85 ティルダ王女の恋
ティルダが物心付いた時、アルバートの傍には大抵フランクの姿があった。
「アリュバートにぃさま!」
まだ舌足らずで、上手く名前を呼べないティルダ。その声に反応して、アルバートが振り返る。そして、彼の隣にはやはりフランクがいた。
「ティルダ」
とたとたと、不安定な足取りで兄を追うティルダ。アルバートはしゃがみこんで両手を広げる。
侍女も見守る中、ティルダは一生懸命兄の元に向かう。大好きな兄まであともう少し、というところで、何もない地面にティルダの足が引っ掛かった。
「あっ!」
「ティルダ!」
転ぶのが分かって、ティルダは恐怖からぎゅっと目を瞑る。だが、ティルダの体は何かにトンッとぶつかっただけで、大した痛みに襲われることはない。
「ティルダ王女殿下、痛いところはありませんか?」
柔らかく優しいその声にティルダはゆっくり目を開く。目の前でふわりと微笑む男の子は、いつもアルバートの隣にいるフランクだ。
咄嗟のことで声が出なくて、ティルダがコクンと頷くと、フランクがティルダの頭を優しく撫でた。
「それは良かったです」
笑みを深めたフランクにティルダの心がふわりと暖かくなる。それは、ティルダにとって初めての感情だった。この時からティルダは無意識的にフランクに憧れを抱いていたのだ。
「ティルダ大丈夫か!?」
「王女殿下! 少し見せてください!」
アルバートとティルダの侍女が駆け寄る。ティルダはそれぞれに“大丈夫”と伝えると、二人はホッと息を漏らした。
「ティルダ王女殿下はアルバート様が大好きなのですね」
フランクの問いかけにティルダは再び頷いた。
「また転んだら大変ですから、手を繋ぎましょう」
そう言って、フランクとアルバートがティルダの左右を固めて手を繋ぐ。
それ以来、優しいフランクの笑顔がティルダは忘れられなかった。だから、フランクを見かける度にティルダは駆け寄り、自ら彼と手を繋いだ。それに気付いたフランクがティルダに微笑みかけてくれる。それが嬉しくて、ティルダも笑顔を返した。
幼い頃のティルダにとって、フランクと手を繋ぐことは容易いことだった。
フランクがアルバートを訪ねて王城を訪れていると聞き付けると、ティルダは王城を歩き回ってフランクの姿を探した。優しいフランクはティルダと手を繋いだり、ティルダを膝の上に乗せてくれたりと、いつも構ってくれた。
アルバートの婚約者候補を決めるお茶会の日。ティルダはフランクを探して、お茶会の会場内を歩いていた。そこで一騒動に巻き込まれた訳だが、ティルダは助けてくれた優しいベアトリスに憧れた。
トラブルはあったが、ティルダは嬉しい気持ちでお菓子を食べながらフランクを探した。すると、ようやく会場内で彼を見つけることが出来た。
「あっ! フラン……ク、さ……ま?」
嬉しくて大声で名前を呼ぼうとしたティルダの声が萎む。何故ならフランクが見たことがない顔で固まっていたからだ。そして、その視線の先にはアルバートとベアトリスがいる。
フランクの表情から、何か嫌なことがあったのかも知れないとしか、幼いティルダには分からなかった。後から思えば、あの時にフランクは失恋したのだと、ティルダにも推測できた。
その後、アルバートとベアトリスの婚約が決まった。それから暫くすると、フランクは王城に遊びに来なくなった。だから、唯一フランクが王城へやって来る夜会はティルダにとって勝負の日だった。
侍女に頼んで目一杯可愛くしてもらったティルダは、会場でフランクを探す。そしてようやく見つけた彼の視線がベアトリスを追っていることに気付いて、心が萎む。
フランクは王立学園へ入学しても、ベアトリスへの恋心を手放さなかった。フランクの視線がそれを物語っていることは、明白だった。
「……」
ティルダがいくらフランクに話しかけても、彼はティルダをアルバートの妹としてしか見ない。だけど、あの頃と違ってティルダは容易くフランクと手を繋ぐことも出来なかった。
「フランク様、わたくしと一曲踊ってください」
そうやって、理由を作ってフランクに近付いても「随分、お上手になられましたね」と幼い頃のティルダと比べて褒めるだけだ。
「もうっ、いつのお話をされていますの?」
ティルダがぷくっと頬を膨らませると、フランクが冗談交じりに「王女殿下がこれくらい小さかった頃です」と低い位置に手を置く。
ベアトリス様はアルバート兄様の婚約者。だけど、フランク様の中にいるベアトリス様に、わたくしはいつまで経っても敵わない。
夜会が終わると、いつもティルダは虚しい気持ちに苛まれていた。
「ティルダ姉様、大丈夫ですか?」
エルバートに声をかけられて、ティルダは初めて自分が暗い顔をしていることに気付く。
「……えぇ。何でもないわ」
そう強がって、ティルダはまた次の夜会までフランクへの気持ちを募らせる。それが何度か繰り返された頃、国王が突然ティルダとエルバートに婚約者を探すよう言い付けた。
「お父様! どうしてですか!? 約束が違います!! 成人間近になっても恋人が居なければ、婚約者を探す”と! “それまでは好きにして良い”と、仰っていたではありませんか!!」
「許せティルダ。……状況が変わったのだ」
そう告げた国王の側近に渡されたリストを元に、ティルダは数名の婚約者候補と会うことになった。だが、その中にフランクはいない。
フランクが婚約話を蹴っているという噂は、社交界中に知れ渡っている。たが、誰もその理由は知らない。フランクは次期公爵の予定だが、恋人どころか婚約者すらいない。婚約を申し込もうにも、一度はね除けられてしまえば、二度目のチャンスはほぼない。
フランクは整った顔立ちをしており、彼の容姿は令嬢たちの間で人気が高かかった。そのため、誰もが静かに時期公爵夫人の座を狙って、チャンスが訪れるのを待っていた。
リストの中にフランク様がいらっしゃれば、どれほど嬉しかったことかしら。
ティルダはそう考えた。だが、直ぐにその考えを改める。
王家側から婚約を求めれば、それは断れない王命に等しい。フランクの気持ちを無視して彼の婚約者になれたとしても、本当の意味でフランクがティルダを愛してくれなければ虚しいだけだと気付いていた。
苦しい気持ちを押し殺して、ティルダは王命の婚約者探しを始めた。それは、国内の有力貴族から他国の王族まで幅広かった。そのため、ティルダ自ら他国へ出向き、一月近く国を留守にすることもあった。
だが、どの候補者もティルダはピンとこない。これは政略的な婚約になるため、そうは言っていられないことも理解していた。だけど、どうせなら愛しいと思える相手が良いと考えていたティルダはなかなか決められない。
相手側がかなり乗り気なパターンもあった。だけど、ティルダはフランクと同じかそれ以上に素敵だと思える相手がいなかったのだ。
そうして、久しぶりにラドネラリア王国へ帰ってきたティルダは、暫くしてベアトリスが倒れたことを知らされた。
心配で何度かお見舞いへ向かい、暫くしてベアトリスが目覚めた日、ベアトリスと久しぶりに話をしたティルダは、自身の婚約者探しがどの様な意図で始まったかを知った。
そして、アルバートとベアトリスの婚約が維持されている以上、ティルダが慌てて婚約者を探す必要はないと知った。だから、ティルダは国王に掛け合い。予定していた分の顔合わせが終了すると、元の生活に戻った。
「……しかし、あれだけの婚約者候補に会っていながら、誰一人として気に入らなかったのか?」
国王のそんな疑問にティルダはこう答えている。
「だって、お会いした方の中に興味のある殿方がいませんでしたもの」
婚約者候補はみなティルダとは二~五歳差で、二、三歳差の相手が多かった。だが、ティルダにとって、フランク以外の異性は全く魅力的に映らなかった。
だからこそ、ティルダはフランクが久しぶりに夜会以外で王城を訪問していると聞き、このチャンスを逃したくないと直ぐに動き出す。
先日はエルバートからサプライズを受け、フランクの訪問を知らずに彼と会うことになったが、今回は違う。
「フランク様、わたくしがお手伝いしますわ」
禁書庫を訪れたティルダは、想い人と長く同じ部屋で過ごせることがとにかく嬉しかった。




