第十話 編集の権利って何ですか?②
翌日の昼、弁当袋を持参した有希は秋灯社の法務部を訪れる。
「おーう、天宮ちゃんか」
法務部長席に座る山村が有希に手を振った。
山村は創業者一族で秋灯社の現オーナー……そう詩海から聞かされたため有希は態度を改めるべきか悩んだが、そんな考えは秒で消して手を振り返す。
「あれ、詩海くんは?」
「大学じゃよ。今日は一日不在じゃ」
「そっか……」
「彼の連絡先は聞いてないのか?」
「あ、大した用事じゃないよ。『編集権』について聞きたくて」
山村の目つきが一瞬鋭くなったがすぐにいつもの温顔に戻る。仕事に関わるようなワードに敏感なところは長年法務を歴任しているなと思った。
「出版権か。またややこしいものに絡まれたのぉ」
「いやいや、ノートラブルだから。単純にどういう権利なのか聞きたかっただけなの!」
必要以上に取り繕ってしまった。もしかして私、法務部の人にトラブルメーカーだと思われてる?
「まぁ座るといいさ。昼にしよう」
有希は促されて応接用のソファに座る。
山村が席を立つ。移動する際は杖が手放せないようで、有希の対面席に座るまで少し時間がかかった。早く快復することを願うばかりだ。
山村は持っていた包みをテーブルの上に広げる。包装されたわっぱ飯が現れた。
有希も弁当袋を取った。会社近くのお弁当屋で購入した幕の内弁当だが、山村のわっぱ飯の二倍ほどのサイズがあって少し恥ずかしくなった。
「編集権……最近は漫画の出版契約にも言葉として盛り込まれていることが多いのぉ」
「本来は漫画と関係ない権利なの?」
「元々は新聞業界で生まれた概念なんじゃよ。第二次世界大戦で日本は敗戦国になって一時期GHQの占領下にあったじゃろ。そのとき民主化が進められていた一方で、民主化を抑えようとする動きもあった。メディアへの検閲じゃ。世論統制と情報目的が検閲の目的で、それは一九五〇年代まで続いた。その中で新聞編集の実権を取り戻そうと新聞社の中で紛争が起きて、当時の新聞協会が声明を発表して、新聞編集に必要な一切の管理を行う権能……『編集権』という概念と帰属関係を打ち出した」
老年の風貌も相まって山村は厳かな雰囲気をまとっていた。
「じゃが!」
「えっ」
「この編集権ってちょっと変わった存在でな。実は日本独自の権利なんじゃ」
「じゃあ海外には無いの?」
「似たような権利はあるが編集権という概念は日本にしかない。しかしこの編集権、残念ながら法令の規定がないため判例でも解釈上認められないことが多く権利として主張するには幾分弱い。だから概念なんじゃよ」
「まるまる権って聞くとすごい法律的に聞こえるけど、そうじゃないものもあるんだね」
「じゃが、そんな概念が出版契約書に記載されていることが多い。なぜじゃと思う?」
「その権利がないと編集者が編集できなくなるから」
「正解じゃ。プロの作家とはいえ勝手に描かれたら独りよがりな作品が生まれるからの。そんな作品を世に出しても売れんじゃろ」
確かにそうだ。読者は作者の設定資料を読みたいわけではなくエンターテイメントを求めている。作家の主観に編集の客観を混ぜる。相互理解からなる相互利益で売れる作品が生まれる。編集権というのはプロダクトの環境を整えることに欠かせない要素なのだろう。
「諾成契約においては編集権を民法上で擬制できるかもしれんが、著作権法は民法の特別法じゃからなあ。出版社の人間としては編集権を争うような裁判が起こらんことを願うばかりじゃ」
権利は平等だが立場によって属性が大きく変わるのだろう。有希は、遠い目を浮かべた山村を見て法務部がいかに大変な部署であるかを肌で感じた。
有希は弁当を食べ終えると山村に軽く挨拶した。
「色々教えてくれてありがとね。職場戻るよ」
「昼休み終了までまだ時間があるじゃろ」
「何か今、仕事頑張りたいモードなの」
「そうか……無理のない程度に頑張りなさい」
「それじゃあね!」
有希は法務部の扉を開ける。
作品を制作する裏で色々な人の苦労がある。
その最前線で陣頭指揮を執るのが編集だ。
私は人々の想いと期待に応えられるような仕事をしよう。
有希は気概を胸に仕事に戻った。
編集権というものは概念的なものであって権利として著作権法内に明文化されていませんが、
大抵の出版契約には
「漫画家側は本著作物制作の際、編集者の指示や助言を聞き入れるものとする」みたいな文言があって民法上の義務を発生させていることがあるから
編集の助言を無暗に無視するのはダメだよ!(/・ω・)/
※本作品は実在の法律的根拠ならびに過去の判例を参考に執筆しているエンターテイメント作品のため、
法律または法律的助言の提供を目的としたものではありません。
法解釈における正確性や妥当性に関しては努めて配慮しておりますが、
作品外における作品内容の利用に関してはご自身の判断でご利用ください。




