第九話 あなたの文化と私の権利①
都内の外れにあるグラウンドに五十人ほどの人が集まっていた。
「うりゃ!」
有希が勢いよく投げたボールがミットにズドンと収まると周囲から歓声が上がった。
得意げに鼻を鳴らす有希に対して、三塁線の外側で立っていた老年の男性が苦笑した。
「おいおい、シート打撃だぞ。打たせんか」
「これくらいの球を打てないようじゃ試合勝てませんよ」
「120キロ近く出てるじゃねえか。この馬鹿野郎」
それから有希は変化球も織り交ぜて投球を続ける。バッターボックスに立つ男子小学生は何度スイングしてもファールばかりで、最後は直球を空振りして悔しそうに打席を離れた。
バットを持っていたユニフォーム姿の子供たちが我先にとバッターボックスに入ろうとする。
「待て。天宮、そろそろ休め」
老年の男性――三田浩平が小学生をマウンドに向かわせて、入れ替わった有希は三田の隣にやって来た。三田はリトル野球チーム『北濱スワローズ』の総監督で、有希は小学生の頃にチームに入り、高校を卒業するまで三田の指導を受けていた。今日は休日だったのでOBとしてチームの練習に協力していた。
「調子がいいな、天宮」
「キャッチボールは今もしていますからね!」
スポーツウェアを着た有希はグラブの中でボールを遊ばせながら三田を見る。
三田は野球のユニフォームの上にアノラックを羽織り、伸びきった白髪とひげが印象的で羊のような風貌をしていてそれは十五年前から変わらない。有希は本当に歳を取っているのだろうかと疑いたくなったが横並びになると身長は昔より確実に縮んでいて月日の経過を感じた。
「社会人野球の誘いを断ったのにか」
「色々考えたんですけど社会人でも野球をやる自分がイメージできなくて」
「それで漫画編集者か」
「小説も担当してますよ」
「違いが分からねえよ」
有希は漫画と小説の違いくらいわかるだろうと思ったが、野球一筋の三田にそれを言うことはやめた。
カキーンと硬質な音が響く。ボールが放物線を描いてフェンスの向こう側に落ちた。打ったのは背の高い少年だった。
「最近の子は飛ばしますね」
「今はトレーニングが盛んだからな。筋トレ、体幹、ウェイト。何でもありだ」
「ウェイトもやってるんですか?」
小中学生の体は成長が著しい。そのため成長痛や関節の負担の懸念もあってウェイトはチームとして禁止していたはずだ。有希自身も子供のときウエイトトレーニングを進言して三田に怒られた記憶がある。体と年齢に適した練習を行い、礼儀を学び、人として成長を促す。それが三田とチームの方針だった。
「今はプロを中心にウェイトが流行っているだろ。それが高校野球に波及して、リトルにさえ押し寄せてきやがった。親連中も早い段階からプロを目指すだの、チームの成績が進学の内申になるだのと言ってやらせようとするんだよ」
学童野球に関しては保護者から要望もクレームも多い。有希が活躍していた年代でも物言う親はいたが、当時の三田は監督という強権をふるって信念を押し通していた。そんな昔気質の三田が方針を転換したのは社会や流行が絶えず変化していることを実感させられる。
「まあ、俺もガキ共に対して支配的にならないようにしているってことだ」
「成長しましたね」
「うるせえ、馬鹿野郎」
有希はパシッと頭を叩かれる。グラウンドの外にいた一部の親たちがパワハラじゃないのか等と言っていたが、当の有希は昔と同じやり取りを懐かしく思った。
打撃練習が終わるとフィールド内に設置されていたネットが片付けられて、子供たちが一塁側と三塁側に分かれる。紅白戦が始まるらしい。
「いいなあ。私も出たい」
「ガキ共が野球の感覚を掴むための試合なんだよ」
有希がしょんぼりしてグラウンドを眺めていると、外野の奥側で、子供たちと数人の大人が輪をつくっていた。
「あれ何ですか?」
「来月の関東大会の対策だとよ。ガキ共も全員レギュラー候補だ」
「今は外部のコーチも招いているんでしたっけ」
「ああ。輪の中にいるやつは大学リーグの現役コーチだな」
「本格的ですね」
「とはいえなぁ」
三田の表情が曇る。
「学童野球ってのは野球を通して子供の成長を促すのが目的で、勝利に固執することじゃないんだよ。ウェイトをやらせようとするのもそうだが、今は勝利しなければ意味が無いという考え方が子供にも大人にも浸透している。天宮だって違和感を覚えねえか?」
「そうですね……」
有希は肯定を示す一方で考え込む。
勝ったら嬉しくて負けたら悔しい。その感情が人の心を豊かに成長させてもっと上手くなりたいと向上心を育てる。それを与えたいという指導者の気持ちは理解できる。でも、自分が子供のときは試合をする以上勝ちたかったから、理解に関しては三田よりも子供たちの方に傾いてしまう。それは自分自身が社会に出て書籍の売上という指標で評価されるようになった影響も否めない。
「時代なんですかね」
「何でも時代のせいにしたらそれこそ負けだ。とにかく学童野球は勝敗じゃねえんだよ」
三田は自分に言い聞かせるようにそう述べた。
「ところで……」
三田が落ち着かない様子で身をゆすった後、ごにょごにょと口を開く。
「芽衣は元気か?」
「すこぶる元気ですよ」
「そうか……」
髭まみれの顔でも表情が綻んでいるのが分かった。
「まだ会ってくれないんですか?」
「野球のために家族を顧みなかった男だ。今さら会っちゃくれねえよ」
弱弱しく背中を丸めた三田に対して、有希は哀れみを覚えた。
三田は芽衣の実の父親だった。中原芽衣と三田浩介。二人の苗字が違うのは三田が離婚しているからで、有希は二人が親子だという事を知ったのは大学生のときだ。学生野球の視察の一環で大学にやって来た三田が、自分と芽衣が会話していることを見つけたのだ。ちなみに芽衣は有希が三田の教え子であることは知らない。有希が今日まで情報をひた隠しにしているからだ。
有希は気まずそうに目を瞑る。三田が家族を蔑ろにしてまで没頭した野球の中で自分が育ってしまった。これはある意味托卵じゃないだろうか。
「天宮、これやるよ」
渡されたのは来週金曜日に開催されるヤクルトスワローズの試合観戦チケットだった。
「えっ、いいんですか?」
「娘と一緒に行こうと思っていたんだがな」
「芽衣にコンタクト取ったんですか?」
「離婚した妻を通してな。でも拒絶された」
「切ない……」
「俺もだよ……」
思わぬ形で贔屓の観戦チケットが手に入った。しかもペアチケットだ。
しかしペアというのは問題だ。普段は一人で明治神宮のライトスタンドで応援しているためペアで野球観戦するという経験が無い。実際には伊藤忠のペアシートで、あそこは確か二人掛けのベンチシートがあったはずだ。最悪一人でも入場は可能だけどペアシートを一人で座るのは辛すぎる。プロ野球は興行のためカメラで抜かれる可能性もある。そんな目に遭ったら一生立ち直れないだろう。
誰か私と一緒に野球観戦してくれる人はいないだろうか……。
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「野球観戦?」
「ペアシートが手に入ったから一緒に行こうよ」
週明けの月曜日。出社した有希は電話越しに非番の芽衣を必死に口説いていた。
「グローブ買ってお金無いって言ってなかっけ?」
「えっ、いや、これは……」
結局、館山昌平限定モデルを買ってしまい、金欠であることは芽衣も知っていた。しかし、このチケットはあなたの父親があなたのために用意した物だと言うわけにもいかない。芽衣は家族を顧みなかった三田を憎んでいることは有希も知っている。下手したら殺されてしまう。
「パス。今週末は原稿を進めたいの」
「そんな……!」
「有希もそろそろ彼氏つくったらいいんじゃない。それならペアで観戦できるじゃん」
簡単につくるとか言うな。こっちは男よりも白球追いかけて生きてきたんだよ。
「合コンをセッティングしようか?」
「合コンとテニサーは違法団体だと野球部で教えられたから怖い」
「あのさ、有希。アラサーで交際経験無いってちょっとおかしいと思わない?」
「多少は……」
「私、彼氏三人いるから一人いる?」
私もおかしいけどコイツもおかしいだろ。
「とりあえず、今回はゴメンね」
電話を切られた。プロ野球をエンジョイしたいだけなのに要らんストレスを抱えてしまった。
ええい。次だ、次。
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「野球観戦……ですか?」
有希は出社してきた深夏にチケットを見せる。
「バレーは学生時代やっていたから好きなんですけど、野球はちょっと疎くて」
「ルールなら教えてあげるよ!」
「うーん……でも」
「明治神宮ってお祭りみたいな感じだから野球を知らない人でも楽しめるよ!」
説得に力が入る。失敗に終わったらペアシートを一人で座ることになる。誰だって一人ぼっちは嫌なのだ。
「失礼ですけど、先輩は彼氏いないんですか?」
有希の心にピシッとひびが入る。
「モデルみたいに美人だから恋愛経験も豊富そうに見えるけど……」
どいつもこいつも彼氏彼氏うるさいな。こちとら日々の業務と草野球とヤクルトのチーム状態のチェックで忙しい毎日を送っているんだよ。あなたの家に仏壇ないの?みたいに言うな。今のご時世、仏壇が無い家なんてたくさんあるんだぞ。
「か、彼氏ならいたけど別れちゃってさ。はは」
この流れで年齢イコール彼氏いない歴を知られたら先輩としての立場を失いかねない。心が痛むが深夏には全力で嘘をつくことにしよう。そして嘘情報をインプットして今後はその設定で振舞おう。
「すいません、言いづらいことを聞いてしまって……」
「大丈夫!」
「でも、やっぱり行けないです。作家さんと打ち合わせがあったことをいま思い出しました」
有希はスマホで編集部の共有スケジュールを確認する。深夏のスケジュール欄に金曜日の午後七時付けで打ち合わせの予定が入っていた。
「誘ってくれるのは嬉しいので、打ち合わせをリスケしましょうか?」
「いや、いい。予定通り打ち合わせして!」
「そうですか。すいません」
深夏を謝らせてしまった。これはさすがに人として反省しなければいけない。
できれば身近な人と交流を深めたかったのもあるけど仕方ない。大学の後輩でも誘おう。同じ野球部だったから断られることもないだろう。
有希がパソコンに向き直ると、その隣で深夏が「あっ」と声を上げた。
「あの人は誘わないんですか?」
「あの人?」
「法務部の人です」
おいおい。ただでさえプロ野球に興味のない人を野球観戦に誘うのって難しいのに、法律とアニメキャラに傾倒しているような感性の持ち主を誘うのはハードルが高いとかそういう次元の問題じゃない。本人だって喧しい場所に連れ出したら呪詛を呟きかねないようなローテンションな性格だ。
そもそもだ。
異性と二人でペアシートに座って野球観戦するとか、それって、デートじゃないの?
どうしてもフライが怖くて取れなかったけど野球部ではずっとライト守ってました!(/・ω・)/
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