第11話 あなたの心が進むために⑥
第11話、今週を目安に書き切る予定です。
よろしくお願いします!
それから一週間が経過する。
会社に行けば日々の業務があり、日常も何事もなかったように進んでいく。打ち合わせの二度の不調によって仮に私が死んでも世界に影響はないのだろうと感傷的な気分が時折顔をのぞかせることもあったけど、ざわついていた心も時間の経過と共に鎮まっていった。
それでも『いせげん』のことは毎日気にはなってしまう。
そして直近の悩みとしては最新話のネームが未完成なので、コミカライズの作画制作に影響が出始めたことだ。私は作画担当の森下に事情を伏せたまま制作が滞っていることを謝罪した。
森下は特に気にする様子もなく制作の遅滞を受け入れてくれた。彼女には後日、高級なお菓子を贈ろう。
平穏が戻ってきた一方で、不安からは逃げられない。
だからだろうか。私が他部署との打ち合わせの後に、法務部の扉の前で足を止めたのは。
思えば何かトラブルがある度に法務部に駆け込んだが、ここ最近は一切訪問していない。それは良いことでもあるけど、寂寥感もあった。
しかし今回は法務とは無関係のことだ。用のない自分が扉を開けるわけもいかない。有希は体を廊下の奥に向ける。
廊下の角から見知った姿が現れる。
「……詩海くん」
「どうも」
廊下の先に詩海がいた。
「何してるの?」と詩海が尋ねる。
「社内の打ち合わせが終わって、これから戻るところ」
「漫画編集は色々な部署と繋がりがあるもんね」
「あはは。そうなんだよね」
「それじゃ僕も戻るから」
詩海が有希の隣を通って法務部のドアノブに手をかける。扉を少し開けたところで後方を見やる。その場にはまだ有希がいて、双方の視線が合った。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
「おや、天宮ちゃんじゃないか」
法務室の扉の奥から山村がひょっこりと顔を出した。
「山じい……」
「久しぶりじゃのぉ。そんなところに突っ立ってないで入るといい。詩海くんも在庫管理部との面談も終わったんじゃろ?」
「詩海くん、在庫管理部に行ったんだ?」
「意匠権について質問を受けたから面談してきたんだ」
「今までは儂が一人で社内の相談役をやっていたんじゃが、彼にも少しこなしてもらうと思ってな」
「面談の報告書は昼過ぎまでに作成します」
「それは明日でもいいぞ。今は二人ともお茶にしよう」
そう言って山村は法務室に戻っていく。
「天宮さん」
詩海は、入室を躊躇している有希に声をかけた。
「え、何?」
「悩んでいることがあるのから誰かに聞いてもいいんじゃないかな」
「……そう見える?」
「雰囲気がいつもと違うよ」
雰囲気とは妙なことを言うと思った半面、詩海なりの気遣いなのだろう。不安が少し軽くなった気がする。有希は詩海に続いて法務室に入った。
「……何かアニメグッズ増えてない?」
法務室の室内、特に壁際の書架と詩海のデスクには、アニメ調のイラストが描かれたアクリルスタンド等が設置範囲を拡大させていた。
「アニメじゃなくてゲームだよ。鳴〇知らないの?」
「名前くらいは知ってるけど……」
「漂泊者とフィーヴィーと丹瑾が最近のお嫁さんなんだ」
最近のお嫁さんって何だ。しかも複数いるぞ。そもそも社内で格式高いと言われている法務室でキャラグッズを置いてもいいのだろうか。有希は山村を見た。
「今はそういう時代じゃからな」
山村は悟ったような表情でお茶を飲む。キャラグッズのことで詩海と何かあったのだろうか。秋灯社内で法務部の長たる山村に歯向かう者など想像できないけど、アニメのことになると人格が若干変わる詩海ならあり得なくもない。
「それで天宮ちゃんは何か悩みでもあるのかな?」
「え?」
「実は備前くんから、天宮ちゃんに何かあったら相談に乗ってくれと言われていてな」
私の悩んでいることが妙に共有されている気がする。私、そんなにわかりやすいのかな……。
有希は少し悩んだ後、『いせげん』の制作トラブルについて語り始めた。
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「なるほどなぁ。まあ、編集と作家が揉めるのはよくあることじゃよ」
ソファに腰かけていた山村はおどけたように肩をすくめる。
デスクに座る詩海は何も言わずキーボードを打鍵していた。
「こんなにヒリヒリする事態は私も初めて……」
「天宮ちゃんはノベコミ編集部に所属して三年目よな。それなら優秀なんじゃないか」
トラブルを解決できていないのに優秀とは。それに、その言い方は、昔はもっとトラブルが多かったと言っているようにも聞こえる。
「作家と編集ってそんなに揉めるの?」
「揉める。秋灯社に漫画事業部が長らくなかった理由の一つがそれじゃからな。うちにはアニメ雑誌編集部もあるが、あれは権利元から許諾されたネタを載せれば体裁はできる。逆にダメと言われたら載せなければいいだけだから権利の判定がわかりやすい。しかし、漫画や小説は権利そのものを直接触れつつ制作しなければいけないからのぉ。まあ、それでも今日までうまくやっているのは発起人である備前くんの功績じゃな」
有希は経営陣が漫画事業に消極的だったことを知って衝撃を受ける。備前が漫画事業を開拓したことは既知の情報ではあった。もしかして備前ってすごい人なのでは……普段はのほほんとしている人なのに。
「編集にとっては今の方がハンドリングは難しいと言われている。昔は、作家は比較的扱いやすい存在じゃった。編集が修正を提案して、仮に作家が修正を拒否すれば、「掲載しないぞ」と言えば、作家は生活が懸かっているから修正を余儀なくされる。ある意味、発注元と元請けの関係に近かったのかもしれん」
「それって、昔の作品は修正が無制限に行われていたってこと?」
「全部が全部そうとは言わんが、大体はその認識であってるのぉ」
修正工数が無いなんて考えられない。そんなことを打診したら作家側から怒られてしまう。小学校のウェブ出席といい、時代とは常に人の見えないところで変化しているらしい。
「それで、『いせげん』のことはどうするつもりかの?」
山村に尋ねられるも、有希は視線を落として言い淀んだ。
ふいに詩海のデスクにある電話機が着信音を鳴らした。
「はい、法務部です…………山村さん。ノベコミの備前さんから内線です」
詩海は内戦を山村のデスクにある電話に繋いだ。
「山村じゃ……うん、わかった。今から行く」
山村が受話器を置くと同時に有希が「何かあったの?」と尋ねた。
「ちょっと用事があっての。ああ、天宮ちゃんがいることは備前くんも認識済みで、適当なときに戻ってきていいと言っておったぞ」
そういえば打ち合わせの後、法務部に寄り、すでに十分以上経過していた。
「儂は出ていくから、あとは二人で話し合うといい。それじゃあな」
そう言って山村が颯爽と去っていく。少し笑っていたように見えたのは気のせいだろうか。
室内で詩海と二人きりになる。
詩海はタブレットとパソコンを交互に見ながら打鍵を続けている。
「『いせげん』のことはどうするの?」
「え?」
「僕が引き継げってことでしょ。山村さん、退室する際、僕の方を見てたから」
「なんか笑ってたよね」
「年長者は下の人を試したがるんだよ」
「あはは……『いせげん』のことだけど、正直迷ってる」
こうした方がいいんじゃないかという理論はあるけど、それを言語化することを躊躇ってしまう。一度でも言語化してしまったら、それに付き従うことしかできなくなるような気がするから。
「わからない、じゃなくてよかった」
詩海は打鍵をやめると、山村が座っていたところに座り、机を挟んで有希と向き合う。
「迷っているということは、考えはある程度まとまっているんだよね」
有希は瞠目した。自分の考えを詩海は的確に見抜いた。相変わらずの達観ぶりだ。本当に二十歳の大学生なのだろうか。
「以前話したと思うけど、漫画や小説は複数の権利が束になった著作権で、法律上ではかなり強い権利なんだ。『いせげん』に関しては、奥野さんは原作者であり、原作者は『原著作者』にあたる。ノベコミ編集部が『いせげん』のコミカライズ作品をウェブ上にアップロードする際には公衆送信権の許諾が必要で、コミカライズのネームに起こす際は翻案権の許諾が必要となる。原著作者は原著作物から派生するすべての権利に対して許諾の権利を有する……原作者ってそれくらい強いんだよ」
「そんなに強い権利を持ってるのに、どうして作家さんは元請けのような立場にいるんだろう」
「資金を持っているのは基本的に企業だからね。大きな泉を企業と仮定して、その湖から水を流すかどうかの判断は企業が行う。知的財産権の最終的な目標は利益の最大化であって、利益が発生しないと権利は死財化してしまう。それに、法律とは悲しいことに立場の強い者に対して有利にはたらく性質を持ち合わせているんだ」
「法律って権利を正当化したり、立場の弱い人を守るためにあるんじゃないの?」
「うーん……実際はちょっと違うよ」
「そうじゃないの?」
「日本の憲法においては、全ての国民は平等で権利も保障されている。けどそれは、世の中には不平等と権利の不在化が存在する反証でもある。例えば、雇用主と雇用者。貸主と借主。出版社と個人事業主。形態は様々あるけど、権力の強いものと権力の弱いものが現実としてわかれているよね。その状態で契約の締結を求められた場合、立場の弱い側は自分の意志を主張できるかな?」
「できないと思う……」
「法律そのものは強い拘束力を持っていて他の存在にも対抗することはできるけど、契約の前段階とか、法の支配が及ばない私的範囲においては力が全てを左右する原始的環境であって、それは権力者の利益に相当する。よく誤解されるけど、法律というものが守っているのは『人』ではなく『ある一定の範囲』なんだよ」
よくよく考えると、元請や下請も本来は受託の選択権を持っているはずだ。しかしそれが蔑ろにされてしまうのは契約者間の力関係がかなり影響するのだろう。そして、その環境は今日の作家と出版社の関係にも相当する。それは下請法のように是正も必要な気がするけど、そのような話は聞いたためしがない。それが、権利者でありながら弱者という違和感の正体なのだろうか。
話を戻すと、原作者は本来強い権力を持っていて、コミカライズのネームにノーを突き付けることは当然の権利であるということだ。業務上の最適解よりも個人の気持ちの方が優先されるのは社会人としては違和感のある話ではあるが、法律上ではそういう規定になっているらしい。でも、仮にそれがまかり通るのなら、南雲のような非原作者の立場はどうなるのだろう。
権利、仕事、コミュニケーションが盤面の上に並んでいて、自分は観測者ではなく当事者である。当事者は次の手を選ばなくてはいけない。
「私は……誰に寄り添ったらいいんだろう」
ここにきて判断が更に迷い始め、つい本音がこぼれた。
「誰にも寄り添わなくていいんじゃないかな」
「えっ」
「時には誰かを信じる尊さよりも、自分を信じる愚かさの方が大切なときもあると思うよ」
「詩海くん……」
そうか。だから私は迷っているのか。
選択肢は多い方がいい。けど選択肢が多いと人は迷う。
自分を信じる人は迷わず突き進む。
部活で一心不乱に白球を追いかけていたときの自分がいつの間にか遠くなっていた。
奥野と南雲には、自分の言葉で伝えよう。
有希は口を真一文字にしめて、顔をバッと上げる。
詩海は有希を見てほんの少し微笑んだ。
決戦は二週間後だ。
打ち合わせのリスケ日までまだ猶予があるけど、自分の決意は当日まで大切に守ろう。
「詩海くん!」
「はい」
「私、頑張るから!」
「はい」
「今度ご飯一緒にご飯食べよう!」
「はい?」
「奢るから!」
「はぁ……?」
呆気にとられる詩海をよそに有希は席を立ち上がる。そのとき、社用スマホが着信音を鳴らした。
ディスプレイを確認すると、発信者は奥野だった。
「奥野さん、どうしましたか?」
「あー……どうも」
奥野は困ったような声音を吐いた。
「実は……今、南雲さんと一緒にいるんですけど」
は?
「天宮さん、今からこっちに来れますか?」
なんだと?
有希の首がグギギと動いて詩海を見やる。
奥野の声は詩海にも届いていたらしく、詩海は肩をすくめた。
「行くしかないでしょ」
詩海「千咲当たらなくて吐きそうだけどフィールド探索して石かき集める」
有希「あっ」(無課金タイプだ……)
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