第13話 優しさの質量⑤
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よろしくお願いします…!
「――どうして茶谷さんは懲戒処分を受けたの?」
聞いてはいけない言葉が口から出た。
その問いが今の雰囲気と合わないことは十分わかっている。
詩海がそれから遠ざけようとしていたことも理解の上だ。
それでも自分は聞かずにはいられなかった。
詩海はすぐには反応せず、手に持っていた食器を置いてから有希を見据えた。
「訓告の記載通りだよ。正確には天宮さんの非所属部門……『アニマ!』編集部への横断的な残業が問題視された」
文面に記載のなかった私の名前を出したあたり詩海にも覚悟があるのだろう。でも、私が聞きたい部分はそれではない。
詩海と相対する有希の目が少しずつ開いてく。
「横断的な残業が悪いってこと? 異動した人が異動前の部署で残業をしているケースを聞いたことがあるけど、そのときは懲戒なんてなかったよ」
「横断的な残業に関してはあくまで「こういうことはしないでください」という名目であって懲戒の根拠じゃない」
「じゃあどうして……私も茶谷さんも違法なことはしていないよ」
「書類上はね」
「え……?」
詩海はどこから話そうかと迷うような表情をみせたあと、再び有希を見据えた
「天宮さんは秋灯社に直雇用されている従業員は毎日、社内のポータルサイトから出退勤時間を打刻しているのは知っているよね」
「知っているよ。毎日やっていることだし」
「過去にさ、終業の打刻をした後に業務を続けていたことはある?」
「……あるよ」
「終業打刻をしたはずの天宮さんが会社に残って仕事を続けていることは山村さんも何度か見たことがあると言っていた。でも、それは天宮さんに限った話じゃなく、他の人たちも似たようなことをやっていた。編集という業務はイレギュラーなことが多くて残業せざるを得ない状況が多く、それは業種別の平均残業時間の高さからも見て取れる」
詩海はタブレット端末を有希に見せる。その画面には雑誌編集業の平均残業時間が二十時間から五十時間程度であることがグラフ付きで記載されていた。
「残業時間が高いということは必然的に監視も厳しくなるし、企業と労働者間においてもトラブルが多くなりがちだ」
「でも私の先月の残業時間は四十四時間に収まっていることは上司の備前さんも把握してるよ」
「例え書類上は上限内に収まっているとしても、上限を超過した残業を行っている可能性があること自体が問題なんだ――天宮さんは労働基準法第三十六条が何の法律か知っているよね?」
「サブロク協定だよね。残業について言及している法律」
「正確には時間外及び休日の労働についての規定で、企業側が従業員に対して法定労働時間を超える残業や法定休日中に労働をさせるための条件を定めているんだ。天宮さんは秋灯社に採用されたあと秋灯社の労使組合に入っていると思うけど、企業が労働者を時間外労働(残業)や休日労働させる場合、企業は労働者の過半数の代表(または過半数組合)と書面による協定を結び、その書面を労働基準監督署へ提出する必要があるんだ」
「それなら協定の内容次第でいくらでも残業できるってこと?」
「それは無理。時間外労働については規定があるんだ。規定も複数あるけど、大まかには月四十五時間または年間三六〇時間が原則上限。ただし年六回までなら月四十五時間以上の残業が可能。残業時間に関しては、今までは協定に特別条項を設けて実質上限が無い状態で残業させることもあったけど、二〇一九年の法改正で明確な上限規制と罰則が設けられたんだ」
「罰則?」
「六か⽉以下の懲役または三〇万円以下の罰⾦」
「会社が懲役を受けるの?」
「会社と、会社の代表者、労務管理担当者、管理責任者も該当する。日本には両罰規定というものがあって、従業員が法律違反を犯した場合、その使用者である法人も罰を受ける規定だよ。最近だと企業スパイとか不正競争防止法関連でよく聞くかな」
ということは、今までは残業に関しては違法行為があったとしても明確な罰則が無かったともいえる。従業員側にしてみれば怖い話であるが実際はそういう環境だったらしい。
「サブロク協定には一部適用除外の業種・業務もあるけど、天宮さんが該当する編集業は適用範囲内。ただしその一方で、残業しないと現場が回らないことは会社も理解していて、だから管理責任者が部下の残業時間を調整していることをあえて見逃してきた。けど、昨今の労働基準監督署の取り締まり強化を受けて、今年、秋灯社の経営陣と労組が労働環境の是正を共通目標に掲げて施行を始めたのだけど、そこに天宮さんの残業の件が発生した」
詩海は一度タブレット端末に視線を落とし、少しの間操作をした後、有希に見向いた。
「天宮さんの先月の労務情報を調べてみると、法定残業時間ギリギリの残業を行っていて、しかもそれが意図的に調整されている可能性があり、また、本来の管理監督責任者の管轄外で残業を行った後に体調不良を起こして三日間休職……企業にしてみれば労働基準法違反として罰則及び訴訟のリスクが発生していて、労組としては労働者の健康を害する働き方に対して是正を要求せざるを得ない状況が揃っている。それにこの一件をもし誰かが労基に通報して、行政によって徹底的に調査をされたら、それこそ全従業員を巻き込んだ大問題に発展する。それらを考慮した上で、今回は当該使用者にあたる責任者の懲戒処分と、部門を越えた横断的残業の抑止として、茶谷さんに対する訓告処分が適当と判断されたんだ」
「そんなの見せしめじゃん……」
「そうだよ。でも、茶谷さん本人は前向きに承諾した」
「それは私に被害が及ばないよう庇っているからだって詩海くんもわかるでしょ?」
「だから経営陣も労組も本人の意志を尊重して、懲戒の中で最も軽い訓告に留めたんだよ」
何が本人の意志だ。みんなが茶谷に対して「そうすれば丸く収まる」と原因を擦り付けているだけだろう。懲戒だって重いも軽いも関係ない。もしも罪があるとしたらそれを被るのは決して茶谷ではない。
「あのとき……茶谷さんはとても困っていた」
有希はうつ向いたまま訥々と話し始める。
「誰もいない夜中の会社に茶谷さんがいたんだ。茶谷さんの目元には大きなクマがあって、小さな体がふらふらしていて、部下の人がインフルエンザで休んでいて、自分の仕事をしながら他の人の仕事の穴埋めを一生懸命やっていたの。早く帰りたいと言ってた」
「茶谷さんは管理監督責任者だから実質上、残業時間の上限はないんだ」
「だから残業を押し付けてもいいの?」
「秋灯社では役職手当という形でちゃんと対価を用意しているよ」
「そんなことを聞きたいんじゃない……私が勝手に茶谷さんの手伝いを申し出たの。茶谷さんは巻き込まれただけなの」
それが労務情報にも記載されていないであろう真実なのだ。
詩海にだけはわかってほしい。
欺瞞では誰も救われないことを。
本当に悪いのは私であると。
「僕は……茶谷さんの意志を尊重したい」
その言葉を聞いて有希の表情が大きく歪む。
「法務部とは本来、諸問題に対して公正に判断しなければいけない立場だ。でも、なぜ企業に公正さが必要なのかを考えると、それは会社の利益と労働者の幸せが乖離しないように調整するためだと僕は考えている。茶谷さんの危機管理マネジメントは完璧だ。自分を擲ってまで遂行した彼女の決意を無下にはできない」
この人はなぜこうも合理的に曲解できるのだろう。
自分を欺いている節さえあるところはもはや別の生き物のように思えてくる。
「……私が辞表を出せばみんなわかってくれるのかな?」
「それは誰も望んでいないよ」
「でも、そうしないと茶谷さんが悪くないことを誰にもわかってもらえない」
「いい加減にしなよ。天宮さんには天宮さんの考えがあるように、他の人には他の人の考えがある。いちいち他人を巻き込むな」
そうだ。
私が茶谷を巻き込んだことから全てが始まった。
私はまた誰かを巻き込もうとしているのか。
何が頼りがいのある先輩だ。
誰が上司から期待されているというのだ。
仕事ができるようになったと勝手に自負を重ねていただけで、
人としては何も成長していない。
「うっ……うぅ……」
固く閉じているはずの目元から涙が溢れてくる。
意識していた異性の前で私は泣いている。
こんなはずではなかった。
楽しい二人きりの食事。
もしかしたら恋愛関係になっているかもしれないと期待があった。
しかし現実には聞き分けのない哀れな女がいるだけで、
詩海がどんな表情を浮かべているのか見る勇気さえない。
「うっ……うぅっ……」
私は――無力だ。
今回は労働者の権利の話でした。
最近は話が連続していてすいません。
短編も用意できるようがんばります。よろしくお願いします…!
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