影の襲撃
喫茶アイリス。穂咲町という街にある喫茶店。
俺が学校帰りに必ず寄る店だ。この静かな喫茶店で紅茶を片手に本を読むのが日課になっている。なかなか優雅な放課後だと思う。
飲んでいる紅茶はピーチティー。マスターが淹れるものを飲むと他では注文できなくなるほどにおいしい。
「降ってきたな」
ふと外の音が気になり視線を向けると雨が降っていた。折り畳みの傘を持ってきていて正解だった。
雨は好きだ。雨の音は周りの音をシャットアウトして俺だけの空間を作ってくれる。
今日もこの喫茶店は静かでいい。ここは学校の奴らがほとんど寄り付かな――
「うっは~!びしょ濡れ!ごめんマスターちょっと雨宿りさせて」
「いらっしゃい。菫ちゃん」
「チッ。うるさいのが来た」
「うげ、木梨」
店に飛び込んできて静かな空間をぶち壊したのはクラスメイトの水瀬菫。髪を染めていて一目見てわかるようなギャルだ。そして水瀬が呼んだ木梨とは俺のことだ。木梨真殊それが俺の名前だ。
俺は基本的に他人と距離をおきたい。そのためクラスメイトが避けてくれるようにもしくは嫌ってくれるように動いている。それが水瀬の言葉につながったんだろう。他人と距離を置くようになった原因は両親だがとっくに二人ともこの世にいない。
理由は、今はいいか。
「うっわ。うるさいのとか、聞こえてるんですけど。マジでないわ」
「……」
「無視かよ気持ち悪い。あ、マスター!ピーチティーおねがい」
水瀬は注文しながらカウンターに座る。好き放題言ってくれたが反論する気もないしそうとらえてくれるなら好都合。しかしこの女、それを頼むとはよくわかっているじゃないか。
「ピーチティー好きだね」
「マスターが淹れるのおいしいもん」
「ありがとう。うれしいね。だけど二人とも毎度飲んでるけど飽きないのかい?」
「飽きるわけないじゃん!って2人?え、じゃああいつと被って……違うやつ……でも、うーん」
飽きるわけがない。しかし水瀬のやつ注文が俺と同じだけでそこまで迷うか?
「どうするんだい?」
「やっぱりピーチティーで!」
注文を聞いたマスターは軽く微笑みピーチティーを淹れ、水瀬に出した。
「ん~!やっぱりマスターのピーチティーは格別だよねぇ」
「ありがとうね。そうだ真殊くんまた店番頼めるかい?」
「わかりました」
俺が頷くとマスターが準備をしに店の奥に消えた。俺はカウンターに入り奇麗に畳んである”喫茶アイリス”と刺繍されたエプロンを取り出して身に着ける。そしてカウンターの内側においてある椅子に座り再び本を読み始める。水瀬は俺とマスターのやり取りを終始怪訝な顔をして見ていた。
「また食材減ってるんですか?」
「そうなんだよね。今月から仕入れ量を増やす予定ではあるんだけど仕入れまでしばらくかかるんだよ」
「なるほど。分かりました」
俺が頷くとマスターが準備をしに店の奥に消えた。俺はカウンターに入り、"喫茶アイリス"と刺繍されたエプロンを取り出して身に着ける。そしてカウンターの内側の椅子に腰掛けて再び本を開く。
しばらくすると準備を終えたマスターが出てきた。
「菫ちゃん、ゆっくりしていってね」
「あ…えと……うん」
俺といるのは嫌だが紅茶はゆっくり楽しみたいようだ。
「それじゃいってくるから任せたよ木梨くん。なんもないとは思うけど何かあったら菫ちゃんを守ってあげるんだよ」
「…。分かりました」
マスターはそう言い残して買い出しに出掛けていった。変にフラグを立てていくなぁとも思ったがそうそう事件に巻き込まれることなんてないだろう。
マスターが出掛けたあと、店に沈黙が訪れる。店には俺と水瀬の二人だけ。俺は本を読み、水瀬は携帯をいじっている。
そうして少し経った頃、水瀬が口を開いた。
「なんでアンタが買い出しにいかないの?アンタがパシったらいいんじゃないの?」
「俺の選んだ食材とマスターの選んだ食材とどっちがいい」
「なるほどね…」
ちゃんとした答えになってなかったと思うが理解はしてくれたようだ。
「そういうことだ」
話を切り上げて再び読書に集中しようと思考を本に戻した。いや正確には戻そうとした。瞬間、背筋が凍るような感覚がして顔をあげた。
「な、なに……、今の感覚……」
「水瀬も感じたなら気のせいじゃないらしいな」
「あんたもっ……て……」
俺だけが感じたわけじゃないじゃない。となると原因は俺じゃなく外部的なものだ。そう思考と視線を巡らせていると辺りの景色が一変した。周囲の建物全体が暗い赤色に染まり、所々、苔や黴が生えたように黒くなっている。
「なに、なんなの!なんなのよこれ!」
水瀬はパニックを起こしているようだ。しかし、小説の読みすぎだろうか?はたまた妄想のしすぎだろうか?こんな状況でもいやに冷静な自分がいる。しかし冷静ではあるが何が起こっているのか把握できていない。どうなっているのかと見回すと喫茶店の入口の所に黒いものが二つ、居た。
「なんだあれ……」
「ひっ!?」
俺の言葉に反応した水瀬が俺の視線の先にいる黒いものを見て、小さく悲鳴を上げてビクリと体を震わせる。その二つの黒いものはどことなく人の形に見える。だが人ではないとすぐに分かるくらいに禍々しい。
二つのうち、一つがゆらりと動いたように見えた。
「水瀬!」
なぜかその瞬間”まずい”と直感的に感じた俺はカウンターを飛び出し、水瀬をかばう体勢になった。直後に右腕に黒いものが絡みつき、そこから首、左腕と絡みつかれて身動きが取れなくなった。
『……たい。生き……たい……!生き……て……いたい、まだ……死にた……くな……い。いきたいよぉ!』
絡まれたところからドス黒いなにかが体の中に流れ込んでくる。そして言葉が脳にこだまする。”生きたい”ってどういうことだ…。いや、今はどうでもいい。
「みな……。逃……」
声を出そうとするが首を絞められていてほとんど声が出ない。声は届いたらしく頷いてはいるが、腰を抜かしてしまったのかその場から動かない。水瀬にもうひとつの黒いものが近づいているが水瀬はそれに気づいていない。
「……っ!?ぃぁ……ぇ……」
水瀬に危険を知らせようとしたが首を絞められていて声が出ない。
「いやっ!?」
なにも出来ないまま水瀬が黒いものに捕まった。
「い、いや……なに!?……な、何……流れ……や……っ?!」
くそっ!なにか打開策を……。ダメだ。酸欠で頭が回らない。状況は絶望的。なんなんだいったい……。
「だめっ!少し遅かった。いや、まだ間に合うっ!せいやぁぁぁっ!」
俺と水瀬に絡み付いていたものが切り離されたようだ。しかし、意識が朦朧としている。それにまだ体の中に黒いものが残っている感覚がある。あれは誰だ?女?
「2体…。これなら行ける。ライトニング・ソード!」
どうなってるんだ。ダメだ頭が回らない。目も殆ど利かず、ぼんやりと剣らしき物を振っていることしかわからない。
「”封士が告げる。影に禊を魂に解放を。彼の想いに憐れみを。慈悲の棺にて安らかに眠れ。【封緘】”……封印完了。気配は…なし」
女がこっちに歩いてくる気配がする。
「息はまだある。男の子の方は結構深くまで入り込まれてる。女の子の方はまだ浅いか」
この女は何者だ?何が─────
「ごめんね、ちょっと気を失っててもらうわ。…早く浄化しないと。あ、虹治さんちょうどよかった。この二人が影に襲われたんです。教会に運ぶの手伝ってもらえませんか?」
「まずは男の子の方から浄化を始めます。そろそろ意識が戻るはず」
「うっしゃ!っとその前に、結構入り込まれてんのか?」
「ええ。ちょっと集中しないといけないわ」
「わかりました。二人ですから時間も少し長くなりますし、もう始めましょうか」
「う……」
暗い。体の中になにか入り込んでいる。それがなにかは分からないが体の中がすごく昏い。何があったんだ。突然意識が途切れて……。思い出せない。頭がぼーっとする。
「意識が戻るな。始めようぜ」
「そうね」
「はい」
なんだろう。周りが妙に蒼白く感じ───
「うがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぐあ゛え゛あ゛あ゛」
痛い痛い
痛い苦しい痛い苦しい痛い苦しい痛い苦しい
イタイ クルシイ イタイ クルシイ イタイ クルシイ
イたイ クルシい イタい クるシイ いタイ くルシい
痛い痛い痛い痛い痛い痛い
苦しい苦しい苦しい痛い苦しい
苦し───────────────。
「はぁ……。はぁ……。はぁ……」
何かが引き剥がされた感覚がしたとたん痛みや苦しみが突然なくなった。
「ふぅ……。浄化完了か?」
「遼子さん、リングを」
いったいなんなんだ。何が起こってるのか全く理解できない。ただとんでもないことに巻き込まれていることだけは分かる。
「ええ。……って、あれ?もう意識が戻ってる。……まぁ今はいいわ。後に回しましょう。君、ちょっと手を借りるわよ」
意識が朦朧とするなか、右手の人差し指に指輪がはめ込まれる。
「そのリング、外しちゃダメだからね」
少し呼吸が落ち着いてきたからかだんだんと意識がはっきりしてきた。だが思考はまだ追い付いていない。それに、体の中にまだ妙な違和感を感じる。そして右手の人差し指にはめ込まれた指輪を見ながら何が起こっているんだとまだ少しぼんやりとした頭で考える。
「ちょっとあそこの椅子に座っててもらえるかしら。あ、立てる?」
「え……、あ、はい」
声を掛けられ、現実に意識を戻す。そして言われたとおりに椅子へ向かおうとするが力が入らず体を支えられない。
「…っと」
「肩貸すぜ」
と男が肩を貸してくれた。年は俺と同じくらいだろうか。椅子に座らせてもらって一息つくと、だんだんと頭が回るようになってきた。状況を整理しようと落ち着いて回りを見てみる。
俺から見える限りでは三人の人物がいる。女性が二人と、先ほど肩を貸してくれた男が一人だ。ぼんやりと姿に覚えのある女性は俺たちを助けてくれた人だろう。心なしか三人の顔に少し疲労が見える。
「さて、もう少し頑張るわよ」
「はい。それじゃ、運んできますね」
運んでくるといった女性が出ていき、数分もしないうちに水瀬を抱えて戻ってきた。
「水瀬…」
思わず声が出た。俺はアイリスで水瀬をとっさに庇った。なぜあの時、水瀬を庇えたのか自分でもよくわからない。
「連れてきましたけど、意識が少し戻りかけてますね」
「時間がかかりすぎたわね。運んできたときよりもすこし侵蝕が進んでる。急ぎましょう」
床に描かれた模様の中心に水瀬が寝かされる。俺が目を覚ました場所だ。描かれている模様は俺が見る限りでは、ラノベなどに出てきそうないわゆる、魔方陣のようだ。しかし侵蝕とは?なんとなくは想像がついているが……。
「二人とも、準備はいい?」
「おう」
「大丈夫です」
三人はお互いに頷きあうと、魔方陣を囲むように立ち、中心で寝かされている水瀬に向けて手を伸ばし、三人とも目を瞑る。すると、魔方陣が蒼白く輝きだした。俺が感じていた、周りが蒼白くなる現象はどうやらこれだったようだ。
「「"封士が告げる。封士が祓う。我ら在りし今際の淵で彼の魂に繋ぎ告げる。其の魂に憑き宿る忌影を清めて祓い彼の者を現世に留め給え"!」」
「あぁぁあああぁあぁああぁ────」
思わず耳を塞いだ。三人が呪文のような言葉を紡ぎ終えた途端、水瀬が苦しそうな、発狂したような叫び声をあげる。
「はぐぅっあぁぁぁああがぁぁぁ」
「「………」」
三人は一言も発しない。苦しむ水瀬を見ていると止めたくなってくる。だが、恐らく俺も同じ儀式を施されている。何よりも自分自身が大丈夫だと証明している。
「いやあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
しかし、俺は水瀬の叫び声を淡々と聞いていられるほど冷めていないらしい。水瀬の叫び声を聞いた時に止めようと思ったことに自分で驚いている。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛────」
叫び声が室内にこだまして耳を塞いでいても聞こえてしまう。苦しむ水瀬の姿が俺の目に焼き付けられ叫び声が耳に刻まれた。