第0話
起きたら猫のような姿になっていた。
正確に言えば、トラである。
トラになってしまった経緯はわからないし、トラの姿で成獣になるまで歳を重ね、都合10年も野生で生きてくれば些細なことだ。
問題なのは、欲情する相手がトラのメスではなく、人間の女ということか。交尾相手もいないままの童貞猛獣。なんて嫌な響きだろう。
悲しんでいても仕方ないのだが、とにかく今日も生きる糧をと深い森の中で狩りをしていると、メスのトラが一匹矢傷を受けて倒れているのに遭遇した。矢は一本ではなく、致命傷が当たるまで撃ち込み続けられたのだろう、針の筵状態で痛々しい。
「みゃあっ、みゃあっ、みゃあっ」
近くの茂みから声がする。俺の姿を見つけて、子供のトラが助けを求めているようだ。
仕方なく匂いを嗅ぎ分けながら付近を探していると、葉の大きな鬱蒼とした茂みの奥に産まれて間もない歩くのもやっとな子トラを見つけてため息を吐く。
「ウルルルルルルル・・・」
(こんなの助けても、オスの俺にぁどうにも出来ないぞ・・・)
悩むが、そう遠くない所から声が聞こえて耳をはためかす。
『親トラは死にましたかね』
『メストラだ。しかもかなりの大型! 毛皮を剥ぎゃあ相当な値がつくだろうよ。それよりも、子供だ! 子供のトラはコレクターの間じゃもっと高値で売れるんだ、さっさと見つけるぞ』
『わかってますって』
どうやら、この子を放置しておく事も出来そうになかった。
連れて行ったところで乳幼児の獣なんぞ生かす術はないんだが、大自然の中で外敵に捕食されたり餓死したとしても、悪い人間に捕まるよりはマシな終わり方だろう。
俺は少し迷ったが、小トラの首の後ろを咥えて持ち上げると、急いでその場を離れる事にした。
人間の狩人だったら追跡術の一つもあるだろうから、追って来る可能性はゼロではない。しかし、こちらも人間だった(時の記憶は思い出せないが)存在だ。人間のやりそうな事は大体わかる。ぐるっと大きく回って元の場所に戻って辿れば背後を突けるだろう。そう、いつものように。
俺にしたって、狩人に狙われる事は多かったから、反撃に出るまでのこと。引き裂いて、食い殺したとしても、流石に人肉は食わないようにしているが。殺されるよりは殺す方を選ぶ。
何しろ、今は俺は獣なのだから。獣として生きるのに人間の倫理なんて関係ない!(人肉は食わないけど)
敵なら迷わず排除するだけだ。
小トラを咥えたまま深い森を、追跡されやすく跡をつけながら大きく迂回して行く。と、また別の声が前方から聞こえて来て流石に身体を強張らせた。マズイ、敵の仲間がこの辺りに散開してるのか?
『とにかく、早いとこ見つけて討伐しないとなんだよ!』
『そうかも知れないけど、ケイ。犠牲になった狩人達って調べたらほとんどが密猟で荒稼ぎしているような人たちなんだよ?』
密猟者か。やっぱりな。
『そんな人達って、自業自得だと思うの』
『普通の狩人だって犠牲になってる!』
『傷は少し違うわ。彼らは別の猛獣にやられたのではなくて?』
『それこそわかんないだろっ! とにかく、殺人トラはこの武闘家ケイ・マーレイが仕留めるっ!』
面倒くさそうな連中だ。先の狩人とは仲間ってわけじゃ無さそうだが。
道を逸れる形になるが、今度は通った形跡をなるべく少なくして移動しないと。密猟者でもない奴らでもわかる形跡は残さないようにしないと追跡者が増えて厄介だ。
道を逸れ出した時。
「「あっ」」
背後から二人の女の声がして思わず足を止めてしまった。
しまったな・・・。ちょっと可愛い娘かも知れないと声を聞き惚れてしまったのがマズかった。そんな近くにいたなんて・・・。
恐る恐る振り向いてみると、一人は正に拳法家といったダボダボのアイボリーのズボンに緑と赤の布を合わせた裾が膝まであるやはりゆったりとした上着を着た短髪の黒髪少女。そして、真っ白な青い縁取りのあるワンピースローブに身を包み樫の木の杖を両手で持つ、背中まで伸びた赤い髪の少女がキョトンとした表情でこちらを見つめて来ていた。
小トラを咥えたまま、とりあえず挨拶する。
「ゴルル・・・」
(あ、ども・・・)
「え、え、え? 子連れのトラさん?」
「ええと、額に引っ掻いたような矢傷・・・」
「ガル?」
(矢傷?)
え、そんなん付いてるのか?
全く気にしてなかったが・・・。
「こいつだあーーーーー!! マリル! コイツだよ! 特徴一致! 我敵を見つけたり!!」
「ちょちょちょ、まってケイ、あの子、子供のトラを咥えてる」
「だから何!?」
「密猟者から逃げてるんじゃないのかな?」
うんうん、その通り、と、何度も頷いて見せる。
「ほら、頷いてる! やっぱり悪い子じゃないんだよ!」
「知ったことかーーーーー!!」
えーーーーー!?
何! この! 武闘家っぽい娘っ、脳筋か!?
こっちは子供を咥えてるってのに、短髪黒髪武闘家娘のやつ全力で駆け寄って来やがった!!
子供を放り出す事も出来ず、咥えたまま戦闘したら子供がどうなるかわからず、俺は躊躇してしまった。
「ダメ、ケイ!! まってっ!!」
「往生せいやあああああ!!!!」
あかん・・・コイツ・・・手練れだ。黒帯免許皆伝だ・・・。躊躇したのはマズった。
一瞬で間を詰められて、俺は眉間に強烈な右飛び横蹴りを食らって失神してしまった。
これまで、ずっと、密猟者なんかことごとく葬って来たってのに、女の子の蹴りでのされてしまうなんて・・・。
あ、咥えてた子供・・・大丈夫かな・・・。
そして意識は途切れてしまった。
「みゃあっ、みゃあっ、みゃあっ」
小トラが大きな雄トラを、ぐったりと横たわる大人のトラの背中を鼻で押して気遣っている。
その姿を見下ろして、二人の少女は途方に暮れていた。
「どうするのよケイ。この子、絶対この赤ちゃんトラを守ってただけでしょ」
「どうするって・・・敵だったんだぞ!?」
「人の言葉理解しているように見えたけど。本当に敵だったのかな」
「むむむ、そうに! 決まっている・・・」
「ふぅん・・・」
赤い髪の少女は赤ちゃんトラに近付いて後ろから背中を軽く撫でてやる。
赤ちゃんトラは悲しそうな目で彼女を見上げて、みゃあみゃあと懇願するように訴えかけて来ており、胸が痛んだ。
「ねぇ、ケイ、どうするの? このままだとこの赤ちゃん死んじゃうよ?」
「どうって・・・母トラは凶暴なんだっ! 仕方ないんだよっ」
「うーん、でも、コレ母トラじゃなくて父トラだよ?」
「へ?」
「おちんちんついてるし」
黒髪の少女、ケイはピタリと固まって地面に伸びるトラを見下ろし、下腹部に目をやって赤面して拳を振り上げ怒鳴った。
「マリルー!? あんたアタシをおちょくって!!」
「いや、そうじゃないでしょ? ていうか、そこ?」
「雄のトラなら余計だ! 殺しとくべきなんだ!!」
「問題は、母トラじゃなくてどうして父トラが子供を咥えてたかよ。普通、父親の猛獣は子供に無関心だわ」
「そんなの関係ないって!」
「無関心なはずなのに、子供を咥えて彷徨ってたって事は、どういう事?」
「知るかそんな事!」
「母トラは、もしかして密猟者に殺されてるんじゃないのかな」
マリルの問いかけに、憤っていたケイが再び固まる。
振り上げた拳を下ろして、グッタリと意識を失っている雄のトラを見下ろして言った。
「・・・どうすればいいのかな」
マリルは深くため息を吐くと、赤ちゃんトラを抱え上げて雄のトラの前に回り込みその白いお腹に背中を預けて座り込んで赤ちゃんトラを膝の上に抱いて優しく撫でてあげる。
目を見開いて少し警戒するも、赤ちゃんトラはマリルの愛撫にゴロゴロと喉を鳴らして膝の上を落ち着きなさそうに降りようとしたり座り込んだりを繰り返す。
クルクルと回るようにそうしていた赤ちゃんトラは、やがてマリルの膝の上が居心地良くなって来たのか股間に背中を埋めて丸くなると、ウトウトとし始めて寝息を立て始める。
「ウフフ、可愛い」
「か、可愛いって、猛獣の子供だぞ」
「子供はどんな生き物だって可愛いものじゃない?」
「んなの、知るかよ・・・」
困惑して顔を背けるケイを見て、マリルは左手を伸ばして雄のトラのお腹を優しく撫でて慈愛に満ちた笑みを浮かべて言った。
「パパさん、早く起きてくださいな。赤ちゃんが寂しがりますよ」
「それはいいんだけどさ・・・」
ケイはトラから距離を取ってマリルの正面に、地面に直接あぐらをかいて木に背中を預けて不満そうに言う。
「その子供、どう見たって乳飲み子なんだけど、懐かせてどうするつもりなんだよ。アタシもお前も、獣使いじゃないんだ。猛獣なんて街に持って帰れないだろ!」
聞こえていないと言う風にマリルは赤ちゃんトラの背中を愛撫し続ける。
ケイが続けた。
「おっぱいどうすんだよっ」
今度はマリルの動きが固まる。そうだ、乳飲み子なら食べ物は喉を通らない。かといって、牛や羊の乳は匂いがあるし少なくとも母トラの匂いとはかけ離れているだろう。
百歩譲って別の代替え案として、自分の胸を見下ろすが、ジト目でケイが付追い討ちをかけた。
「アタシもお前も、赤ちゃんなんて産んだ事も無いんだ。おっぱいなんて出ないぞ」
「はう・・・」
悲しそうに赤ちゃんトラを見下ろして、どうしようと震える眼でケイを見るマリル。
「ケイー・・・」
「ばっ、だっ、そんな目でアタシを見んな! アタシだってわかんねーよ!!」
マリルが背中を預ける獣が、ぐらりと身体を揺らす。
「あ、起きたみたい」
期待に満ちた目で、マリルは雄のトラに身体を預けたまま顔を覗き込む。
雄のトラの目が、ゆっくりと開かれて・・・。
はて、お腹に温かな心地よさが乗っかってる。コレはなんだ?
重い瞼を押し上げて、半身起こしてお腹を見ると、さっきの白いローブに赤い髪の少女が小トラを膝の上に抱えて優しげな笑みを浮かべて俺を見つめて来ていた。
コレは一体、どんな状況だろう?
とりあえず、それなりに長い尻尾を回して彼女の頬をくすぐってみる。
「きゃっ、あははっ。くすぐったいよトラさん」
トラさんって、俺は寅さんじゃないぞ赤い髪の少女よ。
困惑して首を傾げると、何かを確信したような目で俺を見つめて語りかけて来た。
「ところで、この赤ちゃんは、あなたの子供なんですか?」
いや、そんなわけないだろ。首を振る。
「じゃあ、この子のお母さんは? 何故あなたが連れ歩いてるんでしょう」
うーん。なんとも答えにくいのでそっぽ向いておく。
「お母さんを殺したんですか?」
んなわけないだろ。首を振る。
「じゃあ、誰かに殺された?」
まぁ、そうなんだろうねぇ・・・。俺は明後日の方に遠い目を投げて答えなかった。
まぁ、喋れれば一発解決なんだろうが、今の俺は猫科の猛獣だしな。
「それで、この赤ちゃんどうするんですか」
うん。どうしようね・・・。これまた答えに困って、俺は両腕を前にクロスして顎を乗せ、ふて寝するように鼻息荒く目を閉じた。
「そうですよね。雄じゃおっぱいなんて出ないですもんね」
「なんの話をしてるんだお前は」
思わず声が出てしまう。
おや? 今、俺話せた?
見ると、赤い髪の少女は目をキラキラと輝かせて俺の方を見つめて来ている。
「うわあ、うわあ、すごいすごい。ねぇ、ケイ聞いたっ!? この子喋ったよ!!」
「えっ!? いやっ、聞き間違えだろ! おい、トラヤロウなんか言ってみろ!」
「グルルガル」
(ふざけんな)
・・・おや、話せない・・・。さっきは言葉出た気がしたのに・・・。
「ガルル」
(あれぇ)
首を傾げるが、ともかくどうしようもない。
だがコレは、ひょっとして練習すればしゃべれるようになるのかも知れないな。
赤い髪の少女は、小トラを膝の上に半身よじるように俺のお腹に抱きついてくる。
「わかりました!」
何が?
「赤ちゃんもいる事ですしっ、私たちお付き合いしましょう!!」
え、何言ってるのこの娘。いみがわからない。
「いいですかっ、ご飯はなんとかしますから、コレからは人を襲っちゃあいけませんよ!」
いや、なんでお前の言うことを聞かにゃあならんのかと問いたい。
「私があなたのご主人様兼お嫁さんです!」
「ちょっと待てマリル。相手は猛獣だぞ」
そうだ、ちょっと待つがいい。キミの思考は大丈夫か。
「だってだって、夫婦になればおっぱい出るようになるかも知れないじゃないですか!」
「ならないだろー・・・」
「逞しいトラさんです!」
うん、ありがとう。
「モフモフです!」
うー、うん・・・ありがとう?
「いや、ちょっと落ち着けマリル」
「名前も決めましたっ。今日からあなたはジョーンズさんです!」
どこのジョーンズさんだ! 宇宙人か!?
「ジョーンズさんっ! あなた街に連れて帰りますから、私のペット兼旦那さんになってくださいね!」
「ウルルル・・・ゴルル・・・」
(いやまって。全然ついていけない・・・)
「裸で抱きしめ合う間柄なんです!」
は、ハダカで、抱きしめ、合う、間柄!?
むほー!! マジかー!!
「おい、そのトラヤロウ鼻息荒くないか。大丈夫か?」
「欲情されてますっ! ああ! 私猛獣に欲情されてます!!」
「おーい、かえってこーい・・・」
「おうちでぱこぱこされちゃいますっ、キャー!!」
「おーい・・・ダメだこりゃあー・・・」
うん・・・ダメだこりゃあ・・・。この娘アレか。アブノーマルでしたか・・・。
フゥっと鼻息をついて腕に顎を乗せ直す。
まぁ・・・セックス出来るかもしれないなんて淡い期待は抱きますよ?
でもさ、変な女ってちょっと・・・。
可愛いけど、変な女って・・・。
まぁ、セックスさせてくれるならいいけど。こういう娘に限って絶対獣姦なんて無理とか言うでしょ。
あー。
いやだー。
そんなんただのお預けじゃん。
呆れる俺の横目に、やはり呆れるケイって言う武闘家娘が後頭部に両手を回して呟くのが聞こえた。
「まぁ、本当にソイツが言葉が解って、安全だったら考えるのも悪くないけど・・・」
・・・え? マジで?
そういえば、この世界がどんな世界か分からないけど。少なくとも科学技術はそんなに発展してなさそうだけど・・・。
・・・え、もしかして、この世界って獣と女の子のセックスって当たり前なのか・・・? 期待しちゃうよ・・・?
「ところでジョーンズさん」
あ、あい、なんでしょうマリルさん。
「もう立てますか? 日が暮れる前に街に帰って赤ちゃんのミルクをどうするかを解決しないといけないんですけど」
あー・・・。そうね・・・。
だけど、その赤ちゃん、野生なんですが大丈夫か連れ帰って。俺が言うのもなんだけど。大丈夫か?
「ほらほら、立って立って?」
ぽんぽんと俺のお腹を叩いてくる美少女に、困惑しながらも立ち上がるのと、来客が来たのは同時だった。
「おやおや、お嬢ちゃん方。そのトラは人喰いトラだ、危ないから離れな。オジサン達がサクッと退治しちまうからよ」
あー。そうだった・・・。
コイツら背後から殺してやろうと思ってたのに、形勢悪いままじゃん。
女の子二人、守りながらは、さすがに無理だよなぁ。ボウガンなんて持ってやがるし。
「さぁさぁ、お嬢ちゃん方? さっさと離れ、」
「うっせーボケ。コイツはアタシらの獲物だ。おととい来な」
「ふぅ・・・。なぁ、お嬢ちゃん。手荒な真似はしたくはねぇんだが・・・」
「やってみな。そのチンケな飛び道具がアタシに通用するんならな」
一触即発ってやつ?
えっと、でも、コイツは俺の戦いなんだが。つか、ボウガン怖くないのかよ、感覚麻痺してんのか?
あ。立ち上がって構えやがった。やる気だこの娘。
仕方ない。柄じゃないんだが、俺も正面切って戦うか・・・。
俺はぐるりと身体を回して頭を下げて、軽く頭突きをするようにマリルを押して木の影に追いやる。
「えっちょっ、ええ? なんですか??」
追いやって、密猟者共に改めて向き直った。
人数は三人? 一人増えてやがる。
ああ、どうしようこの状況。正面切って飛び道具持ちと戦ったことないんだけど。
やばいなぁ。怪我するかなぁ。嫌だなぁ・・・。
「おうおう。やる気じゃねぇか獣野郎。このボウガンが怖くねぇみてぇだな」
もうどうにでもなれ・・・。