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江戸の恋唄

作者: 吉田四郎

時の将軍の名前が次々と移り変わると江戸の城下も天下太平の世となり、町造りにごった返していた江戸は、地方からも続々と人が集まり、活況を呈していた。

深川に集まって来た者の中には、食いつめ者の他に浪人や無頼の輩も多く、ユスリ、タカリは日常茶飯事で、町の至るところで派手な喧嘩や斬り合いが絶えず、肩で風を切って闊歩するのは旗本奴と称する無法者や、男伊達を売りとする町奴と称する無法者たちであった。

 深川が「深川」となった由来は、江戸がまだ町造りを始めたばかりのころに、大阪から移住してきた深川八郎右衛門が小名木川北岸一帯の開拓を行い、その深川の苗字を取った場所で、江戸初期には漁師町であったが、その後、急速に発展して、船宿、料理屋、屋台、そして、遊郭や岡場所が出来、芝居や行楽の場所として多くの人々が訪れたり集まったりする場所になった。

 ちなみに、深川は材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門、平賀源内、松尾芭蕉が住んでいた場所でもあった。

 無法者たちが多くいる深川の表通りに沿って長屋造りの辻道場が在った。道場の外壁の板は破れて剥がれ、すっかりうらぶれたしまった道場の正面入り口の横に立て看板があり、薄汚れた看板には大きく「小暮無双流・小暮道場」と書かれ、左の隅下に小さな文字で「踊リ有リ」の文字があった。

 掘っ立て小屋に毛が生えたようなオンボロ道場の外板には、外の日差しと空気を入れ替えるために、左右に開閉が出来る小さな格子窓が目の高さに幾つか設けられ、道行く町人の一人が道場内から聞き慣れぬ声と物音に興味を抱いて中を覗き込むと、広い道場の上座で着流しの若い男が正座して、目の前で横一列に並んでいる数名の町娘たちに、一尺五寸ほどはあろうかと思われる長扇子で軽やかに片膝をトントンと打ちながら、小気味よく拍子を取って遊芸ゆげいの踊りを教え込んでいた。

「はっ はいゃあ ほっほ とったん」

「やっとん やっとん やっとんとん」

 軽快に長扇子で膝を打ち、とんとん拍子で調子を取っている師匠の「小暮京介」とは裏腹に、踊りを習う町娘たちの動きはぎこちなく、見るに見かねた京介は、すっくと立ち上がると、長扇子を後ろの帯に差し込みながら娘たちに近づいた。「駄目、駄目、駄目です。いつも同じところで歌舞伎の六法を踏んでいるようになっています。基本を守らず、正しい姿勢で踊っていないから、足の運びが悪くなり、勧進帳の弁慶のようになってしまっているのです」

 一人の町娘が、媚びるようにして言った。

「そんなこと言ったてぇ~。難しいンだも~ん」

他の娘たちも一斉に、子供が甘えて駄々をこねる態度をみせた。

「口で言われても、わかんな~い」

「京介先生が、お手本を示してよぉ~」

「はいはい。分かりました」

 軽くその場で、京介は舞った。

「もっと丹田たんでんに力を入れて、こうやって胸を動かせばいいのです」

「胸で八の字を書くようにして心棒(心と胸)を使い、腰をこう落として、こう踊ればいいのです」

 優雅に舞って踊りの手本を示す京介を、町娘たちは憧れと羨望の眼差しでうっとりと眺めていた。

「いい男だよ。京介先生はいつ見ても……」

「あたしゃ、どうだっていいのさ。踊りなんか……」

「京介先生がお目当てで、ここに通っているのだから……」

「出来るものなら、あたし一人だけのものにしたいよ。この先生を……」

 格子窓から暫く道場内を見ていた町人は、苦虫を噛み潰したような顔になると、吐き捨てるような言葉を残してその場から立ち去って行った。

「けっ!」

「若け~ぇ男が恥も無く踊りかよ? 情けなくて反吐へどが出てくるぜ」

―――

 儒者、茶人の礼服である「十徳」という上着を着用し、残り少ない頭髪を後ろで一つに束ねたクワイ頭で町医者の「玄庵」が、薬箱を持った供の者を同行させずに単身で「小暮道場」の門を潜って敷地内に入って来た。

小暮家の老僕の「儀助」が大斧おおなたを頭上に持ち上げると、切り株の土台に立ててあった玉切り丸太に向かって、勢いよく振り下した。

見事に真ッ二つに割り、薪にした片割れを拾い上げた儀助に、屋敷内に入って来た玄庵が声をかけた。

「京介殿はご在宅かな?」

「これは、これは、玄庵先生」

「今日は何のご用で?……」

「京介殿にとって、よい知らせゆえに、馳せ参じたという訳じゃ」

「道場内が静かになりましたので、どうやら、踊りの教えも終わったようです。お伝えしますので、玄庵先生は、どうぞ、奥の居間でお待ち下さい」

「では、そうさせて頂きましょう」

 勝手知ったる我が家の如く玄庵は、そそくさと玄関に向かった。

―――

十畳程の居間は箪笥も無く簡素。上座に座った玄庵は、手にした湯飲み茶碗を見て苦笑した。

「茶碗のふちは欠けておる」

「茶葉も入らぬ白湯さゆを出すとは……」

 下座の京介は恐縮した。

「面目もございません」

「相も変わらずの、貧乏暮らしなもので……」

玄庵は湯飲み茶椀を脇に置くと、にっこり笑って身を乗り出した。

「さあ、そのことよ」

「終わりかも知れませんぞ。あと僅かでその貧乏暮らしとも……」

「と、申されますと?……」

「八千石の大身旗本、石川甲斐守さまが神田・小川町の中座敷(別邸)で、江戸市中に道場を構える者たちの技を競い合わせ、その中から一名だけを藩の武芸指南役として召し抱えようとしておりなさるのじゃ」

「お主の腕前なら勝ち残ったのも同然。お主をその試合に推薦しようと訪ねて参ったのだが、さて、いかがなものか」

「有り難きお言葉なれど、当道場には武芸のみならず、舞踊を習いに来る者もおりまするゆえに……」

「なあに。そのことなら心配には及ばぬわ」

「指南というても、三日に一度の出稽古じゃ。道場を閉ざさずとも務まるお役。手腕が認められて師範ともなれば藩士か家来としても待遇されるゆえ、棒禄も百から二百俵は支給され、門人からの束脩そくしゅうも不要になると言う訳じゃ」

―――

 遠ざかる玄庵の後ろ姿を見送っている京介の横に、持った十手の先で我が手の平を軽くポンポンと叩きながら、御用聞き(関八州では目明し、岡っ引きなどと呼ばれ、江戸では同心の手下)の甚八が並んだ。

「帰る門弟の女の尻でも眺めているのかと思やあ、あれは医者の玄庵先生じゃあございやせんか」

 甚八に気付いた京介は、喜色満面の笑みを浮かべた。

「喜んで下さい。甚八さん」

「なんのこって?」

「積年の貧乏暮らしともおさらばが出来そうだ。玄庵先生の口利きで仕官の口が叶いそうだ。お茶葉だけでなく、湯飲みの茶碗だって買えそうだ」

「そうですかい。そりゃあ、ようござんしたね」

「小暮京介の人徳ってやつでごぜぇやすよ。日頃の精進がいいから、そうやって結構な話が舞い込んでくるってことですよ」

「そんなに持ち上げたって何も出ないです。仕官が叶った訳ではないですから、今のところ出てくるのは、愚痴と溜め息だけです」

「いくら貧乏暮らしだからといって、もっと益しなモノを出してくだせぇよ」

欠伸あくびと放屁だったら、すぐに出そうです」

「もういいっすよ」

「京介さんはお好きなモノをお好きなだけお出しなっておくんなせぇ。ですから、あっしの方はこれを出させてもらいやす」

甚八はべろりと舌を出してあっかんべーをすると、そそくさとその場を去った。

「はてさて、御用聞きの甚八さんは、何用あって道場まで足を運んだのか?」

怪訝顔で甚八を見送る京介の腰帯の後ろには、別注で誂えた長扇子が「ノの字型」で、斜めになって差し込まれていた。

―――

江戸っ子たちの朝は早い。夜がまだ明けやらぬうちから鶏の甲高い鳴き声が朝を知らせると、長屋の各家々から、トン、トン、トンと調子よく、まな板を叩く音が聞こえてくる。

 遠くで寺の鐘の音がゴーンと鳴って時刻を知らせると、町の治安を管理して、夜の十時に閉ざされていた町木戸が、朝の六時に門番によって開けられた。

 町木戸を出ると、目の前には掘割りと呼ばれる水路が有り、水路には舳先が猪の牙に似ているところから、猪牙船ちょきぶねと呼ばれる船が多く浮かんでいた。

 深川の船宿や水茶屋の多くは猪牙船を所有し、この船で遊ぶ客たちの送り迎えをしたり、待合場所や「お休み処」として、酒なども出して飲食できるようにもなっていた。

 開けられた木戸をくぐり抜けた町人たちは、棒手振ぼてふりと呼ばれる天秤棒で荷を担ぎ、深川名物のアサリやシジミだけでなく、近くの砂村新田農家の新鮮な野菜などを売りに出て行くのが、毎朝の日課となっていた。

 大引きののこぎりを担いだ大工と、ノミやカンナが入った長方形の大工道具入れの木箱を肩に担いだ大工たちが門を潜って水路近くに出ると、一人の大工が猪牙船と猪牙船の間の水面で、うつぶせ状態になってプカリ、プカリと波間に漂う死体を見つけた。

「おい、あれを見ろ!」

「人間じゃねーのか?」

問われた大工の仲間たちは、男が指している指先を見て仰天した。

「て、てーへんだ!」

「若い女のようだ!」

「は、早く助け出さねーと!」

大工道具をその場に起き、慌てて法被はっぴを脱ぎ捨て駆け出そうとする若い大工たちを、棟梁らしき年配の人物が間髪入れずに引き止めた。

「待て!」

「えっ?」

「手遅れだ」

 おもむろに棟梁は、断言した。

「くたばっちまっているぜ。あの女……」

―――

地面に敷かれたむしろの上でまげを解いた洗い髪の若い女が、仰向けになって寝かされていて、定廻り同心・小暮直治郎が女の横でしゃがみ込みながら検分を行っていると、直治郎の背後に立っていた手下で御用聞きの甚八が、不審顔で声をかけた。

「身投げでやしょうか? それとも、行きずりの犯行でやしょうか?」

「それを調べるのが、俺の仕事だ」

十手の先で着物の裾を大きく捲り上げ、女の股間を覗こうとする直治郎の行動を見て、甚八は仰天した。

「な、何をなさっているんで?」

「俺の手下となって未だ日があせーから知らねーだろうが、淫水による女陰ほとの焼けぐわいを確かめているのよ。桃の花が咲いたように綺麗な色の女もまれにはいるが、大方の女は女陰ほとの焼けぐわいで、素人女か商売女かの察しがつくってワケよ」

「……で、その女はどうなんで?」

「素人だ。金子きんすが目当ての商売女じゃなさそうだ」

 直次郎は股間から首へと、十手の先を移した。

「ここンとこを、よ~く見てみな」

 言われるままに女に近づいてしゃがみこみ、十手の先を甚八は見た。

「……筋が付いているように見えやすが?」

「てめーの首を、てめーの爪で搔きむしった時の傷跡だ」

「荒縄か紐状の物で首を絞められた時、必死に取り外そうとした時に出来たのが、この傷跡よ。身投げで溺れ死んだと思ったが、紐で首を絞められたのなら、行きずりの犯行とは考えられず、親しい者の犯行とみていいだろう」

 立ち上がった直治郎は、僅かに表情を曇らせながら女の死体を見下した。

「商売女だと身元が割れやすいのだが……」

「素人となりゃあ、ちょいとばかり面倒だ」

―――

 検分を続ける直治郎たちを、遠巻きにしながら見物している野次馬たちの中に、一見して遊び人だと分かる若い男が加わってきた。

 二つ折りにした手拭いを、首にかけている男の名前は「清吉」。

 何事が起ったのかと不審な顔で、清吉は隣の男に聞いた。

「どうしたンで?」

「土左衛門らしいぜ。若い女の……」

 野次馬の中の一人が、感心しながら呟いた。

流石さすがは『深川の牙』と異名を取る同心だ。凄い想定力と眼力を持っていなさるぜ」

「……深川の牙?」

「そうとも」

「定廻り同心、小暮直治郎は噂通りの切れ者で捕り物上手なお人よ。亡きがら一つで、殺しの手口までも見事に見破っちまうのだから……」

 黙って清吉は、男の説明を聞いていた。

「……」

 女の口に直治郎が十手の先を突っ込む様子を目撃した清吉は、又も怪訝な顔で隣の男に聞いた。

「何やってンでしょうかね? 口ン中に十手を突っ込んで……」

「毒の吟味をしていなさるのさ」

「……毒?」

「小暮直治郎の十手は『銀』で出来た別誂べつあつらえの十手よ」

「死体は語るって言うぜ」

「十手の先が黒ずみゃあ、女は毒を盛られたったことの証になるってワケよ」

「へえ~」

「そんなことが、銀の十手で分かるのですかい?」

―――

 しゃがみ込んで女の顔を覗き込んでいた甚八が、小首を傾げた。

「この女?……」

「知っているのか?」

「どっかで見たことのあるつらだと思ったが、この女、門前町の『お仙』でやすぜ」

「門前町と言えば?……」

「ご察しの通り、あっしの長屋のあるところでさあ。土座衛門になる一歩手前なので見分けが付きにくかったのですが、この女、お仙に間違いありやせんぜ」

「どういう素性の女だ?」

 甚八はゆっくりと身を起こした。

札差ふださし、大黒屋の『囲われ者』でして……」

「何が原因で別れたのかは存じやせんが、お仙は大黒屋から、『一生遊んで暮らせるだけの手切れ金を受け取った』ったてぇ噂の、しっかり者の女でさあ」

「他に手掛かりは?」

「確か、お仙の妹の『おきよ』が、小暮道場で踊りを習っているハズでやす」

「まことか?」

「へい」

「あっしの覚えが、確かでやしたら……」

―――

 武士と行商人と大勢の通行人たちの往来で活気溢れている表通りの両側には、各問屋の大店おおだながズラリと軒を並べて立ち並び、その中でも一段と間口の広い大店が、呉服問屋の看板を掲げている「福田屋」だった。

 水の入った手桶と柄杓を持った女中が店内から表通りに出て来ると、舞い上がる路上の土埃を防ぐために、往来する通行人たちに気を配りながら、地面が程よく湿る程度に、上手に水を撒いていた。

 店内では番頭、丁稚、奉公人たちが、店を訪れて生地を選ぶ客たちや、商いの仲買人たちに気を配りながら忙しそうに動き回っていた。

帳場を通り過ぎて奥に進むと、鹿威ししおどしと、綺麗に手入れされた山水の中庭があり、中庭の横の廊下を歩いていた「おゆき」が立ち止まり、柱に片手を付けると、庭に向かって吐きそうになった。

「うえッ!」

 おゆきの後ろを歩いていた母親が顔色を変えて、おゆきに近づいた。

「おゆき!」

「おえッ!」

おゆきの体調の異変に、母親は直ぐに気付いた。

「お、お前、ま、まさか?……」

 おゆきは何も言わず、申し訳なさそうに下を向いたままだった。

「……」

―――

 福田屋の店主・徳兵衛は奥の部屋で、怒髪天どはつてんの如く物凄い形相で、下座で身を小さくしながらかしこまっている娘のおゆきを睨みつけていた。

「む、む、む……」

 膝の上に置いていた徳兵衛の握り拳が、ワナワナと震えていた。

 爆発寸前の父親と、今にも泣き崩れ落ちそうな娘から少し離れた場所で母親が、はらはら、おろおろしながら、事の成り行きを見守っていた。

 パッと席を立った徳兵衛は、打ちひしがれているおゆきに近づくと、横っ面を平手打ちにした。

「この、大バカ者めが!」

 ドッと崩れ落ちたおゆきは、畳に伏せて号泣した。

「うわあああ―――ッ!」

 母親は立ち上がって徳兵衛を阻止することもせずに、ただ、おろおろとおゆきを見守ることしか出来なかった。徳兵衛の剣幕に畏怖の念を抱き、母親は何することも出来ず、娘に声を掛けるのが精一杯の行為だった。

「お、おゆき……」

 泣き崩れているおゆきの身を強引に起こした徳兵衛は、アゴをガシッと掴んで問い正した。

「誰だ!」

「生まれてくる子の父親は!」

「ゆ、許して下さい。お父っつぁん」

「許さん!」

「そのようなふしだらな娘に育てた覚えは無い!」

「勘当だーッ!」

 思いも寄らぬ徳兵衛の言葉に、母と娘は同時に仰天した。

「ええーッ?」

 おゆきの襟首を掴んだ徳兵衛は、部屋の外に出そうとして引きずり廻した。

「この恥さらし者めが!」

「どこの馬の骨とも判らぬ男に身を任せるとは何事だ! とっとと出て行け! 男の元に走れ!」

 血相を変えた母親は、パッと立ち上がって叫んだ。

「お止め下さい!」

「おゆきは、身重です!」

 ハッと我に返った徳兵衛は、引きずり廻すのを止めた。

 おゆきは泣きそうな顔で、哀願した。

「お父っつぁん」

「話すから、勘当だけは、どうか……」

おゆきを手放した徳兵衛は、物凄い形相で睨みつけた。

「誰だ。相手は?……」

 おゆきは消え入るような声で答えた。

「こ、小暮道場の……」

「……門弟か?」

「い、いいえ……」

 青ざめた母親は、念を押すようにして訊ねた。

「ま、まさか? おゆき……」

「踊りのお師匠さんの、京介さんじゃなかろうね?」

「うあああ~~~ッ!」

 どっと畳に平伏し号泣するおゆきを、徳兵衛は苦々しい顔で見下した。

「節操の無さにも程がある」

「何を習っておったのだ? 踊り以外に道場で……」

「う、ううう……」

「よしとくれ。泣きたいのは私の方だ」

「人格者だと思われていたあのお師匠さんが、米問屋・福田屋の一人娘を傷モノにしてくれるとは……」

 畳を掻きむしるようにして、おゆきは号泣した。

「うわあああ~~~ッ!」

―――

 外部の板が破れていたり、外れていたりしていて、すでに侘びと寂を通り越し、もうどうにもならないほどに傷んでうらびれた小暮道場の格子の窓から、三味線の音と踊り掛け声が、僅かな音として流れていた。

三味線の音に興味を抱いた以前とは別の男が格子窓から道場内を覗き込むと、板の間に正座した京介が、長唄用の細棹ほそざおの三味線を膝の上に置き、象牙のバチで弾きながら、若い町娘たちを相手に声を出して踊りを教えている最中だった。

チンチレリン チンチレリン チンチレチンチレ チンチレリン……

 三味線の合方の合間に、踊りを教える京介の音頭の声が小気味よく入る。

「はっ はいゃあ ほっほ とったん」

「やっとん やっとん やっとんとん」

 町娘たちは一斉にクルリと半回転して舞い踊ると、直治郎と甚八の二人が床板に音を立てながら、つかつかと娘たちに近づいて来ると、二人の後ろから下僕の儀助が二人を追いかけるようにして、慌てて道場内に入って来た。

 直治郎は町娘たちには目もくれず、どっしりと正座で構える京介の前に立つと、京介を見下しながらあざけるようにして言った。

「いい気なもんだな。お天道様がまだ頭のてっぺんだってぇのに、若い娘を相手にチリトンシャンの遊芸ゆげいとは……」

「四海波立たず。いくら天下泰平のご時世とは言え、世の男も随分と情けなくなってしまったものよ。竹刀に替えて扇子で道場をまかなうとは……」

怒りで立ち上がることもなく京介は、無言のままで直次郎を見上げていた。

「……」

 大柄で町娘たちのまとめ役で姐御肌的な存在の「おてる」は、一歩前に出ると、相手が恐れ多い役人にも関わらず、京介を揶揄やゆした直次郎の言動にひるむことなく、大きな声とともに詰め寄った。

「何だい、あんた!」

「黙って聞いてりゃあ好き放題なことを言って、いい気になっているのは、一体どっちの方なのさ!」

「!」

 一瞬、直治郎が驚きの表情を見せると、おてるの勢いに乗じた「おみね」と「おたま」の二人が、威勢よく続いた。

「ふざけんじゃないよ! この唐変木!」

「八丁堀だか九丁掘だか知らないけど、大きな顔をして十手風吹かせていたら、このあたしたちが承知しないからね!」

 強力な援軍を得たとばかりに、おてるは図に乗った。

「ここはあんたのような人間がくるところじゃないよ!」

「とっとと、消えな!」

「今、直ぐにだよ! 出て行きな!」

おてるは直治郎の胸をドンと突くと、一歩下がった直治郎に、再度、詰め寄り、直治郎を突こうとしたが、軽く身を交わした直治郎は手の甲で、おてるの横っ面をブッ叩くと、バシッと乾いた音が道場内に響き渡った。

「な、何をしてくれるのよ!」

「よくも私をぶってくれたわね! この頓痴気とんちき!」

「うるせーッ!」

ぶたれた頬をさすりながら、盾突くおてるに、直治郎は手を上げて一喝した。

「もう一度、引っ叩かれてーのかッ!」

「キャーッ!」

 逃げるおてるを背にした京介が、両手を広げて直治郎の前に立ち塞がった。

「いい加減にしろ!」

「女ってのは痛めつけるものじゃねー。優しくいたわいつくしむものだ」

 苦々し気な表情で、直治郎は言い返した。

「踊りだけでなく、物の言い方も、バカ娘どもに教えておけ!」

 京介は直治郎の文句を無視して、逆に聞き返した。  

「何の用で来た?」

「それが、兄に対する言葉か?」

「兄なら兄らしく、兄らしい行動をしたらどうだ?」

「えっ?」

 数歩逃げたおてるは立ち止まり、クルリと振り返って呆れた顔で二人を見た。

「兄弟だったの? あの二人……」

 一発触発の睨み合いで対峙している直治郎と京介を、御用聞きの甚八と下僕の儀助は、全く心配している様子も見せず、仲良く横に並び平然とした顔で、争い寸前の二人を眺めていた。

「毎度、毎度の兄弟喧嘩です。割って入りやしょうか?」

「おやめなされ」

「所詮は犬も食わぬ兄弟喧嘩ですが、火事と喧嘩は大きい方が面白い。この際、燃え尽きるまで燃えさせてやりましょう」

 儀助の意見に納得した甚八は、ニヤリと笑って同意した。

「そうでやすね。大火事になってくれれば面白いのでやすがねぇ」

 町娘たちは道場の隅で一塊となり、この先どうなる物かと固唾を飲みながら、事の成り行きを心配顔で見守っていると、温厚で優男に見えていた京介の表情は急変し、怒りを帯びた強い口調で直治郎に迫った。

「父上の遺言を、お忘れか!」

 直治郎は、うんざりとした表情で答えた。

「また、そのことの蒸し返しか?」

「必要とあらば、何度でも言う」

「天下泰平の世となり剣術を習う武士も減少し、我が小暮家は減禄に次ぐ減禄で、没落浪家ぼつらくろうけと成り下がった。『兄弟で協力して小暮家の家名を潰すこともなく、万難を排しても盛り立てよ』との父上の遺言が有ったにも関わらず、自己中心的で出世欲の強い兄上は、長男でありながら、小暮家の家督を継ぐこともなく、あっさりと跡目相続を放棄して同心となった」

「父の遺言がなければ、俺は絶対に兄上に協力しなかった。父上の遺言を守ればこそ、俺は兄上に代って、この小暮道場を守っているのだ」

「苦労しながら健気けなげに家督を継ぐ弟を、陰になり日向になって助けるのが、父上の遺言を無視した長男としての役目だというのに、久し振りに姿を見せたかと思えば、家督を継いだ弟に、兄は罵詈雑言を浴びせて罵倒した」

「今日の所業は何事ぞ」

「少しは、恥というものを知るがいい!」

「たわけ!」

「小暮家とは、家督を継ぐほどの家柄か!」

「!」

「無役となった父親が残してくれたのは、朽ち果てる寸前の道場だけだ!」

「世は天下泰平と成り、剣術を習いに来る武士たちは皆無。道場の門を潜る門弟といえば、町人たちのガキどもと踊りを習いにくる町娘数名だけではないか!」

「お前が町娘たちに遊芸の三味線と踊りを教えられるのも、今は亡き母上が師範として、お前に手取り足取りして教えたからだ。だが、俺が父上から教わったのは、剣術だけだ」

「人には天分の才というものがある。武士だからといって剣術に秀でている訳ではない。だがしかし、お前は剣術だけでなく遊芸にも秀でている逸材の人物だ。

舞踊だけでなく剣術でも弟に劣る兄が、門弟も通わぬこの道場を引き継いで何になる。どうやって、小暮道場を盛り上げろというのだ」

「三十俵二人扶持の薄給なれど、同心ともなれば百坪ほどの屋敷を拝領し、年末年始には各方面からの付け届けもあって生活に貧窮することは無い。代々武勇の家柄といえども、閑古鳥の泣く道場は、今や世人の物笑いの家柄となっている。お前もガキや女子供たちを相手にせず、早くどこかの藩に仕官しろ。俺に取って代って小暮家を盛り立てろ」

 暫し無言で聞いていた京介の怒りに、パッと火が点いた。

「言いてぇのは、それだけか!」

「なんだとォ?」

「黙って聞いてりゃぁ好き勝手な御託ごたくを並べてくれやがって、『兄弟で協力して小暮家の家名を潰すこともなく、万難を排しても盛り立てよ』との父上の遺言ってのは、それほどまでに薄っぺらい存在だったのか!」

「!」

「長男でありながら家督も継がずに父上の遺言をないがしろにして、自己中心に自分勝手な行動する薄情者の兄が、大きな顔して利いた風な口を叩くもンじゃねぇよ。跡目相続を放棄したのは問題だが、弟に相談することもなく、あっさりと放棄してしまった兄上のその性格が、大問題なンだ!」

「無責任な兄の顔など、二度と見たくもねーッ!」

「とっととここから、出て失せやがれッ!」

「なにィ!」

 目を合わせた儀助と甚八は、同時にニヤリと笑みを浮かべた。

 慌てて壁まで駆け寄った儀助と甚八は、横掛けで置かれていた竹刀しないを手にすると素早く元に戻り、凄い形相で対峙している両者に向けて、サッと柄の方を差し伸べた。

「無責任で薄情者の兄上様です。何一つとして遠慮する必要はございません」と言えば、甚八も負けはおらず、直次郎をそそのかすようにして強く迫った。

「兄上に向かって説教するとは不埒千万の弟さんでごぜぇやす。足腰の立たねーほどに、思う存分に弟さんを叩きのめしてやってくだせぇ」

 京介は善しとばかりに意気込んで竹刀をガシッと掴んだが、直治郎は煽り立てる甚八の意見をあっさりと拒んだ。争う以前に勝敗を感じ取ったか、あるいは皆の面前での兄弟喧嘩を恥じたのだろう。直治郎はそれ以上、事を荒立てる気配は微塵も見せず甚八に、冷静な口調で応えた。

「竹刀での争いは……」

「しない」

 洒落にもならねぇと不満顔の甚八は、口を尖らせながら聞いた。

「な、なぜでごぜぇでやすか?」

「何度も言うが、人には天分の才というものがある。武士だからといって剣術に秀でている訳ではない。その点、京介は三味と踊りに秀でているだけでなく、剣の道でも直ぐに師範になるほどの腕前だ。それを知らずして他人ひとは大火傷をしているが、俺はそれらを直感的に見極める方の才に長けている。ゆえに無駄な争いは絶対にしない。京介に勝てそうなのは精々(せいぜい)口先だけなのだ」

 甚八の肩にポンと片手を置いた直治郎は、諭すようにして言った。

「俺には無くとも京介には京介の良さが有り、お前にはお前の良さが有るのと同じことだ。判ったか?」

 直治郎の説明に納得した甚八は、無言で大きく頷いた。

 道場の片隅で集まり、固唾を飲んで事の成り行きを見守っていた町娘たちに、直治郎は向きを変えて訊ねた。

「お前たちの中に、『おきよ』という女子おなごはいるか?」

 数名の集まりの中から、一人の町娘がおずおずと前に出た。

「あのう……」

 顔を曇らせ、おきよは心もとなげに訊ねた。 

「おきよでしたら、この私ですが……」

「……何か、ご用でしょうか?」

「堀川で浮かんでいた女を、自身番に運んでおる。姉上の『お仙』かも知れぬ。身元を確かめて貰いたい」

おきよの驚きは只事ではなかった。腰を抜かせるほどに仰天した。

「ええ―ッ!」

 心配顔の町娘たちは慌てておきよに近づくと、同じようにして近づいた京介が、優しくおきよを促した。

「早く、確かめに行った方がいい」

「は、はい」

 直治郎と甚八とともにおきよが早足で道場を出て行くと、三人と入れ代わるようにして、「福田屋」の店主・徳兵衛と、その娘のおゆきの二人が道場に入って来た。

おきよを見送っていた町娘たちと京介は、険悪な父親と娘の行動に驚かされた。

 むずかるおゆきの手を強引に引っ張り、無理にでも連れて来ようとする徳兵衛の様子を見ながら、儀助も京介たちと同様に目を丸めた。

「おやおや。これはどうしたことじゃ」

「日頃は閑古鳥の鳴き声が聞こえてくる道場だというのに、今日は朝から、盆と正月が一緒に来たような賑わいようじゃ」

 尻込みと後退りを繰り返し、かなり嫌がっているおゆきの手首を掴み、強引に引き連れて来ようとしている徳兵衛に、京介は怪訝な顔で声をかけた。

「どうなされたのですか? 徳兵衛さん……」

 徳兵衛の表情は険しかった。

「折り入って、先生にお話しが……」

 今にも泣きだしそうな顔で、おゆきは京介を見つめていた。

「……」

「わかりました」

 了解した京介は、手をパン、パンと叩きながら、半ば強制的に町娘たちを急き立てた。

「今日のお稽古は、これで終わりです」

町娘たちは一斉に、不平と不満を現わした。

「ええ―――ッ!」

「そんなぁ」

「嘘でしょう?」

「始まったばかりなのに……」

「私、もっと、お稽古したーい」

 不平不満をぶつける町娘たちをなだめずに、下僕の儀助は帰りを急かせた。

「さあ、さあ。帰った、帰った」

 足を一歩後ろにずらして半身を開いた京介は、むずかるおゆきの手首を掴み、深刻な表情の徳兵衛を促進した。

「お話しは、奥の部屋で……」

むずかるおゆきの手を引っ張りながら、徳兵衛は先を行く京介の後に従った。

立ち去った京介たちの後ろ姿を見届けた儀助は、町娘たちに向かって唇に一本の指を立て、静かに裏に回れとばかりに片手で半円を描いて指示すると、町娘たちは無言で嬉々の表情を現わし、足早にその場から立ち去って行った。

―――

閉ざされたふすまの隙間から隣の様子を盗み聞きしようとする数名の町娘たちは四つ這いに、そして、中腰に背伸びをしながら重なり合い、何としてでも盗み聞きしてやろうとして耳をそばだてながら、聞いていた。

 一方、反対側の部屋においても、儀助が一人で襖に耳を当て、ただならぬ気配だった徳兵衛が、これから話す話の内容に興味津々として聞き入っていた。

―――

 沈痛な面持ちでかしこまっている徳兵衛に、京介は身を前に乗り出すようにして聞いた。

「いかがなされましたか? 徳兵衛さん……」

「恐れ多いのですが、単刀直入に申し上げさせて頂きます」

「娘のおゆきが申すには、京介先生のお子を宿していると……」

 盗み聞きしていた町娘たちは、顔を見合わせて仰天した。

「えっ?」

「うそ!」

咄嗟に人指し指を口に立てたおてるは、驚く町娘たちに静止を求めた。

「シッ!」

驚いたのは町娘たちだけではない。反対側の部屋で聞き耳を立てていた儀助はずっこけるほどに驚いた。

「な、な、なんと!」

上目使いで京介の顔色を伺いながら、徳兵衛は鋭い眼光で問うた。

「誠のことでございましょうや?」

即答を渋った京介は、徳兵衛の横で身を小さきしているおゆきの様子を伺うと、おゆきはガックリと首を項垂れたまま、鼻水をすすって泣いていた。

「グスン!」

「おゆきちゃん……」

 京介の呼びかけに顔を上げたおゆきは、悲しさと切なさがい交ぜになった表情で京介を見つめた。

「せ、先生……」

大粒の涙がボロボロと、おゆきの頬を伝って流れ落ちていった。

「ごめんなさい。わ、私……」

 優しげな目で京介は、微笑んだ。

「いいんだよ。おゆきちゃん……」

「それ以上、何も言わなくても……」

 京介と相反し、徳兵衛の表情は一段と険しくなった。

「ご返事を、お聞かせ願いたい」

 全く臆することもなく京介は、平然とした態度で答えた。

「お腹の子は、私の子です」

徳兵衛の驚きは尋常ではなかった。後ろ手で仰け反るほどに驚いた。

「え、えええーッ!」

 京介はキッパリと言い切った。

「間違いありません」

「おゆきちゃんの……。言葉通りです」

 身を立て直した徳兵衛は、ガックリと両の肩の力を落として悲しんだ。

「な、なんてことだ……」

 仰天したのは徳兵衛だけではなかった。町娘たちはその場に崩れ落ちるほどに驚き、そして、儀助は言葉を失くした。

 どんよりとした沈黙の時は徳兵衛と京介だけでなく、両隣りの部屋で盗み聞きをしていた儀助と町娘たちにも及んでいた。

 今まで険しかった徳兵衛の表情が急に穏やかになると、左袖の中におもむろに手を差し入れ袱紗ふくさを取り出すと、袱紗に包んであった「切り餅」二つの五十両を京介の前に差し出した。

「些少では、ございますが……」

「この金子きんすは?……」

「支度金にございます」

「……支度金?」

「はい」

「お武家さまが商人あきんどの娘などを嫁に迎えてくれようハズもございません。

かと申しまして、このまま祝言しゅうげんを挙げずに父親てて無し子を産めば、娘のおゆきが余りにも不憫ふびんでございます」

「どうかおゆきを、先生のお傍に置いてやって下さいませ。御手付きにするなり、端女はしためにするなり、小間物使いの女中にするなり、京介先生のご随意に、どうぞ……」

 京介は困惑した。

「と、申されましても……」

 パッと平伏した徳兵衛は、畳に額をこすり付けた。

「な、なにとぞ」

「なにとぞ、娘のおゆきを、よしなに……」

 京介の返答、如何に?……と、聞き耳を立てていた町娘たちがバリバリと音を立てて襖ふすま)を突き破ると、

「うわあ―ッ!」

「きゃあーッ!」と、悲鳴を上げながら、どっと部屋の中に転がり込んで来た。

 おゆきと徳兵衛は、町娘たちの突然の出現に、又も腰を抜かせるほどに驚いた。

 それのみならず、娘たちの悲鳴と物音に驚き、勢いよく襖を開けて部屋に飛び込んで来た儀助にも驚かされたおゆきと徳兵衛は、次に発する言葉さえも失くし、腰を抜かした状態で、唯々(ただただ)、呆然としているだけであった。

―――

 小暮道場の門を出た町娘たちの表情は一様にして険しく、膨れっ面だった。

 憤懣遣る方無しの町娘たちは、口々に不平と不満をぶち投げながら、小暮道場を後にした。

「何なのよ? あれ……」

「信じられない」

「呆れてモノが言えないわ」

「あー、ヤダヤダ。もう幻滅よ」

「見損なったわ。憧れの人だったのに……」

「もう、やめようかな。踊りなんて……」

「そうね。何だか、やる気が失せてしまったわね」

「私、踊り習うの、やめるわ」

「私もやめる」

 可愛さ余って憎さ百倍の如く、完全に京介に裏切られたと感じ取った町娘たちは、すっかりやる気を削がれてしまっていた。

―――

料亭「とんぼ」の外塀は黒く塗られていて横に長く、玄関口は奥に深く入り込んでいた。表通りまで置かれている敷石には打ち水がされ、ほどよい高さで綺麗に剪定されている庭木の店先は凛としているだけでなく、気品と風格に溢れ出ている高級な佇まいの料亭であった。

若い女将とともに店先まで出て来た恰幅のいい中年男性は、身なりと貫禄からして、豪商の主のように見えた。

 番頭と思われる男と、待たせている駕籠屋の前で、客を見送る女将は媚びるような目と仕草で、男の袖を掴んだ。

「さびしゆうございます」

「月に一度の寄り合いでしか、お顔を拝見できないのでは……」

 男はにやけた顔で応えた。

「嬉しいことを言ってくれますねぇ」

「では、折りを見つけて、女将に会い来ることにしましょう」

「是非とも、そうして下さいませ」

「本日はお忙しい中を、ありがとうございました。どうか、お気を付けてお帰り下さいませ」

「では、失礼」

 男は待たせてあった四つ手駕籠に乗り込むと、大黒と書かれた提灯を持った番頭らしき男が駕籠屋の前に出て来て、足元を照らした。

「ささ、参りましょう」

 番頭に道案内をされた駕籠屋は、えいっ、ほいっ、えいっ、ほいっ、と掛け声も勇ましく、料亭から走り去って行った。

―――

駕籠屋と提灯を持った番頭が、小走りで幾つもの建物と辻を曲がった時だった。

 黒の宗十郎頭巾でまげを隠し、黒い布で口元を隠して目元だけを現わした一人の武士が、一行たちの前に立ち塞がった。

 驚いた番頭は、慌てて駕籠屋を止めると、及び腰で武士に聞いた。

「な、何者だ? お前は……」

 一行を阻止した武士は、落ち着いた態度で番頭に尋ねた。

札差ふださし、大黒屋文魚の駕籠か?」

「そ、それが、どうした?」

 武士は腰の刀のつばを指で前に押し出し、カチッと小さな音を立てると、夜目にもキラリと光るやいばを、番頭たちに見せた。

「助けてやる」

「命が惜しくば、この場から立ち去れ」

 二人の駕籠屋は悲鳴を上げて飛んで逃げると、番頭も提灯をほっぽり投げて、逃げる駕籠屋たちの後を追った。

 駕籠に乗っていた客は、覆っていた「垂れ」を上に捲り上げて外に出ると、怒りにも似た声で武士を一喝した。

「何事ですか!」

「大黒屋か?」

 豪胆な大黒屋は、狼藉者の武士を諭した。

「人に名前を聞く時は、自ら名乗るのが礼儀というものです」

それがし、名無しの権兵衛というものでござる」

「な、なんだって?」

「これ以上、問答無用!」

 素早く刀を抜いた武士はエイとばかりに袈裟懸けで斬りつけると、骨身を切り裂く鈍い音が暗闇の中に走った。

犬の遠吠えさえしない静まり返った町内に、大黒屋文魚の悲鳴が響き渡った。

「ギャア―――ッ!」

 武士の姿は直ぐに消えた。事件に気付いて駆け寄る人もなく、身動き一つしない大黒屋の死体の傍では、燃え残った提灯の火だけが僅かに動いていた。

―――

 東の空が白々と明るくなりかけた頃、朝早い江戸の町人たちは四つ辻の路上で死体の検分を行っている甚八と直治郎を遠巻きにしながら、多数の野次馬と一緒になって見守っていた。

 むしろの上に仰向けになって寝かされている大黒屋文魚の死体を間にして、直治郎と甚八の二人がしゃがみ込んで検分を行っていた。

「見事な腕前だ。その辺の町奴の腕では出来ぬ殺し方だ。下手人は侍と見ていいだろう」

「あっしも、そう思いやす。駕籠屋と一緒に逃げた番頭の話しによりやすと、賊は黒の宗十郎頭巾を被り目元だけを出したお武家さんのようで、『暗闇の中から突然に現れて襲って来た』と証言しておりやした」

 死体の近くに残された駕籠と、燃え残った提灯を見て、直次郎は小首を傾げた。

「大黒屋だけを襲ったとなると、新刀試し斬りの『辻斬り』では無なさそうだ?」

袖の中に手を差し入れ、中をまさぐって巾着袋を取り出すと、直次郎は中身を確かめるために、たなごころを左右に数度動かせて重さを確かめた。

「かなりの金が残っている。物取りの犯行でもなさそうだ」

 甚八も直治郎と同じようにして、小首を捻った。

「そうなってきやすと、恨みによる犯行でやしょうかねぇ? 札差ふださしに、この世から消えて貰いたいと思っている奴ぁ、江戸のカラスよりもまだ多いようでやすから……」

 直次郎は、おもむろに腰を上げた。

「……それならば、無駄な殺しだ」

「それは、なぜで?」

「この江戸の空の下には九十六人もの阿漕あこぎな札差がいる。札差の名の起こりは蔵米受取人の名札を蔵役所の『わらづと』に差したことによるが、九十六人の札差を全部殺すというのなら話は分かるが、一人や二人の札差を殺したところで、どうなるものでもない」

「やぶ蛇になるだけのことだ」

 二人の背後で、声がした。

「そうとも言えねぇぜ」

 二人が振り返って声の主を見ると、そこには京介が立っていた。

「なぜ、お前が? ここに……」

「暇だったから暇つぶしにぶらついていたら兄上の姿を拝見した。大黒屋文魚といえば、村田屋秀民、大和屋暁雨とともに、江戸畸人えどきじん、『十八大通』に名を連ねるお大尽で、三大札差の中の一人だ」

「札差ってぇのは、蔵米取りの旗本や御家人を相手に蔵米の受け取りを代行して手数料を得るだけでなく、金貸しを生業なりわいとしている人間だ。村田屋秀民と大和屋暁雨の二人を始末するだけで、残った九十三人の札差を全部殺ったことになるぜ」

 甚八はパンと片手を打って、感心した。

「なァる!」

感心する甚八の額を、直次郎は十手の先でコツンと叩いた。

「痛テッ!」

「感心している時ではない」

得意気に話した京介を、直治郎は険しい表情でたしなめた。

「言葉を慎め!」

「もし、村田屋が次に殺されることにでもなれば、手練れ者のお前が疑われてもおかしくはない。軽々しく札差殺しの話しをするな」

 直治郎の忠告を全く受け止めようとはせず、京介は軽く笑って応えた。

「なあに。そいつァ、要らざる斟酌しんしゃくってヤツだ」

「そう思っているのは、何もこの俺だけじゃねぇよ。江戸中の小うるさいスズメたちが、すでにそう感じ取っているぜ」

 クルリと振り返り、遠巻きに見物している野次馬たちに近づく京介の後ろ姿は、「粋でいなせ」な風体に見えた。脇差のように帯の後ろに差した一尺五寸ほどの長扇子は、江戸広しと言えども、京介くらいであった。

颯爽と去って行く京介とは逆に、直治郎は深刻な顔で見送っていた。幼い頃からよく兄弟喧嘩をしたが、血を見るような争いは一度として無く、口では互いに口汚くののしってはいたが、心の底から弟の京介を恨んだことは無い。京介の方もまたしかりであった。暇だと言って直治郎の前にぶらりと姿を見せたのは、『心配するな。道場は閑古鳥が鳴いているが、俺は元気でやっているぞ』との兄に対する心配りであると、直治郎は自分に都合よくそう感じ取っていた。

野次馬たちの中に京介が混じって消えていくのを確かめてから、甚八は聞いた。

「ご存じでやすか? 京介さんの噂を……」

「知っている」

「だったら、話しは早い」

「剣術を習うガキはおろか、踊りを習う娘さえも一人として道場には姿を見せていねぇようでがす」

「…‥困ったことよ」

「お腹の子も、認知なさったようでやすが?」

「京介のことだ。何かの事情が有ってのことだろう」

「あいつは最も礼儀正しく、最も高潔な男だ。そのような振る舞いをする男では決して無い」

「それが本当だとしたら、いいのでやすがねぇ?」

 直治郎はかなり強めで甚八の額を、持ち上げた十手の先でコツンと叩いた。

「あたッ!」

―――

 幾つも有る小窓の格子から朝の強い日射しが差し込み道場内を明るくすると、いつもは舞い踊る町娘たちの姿で手狭に感じられていた道場内も、今は誰一人として門弟たちの姿は見られず水でも打ったように深閑としていれば、無性に広く感じられるまでになっていた。

 道場の上座で老僕の儀助と並んで立っていた京介は、ぽつりと独り言のようにして呟いた。

「鳴く閑古鳥 門弟たちよ 今いずこ……」

「笑うに笑えぬ前句付まえくづけ〈現在の川柳〉でございます。いかにして成り立たせるおつもりでございましょうか? これからの生計を……」

「案ずることは無い」

「人間万事塞翁が馬。果報は寝て待てとも言う。そのうちに朗報が飛び込んでくるかも知れぬ」

「そのような悠長なことを言っている場合ではござりませぬぞ。少しばかりお話しがありまする。こちらへ来ては頂けませぬか?」と、儀助は険しい顔で半身を開いた。只ならぬ儀助の気配に驚いた京介は、案内されるがままに、黙って儀助の後に従った。

―――

 古びた水屋箪笥や炊事物などが雑多に置かれている台所まで京介を連れて来た儀助は、台所の隅で米が三斗さんとほども入る黒漆くろうるしで塗られた大きな米櫃こめびつの前に立つと、ゆっくりと蓋を開け、中を見るようにとアゴ先で京介をうながした。

 米櫃の中を京介が覗き込むと、箱の中は桐で作られていて白っぽく、底には僅かな量の米が残されていて、一升斗いっしょうますと一合斗が、米の上に無造作に置かれていた。

 儀助の表情は暗く、悲哀に満ちていた。

「よく持って、あと三日……」

「やめてくれ。その言い方……」

「まるで死期を聞かされているようだ」

 怒ったような京介の言い分に対し、儀助は険しい表情で言い返した。

「まるで、ではございませぬ」

芋粥いもがゆにして量を増やしたとしても、よく持ってあと数日……。武士は食わねど高楊枝では通じませぬぞ。ひたひたと足音を忍ばせながら確実に近づいておりまするぞ。死神は、もう、そこにまで……」

 横目でチラリと米櫃の底を見た京介は、怒りを込めて強く言い返す儀助に対し、表情を曇らせるしかなかった。

「……困ったものだ」

 不審顔で儀助は訊ねた。

「福田屋が差し出した支度金の五十両。なぜ、頂戴しなかったのですか? 例え一両でも……」

「暮らしの足しにしろってのか? 支度金を……」

「その通りです」

「バカなことを言ってくれるンじゃねぇよ」

「それでは、先代のお父上にも進言したことがあるのですが、家宝の刀をご処分なさっては如何でございましょうか?」

「おいおい。処分しろってのかい? 家宝の刀を……」

「はい。あの刀は安く見積もっても二百両は下らぬ代物。二百両もあれば朽ちかけたこの道場を普請するだけでなく、当分は食に腐心することもないということです」

「それは無理な注文ってやつだ」

「あの刀は先祖の功績によって、藩主から拝領した名刀だ。金が無くなったからといって、そう容易く処分する訳にはいかねぇのさ」

と、その時、裏の戸がガラリと開いて、医者の玄庵がヒョイと顔を出すと、煮炊きをする土間の「かまど」まで近づかず、水がめを置いてある出入り口近くで、立ち止まった。

「おう、ここにいなすったか?」

「表で呼んでも返事が無かったものでな。裏に廻って来たという次第じゃ」

 京介の表情が、パッと明るく綻んだ。

「いいところに来てくれました。指南役の件でお伺いしようと思っていたところです」

「おう、そのことよ」

 玄庵はパッと両手を合わせると、拝むようにして手を擦った。

「済まぬ!」

 玄庵は申し訳なさそうに、小声で言った。

「あの話しは無かったことにしてくれぬかのう?」

「!」

「この償いは、いずれ必ず……」

一瞬にしてすべてを悟った京介は、笑って応えた。

「承知致しました」

 そそくさと姿を消した玄庵の後を追うようにして土間に降りた京介に、儀助は怪訝な顔で聞いた。

「貧すれば鈍するという言葉のみならず、後ろ指を指されるやも知れぬというのに、どこへ行きなさるおつもりでしょうか?」

「どこへ行こうと俺の勝手」

「足の向くまま。気の向くままにおもむくだけだ」

 出入り口の戸の近くで急に思い出したように立ち止まった京介は、ムッとした顔でクルリと振り返ると、儀助を指差し強い口調で言った。

「諫言するのはいいが、後ろ指だけは大きなお世話だ! 放っといてくれ!」

台所から出て行く京介の後ろ姿を、儀助は心配顔で見送った。

「米がなければ、金も無い。当てにしていた仕官の口さえも消えた。京介さんはみっつとも無い『みっともない男』に成り下がってしまった。不機嫌になるのも……至極当然」

―――

 土を掘り起こす用具に風呂鋤ふろすきと呼ばれる道具があるが、一人の老婆が石積み造りで深さは腰ほど、横幅が三尺ほどの溝の中に入り込み、底に溜まっていたゴミや泥土などを風呂鋤ですくい上げては土盛りのようにして、溝の縁の路上に置いていた。

「近頃の若い者は……」

水掃みずはけが悪いからといって、こんな婆ァまで、こき使いおって……」

 ブツクサとぼやきながら溝掃除に励む老婆を通りかかった京介が目撃すると、ねぎらいの声をかけた。

「大変だね。およねさん」

「手伝おうか?」

掬い上げた泥土を路上にドサリと置いたおよね婆さんは、苦虫にがむしを噛み潰したような顔で応えた。

「断る!」

「なぜだ? こっちは親切で言っているのに……」

 怪訝顔で近づく京介を、鍬をサッと持ち上げ攻撃態勢に入ったおよね婆さんは、大きな声で威嚇した。

「近づくな!」

「!」

「ワシをはらまそうたって、そうはいかんわい」

「あ、あのな。婆さん……」

呆気に取られ、京介の開いた口が閉まらなかったが、それ以上は何も言わずに、参ったなぁといった感じで苦笑しながら、京介はその場から離れて行った。

―――

心の赴くままに通りを行く京介を目撃した町人たちは、あからさまに後ろ指を差しながら、聞こえよがしに面白おかしく噂話しに花を咲かせていた。

そんな悪評はどこ吹く風とばかりに全く頓着せず、ぶらりぶらりと一人歩きを続けている京介に、背後から声がかかった。

「センセ~~」

 振り返れば、門弟の「おきよ」が笑顔で立っていた。

 明るいおきよの態度を見ていると、悪評は未だおきよの耳に入っていないなと少しは安堵したが、兄の直治郎と共に、慌てて道場を後にしたおきよの姉の状況が気になった。

「身元確認のために、番屋に駆けつけたが……」

「どうだった?」

 屈託のない笑顔で、おきよは答えた。

「喜んで下さい。姉さんではなかったです」

「そうかい」

「死んだ人には悪いが、良かったじゃないか。姉さんじゃなくて……」

 おきよの表情が、一瞬にして曇った。

「それが……」

「どうした?」

「何か気掛かりなことでも、あったのか?」

 嬉しさと悲しさが綯い交ぜになったような複雑な表情を現わしながら、おきよは胸の内を打ち明けた。

「私、とても心配しているのです」

「よかったら、話してみな」

「自身番で見た死体は姉さんでなく、同じ仕事仲間だった『辰巳芸者』の『おしの』さんという人でした。姉さんは醤油問屋の長女として何不自由なく、習い事や稽古事をしていたのですが、芸事が高じて、以前から憧れていた辰巳芸者さんになったのはいいのですが、気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らず、いきを信条とし、『いなせ』と『きゃん』を誇りとするのが辰巳芸者だったはずなのに、姉さんはお酒と男に溺れてしまってすっかり身を持ち崩してしまい、やがては遊び人の清吉という人の口利きで、辰巳芸者から札差のおめかけさんになってしまったのです。私が心配しているのは、亡くなっていた『おしの』さんも姉さんと同じように、辰巳芸者から札差のお妾さんになっていることです。姉さんと『おしの』さんは顔と容姿が似ているだけでなく、境遇もまったく同じ立場でしたのでよく間違われていましたから、私、イヤな予感がしましたので、囲われ者の身だった姉さんの家を訪ねてみたのです。すると姉さんはいなくて、家は空き家になっていたのです。近所の人から状況を聞くと、かなり以前から、姉さんの姿は見かけていないというのです」

「悪い仲間の人が多い姉さんでしたから、私、心配で、心配で……」

「もう、どうしていいのか、分らなくて……」

一気に話し終わったおきよの目から、ボロボロと大粒の涙が頬を伝って落ちていった。

「遊び人の清吉ってのは、分かった」

「……で、姉さんをお妾さんにした旦那は、何をやっている人だ?」

「札差です」

「札差?」

「はい」

「名前は?」

「村田屋秀民です」

「!」

 先日、何者かによって闇討ちに遇って殺害されたのは、三大札差の中の一人の大黒屋文魚だった。札差、村田屋秀民に囲われの身でありながら、行方知れずになったおきよの姉の「お仙」とは目下のところ何の繋がりも無かったが、札差の名前が立て続けに出てきたことが、京介には妙に引っ掛かるモノがあった。

「……札差か?」

腕組みをしたまま暫く考え込んでいた京介は、おもむろに口を開いた。

「おきよちゃん」

「はい」

「姉さんの件だが、この俺に任せてみる気はねぇか?」

「えッ?」

「ワケ有って、今の俺はヒマだ」

「無理強いはしない。おきよちゃんにその気が無ければ足を突っ込む気はこれっぽっちも無い。安請け合いの言葉だけでおきよちゃんを安心させようとしている訳でもない。どこまで詮索できるか分らねぇが、少なくとも、姉さんの行方が分からなくなった理由くらいまでだったら、なんとか辿りつくことができそうだ」

 パッとおきよの顔がほころんだ。

「ほ、本当ですか?」

「可愛い門弟が涙を流して困っているのだ。トコトン探ってやってやるぜ」

 目を潤ませていたおきよは、思いもよらなかった京介の救いの言葉に、深々と頭を下げた。

「あ、ありがとうございます」

―――

 夜の料亭「とんぼ」の店先では、若くして気品と風格が感じ取れとられる美貌の女将が、身なりと風体からして豪商と思われる初老の男性客を送り出していた。

「物騒な世の中になってきました」

「先日は大黒屋さまが物取りでも無い賊に襲われてお亡くなりになっています。どうか、お気を付けてお帰り下さいませ」

 初老の男性客は、鼻でせせら笑って応えた。

「なあに。心配には及びません」

「人さまに恨まれるようなことは何一つとしておりませんし、もし、物取りであれば、有り金をぶち投げて逃げ出しますよ」と笑いながら、待たせてあった駕籠に乗り込んだ。

 逃げ出すと言った言葉とは裏腹に、ごろつきと思われる二人の男が駕籠を担ぎ、前後と左右を護衛する合計六名の男たちが、駕籠かき男たちの掛け声と共に料亭「とんぼ」から去って行った。

―――

 駕籠先に取り付けられた提灯の明かりだけが頼りだった。駕籠かきの男たちは掛け声をあげながら、暗闇の中をゆっくりと走って行った。

 エッホ、エッホ、エッホ……。

 札差・大黒屋を襲った時と同様に、黒の宗十郎頭巾でまげを隠し、黒い布で口元を隠し目元だけを現わした一人の武士が、一行たちの前に立ち塞がった。

「札差、村田屋秀民の駕籠か?」

 突然の黒頭巾の登場に、駕籠かきの男たちと前後左右を護衛していた男たちが駕籠の前に出ると横一線になって、駕籠の中の人物を警護した。

 駕籠かきの一人が、黒頭巾の出現を予期していたようにほざいた。

「出やがったな!」

 駕籠の垂らしを目繰り上げ、駕籠の中から初老の人物が出てくると、黒頭巾の男に尋ねた。

「何者だ?」との問いに、武士は聞き返した。

「村田屋秀民か?」

 村田屋は小首を傾げた。武士に見覚えが無かったのだ。

「見知らぬお方のようですが、私の名を聞いてどうなさるおつもりで?……」

天誅てんちゅうを下す」

「な、何ですと!」

「万民塗炭の苦しみにもかえりみず、蓄財した財を他に流動することもなく、奢侈しゃしおぼれるさまは目に余り、悪辣あくらつなる所業、まさに外道なり」

「勤も無く、労も無く、自らこの世に何ら産を為さずして、金の亡者となりせし札差を、天に代って成敗いたす」

武士は一気に大刀を抜いた。

「覚悟せよ!」

 村田屋秀民は鼻でせせら笑うと、吐き捨てるようにして言った。

「しゃらくさい」

「腹を空かせた食い詰め侍が、利いた風な口を叩きおって……」

 一歩身を引いた村田屋は、ごろつきたちに命令した。

「野郎ども、殺っちまえ!」

「おう!」

 匕首あいくちを引き抜いたごろつきたちは、黒頭巾の武士に向かって一斉に斬りかかっていった。

「これでもくらえ!」

「くたばれ!」

暗闇の中で悲鳴とともに肉と骨を斬られる音が次々と響き渡り、勝負は呆気なくついた。武士に向かって突き出した片腕は、骨が見えるほどに斬られただけでなく、肩や脇腹などを斬られたごろつきたちは武士の手腕に恐れをなし、互いに助け合いながら、這う這うの体で、その場から逃げて行った。

 あっという間の惨劇に仰天した村田屋は、慌てて逃げ出したがその甲斐も無く、板塀を背にするほどまでに、武士に追い詰められていた。

「か、金はやる!」

「た、助けてくれ!」

 哀願する村田屋の左胸に、大刀が深くグサリと突き刺さった。

「ぐわ―――っ!」

胸に突き刺した大刀の勢いは凄まじく、村田屋の胸とともに後ろの板塀を突き破るほどであった。武士は村田屋から刀を一気に引き抜くと、村田屋はその場にバタリと前に崩れ落ち、身動き一つしなくなった。

 ふところ内に所持していた紙を取り出すと、大刀の血を拭き取った武士は、静かにその場から立ち去って行った。

―――

 翌朝。

大刀で胸を一撃された村田屋の死体は路上に敷かれたむしろの上で仰向けになって寝かされていて、直治郎と甚八の二人が死体の両側でしゃがみ込み、入念に死体の検分を行っていた。

「村田屋に雇われた破落戸ごろつきどもの話しでは、料亭『とんぼ』の帰りに、黒頭巾で顔を隠した男に襲われたそうです。正に『とんぼ帰り』ってやつですね」

「仏さんを前に、揶揄からかいの言葉は控えろ」

「申し訳ありやせん」

「見てみろ。心の臓を一突きだ。下手人は物取りではなく、大黒屋文魚と同様に、札差、村田屋秀民を狙った同じ人物の侍と見て、まず、間違いはないだろう」

「……だとすると、京介さんが仰っていた通りの展開になってきやしたね?」

 すっくと立ち上がった直治郎は、遠巻きで死体検分を見物している野次馬たちの一人一人を吟味するようにして、各自の顔を丹念に確かめていった。

「……何を、お探しで?」

「京介だ」

「京介さんが、どうかしやしたのですか?」

「下手人は犯行現場に戻って来ると言われている。以前に京介が推測していた話などから察すると、今、いの一番に疑われてしかるべき人物は手練てだれ者の京介だ。あの野次馬たちの中に京介がいないことを心の底から願っている」

「なあに」

「心配なさることなんてこれっぽっちもありやせんぜ。京介さんが二人の札差を殺す理由が、とんと見当たりやせんぜ」

「理屈ではそうだが、現実は甘くはない」

「福田屋の娘の腹が膨らんでしまったことで京介の評判はガタ落ちだ。弱り目にたたり目ってやつだ。相手が弱っているのを知ると、寄ってたかって叩き落とそうとするのが、この世の常だ。京介が無実であろうがそんなことに頓着は無い。札差を殺す理由なんてぇのは、後から幾らでも付け足せられるものだ」

 背伸びをしたり、身をくねらせるなどをしながら直治郎は、野次馬たちの中の京介の存在を確かめていた。

―――

幕府や藩が法令・禁制などを民衆に周知させる為に、人通りの多い町の辻や橋のたもとに、横長の板札に墨書で、「定」の一文字から始まり、最後は「奉行」の名を記載して締めくくられている高札こうさつが設置されているが、立ち止まって読む通行人たちの姿はほとんど見られず、京介一人だけが立ち止まって読んでいた。

 京介の背後で声がした。

「先生」

 振り返ると、着流しですらりと背が高く、精悍な顔立ちの若者が笑顔で挨拶をした。

「ご無沙汰をしております」

「お久し振りですね。弥太郎さんとお会いするのは何年振りになるでしょうか?」

「京介先生に『新内流し』の三味線を習って以来のお顔拝見ですから、かれこれ、五年か六年くらいにはなると思います」

「もう、そんなにも?」

 弥太郎は京介の横に並ぶと、呆れた顔で高札の文字を見た。

「まったく、お上ってぇのは、どうしてこう読めねぇ字を並べたくるのがお好きなんでしょうかねぇ?」

「この俺で良ければ、読んで進ぜましょうか?」

「ありがたいです。お願いします」

「一つ、夜、ここのつより往行おうこうの者、町送りにいたし申すべくそうろう。もし胡散うさんなる者これあり候わば詮索いたし、火付けがましき者か、又は、盗人がましき候わば、早々、番所へ召し連れ参るべき候事そうろうのこと

「ようするに、胡散臭い者には、番の者が改め町送りにする、ということです。しょっ引くということですよ」

 京介の頭の天辺から爪先までを舐めるように見つめると、弥太郎は苦笑した。

「胡散臭いといえば、腰の後ろに長扇子を差してほっつき歩いている京介先生が、一番にしょっ引かれて行かれそうですよねぇ?」

「いやいや、他人ひとのことは言えませんよ。言っては悪いが弥太郎さんも、私と同様にかなり怪しき人物に見えますので……」

「いやはや、これは参った。ごもっともだ」

二人は改めて互いの容姿を見つめ直すと、大きな声で笑い合った。

高札を離れて振り返ると、広い通りには「お休み処」のお茶屋が京介たちの目に入った。

店は平屋の横長造りで、店先の軒の下には一畳ほどの大きさの白地の幕が三枚縦に並べられていて、布の上部の二カ所を軒下に紐で括り付け、下部の二カ所は石に括り付けて固定されてあり、白地の幕には「だんご」「あま酒」「おでん」の文字が大きく書かれていた。

店の前には赤く大きな日傘が三つ設置されていて、日傘の下には横長の縁台が置かれ、縁台の両側には赤い毛氈もうせんが敷かれた腰かけ用の縁台があった。

小粋で洒落た感じの店である。貧すれど、団子を馳走できるくらいの小銭なら持っている。懐具合を勘定した京介は、気軽に弥太郎を誘ってみた。

「実はお訊ねしたいことがありましたので、弥太郎さんのお住いが在るここまで足を伸ばしたという次第です。先ずは一献、杯を傾けながら、といきたいところですが、流石に昼の陽中の酒では気が引けます」

「あのお団子屋さんで、いかがでしょうか?」

「いいですねぇ。同感です」

快諾した弥太郎は、京介とともに茶店に向かった。

―――

縁台を挟んで弥太郎と京介が毛氈の台に腰かけていると、急須と煎茶の入った二つの茶碗と串刺しの団子を盆に乗せ、店の親父が二人の元に運んで来た。

 親父は弥太郎の前に、優しく皿を置いた。

「こっちのお客さんは『みたらし』で……」

 親父は顔をしかめながら、手荒に京介の前に団子の皿を置いた。

「お前さんは『女たらし』なんだよ!」

一瞬、険悪な空気が流れたが、京介は全く動じることもなく、にっこり笑って頷くのを目撃した弥太郎は、店に戻って行く失礼な親父の後ろ姿を見ていると、眉間にシワを寄せずにはいられなかった。

「何だ? あの横柄な態度は……」

「こっちは客だ。ガツンと一発、ぶちかましてやればいいンですよ」

怒る弥太郎を、京介は笑顔でなだめた。

「いいンだよ。あれで……」

「既にご存知ではないのですか? 弥太郎さんも俺の噂を……」

 弥太郎は頭を搔きながら、苦笑した。

「ええ、まあ、商売柄、多少の事は……」

急須から茶碗に二人分の煎茶を注ぎながら、京介は訊ねた。

「客に声をかけられると座敷へ上がり、三味線で新内節を語って聞かせることを生業なりわいとしている弥太郎さんならよく知っているハズだ。『遊び人の清吉』という男に合いたい。居場所を教えてくれないか」

「それは無理な注文ってやつです」

「……なぜ?」

「履いて捨てるほどとまでは言いませんが、遊び人の清吉ってのは、両手足の指を使ってもまだ足りません。大工や左官で奉公していても、日銭稼ぎの手伝いでしたら遊び人扱いです。何か他に手掛かりになるようなモノは無いのですか?」「辰巳芸者だったお仙さんと、親しい間柄だそうだ」

 弥太郎の顔が綻んだ。

「それでしたら、一人だけ心当たりがあります」

「!」

「恐らく小便組の清吉のことだと思います」

「……小便組?」

「そうです。小便組です。手水ちょうず組とも呼ばれています」

「何ですか? それは……」

「着物の帯をぐるりと巻くところから、示し合わせて企みを為すことを『グル』と呼びますが、妾になった女とグルになり、妾奉公先で旦那から搾れるだけ搾り取り、見切りをつけたところで『寝小便』をします。旦那に『これが私の病です』と言って、二、三回も続けて寝小便をしますと、大抵の妾は暇が出てお払い箱になってしまいます」

「前金を貰った上に手切れ金をたっぷりとせしめ、またぞろ次の旦那を鼻の利く清吉が捜し出す寸法で、それで『小便組』とか『手水組』と言われているのです」「しかし、まあ、よくやるものですよねぇ。『小便組』の連中は……」

 お仙によく似た辰巳芸者で、おしのという名の芸者が掘割りの水面に浮かんでいたのをおきよから聞いていた京介は、持っていた茶碗を縁台に置くと身を前に乗り出して訊いた。

「その連中の中に、辰巳芸者で『お仙さん』とよく似た『おしのさん』って人はいたでしょうか?」

「ええ、いましたよ」

「!」

「お仙さんと同様に、札差のお妾さんになったという噂です」

 京介の顔が一気に綻んだ。今まで小さな疑問の点だったモノが弥太郎の言葉で、細い一本の線が浮かび上がり、点と点が僅かに繋がれた思いであった。

「お仙さんの妹さんが、姉の行方が判らないと心配しています。お仙さんはその身をどこに隠したのか、心当たりは無いでしょうか?」

 みたらし団子を食べ乍ら、あっさりと弥太郎は応えた。

「知っていますよ。お仙さんの居場所でしたら……」

「ど、どこでしょうか?」

「船宿です」

「……船宿?」

「辰巳芸者ってのは『いなせ』と『きゃん』を誇りとする気質がウリですからね。お仙さんは辰巳芸者としては、もう、元には戻れなくなってしまった立場ですので、お酒のしゃくや遊びの相手をする茶屋女ちゃやおんなとして、『相模屋』という船宿にいます」

「ことのついでに尋ねますが、清吉がよく出入りしている店とか賭場は判りませんかね?」

「判りません。先生がお尋ねの『遊び人の清吉』ってのは、世間が噂するほどの大物ではなく小物です。大物はじっくり練ってから悪事を働きますが、小物ほどカッとなれば何をしでかすか判らないものです。ですから、運よく清吉を見つけ出したとしても、決してあなどらずに用心して掛かって下さい」

 弥太郎の情報のお陰でお仙の行方は判った。少しは安堵したが同じ妾奉公で掘割りの水路に浮かんだおしのの事が気に掛かる。後は「相模屋」でお仙の生死を確かめ、妹のおきよを安心させてやるだけだ。皿の上に残されていたみたらし団子に手を伸ばしながら、先ほどから気になっていたことを単刀直入に聞いた。

「弥太郎さんは新内流しをするほどの人物です。本当は文字の読み書きが出来て、立て札を読むためにここに来たのではないのですか?」

 怪訝顔で問う京介に対し、弥太郎は笑いながら軽く答えた。

「文字が読めれば苦労はしません。先生の後ろ姿が独特で、遠くからでも直ぐに気付きましたから近づいただけのことです。それに、とぼけるようなそんな七面倒臭いことをする理由が、この私には無いじゃないですか」

「それも、そうですね」と納得した京介は、苦笑しながら団子を口に近づけた。

―――

茶屋と船宿を兼ねている「相模屋」は派手に客を呼び込む店ではない。大きな屋敷の横塀は黒く、玄関先の間口は広いが通路の両横に沿って奥まで低木が多く植え込まれ、店先には「相模屋」と黒墨で書かれた五尺ほどの大提灯が吊り下げられているだけの、ひっそりとした佇まいの船宿であった。

 相模屋の裏側は掘割りに続く水路となっていて、茶屋を待合場所として利用する客たちのために、送り迎え用の猪牙船が数隻、横付けにされていた。

 二階の窓際に腰をかけ、手摺りに片肘かたひじを乗せた三十路に近い洗い髪の女が夜風に髪を晒し、水路に浮かぶ猪牙船と水面で揺らぐ満月を眺めていると、部屋の中では清吉が小さな膳を前にして、皿に乗せられた小魚を酒の肴に、手酌で酒を呑んでいた。

「随分と捜したぜ」

 お仙は外の景色を見ながら、吊れない素振りで呟いた。

「フン!」

「ご苦労な、こって」

「逃げ出せば元も子もねー、からっ穴だってぇのに、なぜ、逃げた?」

「逃げたワケじゃないよ。お客相手の茶屋ここが恋しくなっただけのことさ」

「なぜ、俺のところに戻ってこねぇ?」

「野暮なことを聞くんじゃないよ!」

「もう、あんたとは二度と関わりたくなかったのさ!」

「!」

 ぐっと怒りを押さえた清吉は、手酌で自嘲気味に徳利を傾けた。

「なあ、お仙」

「おめえが茶屋ここであくせく働いたところで、一年で一両ためるのがせいぜいだ。だが、妾になりゃあ、支度金と手切れ金でかなりのカネが稼げるんだ」

「そう、へそを曲げずに、もう一度、旦那を取らねぇか?」

 吃ッとした表情で、お仙は初めて清吉を見た。

「お断りだね」

「!」

「いくら辰巳芸者だからといえど、三十路みそじを過ぎれば遣手婆やりてばばァに身を落とすのが目に見えていた。若いうちが花だと思い、あんたの誘いに乗ってしまったのが運の尽き。今さら後悔しても後の祭りだが、仕方がないことさ。だが、あたしゃぁ、もう、金輪際あんたと組むのはお断りだからね」

「……」

「帰っとくれ!」

 猪口を膳に戻した清吉は、お仙をなだめるために、畳を這いながらジワリとにじり寄って来た。

「そう、んがるな」

 お仙の口調は以前に増して強く、近寄る清吉に吐き捨てるようにして言った。

「どうしてもやりたいのなら、他の女と組みな!」

「俺とは組めねぇってのか?」

「ああ、組めないね!」

「なんだとぉ?」

「あたしゃあ、あんたと組んで初めて知ったのさ。女ってのは選んだ男によって、般若になれれば、菩薩にもなれるってことをね」

「けっ、おきゃあがれ!」

 血相変えた清吉は、手摺りの縁台に腰かけていたお仙の片腕を掴むと、強引に引きずり降し、部屋の中ほどまで引き連れてきた。

「大人しく聞いてりゃあ好き勝手なことをほざきやがって、四の五のぬかさず、黙って俺のいうことを聞きやがれ!」

「ふ、ふざけんじゃないよ!」

「小便して逃げるなんざあ、蝉のやることだ!」

「て、てめーッ!」

 清吉の握り拳がお仙の左の頬をガツンと直撃すると、お仙は醜く顔を歪めながら大きく吹っ飛び、ぶっ倒れたお仙の上に素早く馬乗りになった清吉は、情け容赦なく平手打ちでバシバシとお仙の左右の頬を殴り続けたが、勝気なお仙は殴られながらも、まったくおびえることもひるむことはなく、言い返した。

「あんただね!」

「おしのさんを手にかけたのは!」

「そうとも」

「こうやって、な!」

 お仙の首を両手で掴むと、清吉は力を込めて絞めにかかった。

「てめーもおしのと同様に、ここから外の水路に浮かべてやるぜ!」

「くたばりやがれ!」

 苦痛にお仙の顔が歪んだ。

「うぐ、うぐぐぐ……」

 勢いよく戸襖とぶすまを開けて部屋に飛び込んで来た京介は、お仙に馬乗りになっている清吉の横腹を蹴り上げた。

「うげッ!」

 大きく吹っ飛んだ清吉は、素早く起き上ると懐に忍ばせてあった匕首あいくちを抜いた。

「だ、だれだ! テメーは!」

「クズに名乗る名前は、持ち合わせていねー」

「ふざけやがって! ぶっ殺してやるぜ!」

「殺れるものなら、殺ってみろ」

「この野郎!」

胸元を狙ってグイと突き出してきた匕首あいくちからヒョイと軽く身を交わし、手刀でバシッと手首を叩いて匕首を落とさせた京介は、みぞおちを殴りつけると、身を丸く屈めて下を向いた顔面に、下から強烈な一撃を見舞った。

 大きく仰け反った清吉の顔面に、凄まじいまでの横蹴りを一発食らわせると、清吉はみにくく顔面をゆがめながら大きく吹っ飛び壁に激突し、その場にぶっ倒れて、身動き一つしなくなった。

「口ほどにも無い奴だ」

 気絶したものと勝手に思い込み、安心して清吉に近づいて行ったのが大間違いの元だった。ドガッと足元を蹴りつけられ、ドッと倒れた京介の顔面に、素早く立ち上がった清吉の蹴り足が見事に入った。

 部屋の障子を突き破り、廊下まで転がった京介を見定めることもなく、清吉は窓の縁台から勢いよく外に飛び出すと、猪牙船ちょきぶねが浮かぶ水路に消えた。

「いや、参った。俺としたことが……」

 自嘲気味に頭を搔きながら部屋に戻ってきた京介は、未だブクブクと泡立っている水面を確かめると、清吉と同様に、足から水路に向かって飛び込んだ。

―――

 満月といえども水の中は暗い。清吉がどこら辺にもぐっているのかが判らなかった京介は、月明かりを手掛かりに何度も潜っては浮かびを繰り返し、行方の判らぬ清吉を捜していた。

 相模屋の店裏は狭い通路の船着き場になっていて、一間ほどの長さの裏木戸の突っかえ棒を手にしたお仙が、息継ぎで清吉が浮かんでくるのはこの辺りと見当をつけ、今や遅しとばかりに、浮かび上がって来る清吉を待っていた。

「プハッ!」

水面から顔を出したのは、京介だった。

「なんだい? あんただったのかい」

 お仙は、僅かに場所を変えて移動した。

 偶然とは恐ろしいもので、お仙が立ち止まった場所の前で清吉が顔を上げた。

「プハッ!」

 パッとお仙の目が輝いた。

「出たね、頓痴気とんちき!」

「これでも喰らいな!」

 お仙が片手を伸ばして強く振り降ろした突っかえ棒の先端が、ゴツンと清吉の左のひたいを直撃した。

「あたッ!」

 清吉から離れた場所で顔を上げた京介はその光景を目にすると再び潜り込み、痛さで顔を歪めながら頭部の出血を手で確かめている清吉の横に、ガバッと勢いよく浮かび上がると、「あっ!」と驚く清吉の顔面に、強烈な握り拳をお見舞いした。

―――

 自身番の引き戸がガラッと勢いよく開くと、荒縄で後ろ手に縄で縛られた清吉が尻を蹴りつけられ、無様な格好で土間に転がり込んできた。

 ―――自身番とは番屋のことで、一町ごとに一番屋が設けられ、嘉永三年には江戸には九九四軒もあり治安もよかった。番屋は普段は家主二人、番人一人、店番二人の五人で、昼間は半減して、二人から三人。小さな町内では家主、番人、店番各一人の三人であった。仕事は町触(まちぶれ)の伝達や火の番が主であり、交代で町内を巡回し、不審な人物がいれば、捕らえておいて(まわ)り方同心に引き渡した。また、番屋は、同心が不審者に対し、取り調べを行う場所にも用いられていた。

 運よく番屋に甚八が居合わせていた。土間に転がり込む清吉の後から、ヒョイと姿を現した京介を見て、甚八は驚いた。

「どうか、なすったのですかい? この男が……」 

「おしのさん殺しの下手人だ」

「な、何ですって?」

 眼のふちに青アザと額に大きな「たんこぶ」を作り、腹這いになって大きく身を反り返した清吉は、上がりがまち付近にいた甚八を見上げると、必死の形相で強い口調で訴えた。

「濡れ衣だーッ!」

「縄を解いてくれーッ!」

 土間に降りた甚八は、怪訝な顔で京介に伺いを立てた。

「濡れ衣だと、言っておりやすが?……」

「悪あがきしているだけの小悪党だ。詳しい話しは、おきよちゃんの姉さんのお仙さんから聞いてくれ。相模屋ってお茶屋にいる」

「判りやした。そういたしやしょう」

 冗談じゃないと血相変えた清吉は、哀願することを忘れて、甚八に命令した。

「早く縄を解きやがれッ!」

「俺を下手人に仕立て上げようとしているのが、テメーには、この野郎の魂胆が判らねーのかッ!」

 フンとばかりに鼻でせせら笑いながら、清吉を無視した甚八は京介に近づいた。

「ギャーギャーと、うるせー野郎でやすね?」

「まるで、五月の蝿のようだ」

「ようがす。あっしが静かにさせやしょう」

 甚八は腰に差していた十手を抜き、清吉のたんこぶを勢いよく叩くと、ブニュと鈍い音がした。

「ウギャアーッ!」

 絶叫する清吉を、甚八は物凄い形相で怒鳴りつけた。

「大人しくしやがれ!」

 激痛でバタつきながら清吉は、涙目になって言い返した。

「で、できるか―――!」

「ジタバタするねー。ホコリが立つぜ」

 身を反り返し、痛さでバタつく清吉の背中をドンと強く踏みつけながら京介に近づいた甚八は、口を耳元に近づけて囁いた。

「世の為、人の為です。いつ、殺るのですか? 三人目は……」

「……何のことだ?」

「京介さんじゃねぇのですか? 札差殺しの下手人は……」

 京介は甚八の顔を下から覗き込み、十分に間を溜めてから返答した。

「……兄には、事後報告にしてくれ」

「へい。分かりやした」

「殺るのは、明日の晩だ」

「ええ―――ッ!」

 甚八は青ざめ、大きく狼狽した。

「あ、あっしは、冗談で言いやしたのにぃ……」

「心配するねー」

「冗談だよ。この俺も……」

 甚八がこれほどまでに驚くとは京介は予想もしなかった。してやったりと思いながら背を向けた京介は、湧き上がってくる笑いを噛み殺しながらほくそ笑み、「あばよ」と軽く片手を上げると、足も軽やかに番屋から出て行った。

―――

 この夜の道場の門前の儀助は平常とはいささか行動が違っていた。ふらりと道場から出て行った京介が、夜五つ戍の刻(午後十時)になっても戻らずにいた。京介の身を案じたからの理由で提灯を持ち、京介の帰りを待っていた訳ではない。来客に差し出すお茶の葉も無く、寡黙とは言わないまでも来客の話し相手になるのが苦手だった儀助は、京介を捜しに行って来るという名目で表に出て来ただけのことだった。屋敷を空にしたからと言って案じることは何もない。入って来た泥棒が呆れるほどの貧乏な道場であったからだ。

 ふらりと戻って来た京介が、退屈している儀助の前に立った。

「わざわざ、お迎えか?」

「今まで、どこをほっつき歩いていたのですか?」

「垂らしていたンだよ。若い女の人を……」

 片足を軸にしてクルリと一回転した京介は、歌舞伎役者が大見栄を切るようにして、見栄を切った。

「恋のいろはに ほの字を書いて それで浮き名の ちりぬるお」

「何を、ワケの分らんことを言っているのです?」

「とっとお入り下さい、中へ……」

「どうした? なぜに俺を、そう急かす」

「来客です」

「……来客?」

「ええ……」

「誰だ?…」

「戻れば分かります。早く奥座敷にお戻り下さい」

「わかった」

 こんな時刻に道場を訪れる客に心当たりは無い。はて、誰だろうと小首を傾げながら京介は、儀助とともに道場に戻って行った。

―――

 奥座敷といえば聞こえはいいが、小暮家の奥座敷は居間の奥にある座敷のことであり、居間との仕切りの欄間も豪華な彫でなく、単調な彫の欄間であった。床の間には掛け軸どころか生け花一つ活けられておらず、床脇の天袋の下の違い棚にも飾り物は何一つとして置かれていなかった。実に殺風景な奥座敷だった。

 中肉中背で白髪交じりの町人が、下座で京介の前でかしこまって座っていた。

「先生はご存じではないと思われますが、江戸・三大札差と称された者の内の二名がすでに殺害されております。残された一名の大和屋暁雨が身を案じ、何らかの策を講じるのは至極当然の話しでございます。出来ますれば、今からでも私と共に大和屋暁雨の屋敷に馳せ参じて頂きたいのですが……」

「駄目でしょうか?」

京介は当惑した。

「急に言われましても、ねぇ……」

 金の無い時の貴重な仕事の依頼だが、二の足を踏むのも無理は無い。札差とは蔵米取りの旗本や御家人を相手に、蔵米の受け取りを代行して手数料を得るだけでなく、金貸しを生業なりわいとする人間だ。十日に一割の利子のトイチまでとはいかずとも、大和屋暁雨の取り立ては凄まじく、悪行極まるとのちまたでの評判である。武士は食わねど高楊枝たかようじと綺麗ごとを言っている場合ではない。暮らしは明日の飯さえ心配するほどに切羽詰まり、赤貧洗うが如しの日々を送っている。背に腹は代えらぬほどまでに切迫しているのだ。金は喉から手が出るほどに欲しい。渡りに船とはこのことだ。さりとて、この仕事を待っていましたとばかりにあっさりと引き受けていいものか。さて、困ったものよと京介が、腕組みをするほどまでに思案していると、男は急き立てるようにして迫ってきた。

「金を借り入れば、それを返すのが人間しての道理。それなのに、借金を返せぬ賊は、逆恨みをして襲って来ているのです」

 ふところから袱紗ふくさを取り出して広げた男は、包まれていた一枚の一両小判を京介に見せた。

「どうかこれで、私どもの主、大和屋暁雨を守ってやって下さりませぬか」

 金子を見た京介は、唖然となった。

「……お安い、お命ですね?」

「江戸・三大札差と称されたお方が、僅か一両で命を守ってくれと?……」

 番頭と思われる男は、京介の問いに対して、空かさず切り返してきた。

「こちらの足元を見て仰っているのでしたら、先生は思っていた以上に商売上手なお人のようですね?」

「いや、いや、そういう事では有りません。僅か一両の値打ちの命なのかと感じたものですから、つい、口が滑ってしまっただけのことです」

 男は京介を諭すように、物静かに言った。

「安いと思われるのは尤もなことですが、賊が大和屋暁雨を襲撃して来る日が、今夜なのか、三日後なのか、十日後なのか分かりません。故に、すでに何名かの者を雇い入れておりまして、それに掛かる費用がいかほどになるか見当がつきません。ですから、先生にお渡し出来るのが、このような金額になったという次第でございます」

 金は欲しいが断る理由が出来た。これ幸いにと京介は断った。

「では、その方たちに、大切な命を守って貰って下さい」

「私の出る幕ではありませんので……」

 拒絶する京介に、あっさりと引き下がるような男ではなかった。

「烏合の衆とは言わないまでも、今、雇い入れている者だけでは心もとないのです。是非、先生に加わって頂きたい。京介先生が加わって下されば『鬼に金棒』『虎に翼』『竜に翼を得たる如く』でございます」

 見え見えのおだてに乗るような軽い京介では無かったが、男の話しを聞きながら、この仕事は本来ならば定廻り同心の兄の直治郎が昼夜に関わらず、大和屋を見張っていなければならないと思ったが、いつ現れるかも知れぬ賊をいつまでも見張り続けているほど兄の仕事はヒマではない。遠目であったが野次馬とともに大黒屋文魚の死体を目撃した。一太刀で大黒屋を仕留めている。仮に兄が大和屋を見張っていたとしても相手は凄腕の剣の達人。同心といえども、兄・直治郎の腕前ではハッキリ言って返り討ちに遭ってしまうのがオチである。ならば、これを機会に大和屋に入り込み、兄に代って賊を成敗すれば、正に一石二鳥。一度は断った依頼であったが、てのひら返しで京介は快諾した。

「その依頼。お引き受け致しましょう」

「えッ」

「い、一両しか、お渡しすることが出来ませんが?……」

「お金の多少ではありません」

「札差といえども人の子です。生きる権利ってモノがあります。引き受ける理由はそれだけでなく、このまま人殺しを放置しておくワケにはいかないということですよ」

 一気に崩れるほどに、男の顔がほころんだ。

―――

 道幅の広い表通りには火避け壁の「うだつ」が上がった大店が軒並みにずらりと建ち並び、その中の一軒で二階の屋根に「大和屋」の看板が乗った店の表木戸を、黒の宗十郎頭巾でまげを隠し、黒い布で口元を隠して目元だけを現わした一人の武士が、深夜にも関わらずドンドンと音を立てて叩いていた。

 店の中から男の声がした。

「どちらさまで?……」

「かかる夜分に恐れ入るが、当家にて食客しょっかくを募っていると伺ったゆえ、火急に参った次第でござる」

「さようでございますか。少々お待ちを……」

 突っかえ棒を外して手代の男が小さな木戸を開けると、身をかがめて中に入ってきた武士は、腰の大刀から半身を抜いてグイと前に突き出し、つかかしらで男の鳩尾みぞおちを突き上げた。

「うげッ!」

 身を丸めて頭から床にぶっ倒れた手代の物音に気付いた二名の浪人が、パッと店の奥から姿を現した。

「きおったか!」

「けっ! 命知らずめ!」

 武士は一喝した。

「貴様らに用はない!」

「退けい!」

 剣を抜きながら勢いよく床に降りて来た二人の浪人は、大きな掛け声とともに、武士に向かって斬りつけたが、勝負は一瞬にして決まった。

 二人の浪人に襲われた武士は、上段から斬りつけてきた浪人の胴を「抜き胴」で斬ると、返す刀で残りの浪人を「袈裟懸け」でぶった斬った。

 大刀を手にしたまま武士は、土足で床を駆け上がると無人の帳場を通り、奥の部屋に向かって走って行った。

―――

 提灯が不要なほどの月明かりであったが、手代の男は京介の足元を照らしながら道案内を続けていた。

「申し訳ございません。急に無理なお願いをしてしまって……」

「なあに。気にすることなんてありませんよ」

 手代と共に大和屋の近くまできた京介の足が、ピタリと止まった。

「!」

 大和屋の表木戸の脇の小さな木戸が開けっ放しになっていて、店の中から外へ、明かりが漏れていた。

「木戸が開いています」

「えっ?」

「すでに賊が侵入しているのかも?……」

「そ、そんな……」

「番屋に知らせて下さい!」

「私は店に向かいます!」

 青ざめてその場に呆然と立ち尽くしている手代の男を京介は、大きな声で急き立てた。

「早く!」

「は、はい!」

 手代は京介に背を向けて走り出し、京介は大和屋に向かって駆けた。

―――

 障子が勢いよく開けられ、大刀を手にした黒覆面の武士が、大和屋が寝起きしている部屋にパッと姿を現した。

「大和屋暁雨、覚悟せい!」

 突然の武士の出現に驚きの表情を見せず、おもむろに布団を上げて半身を起こした大和屋は、不敵な薄ら笑いを浮かべた。

「うふふふ……」

「覚悟するのはそっちの方じゃ!」

「?」

「飛んで火にいる夏の虫とはキサマのことよ」

「な、なに!」

「ばかな蛍は日が暮れると考えだすもんだ」

「”世の中に光を与えてやろう ”……とな!」

「目障りなクソ虫は踏み潰されてしまうだけじゃ!」

 天井から吊り下がっていた一本の紐を大和屋がグイと下に引っ張ると、別室と廊下では紐で吊るされていた多数の鳴子の竹筒がカラコロ、カラコロとぶつかりあって鳴り響き、大和屋の緊急事態を屋敷中の者に知ら占めた。

「!」

 鳴子の音に驚き武士が気を取られている隙に、サッと屏風の向こうに大和屋は身を隠した。

数名の浪人たちは血相変えて廊下を駆けると、屏風の裏に隠れた大和屋と入れ代わるようにして、ドッと部屋の中へ飛び込んで来た。

大刀を抜いた浪人たちに取り囲まれた武士は慌てる様子を微塵も見せず、目の前に立っている男に向かって、ゆっくりと刃先を向けた。

「情けなや」

「元は武士の身でありながら、腐れ外道に雇われるとは……」

「黙れ!」

「キサマごときに、とやかく言われる筋合いは無いわ!」

「死ね!」

 上段の構えから振り下ろされた剣先を、武士が横に強く振り払った時だった。隣の部屋のふすかがパッと開いて京介が姿を現した。

 武士は驚き、思わず小さな声を上げた。

「せ、先生……」

「!」

 京介も武士と同様に、大和屋に押し入った賊が「先生」と言葉を発したのには驚かされた。

 武士の一瞬の隙を狙った対面の浪人が袈裟懸けで斬りつけると、ズバッと骨身の切れる音がした。

「うっ!」

 態勢を崩した武士の背後から、もう一人の浪人が、同じようにして袈裟懸けで斬り付けた。

「ぐわっーッ!」

 ドッと倒れた武士に近づいた浪人は、刀の柄を両手に持って持ち上げると、剣先を武士の心臓に向けた。

「やめろ!」

「無益な殺生、するンじゃねーッ!」

 京介の叫びも空しく、剣先は武士の心臓に向かって突き降ろされた。

「あッ!」

 剣先は勢いよく、ブスリと畳を貫いた。

倒れ込んでいた武士は、間一髪で身を避け助かっていた。

 慌てて駆け寄った京介は、畳を突き刺した浪人を勢いよく突き飛ばすと、浪人は襖をブチ破って隣の部屋まで吹っ飛んだ。残された浪人たちは、突然、部屋に姿を現し、帯の後ろに長扇子を差した得体の知れぬ男の正体を見極めるために片隅に集まると、「こやつ、何者?」といぶかし顔で、京介の様子を探っていた。

 片膝立てて素早く武士を抱き起した京介は、口元を隠していた黒布を外して、顔を確認した。

「弥太郎さんが、なぜ?……」

「先生こそ、なぜ、ここへ?……」

「私の兄は十手を預かる定廻りの同心だ。札差殺しの下手人を退治すれば、少しは兄の役に立てると思って、ここへ来た」

「そうでしたか」

 弥太郎は見る間に瀕死の重傷に陥った。苦悶の表情を浮かべながら弥太郎は、息も絶え絶えになりながら、最後の力を振り絞って事情を語った。

「元を辿たどれば、私は武士……」

 思いも及ばぬ言葉に、京介は驚かされた。

「!」

「武士に支給される扶持米を金に換えるのが札差の仕事。それを利した札差は暴利をむさぼり、武士はその日の生活もままならず、貧苦に喘いでいます」

 急激に苦悶の表情が浮かび、呂律も思うほどに廻らなくなってきた。

「わ、私とても同じ事。ちょ、町人に身をやつし、新内流しで、糊口ここうしのいでいる始末……」

「さ、三大札差を始末すれば、ぶ、武士の生活も、す、少しは楽になると思ったのですが……」

 顔は血の気が失せて土色となり、弱まった呼吸で話し続ける弥太郎は、すでに虫の息の状態であった。

「ほ、本懐、果たせず……」

「……無念です」

 屏風の裏に隠れていた大和屋が姿を現すと、物凄い形相で怒鳴りながら、京介に向かって近づいてきた。

「何をやっておる!」

「とっとと、片付けろ!」

 弥太郎の死が近いと悟った京介は、小さな声で尋ねた。

「刀を握る力は、まだ残っていますか?」

 返事も出来ぬ瀕死の弥太郎は、京介の腕の中で小さく頷いた。

 京介の傍に立った大和屋は、弥太郎を見下しながら京介を怒鳴りつけた。

「まだ、息をしておるではないか!」

「早く、とどめを刺せ!」

「では、お言葉通りに」

 弥太郎を抱いていた京介がパッと片膝引いて位置を変えると、下から突き上げた弥太郎の渾身の一撃が、大和屋の心臓を貫いた。

「ぐわあああ―――ッ!」

 胸に刀を突き刺したまま、どっと倒れ込んだ大和屋を横目で確かめた弥太郎は、静かに目を閉じると、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。

「……かたじけない」

 京介の腕の中で弥太郎は、最後の言葉を残しカクッとコト切れて旅立った。

「許してくれ、弥太郎さん。仇を討ってやりたいが、あの男たちも元は武士で雇われの身だ。弱い立場の人間だ」

 静かに弥太郎を横に寝かせた京介は、浪人たちが近づく気配に気付き、パッと立ち上がって振り返った。

「雇い主は死んだ」

「捕り方たちが押し寄せて来る。悪いことはいわねぇ。このまま直ぐに引き上げた方がいい」

 体格がよくて貫禄が有り、中心的な存在の大男が、手にしていた刀の切っ先をグイと京介に差し向けた

「独り占めにする気か?」

「どういう意味だ?」

「俺たちが引き上げたその隙に、大和屋がガッポリ稼いだ大金を独り占めにする魂胆だったハズだ」

 思いも呼ばぬ大男の言葉に、京介は愕然となった。

「金の力とは恐ろしいモノだ。人の死をも利用してしまうとは……」

「黙れ!」

「キサマとて、本心はどうか判ったものではないわ!」

 すらりと大刀を抜いた大男は、中段に構えて殺意を見せた。

「キサマの思い通りにはさせぬ。引き下がるのはキサマの方だ」

 他の連中たちも、大男に負けずとばかりに吠えた。

「有り金全部、俺たちが頂いてやる!」

「命が惜しくば、とっとと消え失せろ!」

 嘆かわしいことだった。虚しさだけが京介の胸中を走った。

「泣けてくる」

「弥太郎さんが、こんな下衆ゲス野郎どもに殺られたとは……」

 同病相憐れむでも無いが、自分と同じように仕官の口が無い浪人たちだと思い、一度は情けをかけた相手だったが、堪忍袋の緒がプツンと切れた。

「許せね―ッ!」

「例えお天道てんとうさんが許しても、この京介が許さねーッ!」

腰帯の後ろに差していた長扇子を後ろ手で取り出した京介は、扇子の先を浪人たちにグイと差し向けた。

「腐りに腐り切ったその性根。足腰の立たねーほどに叩き折ってやるぜ!」

 京介の言動に、一瞬、面食らって浪人たちは即座の対応に苦慮したが、次第に鼻でせせら笑うようになってきた。

「こやつ、気でも狂ったか?」

「我らを相手にして、遊芸ゆげいの扇子で歯向かうとは……」

「踊りたければ勝手に踊るがよい。キサマが踊る舞いは『おしまい』という名の、今生こんじょうの別れの舞いだ」

「望みとあれば踊ってもやるが、命乞いをしても、もう無駄だ」

「俺はトサカにきている。キサマらのような人間のクズどもに、一度は情けをかけたと思えば無性に腹が立っている。はらわたが煮えくり返るとはこのことだ」

「おのれ、下郎!」

「言わせておけば図に乗り追って!」

「思い知らせてやるわ! 覚悟せい!」

扇子の先を自分の方に向けた京介は、掛かって来いとばかりに、二度ほど手前に動かし、笑顔で浪人たちを招き入れた。

「掛かって来やがれ、クソ野郎ども!」

「この京介さまが、汚ねークソを片付けてやるぜ!」

「おのれ、愚弄ぐろうしおって!」

 京介の挑発に簡単に乗ってしまった浪人たちは、大きな掛け声とともに一斉に斬りかかっていった。

れ者めがーッ!」

「死ね―――ッ!」

 正面の浪人が上段から振り下ろしてきた刀を長扇子でブンと横に振り払うと、刀はその場にガキーンと金属音だけを残すと、浪人の手から離れて隣の部屋まで吹っ飛んでいった。

丸腰になった浪人は、京介の持つ扇子に青ざめた。

「て、鉄扇てっせんだ!」

「こ、こやつが手にしているのは、鉄で出来た扇子だぞ!」

「な、なに!」

 兄の直治郎は銀で出来た十手を所持していたが、弟の京介が後ろの腰に差していた長扇子は、鉄で出来た「鉄扇」だった。

 京介の真正面に立っている浪人は、弥太郎を袈裟懸けで斬り付けた男だった。

「信長の『敦盛あつもり』を舞ってやる」

「この世の終わりに、とっくと見納めるがいいぜ。辞世の句の舞いだ」

 険しかった顔から無表情へと切り替えた京介は、のうか狂言を舞うが如く、片手でゆっくりと長扇子を前に突き付けると、透き通るような高らかな声で織田信長の辞世の句を謡い始めた。

「~~人間じんかん五十年~~」

間合いを計って京介がジワリと浪人に滲み寄ると、大きな気合いを上げながら浪人は斬りかかってきた。

「どああああ―――ッ!」

 サッと舞い上がるようにして軽く体を交わした京介は、浪人の首の横側を叩きつけるとボキッと鈍い音がして、浪人は悲鳴を上げることもなく、真横になってドッと倒れ込み、身動き一つしなくなった。

 弥太郎を背後から斬り付けた浪人に目をつけた京介は、次なる句の続きを謡い、長扇子を突き付けながら浪人に近づいていった。

「~~下天げてんの内をくらぶれば~~」

 謡いながら迫って来る京介に不気味さを感じ取った浪人は、ジワリ、ジワリと後ずさりしていると、京介の右側にいた浪人が気合いと共に斬りかかって来たが、   ヒラリと体を交わした京介は、浪人の小手先三寸の所をバシッと叩くと、先程と同じようにボキッと骨の折れる音がして、浪人は大きな悲鳴を上げながら倒れ、のたうち回って痛がった。

 体を交わした京介に隙を見つけた浪人が切りかかって来ると京介は、踊るが如く、再度、身を交わして長扇子を振り下ろすと、今度も腕の骨が折れる音がした。

 残された武士は、あと二名だけである。

 背後から弥太郎を斬った浪人に鉄扇を突き付けた京介は、次の句を謡いながら近づいていった。

「~~夢幻ゆめまぼろしのごとくなり~~」

 ゆっくりと京介に追い詰められて壁を背にした浪人は、物凄い形相で斬りかかっていくと、謡を止めた京介はスルリと身を交わし、浪人の首を背後から勢いよく打ち付けた。

「いざ、去らば!」

 ボキン!と首の骨が折れる音がすると、浪人は悲鳴を上げることもなく、無言で前のめりになってドッと畳に倒れ込み、そして、微動だにしなくなった。

 最後に残った大男に鉄扇を向けると、パッと平伏し、持っていた刀を左に置いて土下座した。

「助けてくれ」

 呆れた顔で京介は、鉄扇を下した。

「……命乞いか?」

「さっきの威勢は、どこへ失せた」

 額を畳に擦りつけるようにして、大男は平謝りで謝った。

「こ、この通りだ」

何も言わずに京介がきびすを返して背を向けた時だった。大男は左に置いてあった刀の柄を手にして片膝つくと、京介の後ろの足の腱を狙い、刀を左から右に、水平に振り払った。

 シュッと空を切る音がした。

畳を蹴って大きく跳び上がった京介は、降りると同時にサッと振り返り、再度、大男に向かって畳を蹴った。

大男の脳天に、鋭い勢いで鉄扇が打ち降ろされると、ズシャ!と鈍く頭蓋骨が砕かれた音がした。

 京介の背中に眼が有った訳では無い。普通、武士が謝る時は持っていた刀を差し出すようにして前に置くものだが、大男は抜身の刀を左に置いていた。これを見逃すような京介では無かった。殺気漂う大男の気配を背で感じ盗った京介は、敢えて、大男に背を向けていたのだった。

「卑怯な男は、何をやっても、卑怯な道を選ぶ」

 血飛沫だけでなく、一滴たりとして鮮血は見られなかったが、大男は仰向けで大の字になって白目をいてぶっ倒れていた。三味と踊りの遊芸ゆげいだけでなく、鉄扇の扱いに手慣れた京介は、どこをどのようにどう打てばどうなるかを承知した武芸者として為せる技であった。

―――

 月が煌々と照らす明るい夜道であったが、弥太郎を背負って帰る京介の気分は暗く、その足取りは重かった。

「淋しいよ。悲し過ぎるよ」

「弥太郎さんの新内流しが、二度と聞けないなんて……」

弥太郎の腰には鞘は無く、鞘に代わって京介の鉄扇が弥太郎の後ろの腰帯に差し込まれていた。弥太郎を背負う時に鉄扇が邪魔していたのだろうが、弥太郎が黒装束でなければ後ろ帯に差した鉄扇姿だけで京介と見間違うほどである。京介たちの後ろ姿が遠くに小さく見えている大和屋の前を、集まって来た大勢の捕り方連中が雪崩れ込むようにして、一斉に大和屋に入り込んだ。

 ※このことにより老中、松平定信は寛政の改革で、多年たねん借財しゃくざいを抱え身動きのとれない武士を救済するために、暴利をむさぼっていた札差に対して棄捐令きえんれいを発し、貸金かしきん破棄はきさせたのである。簡単に説明すれば、六年前までの借金はすべて帳消しにして、五年以内の分は利子を三分の一に下げて永年賦えいねんぷにするというものであり、棄捐令によって札差のこうむった損害は、実に百十八万七千八百両であった。

ちなみに、この棄捐令によって札差は大打撃を食らって破産する者も多く、その結果札差は武士たちに金を貸さなくなり、最初は喜んでいたのだが、やがて、生活に困り始めた武士の中には、追剥おいはぎや盗人をする者もいた。水野忠邦の天保の改革でも棄捐令は発令された。だが、この時は江戸の半数以上の札差が店を閉じたが、それでも明治維新まで武士が存続している間は札差も存続し続けており、棄捐令は江戸だけでなく、諸藩でも行われていたのだった。

―――

呉服問屋の「福田屋」の店内に人は多く、生地を選ぶ客たちだけでなく、呉服に携わる職人や仲買人と思われる人たちの姿も多く見られ、番頭、手代、丁稚、女中などの奉公人たちは、お茶と茶菓子を出しての接待と、送り迎えの対応などに追われて忙しそうに動き回っていた。

直治郎と甚八の二人が福田屋を訪れ、接待で二人を迎えに来た番頭と思われる中年の男に尋ねた。

「当家の御息女は、御在宅か?」

「お役人様が、お嬢様に何の御用で?……」

 直治郎の態度はガラリと変わって横柄で、上からの目線で高飛車に出た。

「お前に説明する必要は無い」

「在宅なら、娘をここへ連れて来い!」

 虎の威を借りた狐のように、甚八の口調も直治郎と同様にきつかった。

「つべこべぬかしやがると、テメーも一緒にしょっ引くぞ!」

「わ、分かりました。少々、お待ちを……」

 大慌てで番頭が奥に引っ込むと、ほどなくして娘の「おゆき」と父親の徳兵衛が血相を変えて直治郎の前に姿を現した。

「お前が、おゆきか?」

「は、はい」

詮議せんぎ致す。番屋へ来い!」

 度肝を抜かれるほどに、徳兵衛は驚いた。

「む、娘は……」

「何の罪の嫌疑でござりましょうや?」

「それを吟味するのが、俺たちの仕事だ」

「そ、そんな御無体な……」

 徳兵衛の不満に耳を貸すこともなく、直治郎は甚八に命令を下した。

「娘、おゆきを召し捕れ!」

「へい!」

 腰に纏めて吊るしてあった捕縛用の縄に、甚八は手を掛けた。

「お待ち下さい!」

 帳場の上がりかまちからパッと床に飛び降りた徳兵衛は、額をこすりつけて土下座した。顔を上げた徳兵衛は涙目で懇願した。

「ま、未だ、腹は目立ちませぬが、娘は身重みおもでございます」

「娘を召し捕るのであれば、どうか、この私めを、お縛り下さい」

 直治郎は呆気ないほどに快く、徳兵衛の願いを聞き入れた。

「よかろう」

 直治郎は甚八に、再度、命令を下した。

「父親、徳兵衛を捕縛しろ!」

「へい!」

 その場に居合わせた全員が言葉を失い呆然としている中を、観念して両手を後ろ手に回した徳兵衛の手首を縛りつけた甚八は、大きな声で徳兵衛を促した。

「キリキリ立ちませい!」

 直次郎たちに連れて行かれて店を出て行く後ろ姿を見たおゆきは、思わず声をあげた。

「お、お父っつぁん!」

 立ち止まって振り返った徳兵衛は、笑顔でおゆきを諭すように話しかけた。

「お前の身代わりに連れて行ってくれているのだ。優しいお役人さんだ。あとでお礼を言っとくれ」

 おゆきはその場に「およよ」とばかりに泣き崩れると、母親は何も言わずに、そっと優しくおゆきの肩に手を置いた。

 大勢いた奉公人たちも何をどうしていいのかさっぱり分らず、青ざめた顔で、ただ、おろおろと狼狽しているだけであった。

 店の片隅で黙ってことの成り行きを見守っていた客と仲買人たちは、直次郎たちが店の外に出ると、ヒソヒソ声であったが、今までの不満を一気に爆発させた。

「何が優しいお役人だ!」

「酷い兄弟がいたものだ。弟は娘に手を出すし、兄は何のとがも無い父親を連れて行ったじゃないか」

「福田屋さんに恨みでもあるのかね? あの兄弟は……」

「悔しいねぇ。ほぞを嚙む思いだよ。役人に理不尽なことをされても、私たちは何一つとして出来ないのだから……」

 客の一人が、溜息混じりに呟いた。

「私は心配だ」

「一体、どうなるのですかねぇ? 福田屋さんは……」 

「店の主が捕まったのだ。店じまいですよ」

―――

 番屋の木戸がガラリと開くと、縄を解かれた徳兵衛が甚八に軽く背中を突かれ、よろけるようにして番屋の中に入って来た。

 土間の中央には薄汚いむしろが敷かれていて、親子と思われる二人の男性が横に並んでかしこまって座していた。

 徳兵衛は驚いた。筵の上で正座させられていたのは米問屋の主の善兵衛と、その跡取り息子の与一の二人で、徳兵衛とは顔見知りの仲だった。

 甚八に背中を押されてよろめきながら番屋に入って来た徳兵衛を見て、善兵衛も徳兵衛と同様に、仰天するほどに驚かされた。

「ど、どうなされましたか? 徳兵衛さん……」

「善兵衛さんこそ、如何なされたのですか? 親子揃って……」

「それが、私どもも、何が何やらサッパリ分からず……」

 番屋の木戸を閉めた甚八が振り返ると、強い口調で三名に命令した。

「これから、取り調べだ!」

「雁首並べて、大人しく座りやがれ!」

 三人とも不満顔であったが言われるままに大人しく座していると、武士の正装の肩衣かたぎぬを羽織、両手に長袴ながばかまを持って引きずりながら、番屋の奥から奉行のようにかみしも姿で直治郎が現れると、筵の上で御白洲状態に置かれていた三人を、大きな声で一喝した。

が高い! 控えおろう!」

 両手を前に突き出し、三人は仰々しく平伏した。

「へへーッ!」

おもてを上げい!」

 地面に両手を付けたまま揃って顔を上げて見上げると、上がりかまちで三人を見下していた直治郎は、おもむろに口を開いた。

「札差が料亭『とんぼ』の帰り道、何者かに襲われて殺害された」

「その件と、私どもと何の関係が?……」

 徳兵衛の問いに、直次郎の言葉と態度がガラッと変わった。

「うるせぇー」

「黙って、俺の話しを聞きやがれ!」

「下手人を探っている最中さなかに『弟の京介がこの辺の船宿を利用して、福田屋の娘のおゆきと逢瀬を楽しんでいたか』と料亭『とんぼ』の女将に問えば、なんと、おゆきの相手は幸田屋の跡取り息子の与一だってことが判明したンだ」

「ええ―――ッ!」

 二人の父親は身が反り返るほどに驚くと、身を元に戻した二人は無言のままの与一を、信じられないといった顔で見つめた。

「そ、そんなバカな……」

「有り得ない。与一とおゆきさんとは『お見合い』をした仲だ」

 釈然としない善兵衛に、直治郎は追い打ちをかけた。

「俺の話しが嘘だと思うのなら、この場で倅の与一を問いただせ!」

 善兵衛は、身を与一の方に向けた。

「与一、この話し、誠か?」

「も、申し訳ねー。お父っつあん!」

「この通りだ」

額を地に擦り付け、与一は平謝りで平伏した。

「なぜ、言わなかった?」

「し、知らなったんだ!」

「知った時は、お腹の子は京介さんになっていたンだ」

 かみしもの右肩からパッと勢いよく肩衣かたぎぬを取り外した直治郎は、烈火の如く激怒した。

「ふざけるンじゃねーッ!」

「弟の京介が口を閉じていたのは、おゆきの相手が、いずれ自ら父親だと名乗り出てくるのを待っていたンだ。それが京介の思い遣りってやつだ!」

「テメ―がサッサと名乗り出てきやがらねーから、京介は弁解の余地もなく世間からそしりを受けてあざけり笑わるだけでなくさげすまされ続けたのだ! この落とし前、どうしてつけてくれる気だ! 京介が何もしなくとも定廻り同心の兄が、黙ってそれを見過ごすとでも思っていやがったのか!」

 顔を上げた与一は、涙目だった。

「ま、誠に申し訳ございません。弁解の余地もございません」

「謝って済む問題じゃね―ッ!」

 善兵衛が横から助け船を出し、直治郎の顔色を伺いながら恐る恐る聞いた。

「では、どうすれば、許して頂けるのでしょうか?」

「祝言を挙げろ!」

「えっ?」

 三人同時に、怪訝顔で聞き直した。

「し、祝言ですか?」

「そうだ。与一とおゆきの祝言だ」

「もし、祝言を挙げなければ、与一は島送りの刑だ!」

 念を押すようにして、直治郎は善兵衛に聞いた。   

「いいのか?」

「跡取り息子の与一が、島送りになっても……」

 善兵衛に喜びの表情は見られず、島送りになっても仕方がない程に暗かった。

「…………」

 腕組みをしながら黙ってことの成り行きを見守っていた甚八は、与一が福田屋に多大な迷惑をかけたからだと感じ取ると、横から救いの舟を出した。

「先走った息子さんをとがめてぇ気持ちは判りやすよ。ですが、これはいい話しじゃねぇでやすか。あっしらのように侘び住まいの者にとっちゃあ、祝言なんぞは夢の中のまた夢でして、祝言を挙げたくとも挙げられずに夫婦みょうとになるってぇのがほとんどでさあ。若けぇお二人さんは床入りを我慢することが出来ず、祝言前に世間並みのことをやっちまっただけのことでさあ。これを機に、話しを前に進めたらどうでやすかねぇ」

 躊躇ためらい、戸惑っている善兵衛の耳元に口を近づけた福田屋の徳兵衛は、さらに後押しするように囁いた。

「善兵衛さん。相手は与一さんだと判ったことですし、おゆきのお腹も目立ってきております。いかがですかな。こうと決まれば、一刻でも早く二人の祝言を挙げては……」

 徳兵衛の誘いは正に渡りに船であった。善兵衛に反対する理由は何一つとして無かった。

「私どもに何の異存がございましょう。徳兵衛さんさえ納得して頂ければ……」

「勿論、納得の上でのお話しでございます」

徳兵衛は笑顔で、善兵衛の手を取った。

「両家はすでに、お見合いをした間柄ではございませぬか」

「あ、ありがとうございます」

 手を取り合う両家を見届けた直治郎が、話の間に入ってきた。

「一つ、注文がある」

「何でござりましょうや?」

「与一とおゆきの仲が世間に素早く知れ渡るよう、度肝を抜かれるような派手な祝言を挙げろ」

「これは依頼ではない。両家に対する命令だ!」

「判ったか!」

 三人揃って、深々と頭を下げた。

「はは―――ッ!」

 平伏す三人を見て納得した直治郎は、ひと際大きな声を上げた。

「一件、落着!」

「三名の吟味、これにて、終了!」

 平伏したままの三人を、直治郎は怒鳴りつけるようにして急き立てた。

「何やってンだ。お前ら……」

「とっとと帰って、祝言の支度に取り組みやがれ!」

 大急ぎで帰って行く三人の後ろ姿を見送りながら甚八は、番屋の木戸を閉めると、腑に落ちないといった顔で振り返った。

「予審ってのは廻り方同心が番屋で行うものでやすが、奉行のようにかみしも長袴ながばかまってのは、ちょいとばかり遣り過ぎじゃねーのですかい?」

 乱れた紋付きの熨斗目(のしめ)と裃の肩衣を整えながら直治郎は、僅かに怒った強い口調で応えた。

「バカなことを言うもンじゃねー。世間からののしられ、さげすまされたた京介のことを思えば、奉行所のお白洲の場で遣りたかったくれーだ」

 直治郎には聞こえないほどの小さな声で甚八は、苦笑しながら呟いた。

「そうですかい」

「知らぬ間に、随分と仲のいい兄弟におなりになりやしたねぇ」

 弟の京介に札差殺しを解決して貰っただけでなく、家督を継がなかった引け目があったからじゃなかったのかと思った甚八だったが、口にすることは無かった。

 この時、甚八は思った。「親子や夫婦の間柄だけでなく、兄弟、姉妹ってのは異常なまでに憎しみ合う者もいれば、異常なまでに親しくなって助け合う者もいるものだ。そして、それが世の常ってものだ。いがみ合う親兄弟よりも、仲良くなる親兄弟の方がいいに決まっている」と思った甚八は、直治郎に背を向けると、もう一度、苦笑した。

―――

 鳥居には何種類もの鳥居があって、笠木に反り増しが入った鳥居を明神鳥居と呼ぶ。石で出来た明神鳥居の額束がくつかには「喜寿神社」の名があった。

 その喜寿神社の鳥居の両側の石柱の前には、家紋が入った四尺ほどの大提灯が木組みの支柱から吊り下げられ、家紋の違った大提灯には「幸田屋」と「福田屋」の両家の文字が書かれていた。

 笠木の下では、ここから先へは一歩たりとも進ませないぞと阻止するように、一升瓶が四十本分の四斗樽の菰樽こもだるを、三樽も横に並べて通せん坊のようにして置いてあり、菰樽の近くでは、濃紺のえりに「幸田屋」と白文字の入った法被はっぴを着た十名近くの若者たちが、参拝で神社を訪れた人たちだけでなく、前の通りを行き交う通行う人たちにも威勢よく声を掛け、「振る舞い酒」を柄杓ひしゃくで酌み取り、次々と気前よく振る舞っていた。

 鳥居に向かって右側の台石だいいし近くには低い床几しょうぎが置かれていて、一合斗いちごうますが三角の山形になって、数多く積まれていた。

 年配の男が床几台に集まって来た客たちに真新しいますを手渡していると、同年代と思われる二人の老人が近づき、声をかけてきた。

「高田殿。どこかの大店の跡取り息子が派手な祝言を挙げそうだと噂では聞いておりましたが、菰樽一つでも驚かされるのに、菰樽三つとは、これはまた豪勢な祝言でございますな」

「これは、これは、町内の世話役の浜田さまと島田さま。提灯にも名が書かれてありますように、今日は目出度き名前のこの神社で米問屋・幸田屋の息子の与一殿と呉服問屋・福田屋の娘のおゆきさまの祝言でございまして、それを祝して、先ほど「鏡開き」が行われたところでございます」

「ほう。幸田屋と福田屋とは、これはまた「幸福」な名のご縁ですな」

「はい。本日は幸せと福を呼び込む「幸福」のおめでたい祝言の日でございます。どうぞ、それにあやかりまして、振る舞い酒をお受け取り下さい」

「では、遠慮なく、御相伴に預かることに致しましょう」

 二人は差し出された一合斗を笑顔で受け取ると、菰樽の方に近づいて行った。

―――

石畳の参道から広い境内に出ると、薪能たきぎのうの舞台が設置されてあり、舞台背景は境内の深い緑や土の香りといった自然を能と調和させ、一体感が堪能できるようにとの舞台設定であった。

舞台の上には四名の姿があった。一人はおきなの面を付けて舞い踊り、一人はトントンと小気味よく小太鼓を叩いて拍子を取り、もう一人は舞台の端にいて、残りの一人は正座して演目の謡いを、渋みのある重低音の声で謡っていた。

「~~ 高砂やァ~ この浦舟に 帆を上げてェ~

    月もろともに 出汐いでしおのォ~」

 シテ(主役)の翁は優雅で華麗。心奪われる見事な舞いを観客に見せていた。さぞかし高名で達者な演者と見られる力をためた重厚な「高砂」の演技であった。

舞台の袖や正面の席では数え切れないほどの観客たちがいた。観客たちは折り畳みが出来る簡易な胡床こしょう椅子に腰を掛けて静かに演目を鑑賞していたが、最後部席で座っていた一人の町人が、同世代の中年男に声を押し殺して相手の耳に口を近づけた。

「山本町の幸平っていう者ですが、少し、お聞きしてよろしいでしょうか?」

「何でしょうか? 幸平さん」

「以前から有りましたかね? 喜寿神社に能舞台なんて……」

「有りません。深川の大工がすべて集められ、僅か三日間で造られたそうです」

宵闇よいやみ迫る頃にかがりに火を入れて、闇の中に浮き上がる舞台が薪能の神髄だというのに、なぜ、真っ昼間から『高砂』を演じているのですかね?」

「両家の招待客が余りにも多過ぎて、これから行われる祝宴にしても昼は能舞台の横の社務所ですし、夜は花婿の幸田屋さんのご自宅でと、二度に渡って催されるそうですよ」

「なるほど。そうでしたか」

「ついでに、もう一つ伺ってもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「急な祝言で『仲人もまだ決まっていない』と、小耳にしたのですが……」

「お仲人さんでしたら大歳屋の益侑ますゆきって人で決まったそうです。両家に縁談を持ちかけてきたお方です」

「米問屋の跡取り息子と呉服問屋の娘の仲を取り持つとは大したものだ。どこの御大尽さまで?……」

「深川の木場町で竹・材木商をいとなみ、一代で莫大な財を成した御仁です」

 幸平の横の席の老人が口に手を遣り小さく咳払いをすると、下を向いてヒソヒソと話していた二人は顔を上げ、なにごとも無かったかのように平然とした顔で、能舞台の方に目を向けた。

舞台上では演目の「高砂」を演じ続ける四名の姿があった。一人はおきなの面を付けて重厚かつ優雅に舞い踊り、一人はトントントンと小気味よく小太鼓を叩いて拍子を取っている儀助と、そして正座して謡う京介であり、もう一人は「ワシをはらまそうたって、そうはいかんわい」と溝の掃除の時に、京介に悪態を付いた、およね婆さんだった。

「~~ 波の淡路の島影やァ 遠く鳴尾の沖過ぎてェ~~

はや住ノ江に着きにけりィ~  はや住ノ江に着きにけりィ~~」

 翁は両手を広げてタンと床を踏むと、仁王立ちになって演目を終えた。

舞台のすそに控えていた老婆役のおよね婆さんと京介たちの四名は、舞台の前部に歩み寄り横並びになって深く一礼すると、観客たちは万雷の拍手を送り、見事なる前半の演技をたたえた。

ちなみに、後半の能舞台では住吉明神が現れ、天下泰平を祈念し、颯爽とした舞いを舞うことになっていた。

―――

 十畳ほどの控えの間の柱や壁には一輪挿しなどの飾り物は何一つとして無く、片隅に柳小折がポツンと一つ置かれているだけの殺風景な部屋だった。小太鼓とバチを持った儀助が慌ただしく入って来ると京介がその後に続き、京介の後ろから入って来た男が翁の面を取りながら謝った。

「申し訳ねー」

 二人に謝った男の正体は、踊りが苦手だったハズの直治郎だった。

柳小折を開けた儀助が、怪訝な顔で振り返った。

「どうなさいました? 急に謝って……」

「京介にとっくと教えて貰ったのだが、所詮はにわか仕込みの舞いだ。不覚、不覚の連続だ」

 気落ちしている直治郎を、儀助は笑顔で見た。

下手へたを気になさるな。下手でもよいのです。本格的に『高砂』を知っている客は少ない。例え知っていたとしても今日は無礼講。下手な舞いもご愛嬌の一つで済まされるってことですよ」

 直次郎は不貞腐れた顔で、口を尖らせた。

「おい、儀助。ちょいとばかり多いンじゃねーのか? 下手って言葉が……」

「おや。そうでしたかね」

 二人の会話を聞きながら柳小折を開けた京介は、脱いだかみしもから着流しに着替えていた。

「良かったと思うがね。俺は……」

「えっ?」と儀助は驚き、直治郎は怪訝な顔で京介を見た。

「上げたり、下げたり…‥」

「どっちなんでぇ?」

「今日の祝言のように目出度い席で謡われる演目名の『高砂』ってのは、播磨国はりまのくにの高砂神社が舞台になっている。『高砂』は大阪の住吉の松と高砂の松が夫婦であるという伝承が題材だ。高砂神社には『高砂の松』と呼ばれる黒松と赤松の二種類の松が根元で一本に合体しているところから『相生あいおいの松』とも呼ばれている。四季を通じて色が変わらない松は永遠の証しでもあり、根本が一本になった松の姿を夫婦に見立て、一生添い遂げるようにと願いが込められたのが『高砂』の舞いだ。下手でもいい。『おめでたい兄上』が舞う『高砂』だ。家督も継がず、お気軽な兄上の性格に合った舞いだと思うがね。俺は……」

 直次郎は口を尖らせて、怒った。

「おい、京介!」

「おめでたい兄上とは何だ。言い過ぎだぞ!」

「まだまだ言い足りねーぜ。もっと言わせてもらえばお気楽で能天気。頭の中のお花畑が満開で、蝶々がヒラヒラ飛んでいるぜ」

「な、なんだとォ」

 一発触発の二人の間に儀助が慌てて入り込み、青筋立てて怒る直治郎を必死でなだめた。

「まあ、まあ、まあ。落ちつきなされ、直治郎殿」

「ああは言っても口とは裏腹に、京介さんの心の中では同心になりなすった兄の直治郎殿を誇りに思い、尊敬もなさっていなさるのです」

 京介の口先がとんがった。

「思ってねーよ!」

「勝手に話しを作ってくれるンじゃねーよ。毛ほどにも思ってねーよ。露ほどにも思ってねーよ。そんなことは……」

 京介の不平を無視した儀助は、翁の姿のままでいる直次郎を急き立てた。

「ささ、急いでくだされ。直治郎殿」

「大詰めが、もう、そこにまで迫ってきておりまする、ゆえ……」

 反論してきたが京介の口調は柔らかだった。ついに弟の本音を知ったと感じ取った直治郎は、ニッコリ笑って快諾した。

「おっと合点、承知の助だ。任せてくれ」

 翁の衣装を大急ぎで脱ぎ棄て元の同心の姿に戻った直治郎は、着流し姿で腰帯の後ろに長扇子を差した京介と儀助の後を追い、足早に控えの間を出て行った。

―――

 社務所の上座では金屏風を背にしたかみしもの与一と、扇子を膝の上に乗せ、白の角隠し、白打掛、白小袖といった「白無垢」の花嫁姿のおゆきの二人が膳を前にして、笑顔も無く神妙な面持ちでかしこまって座っていた。

 壁の両際に設けられた大勢の招待客たちの席は、まるでお通夜のようにしんみりとしていて、誰一人として隣の席の人とは言葉を交わすことも無く、目の前の膳の馳走に向かって静かに箸を伸ばし、物音一つ立てず、黙々と食べているだけであり、お目出度い披露宴とは言い難い重苦しい雰囲気の吉事の場となっていた。

 披露宴の会場となった社務所の大広間は幾つにも部屋が仕切られるようになっていて、ふすまを取り外した中央付近の欄間らんまからは、紅白の横断幕が会場の横幅一杯に吊り下げられて張られていた。

 壁際でしゃがみ込みながら待機していた甚八は、横断幕の片方で結びつけられていた紐を一気に引き下げて結び目を解くと、横断幕は左右揃って綺麗に落ちた。

 幕を大急ぎで掻き集めた甚八は、丸く一つに抱え込むと小さく身を屈めながら、壁に沿って広間から姿を消した。

 大広間の両側に膳を設けられていた招待客たちは、ハラリと落ちた横断幕の方を見ると、持っていた箸をポトリと落とし、のけ反るほどに驚愕した。

「こ、これは、どうした?」

「な、何ごとだ?」

事前に何も知らされていなかった招待客たちが驚くのも無理は無い。自然体でいられたのは上席の両家の両親だけで、神妙にうつむいていた与一とおゆきは顔を上げると、にっこり笑みを浮かべて喜んだ。

 紅白の横断幕が取り払われた場所には小太鼓を首から吊り下げ、バチ棒を手にした京介が立ち、その右側にはスリ鐘と撞木しゅもく棒を持った直治郎、そして、左側には京介と同様に、小太鼓とバチ棒の儀助が横並びで立っていた。

 直次郎の横では新内流しの恰好で細棹ほそざお三味線を持った二名が先頭に立ち、その後ろでは多数の新内流しの演者たちが縦二列、儀助の横では津軽三味線用の太棹を持った二名が先頭で、多数の三味線演者たちが縦二列になって続いていた。その後ろでは小太鼓と包み太鼓を持った連中と、横笛を口元に当てた連中たちが待機していて、おゆきからは京介の背後にいる大勢の人物たちの容姿をうかがい知ることは出来ないが、小暮道場の門弟の「おてる」「おみね」「おたま」「おきよ」たちは、派手な模様の半袖の着物に白地のたすき掛けで続き、その後ろに控える大勢の若い娘たちも「おてる」たちと同様に、揃いの派手な衣装で続いていた。

大勢で待機している若い娘たちの後ろでは、ねじり鉢巻きに揃いの法被はっぴ半股引はんだこで、白足袋の若い衆たちは、出入り口の戸が突破われた社務所から溢れ出し、外の境内に続くほどまでにズラリと列は続き、自分たちの出番が来るのを待っていた。

 バチ棒で小太鼓のフチを京介が、コン、コン、コンと三回叩いたのが合図だった。全員の祝福の声が一丸となって、おゆきたちに向かって飛んだ。

「おめでとう―――!」

 大きな拍手と喝采を浴びたおゆきの顔から笑顔が消え、大粒の涙が頬を伝って流れ落ちていった。

「ありがとう。京介先生……」

 勇壮たる京介たちの姿を見ながら涙は止めどなく続き、おゆきは感泣に咽んだ。

バチを持った手を京介が大きく上げると、拍手と喝采は潮が引くようにして徐々に鳴り止み、やがて式場内に静寂の時が訪れた。

 水を打ったように静まり変わると京介は、小バチで小太鼓のフチを叩いた。

コン、コン、コン。

おごそかな夫婦和合の伝統行事の祝言も、京介が叩いた二度目の合図で一瞬にして吹っ飛んだ。

 チン、ドン、シャンシャン、ピーヒャララと鐘と鼓笛と三味のお囃子が一斉に始まると、京介たちの背後で出番を待っていた若い娘たちと若い衆たちは、繰り出される賑やかな音頭に合わせて大声で唄いながら、身振り手振りよろしく派手に踊り出しのだ。

「かっぽれ、かっぽれ、甘茶でかっぽれ、 高砂やぁ、高砂やぁ〜」

「さて、よいとこさっさぁ よいやさっさぁ」

「この浦舟に 帆を上げてぇ、月もろともに 出汐いでしおのぉ~」

「ほれ、よいとこさっさぁ、よいやさっさぁ」

「波の淡路の島影やぁ 遠く鳴尾の沖過ぎてぇ はや住ノ江に着きにけりぃ~  着きにけりぃ~~」

「かっぽれ、かっぽれ、甘茶でかっぽれ、 高砂やぁ、高砂やぁ〜」と、京介を先頭にした集団は、短い語句を何度も繰り返し、踊って謡いながら、おゆきたちに向かって牛歩の如く、ゆっくりと足を前に進めて行った。

 白の角隠し、白打掛、白小袖といった「白無垢」の花嫁姿のおゆきは、前の膳を横に大きくずらして立ち上がり、席から離れて膳の前に出て行くと、素早く白の打掛を脱ぎ捨て、角隠しと白小袖だけの姿になった。

 思いも寄らぬ突然のおゆきの行動に驚いたのは花婿の与一と招待客たちだけでなく、小太鼓を叩く京介も、打掛を脱ぎ捨てたおゆきの行動に驚き、踊る集団から離れて足早に近づいた。

「どうした? おゆきちゃん……」

 招かれた客たちも、予期せぬおゆきの行動を目撃して騒然となった。

「な、何があった?」

「どうしたというのじゃ? 花嫁は……」

 目の前で立ち止まった京介に、おゆきは思いつめた表情で言った。

「私、踊ります」

「それは結構なことだが……」

「大丈夫なのか? 踊っても……」

「大丈夫です」

「産婆さんが仰ってました。少しは動いた方がいいって……」

「分かった。一緒になって、唄って踊ろう」

「その前に、お詫びとお礼を言わせて下さい」

「京介先生には最初から最後までご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。京介先生に相談して本当に良かったと思います。私たちだけではこのような祝言は、思いつくことさえも出来ませんでした。ありがとうございました」

「俺一人じゃ何も出来なかった。新内流しだった弥太郎さんの仲間たちの協力とお二人さんのご両親の手助けがあったからこそ出来たことだ。それに、この俺に出来るのは三味と踊りを活かせることしかなかった。ただ、それだけの事だ」

 かみしもを脱いだ与一が近づき、おゆきの横に立って心意気を見せた。

「私も、踊りたい!」

「そりゃあ結構なことだが、仲良く夫婦みょうとで踊るのは少しの間だけにしてくれ。やっぱり、花嫁さんの身が心配だ」

 儀助と直次郎を先頭とする唄と踊りの集団は、京介たちの会話が続けられないほどに近づくと、一糸乱れぬ隊列はし崩し的に崩れ、立ち止っている三名をすっぽりと包み込みながら、上座に向かって進んで行った。

 上座近くの廊下で待機していた数名の巫女さんたちは、境内側の雨戸と宴会場側の障子を同時に開けて、踊る連中たちの通路を素早く確保した。

 招待客の中の老人が、目の前で唄って踊る若い男女を笑顔で見ながら、騒ぎで声が掻き消されないようにと大声で、隣りの老人に声をかけた。

「楽しそうですな。どうじゃろ、ワシらも一緒に踊りませぬか?」

「踊りたくともこの歳では体が動かぬ。私はこれにて加わることにしましょう」と、膳の上の茶碗と箸を手に取って立ち上がると、流れる音頭に合わせて茶碗のフチを笑顔で叩いた。

―――

 能舞台の前に置かれていた全てのイスは片付けられ、そこは臨時の餅つき場と変わっていて、鉄で出来たかまどの中のまきは炎の勢いも強く燃え盛り、蒸された数段のセイロからは蒸気が勢いよく吹き上がっていた。

幸田屋の法被はっぴを着た体格のいい若い男が三升用の石臼いしうすに向かってきねを一気に振り下ろすと、臼の傍で福田屋の法被を着たねり役の女性が、「もう一丁!」と威勢よく掛け声を上げて餅を持ち上げると、臼の中へ叩きつけるようにしてひっくり返した。

 再度、つかれた餅をつかれた杵から取り上げた女性は、近くの縁台に置かれている餅箱に急いで運び込むと、待っていましたとばかりに待ち受けていた女子氏おなごし連中たちは、餅を千切って掌の中でコロコロと丸め、老若男女を問わずに未だ冷めやらぬ餅を、列を作って待っている客たちに配った。

 鐘と太鼓と笛の音と、三味と踊りと唄で浮かれる連中たちの先頭は、狭い間口の社務所から広い境内へと繰り出し餅つきの現場から遠ざかると、神社の敷地に沿って奥へと進み、本殿の裏を通って参道に向かっていた。

踊る連中たちの整理と警護を兼ねた甚八が後尾を歩いていると、見物客の中の老人が険しい顔で声をかけた。

「いいのかね? 甚八さん」

「何のことで?」

「大刀差した同心が、先陣切って鐘を鳴らしていても?」

「いいことだと思いやすよ。あっしは……」

「同心が仕事を忘れて鐘を鳴らすってことは、物騒だった札差殺しも一件落着し、世が天下泰平となった証しでさあ。別に大きく羽目を外した訳でもねーし、人さまの道を外れた訳でもございやせん。それに、この祝言には多少なりとも関わったお方でいやす。今日はお二人さんの門出を祝うお目出てぇ日でごぜぇやすし、笑って見過ごしてやって頂けやせんかねぇ」

 甚八に発した言葉を老人は、素直に恥じた。

「申し訳ない」

「野暮なことを言ってしまいました」

―――

 本殿に向かって右側に丸い石の土台で、高さが三尺、横幅が一間、土台の上に高さが三間ほどの大きな石燈篭が建っていた。

能の老婆役を演じたおよねが、陽気で活発に踊り続けている若い娘と若い衆を石燈篭の土台に腰かけて笑顔で眺めていると、小太鼓を首から外した京介が両手の平に四個の小餅を持って近づいて来た。

「太鼓はどうした?」とおよねが聞いた。

「叩きたがっていた若い衆がいたから渡した。それよりも「はまり役」だった。存在感があった。およねさんに依頼してよかったよ」

 したり顔で、およねは応えた。

「当然のことじゃ」

「婆ァが、婆ァの役を演じただけのことじゃ」

「これ、俺の分も一緒だ。食べてくれ」

「そうかね。悪いね」と快く餅を受け取ったおよね婆さんは、餅つき場で行列の客に餅を配る徳兵衛と善兵衛の二人を、不審な顔で見つめた。

「信じられわい。聞けば仰天するほどの大盤振る舞いじゃ。踊り手たちの衣装代のすべてを福田屋が引き受けたそうじゃないか?」

「呉服問屋だからね。福田屋さんは……」

「この餅も門前の振る舞い酒も、すべて幸田屋が引き受けたそうじゃないか?」

「米問屋だからね。幸田屋さんは……」

「京介が何をどう言われようと、ワシャ信じられんわい」

「金持ちと雪隠せっちんは『溜まれば溜まるほど汚くなる』と言うのに……」

「と、言いながら婆さんも、実はこっそり、しこたま貯めてンだろ?」

「バカなことを言いなさんな」

「婆ァが貯められるのは、『疲れと顔のシワ』だけじゃ」

 神社の境内に出入りできるのは参道だけでなく、四方の路地から出入りできるようになっていて、唄と踊りのドンチャン騒ぎを聞きつけた近所の住民たちや路地を行き交う人たちが入り込み、境内はいつしか大勢の人たちが集まっていた。

 参拝客たちの休憩場所でもある庫裏くりの方を、京介が指差した。

「見てくれ。あの子が、俺の子だ」

「な、何じゃと?」

 京介が指差す先を辿れば人混みの中から、幼子を抱いた若い女性が京介たちの方に向かって近づいて来るのが見えた。

「か、隠し子か?」

「そうだ」

 およね婆さんは呆れた顔で、京介を見た。

「京介、お前、いつの間に?……」

 悪戯っぽく京介は、応えた。

「知らぬ間に……だ。およねさんの……」

 女性に抱かれた幼子の頭髪は全部剃り上げられ、男の子か女の子か判別することは出来ないが、着ている着物から判断して女の子と思われた。女性は京介の前に立つと軽く会釈をしてから礼を言った。

「妹の『おてる』がいつもお世話になっております。この子が三つになったら、おてると同様に踊りを習わせようと思っています」

「大歓迎だ。七つで『名取』。十で『師範』にしてやるぜ」

 京介は抱かれている幼子の顔を覗き込んだ。

「可愛いな。名前はなんてンだ?」

「はい。『おいく』と言います」

 黙って二人のやり取りを聞いていたおよね婆さんは、草履ぞうりの先で着物の上から京介の足を蹴り上げた。

「あたッ!」

 いかに剣術の達人と言えども、婆さんの不意打ちは避けることは出来なかった。

「な、何をするンだ!」

「年寄りをからかうな!」

「我が子の名前を知らぬ親が、どこにおる!」

「あはッ! これは迂闊うかつだった」と京介は、額をポンと叩いて苦笑した。

「うっかりせんと、しっかりせい!」と、笑顔を浮かべながら叱咤する婆さんを、幼子を抱いた女性はキョトンとした顔で見ているだけだった。

 いつしか境内の人数は急激に増えていた。錯綜する人混みの中からお仙を見つけ出したおきよは、踊る連中から離れると、大声を出しながら駆け寄って行った。

「おねぇちゃ~ん!」

「おきよ!」

 何年振りの再会だろう。二人は涙ながらにして喜びを分かち合った。

 すでに新郎新婦と京介たちは踊りの集団から抜け出していたが、集まって来た住民たちは軽快で派手な唄と踊りの音頭に感銘と感動を受けると、素早く踊りの集団に加わる者たちが続出し、驚くことに踊りに加わった者たちは、直ぐに唄と踊りを習得し、境内は盛り上がっていった。

 京介と一緒に石灯籠の土台に腰かけていたおよね婆さんは、人混みで賑わう境内を笑顔で眺めていたが、不審顔で京介の横顔を見た。

「京介よ」

「数ある踊りの中から、なぜ、『甘茶でかっぽれ』を選んだ?」

「かっぽれってのは、諸説あって……」

「他人がどう言おうが命懸けで惚れたという意味の『岡惚れ』からきているとか、鳥羽節の囃子はやし言葉で『わたしゃお前にかっ惚れた』からきたとも言われるが、大阪の住吉大社の住吉踊りが変じたものだとも言われている。およねさんが演じた縁起のいい『高砂』は、大阪の住吉の松と高砂の松が夫婦であるとの伝承が題材だ。だから、俺が唄の台詞を変えて、かっぽれ踊りにしたってことだ」

「そうかえ」

「お前はお前なりに、無い知恵を絞ったのだねぇ」

「うるせーッ!」

―――

 踊る集団の先頭は、境内から参道へと矛先を向けた。

「かっぽれ、かっぽれ、甘茶でかっぽれ、 高砂やぁ、高砂やぁ〜」

「さて、よいとこさっさぁ よいやさっさぁ」

「この浦舟に 帆を上げてぇ、月もろともに 出汐いでしおのぉ~」

「ほれ、よいとこさっさぁ、よいやさっさぁ」

「波の淡路の島影やぁ 遠く鳴尾の沖過ぎてぇ はや住ノ江に着きにけりぃ~  着きにけりぃ~~」

「かっぽれ、かっぽれ、甘茶でかっぽれ、 高砂やぁ、高砂やぁ〜」

鳥居の前で鏡開きをしていた連中たちは、境内から流れ聞こえる三味と太鼓と笛の音と、鐘に合わせた唄と踊りのドンチャン騒ぎに気が気でなく、空になった菰樽こもだるを素早く参道脇に置くと、居合わせた参拝客や通行人たちと一緒になり、大きく喚声を上げながら参道を走った。

能舞台では数名の女性たちによる琴の演奏が、優雅な音色で奏でられていた。

 多くの参加者を巻き込みながら、参道から表通りに出て行く踊る集団の後尾を、およね婆さんと京介の二人は、まだ賑わっている境内から見送っていた。

「京介や。いい祝言になってくれたじゃないかえ」

「そうだな。二人に幸あれだ」

「いや、三人じゃ」

「えッ?」

「忘れるな。腹の子を……」

「あはッ!俺としたことが……」

額をポンと叩いて、京介は苦笑した。

「うっかりせんと、しっかりせい!」と、およね婆さんは笑っていた。

京介たちの直ぐ近くでは、残り少ない頭髪を後ろで一つに束ねたクワイ頭で町医者の玄庵を間にして、小太鼓を外した手ぶらの儀助と甚八が、表通りへと繰り出して行く踊る連中たちの後ろ姿を、半ば呆れた顔で見送っていた。

「驚きやした。こんな祝言、見たことありやせん」

 儀介の思いも、甚八と同じだった。

「祝言の唄と踊りと言うよりも、これは『お祭り騒ぎ』と言った方が適しているようですな? 玄庵先生」

 儀介の問いに玄庵は、納得したようにして頷いた。

「まったく、その通りじゃ」

「踊れぬこのワシさえも、見物していてウキウキとしてきたわい」

―――これまでの祝言は厳粛げんしゅくであり、優雅で静かで伝統的な行事であったが、唄と踊りを交え、陽気で賑やかな型破りのこの祝言以降は、このような祝言を「良し」と感じた高級武家や上流階級の人たちだけでなく、派手と豪華さを好みとする一般庶民や見栄を張りたい人たちにとっても大歓迎であり、親類縁者や招待客たちを「あッ」と驚かせる趣向の挙式の始まりだとも言われている。

                                 完


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