第一〇章 忘れ得ぬ一夜
周は市庁舎の隣にある一際大きな建物に連れてきた。大扉は空いており、石畳が敷き詰められ、最奥には木箱がうず高く積まれている。中に入ると、蔵人とサムの鼻を酒の匂いが突いた。
「おお!司令官のお出ましだ!」
酔って赤ら顔の兵が、大声で言った。周は、
「おう!お前ら、飲んでるな!今夜は無礼講だ!飲め飲め!」
そう部下を囃し立てた。
蔵人は目を白黒させて、
「周司令官、ここは?」
と尋ねた。しかし周は即座に、
「司令官はよせよせ。無礼講だっつったろ」
そう返事をした。蔵人はかえってぎこちなく、
「周」
という呼び方で応じ、改めて尋ねた。
「ここはどういう場所なんだ?」
周は笑いながら、
「この都市の倉庫だ。蘇った死者は、食事の必要もないらしいからな。こういう倉庫は手つかずになっている。倉庫内の酒は、好きに飲んでいいと顧問役から言われている。結城、ラッセル、お前らもほら、飲め」
そう言って、蔵人とサムの背中を押しながら、兵の輪の中に混じった。
「よっ!曙兵を率いる結城隊長!さあ、ぐーっと一杯!」
掌大の器に注がれた葡萄酒を、蔵人は少しずつ、しかし一息で飲み切った。
「おおっ!さすがだ!個人の剣技も兵の指揮も、酒の飲みっぷりも一流だぁ!」
サムも酒を口にしたが、
「いや〜、蔵人みたいな飲み方は無理だ」
と言って自分の調子で少しずつ飲んでいる。
そこへ、
「あ、隊長!」
曙兵の声がした。蔵人が振り返ると、倉庫入口に曙兵の一人が立っていた。
「隊長だけこんな所で、酒にありついているなんてずるいですよ」
周は蔵人に、
「曙兵も呼んでこい。宴は大勢で楽しむのがいい」
と言った。蔵人は曙兵に、
「他の皆も連れてこい!今夜は周司令官も含めて、無礼講だそうだ!」
そう呼びかけた。兵は、
「了解!」
そう叫んだかと思うと、一旦走り去った。かと思ったら、すぐに仲間を引き連れて戻ってきた。
宴は数え切れない人数になり、大騒ぎの様相を呈していた。蔵人が気づかぬうちに、女まで混じっていた。
宴は夜が更けるほどに盛り上がっていった。皆の胃袋の容量が、酒の貯蔵量を超えるのではと疑われるくらいだ。
いつの間にか、サムは姿を消していた。サムは酒に強くない。気分を害する前に、さっさと姿をくらましたのだろう。
話の輪の中心から離れた所に、蔵人は座していた。酒杯を自分の調子で飲んでいると、しなだれかかってくる女が一人。蔵人の胸板に体を預けた女は、
「う〜ん、あたし、もうダメ……酔っちゃったかも……」
蔵人は騎士道精神を発揮し、
「平気ですか?吐き気とかは?」
大真面目に尋ねた。女は、
「ここはお酒臭くて、参っちゃう。もっとゆっくりできる所へ行きたいわ」
そう答えた。蔵人は女を抱きかかえ、
「隣家が、空いていたはずです。そこまで連れていきますね」
静かに酒宴を辞した。
女の体は、驚くほど軽く感じられた。日頃から肉体の鍛錬を怠っていない蔵人は、女の二、三人まとめて運べる気さえした。
蔵人は女を抱きかかえたまま倉庫を出て、隣の家に入った。扉は足で開けた。
一階には居間や台所があった。しばし使われていない事は明らかで、少し埃っぽい。
「二階に行ってみましょう」
蔵人はレンガ造りの階段を上り、二階に出た。予想した通り、二階は寝室で、ベッドがあった。
蔵人はベッドに女を座らせた。女はきょとんとしている。
「ここなら、休めるでしょう。では、ごゆっくり」
蔵人は立ち去ろうとした。しかし、
「ま、待った待った!」
女は立ち上がって蔵人の手を掴んだ。蔵人は女の意図がわからず、目を白黒させている。女は言った。
「もう、あたしのしたい事をわかっていなかったのかい、坊や?」
蔵人が首を傾げると、女は掴んだままの蔵人の手を、自分の胸元に当てた。
「え?いや……え?」
女の乳房の柔さに戸惑う蔵人に、女は言った。
「あたし、こんなにドキドキしているの、わかる?」
心臓の鼓動が、蔵人の掌に伝わってくる。その時、初めて蔵人はまじまじと女の格好を見た。胸元と下腹部に下着は着けているが、その上から薄い肌着のような物をまとっているだけである。暗がりなのに、女の艶めかしい白い肢体が、肌着を透けて見えていた。蔵人は己の鼓動が早くなるのを自覚した。女の柔肌、それも一番柔い乳房の手触りに、蔵人は酔っているような錯覚を覚えていた。
女は蔵人の手を離し、直立したまま動けないでいる蔵人を抱きしめてきた。
「あんたと、そういう事したくて、宴を抜け出したのさ。ここまで言えば、あたしの言いたい事、わかるだろう?」
性交――――その二文字が蔵人の頭に浮かんだ。だが尚も蔵人は抗弁した。
「そ、そういう事は、結婚とか、恋愛関係の者同士がするものじゃ……」
しかし、女は背伸びして口づけで蔵人の弁を妨げた。舌と舌を絡ませながら唇を重ね、蔵人の理性も溶かすようだった。
唇を離すと、女は言った。
「一夜だけの、夢みたいな関係もあるのさ。さ、しようよ――――」
蔵人は女と共にベッドに行き、一夜を共にした。
「はぁ……」
蔵人が女と一夜を過ごしている家の屋上で、サムはため息をついた。
「ここなら邪魔が入らずゆっくり寝られると思ったのになぁ」
サムは蔵人が気づくよりもずっと前、宴に女が混じっているのに気づいてすぐに行方をくらました。そして誰にも気づかれなさそうな場所、倉庫隣家の屋上で星空を見上げながら眠る算段だった。だったのだが、
「ま、蔵人なら許すか。市庁舎の鐘楼にでも行って寝なおそう」
サムは静かに宙を舞い、市庁舎の尖塔頂上、大鐘の横に陣取った。そして風の魔法で、不可視の結界と寝床を設けた。寝床にくるまれ、杖を傍に置いたサムは、一人愚痴をこぼした。
「男女関係なく、そういう関係は嫌だ」
サムの性交嫌いは、後に詳述する機会があるだろう。今はただ、サムが他者とそうした関係を持つ事を嫌っているとだけ述べておく。サムは魔法で、都市内で繰り広げられている、宴会やら乱交やらを透視した。
「まあ、ほとんどの人にとっては、宴はこんなに羽目を外すものなのかもね」
サムは尖塔の天井で星空が遮られてしまうのに、不満たらたらだった。透視もやめ、小声で一言、
「じゃ、皆さん、僕は先に休ませてもらうよ」
と誰に挨拶するでもなく、深い眠りに落ちていった。
蔵人は何か柔らかなものに包まれている事に気づいて目覚めた。目を見開くと、女の白い柔肌が視界を覆っていた。艶のある黒髪が、白い肌と好対照を成している。
まだ眠っている様子の女を起こさないよう、蔵人は静かにベッドを出た。そして服を着て、女の眠りを邪魔しないように出ていくつもりだった。
しかし蔵人の背から、
「もう行くのかい?」
と声がした。蔵人が振り返ると、女はベッド上で裸身を晒して座っていた。
蔵人は言った。
「ああ。邑諸都市にとっては、昨日の戦いが山場だったかもしれない。でも俺の故郷は曙王国。それは、まだ取り戻せていない」
蔵人の眼には、決意がみなぎっている。
不意に、裸のままの女に、後ろから抱きしめられた。
「死んじゃ、嫌だよ。絶対死んじゃだめだからね」
蔵人は振り返り、女と唇を重ねた後に、女を抱きしめた。そして言った。
「死なないよ。ありがとう、そう言ってくれて。そう思ってくれる人がいるのが、こんなに嬉しい事だって、知らなかった」
蔵人は笑顔だった。蔵人が、再び赴くのは戦場である、死地である。それでも、死に物狂いで生き抜いてやるという覚悟があった。戦場で誉れ高き死を、という思いと、何が何でも生き抜く、という思いは、両立可能なのだ。少なくとも蔵人の中では、それらの意志は両立していた。
ふと、蔵人は女に尋ねた。
「それにしても、どうして俺に目を付けて、こういう関係を?格好良い男なら、周司令官とか、他に大勢いたのに」
女は心底おかしいという様子で、ベッドの上に座って笑いころげた。蔵人は困惑し、
「な、なんだよ?俺、そんなに変な事言ったか?」
女は涙するほど笑った後に、蔵人に言った。
「あんた、自分の顔や仕草が格好良いのに、そんなに無自覚だったのかい」
蔵人は質した。
「俺が、格好良い?」
女は何度も頷きつつ答えた。
「少なくとも、あたしたち、昨日あの宴会場に紛れ込んだ女たちの中では、あんたが一番って評価だったよ。周司令官は、オヤジ特有の酒臭さで、敬遠されがち。まあ、格好悪いわけじゃないから、一度抱かれるくらいなら構わないけど」
褒められているのは嬉しいが、格好良いと直球で言われると気恥ずかしく感じた。
「あ、ありがとう。まあ、その、俺は自然体でいればいいんだよね?」
蔵人の言葉に、女は頷いた。
「そうそう。無意識に格好良く振る舞えているんだから、あんたはそのままでいいのさ」
二人は笑顔で別れの言葉を口にした。
「じゃあね」
「んじゃね〜」
手を振る女を背に、蔵人は新たな自信を持って歩き出した。
蔵人が装備を整えて倉庫に戻ると、昨日以上の酒臭さが漂っていた。
「うっ……」
蔵人は思わず後ずさった。倉庫の大扉は全開で、朝日が中を照らしている。酒臭さもひどいが、視界に飛び込んできた惨状も負けず劣らずひどい。裸のまま夢現にある、大勢の男女がぐちゃぐちゃに横たわっていたのだ。どう見ても、宴会場は乱交場に変化していた事は疑いない。
蔵人が臭気と惨状に倉庫入口で立ちすくんでいると、背後から友の声がした。
「おはよう、蔵人。うわ〜、こりゃひどい有様だね」
サムは蔵人の横まで歩いてきて、蔵人同様鼻をつまんだ。
「おはよう、サム。やっぱり、昨日はさっさと抜け出していたか」
蔵人の言に、サムは肩をすくめて頷いた。
「まあ、遊女が混じってきたのに気づいて、すぐにね。こんな惨状に巻き込まれるのはご免だ。蔵人は、昨日はお愉しみだったようだけど、どうかな、一皮剥けた感想は?」
サムの問いに、蔵人は一瞬固まり、続けてサムの両肩を掴んで質した。
「何故知っている?」
サムは激しく揺さぶられながらもにやにやと笑っている。
「いや〜、さっさと行方をくらまして寝ようと、隣家の屋根の上にいたら、蔵人が女を連れ込んできたからね〜。さすが騎士様は違うな〜、と思って」
蔵人は観念して手を離し、ため息をついた。
「まあ、経験したからって世界が変わるものでもない。人生に無数にある、通過点でしかないよ」
蔵人とサムの問答が終わった時、倉庫内の惨状から起き上がった人物がいた。周だった。
「馬鹿者ども、いつまでもそんな調子だと、今日は一番きつい労働を割り当てるぞ」
立ち上がって衣服を身に着ける周の足元から、
「でも〜……周、ほど、酒強くない……んです」
うめき声が上がった。周は叱りつけた。
「馬鹿めが!無礼講は終わりだ。司令官を付けて、跪いてみせろ」
周のよく通る声に、そこかしこからうめき声が上がった。周以外、皆宿酔いらしい。遊女たちも例外ではなさそうである。
周はてきぱきと身支度を整え、司令官のマントを翻して倉庫入口に向かって歩いてきた。当然、入口に立つ蔵人とサムにも気づく。
「おはようございます、周司令官」
二人は声を揃えて挨拶した。周は答えた。
「おはよう。悪いな、お前たち若者に、こんな醜態を晒すようで。二人とも悪酔いして翌日に引きずってないし、連中に見習わせたい」
周は二人の横を通り過ぎながら、
「これから作戦会議だ。指揮官たちには市庁舎へ集まるよう言ってある。二人も来い」
「はっ!」
「お供致します」
二人は颯爽と歩を進める周に付き従い、倉庫に背を向けて歩き出した。
作戦会議には、きちんと指揮官全員が揃った。しかし中には頭を押さえている者もいて、宿酔いを隠そうと必死な様子である。
周の本営入りで姿勢を正した指揮官たちに、周は軽く挨拶した。そして卓上の地図の周りに指揮官を集めると、改めて口上を述べた。蔵人とサムは、周の背後に位置した。
「諸君、今までよく戦ってくれた。未だ戦いは終わっていないが、峠は越えたと見ていいだろう。死後復活した開明王を倒した事で、死者の群れは統率を失った。そうだな、ラッセル?」
指名されたサムは、懸念を述べた。
「確かに、開明王を倒した事でこの小大陸の死者は統率を失ったようです。しかし、開明王は第五の魔法使いとの契約で蘇った事、世界中で死者の乱が起きている事を述べていました。事実、開明王は魔力の発信源ではなく、この小大陸の外から伸びた魔力の、中継地点に過ぎない存在だったのです」
指揮官たちの間に、どよめきが起こった。しかし、これは周の想定範囲だった。
「諸君、今聞いたように、峠を越したからと言って、油断はできない。第五の魔法使いはこの小大陸の外から、開明王を通じて死者を統率していた。新たな死者の司令塔が発見される前に、この大陸から、蘇生した死者を一掃する必要がある」
指揮官の一人が疑問を持って声を上げた。
「周司令、大陸、と仰いますと?」
周は動じない。
「言葉通りだ。邑連合、並びに曙王国領全てを含めた小大陸全体から、死者を叩き出す」
別の指揮官がそれを聞き、
「では、曙王国領も征服するという事ですか?」
と口を滑らせた。蔵人は反論しようとしたが、目の前の周が手で制した。そして周は言った。
「曙王国は死者から解放するが、領土は奪わない。曙王国を再興させる」
この発言を聞き、指揮官たちは眉をひそめる者、声を荒げて反駁する者などが出て、騒然となった。
「何故です、司令官?」
「この機に乗じて曙王国を征服すれば、長年の戦乱を終わらせられますぞ」
「戦争集結どころか、邑の御旗の下に大陸が統一できます!」
論調に忸怩たる思いを抱く蔵人だったが、次の周の言葉に安堵した。
「馬鹿者!たかだか一千程度の兵で、曙王国を征服し、その領土を統治できると思っているのか!確かに、この機に乗じて曙王国を征服するのは不可能ではない。だが、それを成した暁に残るのは、曙王国の人民からの恨みだ。今度は逆に、我々が反乱を起こされ、再度戦になる。
それに、我々がこうして領土の回復を成せているのは、誰のおかげか、知らぬ諸君ではあるまい?」
皆が押し黙ったところで、周は蔵人に発言を促した。蔵人は演説の機会を与えられ、精一杯の言葉を述べた。
「皆さん、この機に大陸統一を、という思いが湧くのは、無理もないでしょう。しかし、皆さんが欲に駆られて分別を無くす方々だとは思えません。優れた司令官の下で動く、優れた隊長たちだという事は確かだからです。
それに、この邑奪還前の演説では、我が戦友と呼びかけると、邑連合兵たちは応えてくれました。そして、邑連合の人々の義理堅さは、曙王国の民も知るところです。
皆さん、もし我が今述べている言葉が事実なら、曙王国再興に力をお貸しいただきたい。我々の貸しを返済し、既に一般兵にまで広がっている連合軍としての連帯を、崩さないでいただきたい」
少年期を脱したばかりの男の演説に、皆は黙って聞き入った。そして、指揮官の一人が言った。
「すまなかった、結城隊長、ラッセル魔法使い。そなたたちからの借りは必ず返し、帰るべき故郷を奪還する一助として、戦わせてほしい」
口火が切られると、指揮官たちが続々と蔵人に謝罪の言葉を述べた。それを見ていた周の言葉を、サムは聞き逃さなかった。
「この男は、天性の英雄、勇者なのかもしれんな」
この物語はフィクションです。実在する人物、団体、事件等とは関係ありません。
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