白いブレザーと魔女と最初の罰
ぼくは走り去る。いや逃げだしたと言っていい。ぼくは逃げたんだ。あの真っ白いブレザーの制服から。
そうしてうちのマンションまで来てオートロックを開けエレベーターに乗り、なんとか玄関のドアからぼくの部屋まで走り、ようやく部屋の真ん中に立ちつくしたとき、ぼくはその動転してしまった理由を探すのに全力で脳内をフル回転させていた。
まあ答えは簡単なんだけどね。それがびっくりしたのか照れたのか、いや浜辺でいきなり人間に見つけられた蟹の反応だ。そう、恐れたのだ。
ぼくは思う。この世のすべての神は悪魔である、と。じゃなきゃあんなきれいな子が、ぼくの目の前に、たとえ一瞬でも現れるわけはないのだから。ああ、あの制服は『青倫館高校』のだ。たしか去年まで女子高で、今年から共学になったとこだと記憶している。なんだぼくは否定しながらも心の隅でそういう心地よさを享受してるんじゃないか。これはやっぱり悪魔の所業に違いない。
ぼくはすねたようにベッドに転がり、まるでその熱病のような胸の鼓動を、どうにか抑えようとひたすら努力を続けていた。
ぼくほど実存主義に徹したものはいない。ぼくが蟹なら、その本質存在は蟹なのだ。非人間主義者のぼくが実存という人間定義の言葉をなぜ使うかは置いといて、今朝学校に来るまでぼくは混乱していたという方が、その理由を説明するのに都合がいい。
「おいマコト、顔が赤いぞ?熱でもあんのか」
しょうがないなあという顔をして北村武がぼくの横に来てそう言った。
「また具合悪くなったの?ねえ早退したら?」
美智子も心配そうにそう言った。そうじゃなくてと否定するのもめんどくさいしなあ。
「大丈夫だよ。今日は体育ないし、英語と数学の授業は出ておかないと」
「あんた休んでばっかいるからねえ」
ごもっとも。でも体が弱いのは本当だ。まわりにもそう公言している。もっともそれは小学生までで、いまはいたって健康なのだけれど。苦手な体育を公認でさぼれるから、そういうふりをしているだけなのだがね。
そういうインチキをしても、ぼくに罪悪感はない。なんせぼくは蟹なのだから。そうしてみごとにぼくは罰に当たった。
「こんにちは」
校門のところでそう声をかけられたとき、真っ先に思ったことがそれだった。それこそまさに、そこに魔女が待ち伏せていた。
校門前は大騒ぎとなった。
黒川優貴という名前はもう誰でも知っているし誰でも顔も知っている。ぼくの昨日からのもやもやの原因はそれだ。そいつがいま目の前に立っている。そりゃ学校中が大騒ぎだ。
「な、何でしょうか?」
ぼくはありきたりな人間だ。いや蟹だ。そんなことしか言えないんだ。この、いま大人気の高校生にしてトップモデルというか、世間一般に言われるいわゆる美少女に対しての第一声がこれだ。
母親がフランス人で父親が日本人だという。去年、フランスから日本に来て、母親はモデル事務所をつくり、ユーキという名で彼女はデビュー。瞬く間に業界のトップモデルにのし上がったとんでもない娘だ。それがなんでここにいる?ぼくに何の用だ?
「昨日落していったでしょ?」
そう言って彼女はぼくに紙袋を寄こした。あれ?これって…参考書だ。
「ありゃ、どこにもないからどうしたのかなって思ってた。あのとき落したのか!じゃ、きみが拾ってくれたの?」
「正しくはあたしのマネージャーね。あたしはあなたをガン見してたから。すぐに気づいて拾ったのはヒロコっていうあたしのマネージャーなのよ」
ぼくをガン見してたっていま言った。そりゃそうだよな。ぶつかっておいて逃げたんだから怒るのは当然だよな。だけどなんでわざわざ落とした参考書を届けに?怒ってんなら捨ててしまえばいいのに。
「す、すいませんでした!き、昨日は急いでいたもので、何のご挨拶もしなくて大変失礼しました!お怒りなのはごもっともですが、それなのにわざわざ届けに来てくれるなんて」
わざわざ届けに来て文句を言う、のは充分あり得る話だけどね。
「べつに怒ってないし、届けに来たのは、そうね…」
と言って彼女はぼくをじっと見た。な、なにこの空間。これはとんでもない空間に紛れ込んだ、そんな気分だった。
「あなたに興味がある、って言ったらどうする?」
それが魔女の、最初のぼくへの罰だった。