35 目覚めたベアトリス
『お父様! お母様! わたくし、大きくなったらアルバート王子殿下のお嫁さんになります! なりたいです!!』
王城で行われたお茶会から侯爵邸に戻ったベアトリスは両親に開口一番、そう宣言した。
これはベアトリスの幼い頃の記憶だ。
アルバートの婚約者候補が近々絞られると噂されていて、ベアトリスがそこに自ら名乗りを上げる直前の頃だ。この時に感じた気持ちが、まだ恋だと知らなかった頃の記憶。
お茶会中に起きたトラブルでは侍女のマリーナ以外は誰もベアトリスを信じてくれなかった。そんな中、アルバートは唯一身内以外でベアトリスを信じて笑顔を向けてくれた人だった。
そして、ベアトリスにとって沢山の大好きをくれた人だ。
それなのに────
『守りたい人が出来た。私はその人を正妃にしたい』
『婚約解消に応じてくれるなら、君がこれまでリリアン嬢へしてきた行いに目を瞑ると約束しよう。彼女もそれで納得してくれている』
────アルバート様は変わってしまったの?
「ん………」
瞼を照らす暖かな光にベアトリスは顔をしかめる。
「……ベアトリス様?」
どこか半信半疑に尋ねてくる声に引かれて、ベアトリスはゆっくり目を開いた。
ベアトリスの瞳に映ったその人は、金髪碧眼の優しげな顔立ちをした見目麗しい人物だ。ベアトリスの記憶にあるあの頃より、少し大人びた顔を覗かせていた。
「アル……バート、様?」
目覚めたばかりのベアトリスが掠れた声で問い掛ける。すると、目の前の顔が泣きそうにくしゃりと崩れた。
「っ、エルバートですよ。ベアトリス様」
「……エルバート、様……?」
アルバート様の弟の……
ベアトリスがぼんやり考えていると、エルバートが泣きそうな顔から笑顔を作ろうと必死になりながら口を開く。
「おはようございます、ベアトリス様。やっとお目覚めになって、嬉しいです」
そう言って目の縁を拭うエルバート。
目覚める直前まで見ていた幼い頃の夢のせいで、ベアトリスはエルバートをアルバートだと勘違いしたらしい。
「お嬢様っ……」
今にも泣きそうな侍女の声がして、直ぐにその人物がベアトリスの視界に移り込む。
「マリーナ……」
「もう目が覚めなかったらと、心配しました」
「ごめんなさい。……良く覚えていないのだけど、ここは何処かしら? 何があったの?」
ベアトリスは鈍い思考の中、尋ねる。目の前にエルバートがいることも、二人が涙を堪えてベアトリスが目覚めたことを喜んでいる理由も理解できていなかった。何より、部屋の景色がリュセラーデ侯爵家の見慣れた自室ではないことがベアトリスは気になった。
「ここは王城の一室で、お嬢様は魔女の秘薬と呼ばれる記憶の秘薬を飲まされて眠っていたのです」
「……え?」
“魔女の秘薬”と聞いて、ベアトリスは自身の中にある秘薬に関する知識が頭を過ってゾッとする。
「……どうしてそんなことに?」
ベアトリスが尋ねたその時、ノックの音が響いて、王城に勤める宮廷医がやってきた。ベアトリスが目覚めた時点で、部屋にいた王城勤めの侍女が宮廷医を呼びに行っていたのだ。
早速、目覚めたばかりのベアトリスを診察するため、エルバートが退室する。
ベアトリスはベッドから起き上がろうとして、だけど身体に力が入らなかった。マリーナに支えられながら何とか起き上がると、簡易的な診察を受ける。
低栄養になっていること以外は問題ないと聞いて、ベアトリスもマリーナも安心した。宮廷医が退室すると、宮廷医を連れてきたのとは別の侍女の案内で入れ替わるように一人の人物が部屋に入ってきた。
そう、侍女が呼びに行ったのは宮廷医だけではなかったのだ。
「ベアトリス!」
「っ!!」
その声を聞いて、ベアトリスはドキッとした。
「目が覚めたと聞いて急いで来たんだ。本当に良かった!」
心配そうに、だけどどこか安心した表情のアルバートがベアトリスのベッドに歩み寄る。
「っ、来ないで下さい!!」
ベアトリスが放った拒絶の声にアルバートが動きを止めた。
「ベアトリス?」
アルバートが困惑しながら呼び掛けると、ベアトリスが話し出す。
「マリーナからわたくしが記憶の秘薬を飲まされたこと、聞きました。わたくしがどれくらいの記憶を失って、どれくらい眠っていたのかは分かりません。ですが、わたくしたちはもう婚約者ではないのでしょう? アルバート王太子殿下にはリリアン様がいらっしゃるのですから、わたくしのことは放っておいてくださいませ」
アルバートはベアトリスから予想外の反応を受けて、最悪な事態に陥っていることを知る。
それでも尋ねずにはいられない。
「……もしかして、ベアトリスは婚約解消の話をした日のことを覚えているのか?」
「勿論です。わたくしにとっては昨日のことですから」
どこか悲しげで、だけど怒ったようなベアトリスの声にアルバートは時間が止まってしまったような感覚に陥る。
ベアトリスはアルバートが婚約解消を言い渡した日を最後に、今日までのことを全て忘れてしまっていた。




