第11話 あなたの心が進むために⑤
土日は更新しないと思います。
よろしくお願いします!
「ただいま」
夜になり、有希はマンションに帰宅した。単身生活七年目。返事がかえってこないことがわかっているけど、子供のころから培った礼儀作法はなかなか抜けないらしい。
閉め切っていたカーテンを開けて、夜空を少し眺めた後、カーテンを閉じる。ここには今年の春に引っ越してきた。在宅ワークを経験して、自分は割と繊細であることに気づいた末での五階建て最上階角部屋への転居だった。
まずは洗面台でうがいをして喉を守る。その後はすぐにクレンジングだ。アイメイクを施すことも、ファンデーションを顔に塗りたくることもあまり好きではない。そのせいか、素顔になったときこそ家に帰ってきた実感が一番わく。
冷蔵庫には三割引きのシールが貼られたカツカレーがあった。今日は疲労困憊で夕食を買う気にもなれなかったので、昨日の自分にお礼を言いたい。ありがとう、私。
有希はリビングにやってくると、壁際に置いてあるテレビをつける。バラエティ番組が映るも、部活中心の生活を送っていたこともあって出演者の顔ぶれがわからない。子供の時は知っている芸能人しかいかなったのに。テレビに映るモデルらしき女性が「女性は常にキレイでいたいからダイエットは必要で、私はオートミールとナッツしか食べないの」と豪語しているけどカツカレーを食べている私は女性じゃないのかもしれないと疑心暗鬼になってきた。テレビを消そう。
食事を終えた有希はデスクに座ってノートパソコンを起動する。メーラーを確認すると、今日も大量にメールが来たことをポップアップで通知してきた。新卒一年目のときに登録してしまった転職サイトからの転職案内メールの中から、『なれる』の当日ランキング情報が載ったメールを見つける。そしてウェブサイト経由で『なれる』のページに飛び、ランキング作品を調べるのが有希の日課だった。
「『【書籍化決定】トイレットペーパーに転生したけど質問は紙に書け』……タイトル面白いなあ。UUも結構ある……あっ、この作品、『馬男』の人の新作だ。婚約破棄系は……お腹いっぱいだなぁ」
有希は独りごとを呟きながら目ぼしいランキング作品を閲覧していく。データの集計と注目作のリストへの反映を済ませると一息ついた。背もたれに寄り掛かったまま白壁の天井を見上げると、奥野と南雲のことが頭に浮かんできた。
奥野とは新卒一年目からの付き合いだ。『いせげん』を商業用作品として一から作り上げて、特にコミカライズはノベコミ連載作品の中でも上位に位置するようになった。世間的には知名度は低くてもノベコミの中では人気作家なのだ。しかし、ここにきて、作家としての我が強くなり、作品制作において提案や修正に苦慮することも増えてきた。
南雲はフリーの編集プロダクションだが腕は確かで、『いせげん』のコミカライズの編集も彼女が行っている。『いせげん』のコミカライズが評価されているということは、南雲の手腕によるものだと言っても過言ではない。奥野に対して少し言い過ぎなところも気になるが、言い分は的確で、奥野が作品を私物化する傾向になってきたことは有希も気がかりだった。
やはり説き伏せるのは奥野の方だろうか……。
有希はカーソルを操作して、『なれる』内の奥野の作品ページを表示する。
奥野は現在作品を三作発表していて、その三作すべてが書籍化されている。書籍として一番長く続いているのが『いせげん』で、他の二作品は他の出版社から第一巻こそ刊行されているが、それ以降の続刊は止まっていた。奥野本人いわく、売上不振で刊行が凍結状態にあるとのことだ。それは商業的価値が無いと判断されたことに他ならないのだが、奥野は今も二作品の更新を続けている。なぜ更新を続けるのだろう。なぜ続けられるのだろう。それは偏に、創作したいという意欲に突き動かされて執筆を行うのが作家という生き物だからだろう。そして、出版社はその意欲を借りて商業を展開している。だとすれば、出版社に所属する編集が作品制作に介入してもいいのだろうかという疑問もある。少なくとも、自分には奥野を悪者にすることはできない。
「……」
有希は充電中の社用スマホを一瞥する。
明日の再打合わせは奥野と南雲どちらにも出席の約束を取り付けた。そこで自分は判断しなければいけない。自分にそんなことができるのだろうか……違う。やらなければいけない。
それから有希はネットサーフィンを行い、仕事に必要な情報を集めた後、ノートパソコンの電源を落とす。睡眠の支度を済ませた頃には夜の十一時を少し回っていた。
ベッドに収まった有希は、薄暗い部屋の中で目をつむる。
早く明日になってしまえという勝気さと、
明日なんて来なければいいのにという逃避的思考が頭の中で渦を成し、
その日はなかなか寝付くことができなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――
次の日の昼。
有希は秋灯社の二階にある小会議室にいた。
上座にたった一人で座る有希はノートパソコンを広げて、目を閉じたまま腕を組んでいた。
誰かと直接面談するわけでもないのに小会議室を抑えたのは集中したい思惑と、声を大きくしても他人に迷惑がかからないという配慮だった。もしかしたら誰かの意見にヒートアップするかもしれない。または自分が感情的に意見を述べるかもしれない。どうなるかは自分でもわからないけど、ただ言えるのは、今日が社会人として大きな日になることが予想できた。
打ち合わせの開始時刻は午前十一時五分前。
ウェブの部屋は朝の段階で作成済みで、あとは二人の参加者を待つだけだ。
――十一時になる。
「おはようございます」
奥野がウェブ部屋に入室してきた。本人からは今日は非番だと聞いていたけど、何故か上半身にスーツを着用している。奥野も何かしらの覚悟があるのだろうか。
「おはようございます、先生」
「いつも通り奥野でいいですよ」
奥野は苦笑を浮かべた。
有希は自分が緊張していることを悟り、呼吸を整えてから微笑みを返した。
「急なスケジュールでお願いしてすいません」
「いえいえ、お気になさらず。私は普通に出勤日ですから」
「南雲さんとはあの後、話されたんですよね?」
「はい……」
「そうですか」
そこで奥野は閉口し、会話を止めた。
明らかに何かを考えているように見えるが、南雲なしで話を進めていても昨日のように消化不良にしかならない。ここは南雲の登場を待つべきだと有希は判断して、奥野の許可を得た上で他の業務に取り掛かる。
それから十分ほど経過するも南雲はウェブ部屋に現れない。
時間をきちんと守るあの南雲が……ひょっとして事故にでも巻き込まれたのだろうか。
「南雲さん、どうしたんですかね」
奥野がペットボトルの蓋を開けながら質問した。
「確認します。少々お待ちくださ――」
そこで机の上に置いてあった有希の社用スマホが着信音を鳴らす。
「あ、天宮さん聞こえる?」
「はい、どうしましたか?」
「さっき学校から呼び出しを受けて、子供を迎えに行かなくちゃいけなくなって……打ち合わせだけど本当にごめんなさい。今日は無しで」
南雲は早口かつ叫ぶようにそう話したのち通話を切断した。
「…………」
有希は放心したままノートパソコンのディスプレイを見やる。
「聞こえてました」
奥野は困惑とも苦笑ともとれるようなどっちつかずの微笑を浮かべていた。
「本当にすいませんっ!」
有希は机に額をぶつけそうになるほど頭を下げた。
「僕も昨日やっていることですから、気にしないでください」
「すいません、すいません!」
「天宮さん、落ち着いて」
それから有希は奥野と何かを会話していたはずだが終始混乱気味で話の内容をまったく記憶していない。かろうじて理解できたことは、次の打ち合わせが三週間後を目途にリスケになったことだけだった。
「僕は本当に大丈夫ですから、気にしないでください。失礼します!」
奥野が逃げるようにウェブ部屋を退室する。
暗転したディスプレイには髪型が乱れた有希の上半身が映った。
「…………最悪」
有希「大学四年、社会人三年の単身生活七年です」
芽衣「彼氏いない歴は?」
有希「は?(威圧)」
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