルタから送られてきたイルメラの情報は、そのままベアトリスにも伝えられていた。娼婦であり暗殺者であったという経歴のイルメラを女王の護衛にするにあたって、その資質が適当かどうかを判断し、必要な知識や訓練を科すために、ベアトリスはイルメラの身柄を一旦ゲオルグに預けていたのである。
傭兵団には様々な人材がいる。それこそ鎧を着て馬に乗り、槍を引っ提げて戦場を駆ける者もいれば、歩兵や射手、兵站の管理をする者、輸送に関わる者や、事務方などもいる。その中には確かに暗殺術や護衛に関するエキスパートもおり、イルメラの資質を確認するには適格な組織と言えた。
最後にイルメラを判断するのは女王本人であるが、その前に彼女を女王の元へ送るべきかどうかを判ずるのはゲオルグの権限となった。
そして今日、ゲオルグがイルメラをこの城へと連れてきたということは、つまりイルメラが女王の護衛として適切な資質を備えていると認められたということなのだろう。
「今日に至るまでに、女王陛下の護衛として必要な知識や技術はしっかり仕込んである。俺たちでやれることはもうないな。あとは女王陛下自身で判断してくれや」
「大任ご苦労だった。それではゲオルグ殿の言う通り、私の目でその者を判ずることとしよう」
そう言って、ベアトリスは冷たい目でイルメラを見据えた。隣国にいるテオボルトもまた、魔鏡越しにその様子を見つめている。
ゲオルグの横に用意された椅子に座るイルメラは気配を消すように、微動だにしないでそこにいた。その顔は確かに端正だが、何の感情も読み取れない。
ただ視線を目の前のテーブルに落とし、人形のように、次に下される女王の言葉をただ待っている。そんなふうに感じられた。
「イルメラ。ゲオルグ殿が認めたというのであれば、護衛としての実力は申し分ないということだろう。わざわざ私が試すこともあるまい。ならば私は、お前の忠誠心を試すとしよう……エーリカ、例のものをここへ」
女王が軽く片手を上げると、傍らに控えていた秘書官が小さなベルをちりりと鳴らした。
すると部屋の扉が開き、メイドがティーカートを押して入ってくる。メイドはイルメラの傍にやってくると、小さく失礼しますと言ってイルメラの前に手際よく紅茶と茶菓の準備を始めた。
上品な白磁のカップに温かな茶が注がれ、イルメラの目の前の皿に一切れのケーキがサーブされる。黄金色に焼かれたパイ生地の中に重厚なナッツのクリームや乾果が詰まった、ゼニタ地方では伝統的な焼き菓子である。
「それは先ほどデューリンガー伯爵夫人が献上してくれたケーキだ。美味そうだろう」
ベアトリスの言葉に、イルメラの横に座るゲオルグが横目でじとりとケーキを見た。
対してイルメラは相変わらず何の感情も篭らない瞳で、目の前の菓子を見つめている。
「お前も知っているとは思うが、デューリンガー伯爵夫人の実家は元々王統派……私の政権とは相反する思想を持っていたが故に取り潰された家の出でな。伯爵はともかく、夫人のほうは私に対してあまり良い感情を持っていないとのもっぱらの噂だ。そんな夫人が、最近になって急に私の開く茶会に出入りして、私にすり寄り始めた……これはなんとなく、怪しいとは思わないか?」
そう話しながら、ベアトリスは口許だけで僅かに笑みを浮かべていた。
「その夫人が、ぜひ私に食べてもらいたいと言って持ってきたのがそのケーキだ。流石に毒味なしでは食べられんからな、ケーキの毒味をもって、お前の忠誠心を試させてもらいたい」
今や、この部屋にいる全ての人間の視線がイルメラに注がれている。
護衛役であれば、時に我が身を挺して主人を守らねばならないこともあるだろう。毒が入っているかもしれない菓子を食べられないなどと言えば、そもそもの覚悟ができていないと断じられてもおかしくない。
処刑されるはずだった己のために、テオボルトやベアトリスが心を砕き、ゲオルグが様々なことを教えてくれた。
その思いを無駄にするべきではないと、当然イルメラも考えていた。
だから彼女は迷うことなく応える。
「拝命いたしました。頂戴いたします」
そう言って、銀のフォークを手に取った。
元々死を恐れる感情も持たぬ身である。例えこの菓子に毒が盛られており、そのために死んだとしても何を惜しむことがあろうか。
もちろん自分が死んでしまえば、テオボルトやゲオルグたちの苦労が水の泡になるということも理解していたし、菓子に盛られた毒程度でそうやすやすと死ぬこともないだろうとも思っていた。娼館で仕込まれた暗殺者としての訓練によって、イルメラは多少なりとも毒物に対する耐性を得ているのである。
そんなことを思いながら、イルメラは躊躇いもなくフォークをケーキに突き刺し――。
次の瞬間、皿からケーキが消え、イルメラのフォークは虚しく陶器の皿に当たってかつんと小さい音を立てた。
「!」
それまで何の感情も映すことのなかったイルメラの目が、僅かに驚いたように見開かれる。
はっとして横を見ると、まさに今、ゲオルグがケーキを鷲掴みにして口に放り込む瞬間であった。
「ゲオルグ様」
焦ったような声がイルメラの口から発せられる。
だがゲオルグはその声を無視してケーキを咀嚼し、あっという間に飲み込んでしまった。
「ん、甘ぇな!」
そう言うや否や、イルメラのために用意された紅茶のカップまで横取りし、一息に飲み下す。
「ゲオルグ様、毒が」
「毒? そんなの入ってたか? どうせ貴族のご婦人の嫌がらせだろ、入ってたってせいぜい虫の死骸とかそんなんだろ」
どこか不安げなイルメラに対して、ケーキと紅茶の横取りをしたゲオルグはあっけらかんとして口の端を乱暴に袖で拭っている。
その様子に、交信の間に突然大爆笑する声が響き渡った。
『ぶふっ、ぶわははははは!!』
堪え切れないとばかりに大笑いしていたのは、魔鏡の向こうにいるテオボルトであった。
『くくくっ、あ、朱獅子……お前は最っ高だな!』
「ふふ、そうだろう?」
テオボルトは腹を抱えて悶絶し、間近でこの様子を見ていたベアトリスもまたどこか楽し気な様子で、イルメラはわけがわからず目をぱちくりと瞬かせた。
折角仰せつかった毒味をし損ねた上に、自分の代わりに重要人物のはずのゲオルグが毒入りかもしれないケーキを食べてしまった。この状況のどこに笑える要素があったのか、さっぱりわからない。
珍しく戸惑っている様子のイルメラを見て、ベアトリスは苦笑しながら助け舟を出すことにした。
「ゲオルグ殿……貴殿がケーキを食べてしまったら、イルメラの忠誠心を試せないのだが」
「へぇ、そうだったか?」
わざとらしい反応を返すゲオルグを、イルメラは不思議そうに見つめている。
「まぁいいじゃねぇか。ケーキに毒が入ってたかどうかはこれでわかるし、こいつはちゃんと直前までケーキを食う気でいたんだから、ちゃんと忠誠心があるってのはわかったろ?」
そう言って、ゲオルグは空になったカップをメイドに見せ、紅茶のおかわりを要求した。
「ベアトリスよぉ……この国の内戦はもう終わったんだ。これから平和な世が来るっていう時に、わざわざ女子供が苦しむところを見なくてもいいだろうよ。違うか?」
メイドが注いでくれる二杯目の紅茶の湯気を見つめながら、ゲオルグが嘯いた。
「ふっ」
その言葉に小さく噴き出すようにして苦笑を浮かべ、ベアトリスは肩を揺らす。
「イルメラよ。ゲオルグ殿はこういう男なのだ。厳しいところは厳しいが、一度認めたものには基本的に優しい」
「……はい」
「そのゲオルグ殿がここまでお前を庇うのだから、まぁお前もそれだけ信用に値する人材だということなのだろう。ゲオルグ殿に免じ、試験は合格とする」
女王の言葉に、イルメラは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。
「あ……ありがとう、ございます」
やはりまだ状況がしっかり飲み込めていないという様子のイルメラに、女王はくすくすと笑い、鏡の向こうの王はまた腹を抱えて大笑いしていた。
「私の護衛役としての仕事については、こちらでまた細かく内容を詰めてから追って連絡する。今日はもう下がって良い」
何故か上機嫌らしい様子の女王に不思議そうな顔をしつつ、イルメラは席から立ち上がり一礼した。
そして退室しようとして――共に退出するはずの男が、まだ立ち上がってないことに気が付いた。
「…………」
「あの、ゲオルグ様」
椅子に座ったまま動かない傭兵に声をかけ、その肩に触れようとすると。
「……お゛……」
絞り出すような呻き声を発し、ゲオルグはだらだらと脂汗をかいていた。
「は、腹……が……ッ」
「ゲオルグ様!?」
ぎゅごぐるるる、と地獄のような音を発する腹を抱えて蹲るゲオルグに、イルメラが思わず大声を出した。
毒だ。あのケーキにはやはり毒が盛られていたのだ。
ゲオルグの体が床に倒れぬよう肩を支えてやりながら、イルメラは助けを求めるように女王を見やった。
「ぃよっしゃぁあ毒入り確定!! これであのデューリンガーを黙らせられる!」
何故か女王は拳を力いっぱい天に突き上げ、気合いたっぷりに吼えていた。
「騎士団に出動命令! デューリンガー伯爵の屋敷へ行って夫人を拘束、伯爵にも出頭要請を出せ! これは暗殺未遂事件である!」
一瞬にして軍人スイッチが入ったベアトリスは、まさしく狼の如き勇ましさで指令を飛ばし、さっさと交信の間を出て行ってしまった。
「あ、あの、誰かゲオルグ様を」
「そこの文官! 伯爵夫人がケーキを持ってきた時に現場にいた者をすべて割り出して召喚せよ! 大事な証人だ、漏れのないようにな! 私は騎士団の本部で指揮を執る。エーリカ、あとは任せたぞ!」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
戸惑うイルメラ、檄を飛ばすベアトリス、笑顔で見送るエーリカ。
魔鏡の向こうのテオボルトは笑い転げて椅子から横転し、腹痛に耐えるゲオルグは情けなく真っ青な顔をしてぶるぶると震えている。
交信の間はいつの間にか混沌の坩堝となっていた。
一応、ゲオルグはこの後王城の侍医たちによって処置を受け、命に別条がないことが確認されたという点は付記しておきたい。