5 リリアンの本音
「アルバート王太子殿下、フランク様。あの場から連れ出してくださりありがとうございます」
好奇の目から逃れたベアトリスは二人にお礼を告げる。と言ってもアルバートとは気まずいため、その視線は主にフランクを捉えていた。
「構わないよ。僕と君の仲だしね」
「ふふふっ。フランク様は頼りになりますわ」
フランクとベアトリスは母親同士が友人であるため、幼い頃から何度も会っている仲だった。所謂、幼なじみで、一度婚約の話が持ち上がったこともある程だ。
仲睦まじく見える二人の様子にアルバートは握っていたベアトリスの手に力を込める。それに気付いたベアトリスは漸くアルバートを見た。
「ベアトリス、大丈夫だったか?」
「はい」
「リリアン嬢に何か言われたか?」
「いえ、アルバート王太子殿下にお伝えするほどのことではありませんわ」
にこりと淑女の笑みを浮かべるベアトリス。婚約解消が白紙になったとはいえ、彼女は直ぐにアルバートを信じることが出来なかった。
今だって本気で心配してくれているかもしれないと思う一方で、短期間で態度を変えたことに対して何か裏があるのかもしれないと疑っていた。
これ以上“何も語ることはない”と言わんばかりの微笑みをベアトリスから向けられ、アルバートは口を噤むしかない。自分はそれ程のことを彼女にしてしまったのだから、当たり前だと思い知る。
授業開始が迫っていたため、三人はそこで別れた。
ベアトリスには学園に同性の友人と呼べる人物がいない。
王太子の婚約者であり、公爵令息の幼なじみという立場だけでベアトリスに近寄りがたい理由になる。本来であれば王太子と公爵令息にお近づきになろうと思ったご令嬢がベアトリスに声を掛けてきてもおかしくはないのだが、彼女の美しい容姿は人目を引いた。見事なブロンドの髪に大きな瞳、それを縁取る長い睫。それらは自然と令息たちの視線を集めた。そんな彼女に嫉妬する令嬢は少なくない。
そんな複雑な事情がベアトリスから同性の友人を奪っているのである。
と言っても、リリアンが撒いた噂が出てからは令息の中には“幻滅した”と、ベアトリスへの好意を敵意に変える者もいた。そのため、嫉妬に駆られていた令嬢たちは今現在、ここぞとばかりにベアトリスを見下している。
「聞きまして? アルバート様がベアトリス様を庇ったそうよ」
「では、ベアトリス様は本当に何もされていらっしゃいませんの?」
「そんな筈ありませんわ。きっとアルバート様はベアトリス様に脅されたか、誘惑されてしまったのよ」
「でしたら、今回の件で皆さまから責められるのは自業自得ですわよね」
「リリアン様も心を痛めていらっしゃいましたわ。アルバート様は優しいお方だから、ベアトリス様を無視できないのだと」
昼休み。ベアトリスが学食で昼食を取っていると、好き勝手噂する令嬢たちの言葉が耳に届く。敢えて周囲に聞こえるように話していることは明白だった。
先ほどはアルバートやフランクが庇ってくれたが、それは一時凌ぎに過ぎなかった。どう転んでもベアトリスを悪く言いたいらしい。
ベアトリスは長めに息を吐いて立ち上がると、食器を載せたトレーを返却する。
アルバートとリリアンが学園で一緒にいる姿を目撃するようになってから、一気にベアトリスに対する悪い噂が増えた。それまでは王太子殿下の婚約者として騒がれたり、羨望の眼差しを受けることはあっても、表立って悪く言われることはなかった。
確証がないので決めつけることは出来ない。だが、ベアトリスに関する悪い噂はおそらくリリアンが流したものだと彼女は推測していた。
想い合う二人を引き裂く悪女的位置付けに立たされるぐらいなら、あのまま婚約解消した方がわたくしは気持ちが楽になれましたのに……
そう思うのに、チクリと胸が痛むのはまだ心のどこかでアルバートが好きだからだと、ベアトリスは理解していた。
心とは思い通りにいかないものだ。
一度はアルバートに裏切られて悲しくて、だけどやっぱり婚約関係を続けたいと言われ、何か裏があるのでは? とアルバートを疑い信じられないでいる。にも拘わらず、ベアトリスは彼を嫌いになりきれなかった。寧ろ、まだ好きという矛盾した気持ちを抱えていることに気付いて悩まされていた。
ベアトリスは一人になりたくて静かな場所を探す。そして、学園内敷地の端の方まで歩くと、そこの庭のベンチに腰掛けた。ぼんやりと景色を眺めていても頭に浮かぶのはアルバートとのことだ。
どうしてこんなに拗れてしまったのかしら?
こんなに悩むぐらいなら、いっそアルバート様を嫌いになれたら楽なのに……
「ベアトリス様」
呼ぶ声にベアトリスが顔をあげると、目の前にリリアンの姿があった。
「午前中はお話の途中で切り上げることになってしまいましたから、改めてベアトリス様とお話ししたいと思いまして。わたくし一人で来ましたわ」
にこりと微笑むリリアンにベアトリスは密かに溜め息を吐く。
「わたくしは話すことなんてありません」
「わたくしにはありますわ」
言うや否や、リリアンはベアトリスの隣に無遠慮に腰掛けた。
「フランク様が仰ったように、他の生徒の視線がある中でする話ではないと思い、わたくしなりに配慮もしましてよ」
リリアンは再び笑みを浮かべると声を低くする。
「ベアトリス様、アルバート様と別れて下さい」
遂に本音を吐き出したリリアンにベアトリスも遠慮は無用だと言葉を返す。
「随分ハッキリ仰いますのね」
「えぇ。わたくし迷惑していますの」
「リリアン様に迷惑をかけた覚えはございませんが」
「ベアトリス様が婚約者である限り、わたくしは王太子妃になれませんもの。十分迷惑していますわ」
リリアンがにこりと微笑んで告げた。目元が全く笑っていないその笑顔は、どう考えても真逆の感情を抱いている。
「王太子妃になりたいなんて、変わったお方ですわね」
ふ、とベアトリスは息を吐く。
王子様と結婚といえば、ご令嬢ならば誰もが一度は夢に見るだろう。しかし、それをわざわざ婚約者本人の前で口に出す者は滅多にいない。
「ただ彼の隣に立ってニコニコしているだけで一生贅沢できるのよ。なりたくない人の方がおかしいと思いませんか? 現にベアトリス様もそれが狙いでアルバート様と別れていないのでしょう?」
リリアンの発言にベアトリスは唖然とする。
王太子妃という言葉は夢のような響きだが、王族との婚姻はそれ相応の義務や責任も一緒に付いてくる。所作の一つを取っても貴族令嬢以上に気を使う必要があり、公務もある。現実はそう甘くないのだ。
まさかとは思うけれど、リリアン様は妃の仕事がアルバート様の隣に立っているだけだと思っているのかしら?
「黙り、ということは肯定ですわね」
ニヤリとリリアンが品の無い笑みを浮かべる。呆れて言葉を失っていたベアトリスを勘違いしたらしい。彼女は得意気な顔をした。
「これは忠告ですわ。婚約解消へ気持ちが向いていたアルバート様のお考えをどうやって変えたのかは知りませんが、ベアトリス様から別れを切り出してくださいね?」
そう言うと、リリアンは立ち上がって校舎の方へ戻って行く。どうやら彼女はアルバートが婚約を解消したがっていたことを知っていたらしい。だけど、それを実行に移そうとしてやめたことまでは知らないようだ。
別れを切り出すもなにもベアトリスは一度別れを告げられ、それを白紙に戻された身。これは家同士の話し合いで決まったことだ。ベアトリスにはどうすることも出来ない。それに、アルバートがなぜ婚約解消をやめたのか知りたいのはベアトリスの方だった。
どちらにせよ、妃の仕事を軽く見ているような令嬢が王太子妃になればこの国が大変なことになる。
ベアトリスは自身がこのまま王太子妃になることも複雑な思いだが、だからと言ってリリアンを王太子妃にする訳にはいかないという思いに駆られる。
面倒な心配ごとが増えた気がして、ベアトリスはひとつ息を吐く。
「別れを切り出せなんて、それをわたくしに言われましても……」
ベアトリスの小さな呟きは、誰に聞かれることもなく風に流された。




