夜の夢、明け方の夢
「薄明に沈む」、「黄昏に彷徨う」の続きです。
ちょっと修正入れました。
三人いるのに、いつのまにか一人消えてた……
最初から二人にしました。
輝かしく晴れ渡った、そして大変寒々しいある日、私は目覚めました。
長く眠っていた気がしましたが、彼女が言うには大した時間ではなかったそうです。
地上にはまだ、様々な痕跡が、生々しく残っているそうです。
「剣士と魔法使いは、全てを王へ報告した後、その足で王都を去ったわ」
最後に彼らに会った時、長く意識を保っていられなかったリウは、受け答えの内容をあまり覚えておらず、彼女、こと鳥が全て説明してくれた。
「魔法使いは人知らずの森の奥に一人で暮らしてて、剣士はあの山の中腹に小屋を建てて住んでいるわ。あなたの本体から離れたくないのかしらね」
リウだったものは、邪神の名残りの黒い結界の中で、今も槍を突き立てられて岩壁に貼り付けられている。
そんな状態で、生きているらしい。
ゆっくりと心臓が動いている、と彼女は言った。
「あれはあなたの抜け殻だけれど、今のところあそこになければならないのよ」
そう聞かされて、「へえ」と無感動な声が漏れた。
では今、「ここにある」身体は何なのだろう。
リウはゆっくりと腕を上げた。
視界に、恐らく以前と同じ形の腕と手指が映る。
こぶしを握ったり開いたりすると、思う通りに動く。
「あれから三年経っているの。私の予想では百年後くらいに実体化するかしらと思っていたのだけれど、早かったわ」
実体化……
リウは己の身体を見下ろす。
服を身に着けていなかったので、やせ細った身体がはっきりと目に入る。
「私、こんなに痩せてなかったと思うわ……」
とはいえ、右肩から腹部へ至る大きな傷跡は、森で魔獣に襲われた時にごっそりと肉を奪われた際のそれだ。
治癒魔法があっても、傷跡は残った。
意識せずとも自動で治癒が働いているようだから、時間が経てばそのうち傷も消えるだろうと魔法使いは軽く言ってのけた。
瀕死で喘いでいるリウの枕もとで。
どうせ死ぬことは無いのだからと随分ぞんざいな扱いだったと今にして思う。
そして傷は短時間で癒えたが、傷跡はなかなか消えなかった。
怪我をした、という意識が強烈過ぎたからだろうと、これまた魔法使いは言った。
その傷跡の上、右肩の一部分に、花が開いたような形があってうっすら光をまとっていた。
指先で触れると、暖かく、緩やかな力の湧出があった。
見下ろすと、腹部と、左大腿部にも同じような花の形がうっすら金色に浮かんでいる。
「見て判るでしょうけど、槍に刺された場所よ」
それぞれから力がゆっくりと溢れ、体表面を巡っている。
ぱちんと指を鳴らす音が聴こえ、鳥こと彼女が水鏡を出現させた。
全身が映る大きさだったので、リウは立ち上がってその前に立った。
以前より、身長が伸び、手足と髪が伸びていた。
変わらず髪と瞳は黒かったが、元の身体とはわずかずつ全てが違っていた。
「十七歳だと、こちらの世界ではまだ成長期よ。三年経っているしね」
この身体は新しくできたものの筈なのに、おかしなことを言う。
「あら、元の身体の延長で実体化したのだもの。別におかしなことではないわよ」
そういうものなのだろうか。
「まあそうと意識すれば、全く違った身体にもなれるわよ。私のように金髪とか」
彼女の人型は、金髪に金の瞳の恐ろしく美しい姿だった。
元はリウと同じく日本からの被召喚者であるらしいのだが、精霊になるに当たって、彼女が知っている精霊はこういう外見的特徴を持っていたらしく、それがそのまま反映されたのだそうだ。
「この世界は思い込みが形になったりするから怖いわよね。ま、それなりの魔力があっての話だけれども。でも、今のあなたは、どんな姿にでもなれるわよ?」
そう言われたが、自分が金髪の美女になるというのも何か受け入れがたい。
この姿が、魂の形に添っている気がして落ち着く。
「欲が無いのねえ」
いや、欲という次元の話ではなく、と反論しようとして、やめた。
「馴染んだ姿が落ち着くだけよ」
大きく息をつく。
鏡の中の自分も深呼吸した。
頬に触れ、髪に触れ、傷跡に触れる。
そこに確かにある。感触がある。
「どうしてこんなに痩せているの。服が欲しいわ。落ち着かない」
言った途端、ふわりと光の粒子が舞い、旅の最中身に着けていた服装に包まれた。
「思い込みって言ったでしょ?魔力があるんだからイメージでどうとでもなるわよ」
驚いているリウに彼女は告げる。
「それと、痩せている理由は、あなた本当に最後のあの時点で、そういう身体だったのよ。旅の途中入浴する機会も無ければ、全身を鏡に映すなんて事もなかったから気が付いてなかっただけ。食も細くなっていたようだし、ぼろぼろだったのよ」
リウは首をかしげた。
「体力はついていたような気がするけど」
旅の当初程の苦しさは後半はなかった。
「あなた魔力操作が飛躍的に上達していたのよ。後半はそれで体力不足を補っていたの。眠ってても結界張れてたでしょ?」
「ああ……。毎度魔法使いに怒鳴られてたから」
魔力は効率的に使え、と。
それこそイメージの問題だった、細く小さく薄く、最初は呼吸を意識した。
鳥こと彼女は腹立たしげに眉を寄せた。吐き捨てるように「あの男」と呟いた。
リウは苦笑いする。
確かに腹の立つ男だった。
「イメージ通りに出来るなら、どうして見慣れない身体で実体化したのかしら」
背や髪が伸びた痩せぎすの体。
「不思議よね。でも、この姿って、あなたが意識のない時に形成されたものだから」
現実に即してしまったのかもしれない。
「ああ、そうなのね……」
リウは目を閉じ、日本に暮らしていた時のお気に入りのワンピースをイメージした。
靴と、腕時計と、ネックレスも。
母には「もう少し可愛い色を入れても」と不評だったが、くるぶし丈の黒いワンピースで裾に目立たないよう同色で草花の刺繍がぐるっと施されているそれは、なかなか可愛いと思っていた。母にしてみれば、大人っぽくて少女らしさが無いという事だったのかもしれないが、背も伸びたし、今なら無理もないと思う。
腕時計は高校入学の時に父が買ってくれたもの。ネックレスは兄が買ってくれた。
靴は黒のショートブーツ。母が選んでくれた。
「そういう恰好、懐かしいわ」
彼女が思わず、と言ったふうに呟いた。
「せめて気に入った格好したかったの」
「そう」
彼女は頷いた。
彼女はひらひらとしたいかにも神様や精霊が身に着けるような服を着ている。
白一色で、金色の光の粒子を常にまとわせて。
「神々しいわね……」
思わずといったふうに呟いたリウに彼女は微笑んだ。
「仕方ないのよ。精霊ってこんな風だから」
リウも笑った。
「知ってる」
ここは神の流刑地であるという。
魔法使いはそれを聞いて、では我々の立場は?と思った。
何故神の流刑地に人間が存在する必要があるのか。
どんな罪状であったかは知らないが、神一柱をそこへ縛り付けておけばそれでよいだけの話ではないか。
だが、敢えてそこに人間を存在させたのであれば、それは、神を罰する為に必要であると言う事に他ならない。
神が邪神化するならば、虐げる対象としての人間が。
魔法使いは、いずれ邪神と化すという召喚された巫女が閉じ込められた山の傍に居を構えた。
生きている間に、邪神化は起こらないと聞いたが、巫女の傍にいたかった。
答えが欲しかった。
何故村が襲われたのか。
何故村人は死なねばならなかったのか。
何故人々は虐げられるのか。
何故人間が存在するのか。
答えは邪神からしか得られない。
何度も山に登り、結界の傍まで行った。
黒い靄を吹き払う為に、光魔法を磨きもした。
だが不透明な壁の向こうに、うすぼんやりと見える巫女はぴくりとも動かず、呼びかけに反応もしなかった。
あの時にいた鳥も姿を消しており、長い年月をただ、じりじりと串刺しになって命を削る事になった眠り続ける巫女の姿があるばかりだった。
森に住まい、薬草を煎じ、魔法を磨きながら、森に山に空に、そして自らに魔法使いは問いかけ続ける。
山の中腹に住まうようになった剣士は、時折森に降りてきて狩りを行う。
魔法使いのもとを訪れる事もある。
だが長居せず、多少話してすぐに山へ戻る。
お互い魔法の使える身であり、さほど不自由はしていないが、召喚された巫女について、何か変わった事はなかったかと確認に来るのだ。
魔法使いが山へ登り、あの結界に近づく際は、途中で剣士の小屋へ寄って伴に行く事もあった。
結界表面の靄の払い方は、見ているうちに剣士も憶えた。
ごくわずかに光魔法の適性があったのだ。
効率的な発動の仕方を、巫女のやり方で示してみせると、器用な性質の剣士はあっという間に会得した。
剣士は、反応が無いのが判っていても、何度も何度も、巫女の名を呼びかけた。
とりとめのない話をして、小一時間でその場を去る。
剣士の心は巫女に捕らわれてしまっていた。
所で、リウは、目覚めてから、たまにそれを見ることがあった。
「三年も続いているなんて、情熱的ねえ」と鳥こと彼女は言った。
報われることのない恋は虚しくは無いのだろうか。
てっきり王女と結婚して楽しく暮らすのだと思っていた。
「いやあ、あの男は王族と結婚したがるような性格でもないでしょ。それこそ森で狩りでもして暮らす方が合ってると思うわ」
貴族の子息なのに……
「王女の方は未練があったらしいけど、何年も待てないわよね。この世界の適齢期って短いから。あの後、王がさっさと隣国の王子への嫁入りを決めてしまったそうよ」
「隣国なんかあるんだ。この世界って丸いの?」
「ちゃんと惑星よ。小っちゃい大陸が一つあるだけだけど」
「ああ、それは簡単でいいわね」
「神が繋がれていたのは丁度大陸の真ん中。あの山ね。その周辺を人知らずの森が囲んでいて、更にその周辺に幾つかの国があるって感じ。時によって国の数は変わるけど、今は九つ。我々が召喚された国はワガレルリアグ。召喚陣を持っていたから、他の国に対して常に優位に立っていたけれど、これからはどうなるか判らないわね」
「そう。ところで神の罪って何?」
リウは人への興味は殆どないようだった。
鳥は肩をすくめた。
「神の理屈だからわかんない」
「恨みがつのって邪神になったことは問題なかったのかしら」
「わかんない。でも重要だったのはその神がここにずっと繋がれている事だったんじゃないかしら。別に何に変化しようと些末な事だったんだと思うわ」
「ふうん……」
二人が今いるのは、空の上。丁度大陸中心の山(森と同じく、人知らずの山と呼ばれるようになった)の真上だった。
魔法で居住空間を作り、そこでのんびりと茶を飲んでくつろぎながら、下界の様子を眺めている。
「あなた一時邪神だったのでしょう?その時の知識ってないの?」
「残念ながら、記憶があんまり残ってないの。あなたこそ本来ならこれから邪神になる予定だったのよ?」
「なってないもの。わかんないわよ」
「そりゃそうか」
二人は水鏡で、結界に近づく人影を見ていた。
今日は剣士が、魔法使いではない人物を連れていた。
リウの護衛だった女騎士だ。
「あらまあ。何の用かしら」
鳥こと彼女、呼びかけるのに面倒なので、名前を付けた。ソラリス、と。
金色の光をまとう様が太陽を想起させたので、ソルと、好きだった小説から。
ソラリスは、「まあ私も好きだったわ」と喜んだ。
そのソラリスが少し驚いたように呟いた。
女騎士が三年間どうしていたか、ソラリスも詳しくは知らないらしい。
剣士と魔法使いと国の大体の様子しか見ていなかったようだ。
「リウ様」
女騎士は半透明な膜の向こう側にぼんやりと見えるリウの身体に向かってかすれた声で呼びかけた。
最後の戦いのとき、女騎士はリウの傍にいた。
護衛が任務だったからだ。
戦いの中心は剣士と魔法使いであり、騎士たちは補助。リウは後衛で光魔法を使って援護する。そういう形で臨んでいた。
リウは作戦の要であり、彼女が無くてはそもそもが成り立たない遠征であった。
それを守る任務は、王の厳命でもあった。
それなのにあの時、竜が吐きだした呪いの槍を防ぐどころか、身動きする事さえできなかった。
女騎士の後ろにいたリウは深々と槍に貫かれ、岩壁まで文字通り吹っ飛んで行った。
駆け寄る暇も与えず、黒い粒子がそれを取り囲んだ。
激しく岩壁に叩きつけられながらも、直ぐに意識を取り戻したらしき巫女は、血まみれの顔を上げて微笑んだ。
一瞬の出来事だった。
あの微笑の意味が分からなかった。
何故、あの時、巫女は笑ったのだろう。
王都へ戻って、巫女を守りきれなかったことを謁見の際詫びたが、竜が討たれた事を思えば些末なことだと言わんばかりに王は褒美を渡してきた。
長く瘴気に苦しめられていた人々は、喜びに沸くばかりで、誰も巫女のことなど気にしていなかった。
命に代えても守れと言い渡された命令は、一体何だったのだろう、と虚しくなるほど。
褒美は充分で下級貴族である家は喜び、誉れを持って危険な騎士などやめ、良い家に縁付くよう言ってきた。
ますます虚しくなった。
親の意向に反して騎士でいつづけたが、何度か見合いをさせられた。
竜討伐隊の一員であり、巫女の護衛であった事は良い経歴であるようで、相手はそれなりに条件の良い家の子弟ばかりだったが、「大変だったでしょう」と労われる度、口先ばかりであるように感じてしまう。
とはいえ王都に安穏と暮らしていた人間にそれを理解してもらえるとも思えない。
三年間、すっかり平和になった王都で、座りの悪い思いをしながら過ごした。
王女が隣国へ嫁ぐ際、護衛の一人としてつき従ってくれまいかと依頼された時も、この経歴が王女に箔をつけるからであろうと思えば気は進まず。
旅で一緒だった騎士たちは受けた褒賞でそれなりに満足のいく暮らしをしていると聞く中で、中心人物である剣士と魔法使いが人里を離れて隠者のような生活をしていると聞き、詳細を尋ねてみれば。
あの後、何度も巫女が閉じ込められた結界を訪っているという。
自分でも何がしたいのか判然とせず、ただ、そこに何か答えがあるかもしれないと一縷の望みを抱いて。
信じられないほど静かになった森を抜けて山を登り、剣士の元を訪ねた。
剣士は冷ややかに女騎士を見下ろしたが、拒絶はせず。
同道を受け入れた。
「生きておいでなのですか」
何の反応も示さないおぼろげな影を見ながら剣士に尋ねる。
「命が尽きるのには最低でも数百年かかるそうだ」
「精霊が現れたと巷の噂に聞きましたが」
「そう王に報告したからな」
箝口令を敷くわけでなく、謁見の間での会話は静かに漏れ出て広がっている。王はそれを放置している。
「その精霊の力でもどうにもならないのですか」
「精霊は神に及ぶ存在ではないからどうにもならないそうだ。リウはこのままここでじわじわと死んでいき、完全に死した時に災厄の竜となる」
「そんな……」
女騎士は膝をつき、手を伸ばす。
護符が発動して弾き返され、息をのむ。
「普通の人間では闇に焼かれる」
剣士の言に、黒煙を上げる己の手を見る。
護符のおかげで怪我はなかったが、うっすらと己の手を包む光の粒子を初めて見た。こうやって発動するのか、と思った。
旅の間は、巫女の結界に守られていたため、護符が役に立つ場面が無かった。
それほどまでに、巫女の光魔法に依存した旅だった。
「あの旅は一体なんだったのでしょう」
女騎士は呆然と呟いた。
「災厄の竜を討たねば、この世は瘴気に満ちて滅びただろう。それを先送りする為の旅だな」
数百年の安寧を得るための旅。
「あの方一人を犠牲にして……」
「いや」
剣士は首を振った。
「異界の巫女を何人も犠牲にして、だ。竜は代々召喚の巫女だったのだから」
「何故この世界の人間ではいけなかったのでしょう」
「さあな。我々はその犠牲の上にのうのうと生を繋いでいるのだが、誰もそれを問題とは考えない。王など喜ぶばかりで数百年後の事などどうでもいいと言わんばかりだ」
「リウ様は……巫女様は、我々を恨んでおいででしょうか」
鋭い痛みが胸を走り抜ける。
「どうでもいい、と言ったそうだ」
「え?」
「疲れてしまって、もう終わりにしたいそうだ。この世界、いや己の存在にすら、執着はないようだ」
「それは……、そこまでこの世界が巫女様を追い詰めたという事なんでしょうか」
「追い詰めたのは我々だ」
女騎士は黙り込んだ。
「我々は加害者だ。そもそもの捕らわれの神がどのような罪を犯したのかは知らぬが、この地に住まう我々は生を享受している以上同じく罪深く、等しく加害者だ」
巫女の犠牲の上にその生を営んでいる。
そのようにしてこの世界は成り立っている。
「我々は、どうしたらよいのでしょう」
女騎士は震えながら涙を流した。
「罪を背負って繁殖していくしかなかろう。もう召喚の陣はない。リウが竜となれば、そこでまた瘴気があふれる。その時どうにかできるかどうか、今度こそ我々は試される」
女騎士は言葉を失くして涙を流し続けた。
「深刻そうね……」
のんびりとリウが呟くと、ソラリスが呆れた顔をした。
「そりゃそうでしょ」
リウは椅子から立ち上がって透明な床の上をゆっくりと踊るように歩いた。
くるりと回ると、草花の刺繍がほどこされたワンピースの裾がふわりと広がって、ぱっと足もとに花が咲く。
このところリウは魔法をあれこれ試して楽しんでいる。
召喚されてあの場に留めつけられるまで、魔法は苦しいものだった。
魔法使いに怒鳴られ続けて制御はうまくなったが、全て討伐の為のものであり、日々魔力を使い果たして倒れるように眠る毎日だった。
漸く自由に使えるようになり、何ができるか一から確かめている最中だった。
「空に、花が舞うようね」
ソラリスが言うと、リウは嬉しそうに笑った。
「でも、あの人……」
花のついでに地上を見下ろしながら首をかしげる。
「良くも悪くもあの国の人らしい無邪気さで旅をしていたのに、何で今頃あんなに考え込んでいるのかしら」
剣士は巫女の血を引いているが故に、硬くゆるぎない覚悟があった。
魔法使いは幼少期の悲惨な体験故に、悲壮なほどの覚悟があった。
だが女騎士にはそんな覚悟はひとかけらもなかったように思う。
「何か終始浮ついていたような気がするけど、気のせいだったのかしら」
「そうなの?」
「話題の中心は常に王都社交界の噂話。まあ共通の話題がないせいもあったんでしょうけど。毎日体力の限界でへろへろだったのにそんな話聞かされてもね。今後の事を考えたら、貨幣価値とか地理とか風習とか教えてほしいって言ったんだけど、つまらなそうだし、結局話題は戻るし、そのうち返事するのも億劫になって聞き流すようになっちゃった」
折に触れ聞かされたのは、剣士は優良物件で貴族令嬢たちの人気者だとか、魔法使いは平民出身だが次期魔法庁長官の呼び声も高く、これまた狙い目だと令嬢たちが騒いでいるとか。
王都で人気の二人と一緒の旅で浮かれてたのではなかろうか。
「魔物に半身を吹っ飛ばされた時も、瀕死でぜいぜい息していた私の枕もとで「どうせ自動発動の治癒魔法でそのうち治るから問題ないでしょ」って魔法使いと並んで見下ろされてたわ。ちゃんと世話はしてくれたけど、なんというかまともな人間として扱われてなかった気がする」
今思い返せば、「希少動物」扱いに近かった。
「だから多分、私が犠牲になった所で、彼女の心はあんまり痛まないと思うのよね」
剣士たちとは基本的に価値観が違うのだ。
下級とはいえ、貴族令嬢として、王都で華やかな世界に身を置いていたはず。女の身で騎士となれば、高貴な女性の護衛として引く手あまたでもあったと聞く。
「不思議」
リウは水鏡に映る女騎士が涙を流して嘆く姿を無感動に見やった。
「もしかして、自分が思っているほど条件の良い相手と見合いできなかったんじゃない」
冗談めかしてソラリスが言った。
「それこそ、家柄的に剣士は無理でも魔法使いレベルなら行けると思ってたとか」
「それは、そう、かも」
何しろ話題の中心は王都令嬢の婚活話だった。
「ああやって嘆いていれば、結婚も急かされないんじゃないかしら。世間も同情的になるでしょう」
「剣士と魔法使いは同情しないと思うけど……ああ、そうか、同道した騎士たちならどうかな……」
半分は貴族の三男以下という構成だった。跡取りには遠く、手柄の一つも経てられれば、という野心を隠さず参加していた。腕に覚えもある面子だったのだろう。
討伐は成功し、褒賞も受け、思惑通りとなってほくほくと暮らしている者も多いだろう。
しかし、PTSDに苦しんでいる騎士もいるらしい。
「もしかしてそういう人狙ってる、とか?」
嘆いて見せればシンパシーを得られると思っているとか?
でも演技であれば同調も何も……
と更に考え込むリウに笑う。
「そうそう。浅はかなのよ。苦しんでいる騎士たちは旅を思い出すような人間を避けるだろうし、そうでない者は上昇志向が激しいからもっと貴族の奥様然と振る舞える女を選ぶだろうし」
にやにやと下界を眺めているソラリス。
「ほら、ごらんなさいよ」
見ると、剣士に泣き縋ろうとして避けられている。
俯いて口惜しげに唇をかむ顔を見て、リウも納得した。
剣士からは見えていないと思っているのだろうが、全体に丸わかりだ。
「中途半端なのよね。普通の令嬢ほど社交に揉まれてないし、腕っぷしは男の方が強いわけだし。突出した技とか魔法とかあればいいけどどれも平均的ってだけだし」
ソラリスは辛辣だった。
「身の処し方に困っているって所じゃないかな」
「王女についていけばよかったのに」
「覚悟が決まらなかったんじゃない」
ふうん、とリウは足元に小川を生み出した。
ぽいと靴を脱ぎ捨ててスカートをたくし上げて水に入る。
「何してるの」
「水遊び」
丸い石が敷き詰められた、くるぶし程度の水位のせせらぎ。
リウは下を見るのに飽きたらしい。
ゆるゆる水の中をまた踊るように移動し、聞きなれない歌を微かに口ずさむ。
ぱっと最後に軽く片足を上げると、ぱしゃんと水が跳ねた。
跳ねた水は細かい粒になってリウの起こすそよ風に乗り、山に雨を降らせた。
剣士と女騎士は結界の傍を離れた。
剣士は中腹に建てた小屋で、女騎士と別れた。
女騎士は暫く、未練がましく小屋の前をうろうろしていたが、やがて諦めたように去った。
植物が殆ど死滅している岩だらけの山は、少しの雨でも泥の川が出来る。
道に沿って流れてぬかるむので、それを知っている女騎士は慌てて下山する。
それでも山裾の方は、三年も経つと雑草が繁茂する場所になっている。
そこまで降りてきて女騎士はほっと息を吐いた。
森へ入ると木々が雨を遮った。
ぽつりぽつりとそれでも水滴は落ちてくる。
外套は雨避けの魔法が施してあるので濡れてはいないが、足取りは重い。
歩いているうち、道のない木立に、淡く光る道が出来ていることに気が付いた。
不思議に思って見ていると、その上を光る小魚が現れてぴょんぴょん跳ねていった。
何度か瞬きして目を擦り、それが幻でないと判ると、正体は精霊ででもあろうと当たりを付けた。
精霊は、今や滅多に目にすることのできない存在で、更に契約を交わすと人には無い魔法を行使してくれるという。
女騎士は思わずその姿を追いかけた。
親指程の小さな魚は虹色の光を発しながら楽しげにぴょんぴょんと道をはねていく。
歌いながら。
魔法使い、魔法使い、
雨が降ったよ、遊びに来たよ
道が光って扉が開いた
お空であの子も踊ってる
不思議な節で、聞いたことのない歌を歌いながら跳ねていくその先に、小さな家が現れた。
道はその家の門まで続いていて、小魚はためらうことなく木造りの門に飛び込んだ。
「あ……!」
思わず声を上げるが、小魚は門扉に消えた。
同時に光る道も消えた。
どうしたものかと門扉の前に佇んでいると、音もなく開いて背の高い女が現れた。
魔法使いのトーガをまとい、グレイがかった黒髪を長く背中に垂らしている。
「お客様かしら?」
女はおっとりと尋ねた。
「あの、雨宿りをさせていただけませんか」
女騎士は咄嗟に応えた。
「ああ……」
女は何故か空ではなく、足元を見た。
「どうぞこちらへ」
芝生の中を石畳の小道が玄関まで続いていた。
「急な雨でしたものね。小魚は喜んでいたようですけれども」
和やかに笑みを浮かべて女は玄関扉を手を触れるだけで開けて居間へ女騎士を通した。
外観からするとかなり広めの部屋だった。
艶のある赤味を帯びた木目のテーブルと同じ素材の椅子が中央に置かれ、四方の壁は隙間なく棚で埋め尽くされ、薬草の匂いが立ちこめていた。
テーブルは広く、どうやら作業台を兼ねているらしい。
調薬の道具のない端から素材や書籍をどかして場所を作り、白磁に綺麗な草花の彩色のあるティーカップで茶を出した。
「普段は薬草茶なので、うまく入れられてなかったらごめんなさいね」
白磁のティーカップは口当たりも柔らかく、茶の香りは高く、角のとれた円やかな味だった。
「美味しいです」
何よりも雨で冷え切っていた身体に暖かい飲み物がありがたかった。
「それは良かった」
女はテーブルの上の琺瑯の入れ物を移動させて蓋を取った。
中にはクッキーが詰められていた。
「こちらもどうぞ」
歩き続けて空腹を覚えてもいたので、勧められるままに口にした。
薬草や木の実などを練り込んである、一つ一つ味の違ったクッキーだった。
「これも美味しいです。あの、あなたが手作りされたんですか?」
ゆっくり味わいながら尋ねると女は微笑む。
「他に人手もない森の中ですからね」
「あの、おひとりでお住まいなんですか?」
「ええ。たまに小魚なんかが訪ねてきますけど」
先ほどご覧になったでしょう、と女が言う。
それで虹色に光って跳ねる小魚を思い出した。
「あれは精霊か何かなのですか?」
「ええ。もっとも雨が上がると消えてしまうような儚い存在ですが」
精霊は生まれては消える泡のような物なのだという。
その中の余程運の良い存在が消えずに残るのだと。
「ではさっきの小魚ももう消えてしまったんですか」
門扉に躊躇いもなく飛び込んた小魚。
「あれは雨で出来た流れから生まれたものですから、雨が降っているうちは」
棚で埋め尽くされた壁に唯一開いている開口部である窓を見やった。
「庭で遊んでいる事でしょう」
窓から見える庭には、芝の上で楽しげに跳ね回る小魚が何匹も見えた。
「まあ、沢山」
思わず女騎士が言うと、女は笑った。
「ここは場所柄、魔力がひたひたなので、精霊が生まれやすいのです。まあ今だけの事でしょうが」
「今だけ?」
不思議に思って問い返すと女は頷いた。
「巫女に浄化された瘴気は消えたわけではなく、綺麗な魔力に変換されたようです。何しろ大量にありましたからね。この森は今その恩恵を受けて急速に元の息吹を取り戻しています」
女は窓を僅かばかり開いた。
雨雲の向こうに日が差し始めていた。
小魚の歌が聞こえてくる。
魔法使い、魔法使い、
ここはお水が綺麗で沢山
楽しいよ
踊ろうよ
楽しげな歌声だった。
「あの、庭に出ても構いませんか?」
女騎士が尋ねる。
「濡れてしまいますよ?」
「あの、でも楽しそうなので、少しだけ」
それを聞いて女はふふと笑った。
そして玄関扉を開けた。
「どうぞ」
繊細な長い指で庭を示す。
優雅な動きだった。
女騎士は誘われるように外へ出た。
庭では小魚が跳ね回っていた。
女騎士はそっと手を伸ばしてみる。
幻のように通り抜けてしまう。
触れることは出来ないようだった。
踊ろうよ
歌おうよ
素敵なお水が沢山だよ
周囲で楽しげに跳ねる小魚と一緒になって、女騎士はくるりくるりと踊り始めた。
小魚はそれに応じるようにますます激しく跳ね回った。
踊って歌って、
綺麗なお水はきらきら
きらきら
きらきら
小魚たちのリフレイン。
虹色の光が目にまぶしい程弾ける。
庭中がその反射で満たされる。
遠くに見えていた雲の切れ目も近づいて、雨脚は弱まり、徐々に光のカーテンが差してきた。
きらきら
きらきら
やがて庭中の光は一つの流れになり、庭の真ん中にある井戸へ流れ込んでいった。
窓辺から庭を眺めていた女は笑みを浮かべたままそれが終わるのを確かめてゆっくりと庭に出た。
あれほど沢山いた小魚も光の反射もなく、青々と水にぬれる芝があるばかり。
その中央に女騎士が倒れていた。
「魔法使い様」
横たわる女騎士は力なく見上げて呟いた。
傍らに立って見下ろすのは、旅の間中見慣れた黒トーガの魔法使いの姿だった。
「どうしたことでしょう。力が抜けてしまいました。いえ、なぜ女性の姿でいらっしゃるのです……」
先ほどまでの女と全く変わらぬ姿であるにもかかわらず、それがきちんと魔法使いと判別できる。
魔法使いは肩をすくめた。
「無作法に訪ねてくる女が少なくは無い数いてな。面倒なので女人の姿で過ごしている。もともと私はどちらともつかない人間なのだ」
「……どちらともつかない……?」
魔法使いはにやりと笑った。
「魔法を学ぶには男の姿の方が有利だったのでな。騎士であるそなたもよく判っているだろう?」
男尊女卑が激しい世界だ。
女騎士とて、家が騎士の家系で後継者に男子がいなかったため修行を許されたに過ぎない。
王家に王女が多く、女性の騎士を求められた事情もあった。
女騎士は父親が騎士団の中隊長を務めていた事もあって、周囲の抵抗はさほどでもなかったがそれでも軽い嫌がらせ程度は受けた事がある。
「こうして森で一人過ごしてみると、女の姿の方が楽だ」
日差しが庭に差し込んできた。
眩しげに眼を細める魔法使いは美しかった。
化粧を施しているわけでもない、華美な装いをしているわけでもない、にもかかわらず、王都社交界一の美女と言われる公爵夫人よりも。
「そなたが何を思ってこんなところまで来たのかは知らぬが」
女騎士ははっと顔を上げた。
「王都へお帰り」
いっそ優しげに魔法使いは言った。
討伐の旅は遠く、一度人の世界に戻ったのであれば、そこで生きていく他ない。
女騎士はそこでやっと自覚した。
戻りたかったのだ。
あの非日常の旅へ。
騎士として必要とされていると実感できたあの毎日へ。
「私はもう人の世界へ戻る気はないよ」
魔法使いは続けた。
「剣士殿も同じだろう」
その覚悟もなく近づくな、と言外に告げていた。
女騎士の目は再び涙でぬれた。
「花の盛りを過ぎぬうちに、王都へお帰り」
リウが足を浸けたせせらぎの中を小魚が歌って跳ねた。
魔法使いの庭は素敵
きらきら光って小川が流れる
きらきら光ってお花が満開
リウも鼻歌で合わせながら、せせらぎの中をゆらゆら歩く。
「見事に空振りしたわねえ」
笑いながらソラリスが呟いた。
己自身が真に何を願っているのかさえ理解できず、ただやみくもにこんなところへまでやってきて。
剣士と魔法使いに冷たく突き放されて。
二人とは決定的に違うのだと思い知らされて。
かといって王都の生活にも馴染めず。
ただ泣くばかり。
「きっと自分は特別だと思っていたのね」
リウが漸く水の中から足を上げて靴をぶら下げながら裸足でテーブルの傍まで戻ってきた。
「旅の間中、私に心なしか当たりが変だったのもそのせいだったのかも」
巫女は文字通り「選ばれた者」だから。
「特別なんて、何もいいことないのにね」
水鏡の中の、ただひたすら静かに涙を流し続ける女騎士を眺めながら呟いた。
ソラリスは応えず、微笑んだ。
特別、特別、精霊の庭
精霊の森
精霊の山
いつの間にか足もとに一匹跳ねてきた小魚がそう歌った。
リウは靴を置いて手を伸ばし、小魚を掴んだ。
「もう森に戻りなさいよ。何故遡ってきたの」
---あの人間の女がいなくなったら
「あら、嫌なの?」
---魔法使いの魔力は好きだけど、あの女の魔力が混ざるのは嫌。美味しくない。
「そんなものなのね」
精霊はどういうわけかあの魔法使いの魔力を好むようだった。
今や清浄な魔力でひたひたの森の中にあって、生まれては消える小さな精霊たちは、誘われるように魔法使いの住処の庭へと集まる。
そのせいで庭は常に花が咲き艶々の野菜と薬草が繁茂していた。
「じゃあ、山の方へ行きなさいよ」
ぽいと小川へ小魚を投げ込んだ。
剣士の魔力も「まあまあ気に入っている」と精霊たちは言う。
女騎士が去るまではそちらにいればいい。
「追い払わなくてもいいじゃないの」
ソラリスが言うと、リウは僅かに顔をしかめた。
「ここだと消える事もないから増えるばかりじゃない」
空の上の閉じた空間に、精霊が溢れても困る。
目を眇めると、空間中にきらきらと細かい光が見える。その全てが産まれたばかりの精霊だった。
「災厄の竜の瘴気って……」
リウの呟きにソラリスも笑う。
「ね。何だか竜って苗床みたいよ」
邪神の罪の贖いがそれであるのなら。
長くこの地に縛り付けて置く意味も分かる。
「私たち、本当に単なる巻き込まれで、「誰でも良かった」って事よね」
「運が悪いっていうかね……」
この世界の人間が巫女たりえない、という理由だけで求められた。
「出来るものなら、いつだって替わってあげたわよ」
鏡の中の「特別になりたかった」女騎士に向かって呟いた。
最もそれで、彼女が満足するかどうかははなはだ疑問だが。
きらきら
きらきら
小魚たちが楽しげに歌い続ける。
溜息をつきながら、「元巫女」の二人はその戯れを見続けた。
その思惑に、翻弄されるほかない「ただの人」として。