37 記憶にない四ヶ月間のこと
ベアトリスは目覚めた翌日から自身が置かれている立場と向き合っていた。
まず、倒れた日から二週間も眠っていて、自分が覚えている最後の日から約四ヶ月が経過していることを知った。つまり、ベアトリスは三ヶ月半分の記憶を失ったことになる。
信じられないことに、学園で使用しているノートを開くと、身に覚えのない板書が数十ページに渡って自分の筆跡で書かれていた。しかも、不思議なことにノートを読めばその内容をすんなりと理解出来るのだ。
こういう知識は記憶とは違うところで頭が覚えているのかもしれませんわね。と思いながら、ベアトリスは少しの間ノートを読んだ。
そして、ベアトリスが一番驚いたことはアルバートとの婚約が未だに継続されていることだった。
リリアンを正妃にしたいと、彼自身が望んで提案してきた婚約解消だ。それなのに、何故アルバートが考えを変えたのか不思議だった。ベアトリスがマリーナに尋ねても彼女は詳しく知らないのか、答えてくれない。
「ですが、お嬢様は王太子殿下をお慕いする気持ちを止められなかったと、ご自分で仰っていましたよ」
そう語るマリーナにベアトリスは「そんな、まさか……」と信じられない思いで呟いた。
「わたくしは婚約解消を言い渡されただけでなく、殿下に信じて貰えなかったのよ?」
「それでも、です。お嬢様は記憶の秘薬を飲まされる前日に殿下と喧嘩されましたが、殿下に謝るために次の日はいつもより早起きして学園へ向かわれましたよ」
「信じられませんわ……」
ベアトリスは婚約解消を言い渡された日、涙が枯れるまで泣いた。それに、近頃は月に一度のお茶会しかアルバートと婚約者としての交流がなく、会話も続かなくて雰囲気が悪かった。だから、アルバートはベアトリスに興味がなくなったのだと思っていた。
何がどうなれば婚約解消が取り消しになって、わたくしもアルバート様との婚約継続を受け入れたのかしら? 確かに、わたくしはまだアルバート様が好きよ? でも、一度裏切られた相手なのに、あっさり許せるものなのかしら?
ベアトリスの胸にもやもやした気持ちが溢れだす。だけど、この件に関しては一人で考えたところで解決する筈もない。だから今出来ることをやろうと、ベアトリスは約四ヶ月の遅れを埋めるため、マリーナにその間の出来事を少しずつ聞くことにした。
そんな中、部屋にノックの音が響く。マリーナが確認して部屋に誰かを招き入れた。
「ベアトリス様っ!!」
「ティルダ様」
「お目覚めになったときいて、急いで今日のノルマを終わらせてきましたわ!!」
ティルダは満面の笑みでベッドへ駆け寄ると、ベアトリスの顔をまじまじと見つめた。
「倒れられたとお聞きしたときは、とても驚きました。ですが、お目覚めになられて本当に良かったです!」
ティルダは切なそうな顔をしたあと、優しく微笑む。“安心した”と顔に書いてあるように見えて、何も覚えていないベアトリスだが、心配を掛けたことを申し訳なく思う。
「ご心配をお掛けして、申し訳ありません」
「ベアトリス様が謝ることは何もありませんわ。ベアトリス様は被害者ですのよ? それに、同じ学園に通っていながらベアトリス様を守りきれなかったアルバート兄様が悪いのです!」
ティルダはベアトリス以上に感情を剥き出しにして怒ってくれている。そんな彼女を見て、ベアトリスは心が少し軽くなった気がした。
「ティルダ様のお陰で少し元気が出てきましたわ」
「まぁっ! ベアトリス様のためならわたくしが兄様に何度だって怒りますし、何度だって問い詰めますわ!!」
「ふふっ。それはとても頼もしいですわね」
ベアトリスが最初にマリーナから“ベアトリスは記憶の秘薬を飲まされた”と聞かされた時、本当はアルバートとの婚約解消に絶望したあまり、自分の意思で秘薬を飲んだのではないかと疑っていた。だが、ティルダの反応からして、ベアトリスは本当に記憶の秘薬を何者かに飲まされたのだと実感する。
だとしたら、わたくしは誰にどんな理由で記憶の秘薬を飲まされたのかしら?
そんな疑問を頭に浮かべていると、ティルダがベアトリスのベッドに腰かけてきた。そして、甘えるようにベアトリスの肩に頬ずりする。
「わたくし、ベアトリス様が目覚められてほっとしたのもありますが、久しぶりにお話しできて本当に嬉しいのです」
「……もしかして、わたくしティルダ様とのお茶会を止めてしまっていましたか?」
婚約解消の話があったくらいだ。アルバートに会わないために、王城通いを止めていても可笑しくないと思ったベアトリスは尋ねる。
「あ、いえっ、ベアトリス様は何も! 単純にわたくしが忙しくなってしまって、お断りしていましたの。お父様が急にわたくしとエルバートに婚約者を探すように言われたものだから」
「ティルダ様とエルバート様にご婚約者、ですか?」
二人は婚約者がいても可笑しくない年齢ではある。現にアルバートはエルバートの年の頃にはベアトリスと婚約した。だけど、国王は二人に“成人間近になっても恋人が居なければ婚約者を探す”と言っていたらしい。
「えぇ。急にどうされたのかお聞きしても答えてくださらなくて。仕方なく同じ年頃の貴族令息の何人かと約束を取り付けて会っていましたわ」
ティルダが溜め息を溢す。急に国王が二人に婚約者を探すように言って態度を変えたのであれば、ベアトリスには一つしか心当たりがなかった。
「……それは、わたくしたちのせいかもしれません」
「どういうことですの?」
「だってほら、わたくしアルバート様に婚約解消を言い渡されていましたから」
ベアトリスの言葉にティルダが固まった。少しして、辛うじて「……え?」と短い一言か返ってくる。
「ティルダ様? どうされました?」
不思議に思ったベアトリスがティルダの顔を覗き込む。すると、彼女は信じられないと言わんばかりに瞳を泳がせたあと、瞬きを繰り返した。
「そのお話、……本当ですの?」
「へ?」
今度はベアトリスが驚く番だった。
ベアトリスはティルダもエルバートも、アルバートがベアトリスに婚約解消を提示してきたことを当然知っていると考えていた。
もしかして、この反応は……?
不味いことを言ってしまったかも知れない。そう感じたベアトリスだったが既に遅かった。
「わたくし、アルバート兄様にお話しすることが増えたみたいですわ」
そう言ってニコリと笑うティルダの笑顔は、ベアトリスから見てもどこか恐ろしく感じた。




