4 婚約者という思わぬ味方
「ベアトリス様、お話がありますわ」
最初に口を開いたのはクシールド伯爵令嬢だった。
「なんでしょう。授業前ですので手短にお願いします」
ベアトリスが淡々と告げると、取巻き令嬢の二人が眉をしかめる。
「昨日、リリアン様から全てお聞きしましたの。ベアトリス様がリリアン様の物を盗んだり、リリアン様を階段で後ろから突き飛ばされたことも。危うく大怪我をするところだったそうですわ。どういうことかご説明いただけまして?」
いつの間にか“後ろから突き飛ばされた”という噂が、“階段で後ろから突き飛ばして大怪我をさせるところだった”と話が大きくなっている。
嘘に嘘を重ねるなんて、リリアン様やりますわね。
少々呆れつつもベアトリスは表情を変えることなく答える。
「わたくしは何もしていません」
「嘘は良くありませんわ!」
リリアンのもう一人の取巻き、ネヴィソン子爵令嬢が叫ぶように声を上げた。それに続いてリリアンは一歩前に出ると、ベアトリスを睨み付ける。
「わたくしが全てを打ち明けると、皆さんが応援してくださいましたの。ですから、わたくし勇気を出して戦うことしにしましたわ。ベアトリス様、今までのことわたくしに謝罪してください」
その言葉に周囲でベアトリスたちの様子を窺っていた生徒たちがざわついた。誰もがベアトリスの次の言葉を待っている。
「謝罪も何も。身に覚えがありませんわ」
ベアトリスは真っ直ぐにリリアンを見つめて、嘘偽りなく答えた。身に覚えがないことを謝る義理はないからだ。そして、こういう時に狼狽えてしまえば、周囲から軽んじられる事を理解していた。
「そうやってベアトリス様は逃げるおつもりですわね。臨むところです! 絶対に負けませんわ!」
リリアンが戦う姿勢を見せると、どこかからか「リリアン様! 頑張ってください!!」「リリアン様! 負けないで!!」と彼女に向けて声援が飛んで来る。周囲の生徒たちはベアトリスではなく、リリアンの言い分を信じているようだ。
「謝罪も出来ないなんて、ベアトリス様は人としてお恥ずかしくないのですか? 侯爵令嬢が聞いて呆れますわ。こんな方がアルバート様の婚約者だなんて、なんと嘆かわしいことでしょう!」
再びリリアンが口を開けば「そうだ! そうだ!!」と周囲からヤジが飛んで来る。だが、ベアトリスは「お言葉ですが」と声を張って話を続けた。
「この場の雰囲気に呑まれて、やっていない事への謝罪を行う弱い意思をわたくしは持ち合わせておりませんの。安い謝罪で冤罪を認めて侯爵家の名に泥を塗る訳に参りませんので」
毅然とした態度と言葉のベアトリスにリリアンは眉間にシワを寄せた。
「なんて傲慢な態度なのかしら」
周囲からのじっとりとした視線がベアトリスに貼り付く。それは気分が良いものではない。だから、さっさと終わらせましょう。とベアトリスは息を吐いた。
「お話は以上ですか?」
「逃げるのですか? 卑怯ですわよ」
ベアトリスとリリアンが互いに険しい視線を交わす。どうぞお好きなように捉えてくださいと、ベアトリスが答えようとしたとき、背後から低い声が聞こえてくる。
「卑怯、ね……」
声の方にベアトリスが振り向くと、エセッレ公爵令息のフランクがこちらに向かって歩いて来ていた。
「他の生徒の視線がある中で込み入った話を続けようとするのも、十分卑怯だと思わないかい?」
そう言うと、彼はベアトリスの隣に並び立つ。
「フランク様」
ベアトリスが名前を呼ぶと彼の視線がベアトリスへ向けられて、爽やかな笑顔を見せる。それを目撃した周囲の令嬢たちは、彼の整った顔立ちから放たれた眩しい笑顔に黄色い悲鳴や感嘆の息を漏らす。
「一人で好奇の目に晒されながらよく堪えたね、ベアトリス」
労いの言葉にベアトリスの胸もドキッと高鳴る。
「大したことではありません」
答えた直後「ベアトリス!」とアルバートの声が聞こえてくる。
「アル遅かったね」
フランクが声をかけると、駆け足でやってきたアルバートがベアトリスたちの前で止まった。
この騒動の発端となった人物だ。おまけに短い期間で婚約解消騒動があったせいで、ベアトリスはアルバートの登場に居心地の悪い気分になる。
「悪い。校舎の前で人に囲まれて時間がかかった」
アルバートが答えると、間髪入れずにリリアンが胸の前で手を組み、黄色い声で叫ぶ。
「アルバート様っ!! わたくしのために急いできて下さったのですね!」
パァッと表情を明るくするリリアン。自身の味方が表れたことで、彼女は唇に笑みを乗せていた。だが、アルバートの次の一言でその表情は一瞬で困惑に変わる。
「リリアン嬢。一昨日も話をさせて貰ったが、誤解だったんだ」
「え?」
“誤解”と言う一言に、どういうことか? と周囲の生徒たちもざわつく。
「だからベアトリスを問い詰めるのは止めてくれ」
アルバートが自分を庇護してくれると思っていなかったベアトリスは驚いて彼を見た。
婚約解消を白紙に戻したこともあるため、アルバートがリリアンの肩を持つとは思っていなかった。だが彼の性格からして、どちらの味方をするわけでもなく、ただ穏便に仲裁するとばかり思っていたのだ。
廊下に「は?」と低い声が響いた。それはリリアンから放たれたもので、彼女の可愛らしい容姿からは想像できない声だ。
「アルバート様。あの時も申上げましたが、誤解ではありません。間違いなくベアトリス様がわたくしに嫌がらせを行っていたのです」
「だが目撃者がいない」
「そんなの、わたくしの証言があれば十分ではありませんか! それに、アルバート様とはいえ学園中の生徒からお話を聞かれたとでも仰いますの? 全校生徒だけでなく、先生方や使用人も含めると、この学園にどれほどの人間がいらっしゃるとお思いですか?」
リリアンは少々早口に言葉を並べた。
一度は困惑してざわついていた彼女の取巻きや他の生徒たちも、彼女の言葉に頷き出す。それにより冷静さを取り戻し始めたリリアンは更に言葉を紡ぐ。
「アルバート様が聞き取りをされた者の中には、ベアトリス様に頼まれて嘘を吐いている人物がいる可能性も──」
「それはない。それに、全員に話を聞く必要はないんだ」
アルバートはリリアンの言葉を遮ると、ベアトリスの肩に片腕を回して引寄せた。その動作に「えっ?」とベアトリスが困惑していると、周囲の視線から守るように前に出て背中にベアトリスを隠した。
思わず「あ……」とベアトリスから声が漏れる。それは昔、ベアトリスが好きになったアルバートの姿を今の彼に見た気がしたからだった。同時に“全員に話を聞く必要はない”と言った言葉の意味がベアトリスには分かった。
立場上、ベアトリスは王太子の婚約者で未来の王太子妃だ。そんな彼女には密かに護衛が付けられている。
「どういうことですの?」
「申し訳ないが、その理由は言えない」
当たり前だが、密かにつけている護衛なのだから、その存在を安易に公表する訳にはいかない。
「理由を教えて下さらなければ納得が出来ません」
「同じことを言わせないでくれ。話は以上だ」
食い下がるリリアンにアルバートは素っ気なく言い放った。
「行こうベアトリス。もうすぐ授業が始まる」
「……はい。アルバート王太子殿下」
色々と思うところもあり、複雑な心境のベアトリスだったがアルバートから差し出された手を取る。
そうして、ベアトリスを好奇の視線から遠ざけるようにアルバートとフランクは彼女をその場から連れ出した。