第九話 あなたの文化と私の権利③
「どうして他人事で感情むき出しになれるの」
そう述べた詩海は本当に分からないといった表情で有希を見た。
「何でだろうね」
「えっ?」
「子供のとき、親から女子サッカーとプロ野球のステッカーを渡されたの。サッカーのステッカーはピンク色で女子っぽいデザインで、プロ野球の方はヤクルトの青色ステッカー。その時私はヤクルトのステッカーを選んだのね。当時は女子サッカーが流行っていたし、女の子はピンク色が好きみたいなイメージもあるから親はちょっと驚いていたなあ。その後は野球を始めて、親に連れられてヤクルト戦を観に行くようになったけど、本当に興味を持ったのは高校の時だったかな。館山昌平って投手知ってる?」
「知らない」
「野球にはトミージョン手術っていう靱帯を再建する手術方法があるんだけど、利き腕の肘の骨をドリルで削って、その空いた穴から他の部位から取り出した腱を移植するの」
詩海の表情が歪む。どうやら手術を想像したらしい。
「日本の投手ってアメリカと比べると多投しがちでこの手術をよくやるんだけど、やって一回か二回。穴を空けた部分の骨がどうしても脆くなって最悪日常生活にも影響が出ることがあるらしいのが理由なんだけど、その手術を計三回もやった人がいるの。それが館山」
「あー……その話、スポーツサイエンスの雑誌で見たことがあるかも」
「興味あるじゃん!」
「いや、知的財産権あるあるんだけど、どの関連書籍を買っても特許権の説明欄に必ず「フォークボールは技能であって、技能は発明にならない」という文言があるんだよ。そこで多少は違う分野も知った方がいいと思っていたのかな」
詩海はさも他人事のように話す。本当に野球に興味が無いのだろう。
「肌を一九一針も縫って、これから先、腕がどうなるのかも分からないのに手術をしてマウンドに上がるの。インタビューで「技術は無いけど闘志はある。決して自分を諦めない」って言ってて、超カッコいいなあと。投手ってのはね、投げっぷりと生き様なんだよ!」
熱っぽく語ってしまった。しかも野球に興味ない人に。詩海が上半身を若干のけ反らせているのはやはり引いているからだろうか。
「生き様ね……」
「とにかくプロ野球は色々な見方があるんだよ!」
「女の人って男を顔で判断するだけじゃないんだね」
「それ女性の前で言ったら怒られるよ」
しかしそれがある種の本音でもあると思うが。有希自身、館山の生き様とは別に顔が好みだという事は伏せた。
九回表。2―2の同点でマウンドに上がった清水が2アウトにまで漕ぎつける。迎えた打者は細川。今日は打撃で良いところもなくエラーをしていて取り返そうという意思を全身から放っている。キャッチャーの中村はホームランを警戒して高めのボール球を要求。しかし細川はそれを振る。次は内角にシンカーを投げた。清水の得意球で、これもボール球コースだった。それを細川は引き付けてフルスイングした。高々と舞い上がった白球は神宮の夜空に放物線を描いてレフトスタンドに吸い込まれていった。
「最悪だ……」
有希がこの世の終わりのような暗い表情で肩を落とす。
詩海が思わず「大丈夫?」と声をかけたが、有希は「もう駄目だ……」と弱気になっていた。
「ヤクルトは次の攻撃があるんじゃないの?」
「うん……」
「逃げたら一つ。進めば二つ」
「何それ」
「偉人の名言だよ。前進した方が得られるものも多い。天宮さんも勝利を信じたらいいんじゃないかな」
詩海は同僚を慰めたり、ペラペラと話している自分に違和感を覚えたのか表情が少しぎこきなかった。
「……そうだよねっ!」
有希が闘志を漲らせて上半身をガバッと起こした。そして詩海の手を強く握る。
「逆転するよ!」
なぜ自分に水を向けるのかと言いたげな詩海だったが、有希の目は真剣そのもので、思わず「はい」と首肯した。
九回裏。先頭バッターの濱田は、敵の抑え松山に対して八球粘った末に空振り三振。神宮の一塁側観客席からため息が漏れる。次打者は代打塩見。ケガから復帰して間もない塩見だったが、高いポテンシャルから繰り出される突出したスイングは健在で、松山のフォークをレフト前にはじき返した。バッターは赤羽に代わって川端。過去に首位打者を獲得した球界を代表するヤクルトのヒットメーカー。ケガが多いため現在はフル出場できないが巧みなバットコントールが持ち味で球界からはガラスの天才と評されている。バットのヘッドを少し出してファールにするという他の選手が真似できないカットを続け、高めに甘く入ったスライダーを広く空いた一二塁間に打ち返す。ランナーの塩見は快足を活かして三塁を陥れる。そして川端は代走並木と後退してベンチに下がった。
1アウト、ランナー一三塁。走者が一人帰れば同点、二人帰れば逆転勝利が確定する中、ヤクルトファンのボルテージが上がる中、球場内がふと静まり返る。
虚空に響くラッパの演奏。平成の時代に口ずさまれた流行歌、『夏祭り』の前奏を球場内のヤクルトファンが一体となって丁寧に歌い上げていく。そして前奏が終わると、大きな拍手と笛の音が鳴って、打席に立った長岡の名を何度もコールする。
サビの演奏が始まり、ヤクルトファンはワッショイワッショイという掛け声と共に両手を振り上げる。高揚感に包まれる中、松山はセットポジションからアウトローに直球を投じた。長岡はアウトサイドに踏み込んで体を巻き込むようにスイングする。木製のバットがボールを激しく叩き、ボールが凄まじい打球速度でライトフェンスを越えた時、球場が絶叫で揺れた。長岡の見事なサヨナラスリーランだった。
「長岡ぁ……すきぃ……!」
「何で泣いてるの……」
絶叫して涙を流す有希に対して詩海は若干引いていた。
「でも勝って良かったね」
「さす長だよぉ……」(さすが長岡の略)
「病院連れっていった方がいいのかな……」
試合は6―3で決着を迎える。勝者は歓喜に揺れ、敗者は明日また頑張ろうと決意を胸に秘めて退散する。試合後のヒーローインタビューは長岡。打撃内容の振り返りと、ファンへの挨拶、そして優勝への意気込みを述べて一塁側のファンを大いに沸かす。そしてヒーローインタビューが終わるとライトスタンドを中心に長岡コールを叫ぶ。長岡は帽子をとってファンにお辞儀をしてからベンチに退いた。勝利が確定したあと有希はベンチ前に移動して、長岡のインタビューを間近で堪能して勝利の余韻に浸り、満足げな表情でペアシートに戻った。
「野球が本当に好きなんだね」
散々待たせてしまった詩海は怒るどころか困ったように微笑んでいた。
有希は「面目ない……」と申し訳なさそうに頭を下げる。
勝利の宴が終わり、一塁側にいた観客たちも席を立ち始める中、有希は詩海に見向いた。
「どうして今日一緒に来てくれたの?」
「プロ野球も法律的には著作権の範囲なんだよ」
詩海は、あまり知られてないけどね、と付け加えた。
「著作権ってことは漫画や小説と同じってこと?」
「昔、日本には『興行権』という権利があったんだ。後の法改正で興行権という言葉自体は無くなったけど、権利自体は残っていて、現在では著作権の内の上映権、演奏権及び上演権に分割して解されているという認識なんだ。コンテンツって言えば分かりやすいかも」
「最近は漫画もテレビ番組もコンテンツって言い方するよね」
「だからプロ野球という興行も知的財産の一種で、その興行をテレビ局が放送したり、ラジオ局が有線放送するのも著作権が発生する。日本のプロ野球っていわば知的財産の宝庫なんだよ」
そんな角度の着目もあるのか。有希は色々な見方があると言った自分が少し恥ずかしくなった。
「そろそろ帰ろう。少し寒くなってきた」
詩海が提案する。
二人は席を離れるも球場の通路は狭く、帰ろうとしている観客たちでひしめき合っていた。
「満員電車かな?」
「球場出るまでちょっと時間かかるよ」
有希にとっては見慣れた光景だった。
今日は久しぶりに二人で観戦した。一瞬デートかなと思ったけど全然そんなことはなくて、同伴してくれた詩海も不機嫌にはなってなさそうで安心した。ふいに周囲を見やると恋人同士の観客がいた。お揃いのユニフォームを着ていて仲睦まじい様子だ。そんなに共感性の高い恋人なんて一体どこで見つけるのだろう。そんなことを考えていたら、後ろから詰め寄ってきた観客に押されて態勢を崩した。
「えっ?」
「大丈夫?」
気づけば詩海に体を重ねていた。腰と肩に触れている詩海の手は思いのほか大きくて、密着している詩海の胸が温かい。前髪の奥に並ぶまつ毛の長い瞳に見下ろされていた。
有希は詩海の体に手を置いて反射的に体を離す。クッションになってくれた詩海に対して酷い対応をしたような気がして「ごめん」と謝った。気温が下がっているのに耳が妙に熱い。
「た、助けてくれてありがとう!」
「怪我が無くてよかったね」
年下にしてこの気遣いである。ポンコツすぎるだろう、私。
二人はようやく球場の外に出る。球場の外に並んでいる露店が帰宅する客を呼び込み、大勢のファンもJR線がある北側と地下鉄がある南側に枝分かれして進んでいた。
明治神宮の正門前にいた有希と詩海は足を止めた。有希はJR線、詩海は地下鉄を使うためここで別れることとなる。
「詩海くん、今日の観戦楽しかった?」
「どうだろう。よく分からないかな」
「そっか……」
有希は自分が何の意図をもってそんなことを聞いているのか分からなかったし、何で落胆しているのかも理解できなかった。でも、何かを期待している自分がいたのは確かだった。
「でも、初めて野球観戦したから、それは一生の思い出になると思う」
詩海はいつものローテンションで少し目を伏せながらそう述べた。
「次も一緒に観戦しない?」
「ヤクルトが優勝しそうになったら考えるよ」
「約束だよ!」
有希が大きく手を振って北側に向かう。
詩海はカーディガンのポケットに入っていた小さな傘を返し忘れていたことに気付くも、そのまま帰宅の途につく。
プロ野球。一つの白球は様々な人の想いを乗せて、今年も熱い試合を繰り広げていった。
試験勉強と大学の授業から逃げたい。
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