獅子と蝶と女王毒殺未遂事件・1
ゼニタ王国女王ベアトリス一世の人生は、まったくもって苦労の連続であった。
前王グスタフ三世の妃マヌエラは、女児は産む意味が全くないと思っている母だった。
男児は良い。男児は王子として育てられ、やがて王になるか、王族として高い地位に就く。そうして母の地位を安定させ、変わらない愛情を、そして豊かな財を返してくれる。
だが女児は、結局成長した後はよそへ嫁に出され、母の手元には何も残らない。
だから最初から女児に愛情を注ぐ意味などないと、そのように考える女だった。
ベアトリスを産んだマヌエラは、娘を乳母と侍女に預け、自身から遠ざけた。そして先に産んだ兄王子二人に、偏執的ともいえる愛情を注ぎに注いだ。
その偏愛は夫であるグスタフ王が妾と共に離宮に篭り、政治を顧みなくなった頃を境に歯止めが利かなくなった。
王妃の親族が彼女を利用したのか、それとも彼女が親族を利用したのか。とにかく王妃は権力を握り、親族を次々と要職に就け、その地位を盤石なものにしていった。
その中で、ある一つの考えが王妃たちの間に育まれていった。
「王はその血統のみが重要である。王は権力を持たず、国の象徴としてただ玉座に有ればよく、政治と権力は家臣が分担して有するべきである」
のちに王統派と呼ばれることとなるその思想は、よく言えば王にのみ権力を集中させず、議会による話し合いによって国を運営していこうというやり方であるように見えるが、実際のところは王妃の親族が権力を独占して国を自分たちのいいように動かすために流布させた言説であった。
誰もが王妃の言いなりになり、王妃は王子二人を溺愛して贅沢の限りを尽くした。王子たちは勉強も鍛錬もせず、ただ甘い菓子をねだり、美女を侍らせ快楽にふけることしか知らない豚に成長した。
そのことに危機感を覚え、打開の一手を打たねばと立ち上がった男がいた。
王弟ボニファーツ。若くして王位継承権を放棄して臣籍降下し、武の道に生きる決意をしてゼニタ王国の軍を纏める将軍となった男である。
長らく政治からは身を引いていたばかりに、王宮がそのようなことになっていたと気付くのが遅れてしまったボニファーツは、この権力の不均衡をひっくり返す手段として母から遠ざけられていた幼い王女に目を付けた。
もはや王統派を一掃して王の権力を回復させるには、この王女を利用するしかない。しかし力を持ちすぎてしまった王統派の前で堂々と王女を利用するのはリスクが高すぎる。
武断の将軍ボニファーツは密かに王女を攫い、成長するまでの間、身を隠せる場所に置くことにした。弱冠十歳の少女の髪を切り、男装させた上で傭兵団に放り込んだのである。
無論そこはボニファーツが出資していた、ボニファーツの息のかかった傭兵団であるのだが、王女を一廉の戦士として鍛え上げ、市井の状況を学ばせるためとはいえ、十歳の王女ベアトリスはとてつもない苦労を強いられたのは言うまでもない。
しかしながら十三歳になる頃には、ベアトリスは傭兵団でも腕利きの剣士の一人となっていた。この傭兵生活で得られた経験や人脈は、その後の彼女を女王へ押し上げる強い力となった。
ベアトリスは女王となったが、彼女は現在でも傭兵との繋がりは深い。
◇ ◇ ◇
『あ、そうそう。こないだ送ってくれたアレ、ありがとな』
「アレって?」
『鱒だよ、あの燻製になってるやつ』
女王ベアトリスは今日もテオボルト王と交信を行っていた。
魔鏡による交信は既にベアトリスの日常の一部である。今日もまた、山脈を挟んだ向こうの国のテオボルトとの他愛ない会話が繰り広げられていた。
なお、都合六回の失敗を繰り返した王配選定合議は現在休止中である。
「ああ! レフィ湖の鱒の燻製ね! 美味しかった?」
『めっちゃ美味いよ。最近はもうあの燻製ばっか食ってる』
「よかった~、わざわざ国で奨励金出して養殖させた甲斐があったってモンだわ」
ヴァルハルタ国王テオボルトの異名は、羆王である。ベアトリスは頭の中で魚を丸齧りする熊を想像して思わず笑顔になってしまった。当のテオボルトは彼女の笑顔を素直に新しい特産品が好評を得て嬉しいのだと思ったようで、つられてにこにこしていた。
『今度こっちからも何か送るわ。そうだな……鴨肉とかあるんだけど、嫌いじゃないか?』
「ううん、好き」
『よかった。こっちでたくさん獲れたし味も良かったから、纏めて送っておくな』
「ありがとー」
この二人の王はもう感覚がおかしくなっているとしか思えないが、隣国とこれだけ精度の高い交信を行える魔法の鏡なんてそうそう手に入らない代物である。
本来ならよほど重要な会議や緊急事態でもない限り使われないものなのだが、ベアトリスもテオボルトもそんなことは忘れてしまっているのだろう。
「っと……送ると言えば今日は、以前送られてきた『彼女』についての報告があるのよね」
『彼女?』
鏡の向こうでテオボルトが首を傾げる。
ちょうどその時、交信の間の扉を何者かが叩いた。
「失礼します。ゲオルグ様がお見えですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
女王付き秘書官のエーリカである。
扉の向こうの気配を察し、ベアトリスは軽く咳払いをして、表情を引き締めつつ首元のクラヴァットを直した。雰囲気も、ゆるゆるプライベートモードからきりっと女王モードへと切り替わる。
「通せ」
「かしこまりました」
テオボルトも聞こえた名前にはたと気付き、姿勢を正した。
「よう、親愛なる女王陛下! 来てやったぞ」
扉が開き、エーリカに付き添われて交信の間に入ってきたのは、真紅の羽根付き帽子を被った派手な男だった。そんな男が挨拶と同時に帽子を取り、仰々しく演技ぶって一礼する。
癖のある黒髪に日焼けした肌。がっしりとした体格。いかにも戦う者という見た目の、三十代半ばほどの男だ。
帽子が派手なら衣装も派手。真っ赤な生地に金糸の刺繍という目が痛くなりそうな上着がとにかく目を引くが、何を隠そうこの男は傭兵である。傭兵という職業はとにかく目立ってなんぼの商売なのだ。
「よくぞ参られた、ゲオルグ殿」
「相変わらず立派にやってんねぇ。すっかり女王様が板についてて、たいしたもんだ」
やたらベアトリスに対して馴れ馴れしい傭兵ゲオルグは、軽口を言ってひゅうと口笛を鳴らす。
『……ほう、こいつがあの『朱獅子のゲオルグ』か』
ゆるゆるモードから威厳あり国王モードに切り替わったテオボルトが、すっと目を細めた。
「おや、そちらに見えるはヴァルハルタの英雄テオボルト陛下か。これはこれはお初にお目にかかる。朱獅子なんぞと大仰な名前で通っちゃいるが、いかにも俺が傭兵のゲオルグだ。以後、お見知りおきを」
朱獅子のゲオルグ――それはゼニタの内戦を語る上で欠かすことのできない大傭兵の名である。
傭兵と一口に言っても、その程度は様々である。粗末な武具しか持たず、ほとんど町のごろつきと変わらぬようなものから、魔物狩り専門など特定の分野に秀でたもの、そして大規模な紛争において戦力として重要視されるほどの武力を持つものもいる。
そもそも大軍を常備軍として備えておくのは国にとっては大きな負担でしかないので、平時は最低限の兵しか置かないのが普通だ。そして戦争になれば各地の領主の私兵や、傭兵たちが主戦力となる。
ゲオルグはそういった、一つの勢力を率いる傭兵たちの大親分であった。
若くして父から傭兵団を引き継いだゲオルグはその才覚で傭兵たちを束ね、各地を転戦して名を上げてきた。そして内戦時には女王側勢力の重要な戦力として活躍し、その勇名を大いに轟かせたのである。
『こちらこそ、貴殿と知己を得られて光栄だ。ということは、その後ろにいるのは――』
「……お久し振りでございます、テオボルト陛下。イルメラでございます」
テオボルトが視線をゲオルグの背後に移す。派手なゲオルグの背後に影のように控えていた女が、ぺこりと頭を下げた。
このイルメラという女は、以前にテオボルトがゼニタに送った人間であった。
ゲオルグがゼニタの内戦で勇名を馳せたように、ヴァルハルタの内戦でその存在を知られたとある暗殺者がいた。
『暗夜の蝶』と綽名されたその暗殺者は、前国王の勢力について王子たちの軍勢の妨害をし、大いに恐れられた。
そもそもヴァルハルタの内戦は、病で衰えた前国王が後継者を定めないまま、玉座に縋りついたが故に起こった乱である。五人いた王子たちに自分の地位と権力を奪われると思い込んだ老王が、王子たちを王宮から追放してしまった。
それを端にして王子たちがそれぞれ玉座を求めて争い出し、たちまち国中を巻き込む内乱となったのである。
暗殺者『暗夜の蝶』は、そんな王子たちの軍勢に娼婦として近付き、兵を率いる指揮官などを標的にして次々と亡き者にしていった。もちろん、兵を倒されるよりも兵を統率する者を減らされるほうが軍勢にとっては痛手である。
混沌の坩堝と化したヴァルハルタの内戦は、最北の地から第五王子テオボルトが捲土重来して他の王子たちを征服し、父親である老王を下して王位に就いたことで終結している。
そしてその際に『暗夜の蝶』もまた捕らえられたか殺されたかして、ひっそりとその姿を消した――ように思われていたが、実は生きていた。
『……息災であったか。イルメラ嬢』
「はい、両陛下のお慈悲のおかげでございます」
硬い声で語りかけるテオボルトに、イルメラと呼ばれた女が慇懃に腰を折る。
メイド服に身を包んだ、二十代半ばほどの若い女である。すらりと背が高く、人形のように整った顔立ちと銀色の長い髪が特徴的だが、あまり表情がなく、陰気な雰囲気の漂う女であった。
この女こそ、かつてヴァルハルタで恐れられた女暗殺者『暗夜の蝶』なのである。
内戦終結後、『暗夜の蝶』を捕らえて正体を暴いたテオボルトの陣営は、その処遇に迷った。
『暗夜の蝶』イルメラは、とある騎士の娘であった。
国王へ忠誠を誓い、その忠義を示すことに熱狂する奇妙な騎士であったその男は、騎士として武働きを王へ捧げることこそ己の人生の最大の目標であると思い込んでいたらしい。
その肝心の国王が国を乱す原因となっていたわけだが、自分が王に忠義を示すことが男にとって一番大事なことであって、国のことなどはどうでもよかったのだろう。
ともかくその騎士は武を誇った。武を示すことが生き甲斐であった。だから三人いた息子たちもそのように育て、末の子が女であると知った瞬間酷く落胆した。
女では騎士にはなれない。それはつまり無価値であるということだ。
それで男は、生まれたばかりの赤ん坊を娼館に預けた。捨てたわけではなく、男なりに女児の『使い道』を検討した結果だった。
その男にとって女の価値とは、男に抱かれることと子を産むことであった。
さらにその娼館は、ただの娼婦を抱える娼館ではなかった。一部の特別な才能を持つ女には、褥の中で男を殺す特別な技を仕込むことで知られていたのである。
これもまた普通ではない価値観を持つ父親の指図によるものであり、とにかく娘を娼婦兼暗殺者にすることが最も高い価値を生むと判断したようだった。
はっきり言って、男の考えは常軌を逸していた。
その後、娘のイルメラは父親の思う通りの娼婦兼暗殺者に成長した。そしてその頃にヴァルハルタで内戦が勃発。父親は息子たちと共に騎士として国王派に属し、戦場でさんざんに暴れてそのまま戦死した。
父親の命を受けていたイルメラは各王子派に潜入して、上位の指揮官を見つけては娼婦として近付き、次々とその命を奪っていたが、やがて国王派とテオボルト以外の王子たちの陣営が倒されたことでおとなしく投降したのだった。
投降といっても、彼女は命令をする者がいなくなった途端、なんの抵抗もしないどころか生きることさえ諦めたような有様で捕らえられたのだという。
元々の育ちのせいで、彼女はとうに人ではなく『物』になっていた。何を言われても、何をされても何も感じず、命令がなければ何時間でも何日でも椅子に座ってじっとし続け、飲食すらも頓着しない。
暗殺者としての能力は恐ろしいが、命令を下すものがいなければ彼女はほとんど人形同然であった。これほどまでに精神が壊れ切っているなら、早々に処刑してしまったほうが彼女のためではないかと言う者もいた。
だが、違和感を感じたテオボルトは彼女を処刑しなかった。理屈というよりも直観に近いものであったが、処刑とはつまり罪を犯した者に対する処罰であり、最初から自我さえ許されず物として扱われ、人を殺す道具としてだけ生きてきた女をただ死なせることが、果たして正しいのかと逡巡したのである。
ちょうどその頃、魔鏡を使って隣国のベアトリスと交信をし始め、彼女が信用できる護衛を求めていると知ったテオボルトは、思い切ってイルメラをベアトリスに託したのだった。
結局のところ命令には絶対に従い、暗殺に関する知識やある程度の戦闘能力も持つイルメラは女王の護衛として適任と言えたし、国内から追放して労働刑を科すと思えば処罰としても適当であった。
あれから数年。イルメラは魔鏡を通じて再度、テオボルトの前に現れたのである。