何者でもない僕達は、
朝、起きる。目覚めが良い僕はベッドの横のカーテンを広げ、朝日を浴びる。ベッドから降りて、自室のドアを開け、リビングに向かう。いつもどおりの毎日が始まっていくのだ。階段を降りて見えてくるリビングには母親が一人。父親はもう仕事に行ったようだ。一言、母親におはようと声をかけて洗面所に。映る鏡にはあまり好きではない自分の顔。中途半端に伸びた髪は目をちらちらと突き刺してくる。その目と言ったら細く、お世辞にも美形とは言えない。
――あぁ、もう少し可愛く生まれたかった
「親に失礼」とどこかから聞こえてきそうだが思ってしまったものは仕方ない。
Xジェンダー。心の性が男女どちらにも属さない、属したくない存在。
気づいたのは簡単だった。小さい頃には自分にもたくさんの友達がいた。人並みに笑って、話して、手を繋いで。いつからだろう。
――もし、女の子だったらなぁ
そう考えるようになったのは。そしてその回数は増していき、自分のことがわからなくなった。男であることに不満はなかった。気づくまでに過ごしてきた時間は当たり前のように男の振る舞い方で、高校生まで時が経ってしまった今でそれを直すことも不可能だと思う。そんな中、Xジェンダーの存在を知ったのだ。これだと思った。僕は男でも女でもない。ありたくない。人類なんてのは74億人もいるんだ。僕みたいなやつがいたって、なんら不備はないだろう。そう思ったら楽になれた。
顔をタオルで拭いて、食卓に向かうと朝食が並んでいた。「いただきます」と感謝を捧げて箸を持つ。TVでは昨今の世界情勢なんて気にも留めないニュースバラエティが占い特集を流していた。
教室の扉を開ける八時十三分。始業までまだ二五分以上ある余裕を持った時間に登校。教室にはまだ片手で数えられるほどしか来ておらず、静かな空間。そんな中を一番奥まで歩き、机にカバンを置く。自席の直ぐ左隣にある窓を開けると、新緑のワンピースを着た桜の木が教室内を覗き見てくる。
「ねぇ」
冷たく硬い椅子に腰掛けると同時に隣の席から声をかけられる。
「数Bの宿題、見せてくれない?」
鈴の音のような心地よい声を届かせてくるのは篠山朱音さん。焦げ茶の地毛をひとつ結びに低く束ね、ブレザーを校則通りに着こなしている。「いつもより早く来ているな」と感じたのは僕の思い違いなんかではなく、机の上は数学の教科書たちが占拠している。
「別にいいけど」
普段からあまり交流こそ少ないが、断って今後に影響が出るのもあんまりだ。机においたばかりのカバンからA4サイズの水色ノートを取り出し、手渡す。
「ありがと、この借りは必ず返す。かたじけない」
「あ、うん」
別に恩を売ろうとしたわけではないのでどこかむず痒い。個性の強い人だ。隣の席になって一ヶ月ほど経ったが、新しい発見。
「今日は六月六日だから、出席番号6番と26番。みんなのノートを職員室まで運んでおいてください」
二時限目、数学。担任教師からのそんな言葉。
「わかりました」
思いもよらぬ雑務で休み時間が削られてしまう。出席番号6番、加賀美碧。それが僕。そして26番というのが、
「じゃあ、加賀美くんは男子の分をお願いね」
隣席、今朝方ぶりの篠山さんである。
我が2−4組は、男子20人女子20人の40人クラス。出席番号1〜20番が男子で21〜40番が女子。まだ席替えをしていない、デフォルト的な座席順だと隣席の人とは出席番号が同じなのだ。
二人で分担して職員室に向かう。普段から運動なんてしない僕にノート17冊分は思いの外応える。まぁそれでも短い職員室までの道のりだ。すぐに終わるだろう。
「ねぇ」
背筋の良い篠山さんは猫背の僕と並んだらちょうど同じぐらい。
「君って、どっちなの?」
一瞬、時が止まった。心臓に氷柱が刺さったように思えた。数秒間息が出来なくて、口がパクパクと空虚を泳いでしまう。
「ど、どういうこと?」
意図の読めないその疑問文には、確かに僕の中まで貫く何かがあって、その何かを確かめようと声を絞り出す。
「ううん、なんでもない、忘れて」
表情も見せずに歩いていった篠山さんの声はどこか硬くて、僕は何も考えられずにただ立ちつくしていた。体の力が抜けていって、バランスの崩れたノート郡が床に自由落下していく。折れ曲がってしまったノートの持ち主には可哀想だが、責任の所在ははたして僕なのかすらも分からない。
息を大きく継いで、再び歩き出す。このもやもやさえも冷やしてくれそうなほどエアコンで冷えた職員室まで、無事にノートたちを送り届ける。下を向いたまま僕は、すこし躊躇しながらも教室の扉を開ける。その時にはもう、篠山さんは女子グループの輪の中で談笑していた。疑問符の投げ先が分からなくなった僕は、自席に着いて次の古文の準備をするしか無かった。
――今回の体育祭は赤組、青組、緑組、白組の4つの団でうちのクラスは白組だからな……
窓の向こう側では体育が行われていて、ソフトボールとバットの接触音が甲高くこだましている。もう四時間目だからか机の上でうつらうつらしている輩は多く、昨夜遅くまで何をしていたのだろうかと疑問に思う。まぁ、当の僕自身も眠気と絶賛交戦中なのはいただけないが。せっかく担任が体育祭について説明してくれているのに生徒側と言ったらこれっぽっちも聞いていない。
――今日の朝のさ、占いでね……
右隣方向から聞こえてくる会話には、僕を困惑の渦に落とした張本人、篠山さんがいて。
「色占い? なにそれ、聞いたことないよ」
と、女子トークに花を咲かしている。おかしい。今は出場種目を決める時間のはずなのに関連するキーワードなんか一文字も出てこない。これが昨今の若者のあり方なのだ。
「石でも占いするの? すごいね」
会話の声がだいぶ大きくなっているのに担任は注意しない。公務員になれたのが不思議に思うぐらいこの人は怠惰なのだ。授業中の私語なんて注意しない。なんなら試験監督中なんて誰よりも先に机へと伏している。おっとここでクラスの人気者の男子が乱入。
――占い? 信じてねーわ
なんでこんな空気の読めないやつがクラスの人気者なのか理解するには授業時間が足りないだろう。現にあんなにも朗らかに談笑していた篠山さんが黙ってしまったじゃないか。反対に楢崎亜胡さん――篠山さん仲がいい、クラスのマドンナ的存在――は生き生きとし始めたが。
――ん?
胸に覚えた違和感はどんどん広がって、どんどん確かめるように視点が変わっていく。もしかして彼女は――――。
黒板上のスピーカーから電子的なチャイムが鳴り響いて、授業の時間は終わってしまう。この疑問を解消するには、直接彼女に訊くほかないだろう。
「ねぇ、ちょっと、良いかな」
ノートを乱雑に机の中に放り込み、足早に篠山さんに話しかける。当の本人はきょとんと目を丸くしており、子犬のようでどこかがくすぐられるよう。他のクラスメートは購買の弁当が売り切れてしまうのを危惧して、財布を握りしめて行ってしまった。人も少なくなった昼過ぎの教室で、僕達ふたりはお互いを伺い合っていた。
少し日の差した渡り廊下。教室棟と活動棟の間では微妙な光が地面を照らして、ビル風が髪を泳がせている。
「話って何?」
目の前にいる篠山さんは怒っているのか、笑っているのかわからない表情を送ってくる。同い年とは思えない雰囲気に嫌に分泌された唾液を飲み込む。きゅるりと音を立てた喉は渇いていたようで、微かな痛みすら感じてくる。
「あの質問なんだけどさ」
職員室までの道のりで聞かれたあの言葉。今もずっと頭の中で浮かんでは消えて、浮かんでは漂い続けている。
「あぁ、あれ? なんでもないって、気にしないでいいよ」
「答えるから。答えるからさ、僕も質問していい?」
通っていない理屈を唇で震わす。こんなにも緊張した瞬間があっただろうか。
「どーしよっかなー?」
そんな僕の心うちなんて見向きもせずに、飄々と話を進めていく。やっぱり、この人は若干嫌いだ。
「……その質問、聞かせてくれない?」
まるで、忘れた宿題を見せてもらうかのように尋ねてくる。掴みどころのない、不気味な人だと認識を改める必要性がありそうだ。なんて、どうでもいいことを考えていないとおかしくなりそうなほど心臓が警鐘を鳴らしている。けたましい心臓をこぼさないように小さく口を動かす。
「……楢崎さんのこと、好き、なの?」
あれはまるで、昔の自分を見ているかのようだった。それだから気づけたのだ。気づけてしまったのだ。あの苦く、甘かった時期を思い出すように。僕が放った言葉は一瞬にして彼女が纏う空気を変えてしまった。耳に当たる風が時の流れを教えてくれて、辛うじて息を紡ぐことができていた。木々とともに揺らめく彼女の印象は、この一時でまた移り変わる。
「ううん、違うよ。亜胡ちゃんは、友だちだから」
微笑みながら、泣きそうなほど、触れたら崩れてしまいそうな表情でポツリと言った。その時だけは風がやんで、君の優しい声がふわりと広がった。
「そっか」
僕はただ、ただただに美しいと思ったんだ。
「おはよっ! ミドリちゃん」
あの日から数日経って、変わったことがある。一つは前よりも篠山さんが話しかけてくるようになったこと。もう一つは、
「おはようございます。僕はアオ、ですけど」
あの日聞かれたこと、それは。
――君の名前って、アオ? それともミドリ?
僕の名前は加賀美碧。問題なのは名前としての読み方であって、「碧」という漢字で名前に使える読み方は“あお”と“みどり”の2つがあるのだ。今までの人生、その二分の一の賭けで外されたことが多々ある。僕はしっかり「自分の名前はアオ」だと伝えたはずなのだが。
「いいじゃんっ! ミドリちゃんの方が可愛いよ」
何度言ってもこの通りで、もはや成すすべがない。
「どうしたらしっかりとアオって呼んでくれるんですか?」
呆れのため息をつきながら一応訪ねてみる。どうせ彼女のことだから無理難題を押し付けてくるだろうけど。
「ん〜、じゃあ、私のこと、名前で呼んでよ」
「無理ですね」
「どうしてよー!」
「どうしてもです」
――名前で呼び合うなんて、そんなの仲良しでやることだ
なぜか言ってはいけないと腹の中で感じ取り、言いかけた言葉を引っ込める。
「それよりも、今日は体育があります」
「へ? うん」
何を血迷ったか気怠げな担任は二人三脚にペアを隣席とにしたのだ。全く迷惑極まりないが、無駄話に高じていた僕らにも非があるので直接抗議にもいけない。生徒にペアを決めさせると長引くのもまた当然の事象。それすらも見越したあの時間だったとしたら、担任は意外にも頭が切れるのかもしれない。
「うん? 体育があるのが何か問題なの?」
「大問題ですよ。僕達の息が合うとは到底思えない。転びに転びまくって、白組の足を引っ張って、篠山さんはみんなに好かれてるけど僕はそうじゃないから、僕に非難が集中して……」
「そんなのにはなんないよー」
ネガティブすぎじゃなーい? と脳天気な声で言われるが、あなたとは住んでいる世界が違うのだよ、と何故か反抗的な思考が浮かぶ。勝手に敵対心を抱いている僕は些か気持ちが悪い。
「とにかく、転んで怪我するのも嫌なんです。しっかりと、真面目に頑張りましょう。」
「そんなのは言われなくてもわかってますー!」
そして、体育祭当日。
「1で右足、2で左足だからね」
互いの足首を赤いリボンでくくった僕と篠山さんは、テイクオーバーゾーンで二人三脚の最終確認をしていた。
「わかった。わかったって。」
篠山さんの手が微妙に震えているのはからかわないでおこう。まだ6月だってのに太陽は十二分に仕事をしていて、汗で背中に張り付く体操着が気持ち悪い。やはり、体育祭は曇りが一番いいな。
「……手、震えてるよ」
前後撤回。なんだか無性にからかいたくなった。この心理状態の名称はまだ明らかではない。そろそろ僕たちの出番というのに何とも緊張感がない。それが僕達だとも言えるけれど。
「じゃあ、手、繋いで」
いつもとは違う、どこか弱々しい声。意外に緊張しやすいのだろうか。今日は冗談も面白くない。どこかで聞いたようなその声色は微かなささくれを僕の心に残していく。
「そろそろ、前の走者が来るよ」
なんと言えばいいのか分からなかった。こんな問題は中間テストには出てこなかったし、これからもきっと出てこない。公式も定理もないこの問題を解決するのは不可能なのだ。時間が流れていることに感謝をしつつ、スタートの体制に入る。
「よし! 頑張るぞ、ミドリちゃん!」
あの声色は何処に行ったのかと怖くなるほどに打って変わった明るい声。やっぱり、あなたはそうでなくちゃ。後ろに突きつけた手のひらにバトンが乗ることを確認した僕は掛け声を始める。
「せ〜の、いち!」
男子混合二人三脚リレーは八チーム中四位という中途半端な結果となった僕達は自身の応援席へと帰っていく。直射日光によって暖かくなった椅子に腰掛け、これまた直射日光によってぬるくなったスポーツドリンクを飲み干す。あと僕が出場する競技は玉入れだけだが、この気温だ。熱中症に考慮して追加の飲み物を買いに行こう。財布を握りしめて昇降口にある自販機に向かう。
屋根があることである程度居心地のいい昇降口。売上が確立しているここの自販機は安くて、スポーツドリンクならワンコインでお釣りが来る。大きな落下音で現れたペットボトルを一口。想像以上に僕の体は水分を欲していたようで、もう三分の二ほどまでになってしまった。
これ以上ここでくつろいでいるとサボっていると通報されそうなので、そろそろあの暑い校庭に戻ることにしよう。ペットボトルのキャップをきつく締めてあるき出す。昇降口を出るときに篠山さんとすれ違った。彼女も手持ちの水分がなくなったのだろうか。二人三脚で汗も掻いたからな。特に気にもとめず校庭に戻る足は止めなかった。
応援席に戻るとなにやら盛り上がりが見える。まだ二人三脚の後の綱引きは終わっていない。どうやらヒーローインタビューではないみたいだ。疑問を抱えつつも席に座る。再び口をつけたスポーツドリンクはもう半分近い。あとでもう一つ買い足す必要がありそうだ。にしても、盛り上がりが収まる気配がまったくない。ここまで来たら僕も気になってきた。
前の席に座っている男子に聞いてみる。こんな僕でも話しかけられる程には成長したのだ。
「野崎が告ったんだって」
野崎? 一瞬顔が浮かばなかったが思い出した。僕には理解不能な空気の読めないクラスの人気者の彼だ。あんな奴にも告白ができる勇気があったことに驚きだ。少しだけ見直すことにしよう。
「告ったって、誰に?」
得体の知れないモヤモヤが膿み出てくる。隣の席の彼女が一向に戻ってこないこととは関連はないだろう。きっと。
「楢崎さんに。野崎、前からそんな感じだったもんな」
あぁ、なんでだ。なんで僕は今、校舎へと走り出しているんだろうか。何も心配はないだろう? いつもの彼女は明るくて、自信に満ち溢れていて、かっこよくて、綺麗で、僕とは正反対で。
違うな。僕は知っているんだ。彼女の脆くて、儚くて、美しい部分を僕は知っているんだ。僕はそんな、彼女のことが。
駆け上がった階段。いつもの教室にはカーテンが掛かっているようで光が淡く波打っている。
「……こんなとこでサボってたんだ」
見つけた篠山さんはいつもの席で打っ伏していた。静謐な雰囲気があたりに漂っている。そんな彼女になんと声をかければいいのか僕にはわからなかった。いつもどおりとは言い難い導入になってしまった。
「ミドリちゃんこそ、なんでこんなとこにいるのさ」
体育祭中の校舎の立ち入りは制限されている。一人になるにはうってつけの場所のはずなんだ。
「隣、いいですか」
一応の確認をして、答えは待たずに席につく。誰もいない教室の隅はなぜだか心が軽くなった。
「優しい言葉なんてかけないでね」
小さく聞こえた声は篠山さんの声だろう。こんなセリフを彼女が言うなんて誰が想像できただろうか。
「そんな言葉、かけるわけないじゃん」
「楢崎さんのことが好きなくせに、びびってなにもしなくて。そしたら野崎くんに取られちゃって。傷心中の篠山さんは誰もいない教室でめそめそと泣いてるんだ」
我ながら酷いな。震えそうな声は必死に隠しておこう。
「言い返してこないんだ」
追い打ちをかける僕の声は楽しんでいるようにも聞こえる。
「だからなに? 君に何がわかるの?」
「わかるんだよ。君以上に理解してる」
呼吸が細い。目の前が白く眩い。吹き付けた風が教室のカーテンを捲り、陽の光を僕へと届ける。誰かに似ている。
「中学生の時、僕も同じだったんだよ」
まだ、自分のことをよく知らなかったあの頃。中学二年生のあのときに、僕は自分が普通ではないと確信付いてしまったんだ。
あんな頃が楽しかったんだ。陳家で陳腐でくだらないようなことで馬鹿みたいに笑っていた頃。同じクラスの男子で、背が僕よりも低くて、ちょっぴりシスコンで、そのくせ学級委員をしていた。僕は彼のことが好きだった。
今までも好きな人はいた。それはもうたくさん。少し顔が可愛いとか、隣の席でよく話したりだとか、物静かだけど優しい人だったり。多分、僕は恋愛体質なんだ。色んな人を好きになってしまう。
でもその男の子に抱いていた感情は今までとは違う気がしていた。きっと今までの恋愛感情だと思っていたのは子供の勘違いで、ようやく本質の一片に触れていたんだろう。
とにかく、僕は彼が本気で好きだった。でもそれは普通ではないのも知っていた。普通がどんなものなのかもわからないけど。周りにいるみんなと自分が違うのは、あの頃の僕には苦痛だった。それを感じながらも彼のことを目で追っていた。そんな自分に気づいて、また自己嫌悪に陥っていた。
やがて、僕は諦めた。
「気持ち悪いでしょう? 僕のこと」
「そんなこと、ない」
「篠山さんはどうするの」
「諦めたいよ……。だけど……!」
「私はどうしたらいいの……?」
震えた声が教室中に渡っていく。外からは応援の声が聞こえてきて、僕達の存在なんてちっぽけだと教えてくれた。
「二つ。たった二つだけだよ。」
「告白するか、諦めるか」
彼女は僕だ。どうすればいいのかわからなくて電気を消した部屋で目を瞑っていたあの僕だ。かつての自分の姿が重なって、やけに心臓が早い。もう、逃げたくないだろ。
「僕は、未来は知らないし誰のこころのうちも知れないけど」
「何もしないで、暗闇の中で蹲る痛さは知ってるから」
「僕の勝手なことで申し訳ないけど、君にはそんなものは似合わない」
あの頃、僕が言ってほしかった言葉はなんだよ。それはきっと。クラスの人気者が笑って励まして言ってくれるような言葉じゃなくて。数学の先生が教えてくれるような公式的な言葉じゃなくて。
何者でもない誰かの独り言のような言葉だったんだろう?
「笑えるように生きようよ」
誰かが言っていた。人生は笑うためのものだと。人生なんてそううまく行かない。どっちに転んだってうまくいかないときだってあるし、どうしようもなくて立ち尽くすしかないときもあるだろう。それでも笑ってやろう。あの頃の僕は滑稽だったといつか涙を流さなくてすむような、そんな今を。
「……私、いってくる」
立ち上がった彼女の顔は涙でぐしょぐしょで髪なんて全く整ってなくて、でもその目はいきいきとしていた。僕しか知らない君がいた。なぜか優越感が湧いてくるのは今は必要ない。
「帰ってきたら、一緒に笑おうか」
小さくうなずいた彼女は足早に校舎を出て、楢崎さんを探しに行った。
おっと、もうすぐ玉入れの時間じゃないか。僕もそろそろここから離れよう。誰かに見つかったら面倒だ。出場選手の集合場所へと向かっている最中に見かけた二つの姿は互いに抱き合っていた。
体育祭は負けてしまった。もとからあまり興味をおいてなかった僕は閉会式でその結果を聞いても、体育座りを早くやめたいとしか思えなかった。その頃にはもう日も高くなくて、あんなに青かった空が赤みがかってきている。斜め前にいる篠山さんは近くにいた楢崎さんと笑い合っていた。閉会式も終わって、やたら声が大きい三年生の担任教師のうざったい言葉も頂いて。クラスのやつは体育祭の余韻に浸って、カップルが写真を撮っていたりもする。
「しっかり伝えたからね」
くぐもった鼻声が後ろから飛んでくる。
「急に話しかけないでよ、びっくりした」
その声はやはり篠山さんで、目は赤くなっているものの清々しい顔をしていた。
「……ありがとう」
「僕はただ、言いたいことを言っただけ」
「そっか」
嘘はついていない。浮かんだ言葉が勝手に喉を通ったんだ。それが本心でそれ以上でもそれ以下でもない。むしろ器用に嘘をつけるほど僕はうまくできていない。
「しっかり好きだって伝えて、泣いて泣いて泣いちゃて。それでも友達がいいんだって。かわいいでしょ」
どこか吹っ切れ過ぎな気もするが、このぐらいのほうが彼女らしいと言えるだろう。
「なんだ、じゃあ笑わなくてもいいんだね」
「ほんと、ありがと」
「……あの日の質問、今ならしっかり答えられるよ」
「ん? なんのこと?」
「どっち、なんてない。僕は僕だし、なんてことない存在だよ」
僕達は何者でもないのだ。この世界のほんのちっぽけな要素の一つに過ぎなくて、僕達が何かをしたからってなにかが変わるわけでもないんだ。占いなんてものは当てにしなくていいし、落としたノートに折り目がついていたってどうってことない。
「ねぇ、朱音って呼んでもいい?」
だからこそ、こんな些細なことに勇気なんていらないし怖がる必要もない。何者でもない僕達は、何者にも邪魔されないで、何者にでもなれるんだから。
「もちろんだよ、アオくん」
もうすっかり傾いた夕日は彼女のことを茜色に照らしている。うん、なんか違和感だな。
「ミドリ、でいいよ。朱音が呼んでくれるから」
案外、嫌いじゃなかったんだ。
おわり